空に、黒い穴が開いているのが見えた。
脳が揺れていて、状況の理解が遅れる。
観客の、あれだけ煩かった歓声が消えた。
最初、頭を強く打ったからだと思った。何か感覚が狂っているのかと。
それが異常だと気付いたのは、対戦相手が私を抱えて走り出したからだ。
「起きろ氷!」
氷、とは多分私のことだ。氷の魔術師、なんてあだ名をつけられたのは記憶に新しい。
「······いい、下ろしてくれ。」
「動けるか?」
「ああ。」
まだ頭が痛いが、地に足をつけて回りの状況を。空を見て、そして地上を見た。
露出の多い簡素な服装、屈強な筋骨、そして何より、頭部にある角。
「鬼属······」
「チッ。野蛮な血統が。まさか武闘大会を襲うとは」
長い鉄の筒───マスケット銃とやらを持った男が舌打ちをして構えた。
空には、暗い孔が空いている。私はその孔に、見覚えがあった。
それは、私がこの世界に来るとき、落ちた孔によく似ている。
だけれどその孔からは、鬼属が落ちてくる。何人も、何人も。私達を囲むその数は目算だけで百を越える。
「······おい。さっき私に撃った銃の大群は使わないのか?」
「············すまないが、無意味だ。何発撃ってもこの闘技場だと殺せない。」
ああ、そういえばそんな呪いが建物そのものにあった。
「わかった。私がなんとか逃げ道を作るから援護してほしい。」
幸い、天井は吹き抜けだ。氷で足場を作って、なんとか離脱しよう。
「
建造物用の氷魔法。消耗は激しいが、やむを得まい。どうせこの人数を相手にできるほど魔力なんて残ってない。
氷の階段。行き先は闘技場の観客席、その出口の近く。なんとかエレナ、シオン、そしてリンとも合流したいが······
「よし!ここを登るぞ!」
「いやぁ、あんたの異能、かなり面白いな。」
少しだけ頭がふらつく。逃げたらとりあえず休もう。貧血に近い感覚、魔力切れが近い。
「
氷の階段に足をかけたとき、私達を赤い魔方陣が囲んだ。
「······!」
即座にそれは燃え盛る炎へと変貌する。闘技場全域が、炎の地獄へと様相を変えた。
あの孔から、空にぽっかりと開いた暗い孔から落ちてきた鬼属が、炎魔法を使ったのだ。
動悸が早まる。つまり、あの孔の先には、私の元居た世界がある。生きた武器ではなく、魔法が主流の世界が。
動揺している間に、炎に焼かれ、氷の階段が溶けていく。
「っ不味い!」
慌てて駆け上がろうとすると、階段の周囲を箒に跨がって飛翔する鬼属がこちらに杖を向ける。
「逃がさんぞ、人間属。
突風が私達を襲う。
氷の足場はよく滑るから、簡単に吹き飛ばされてしまう。
「ああ······!」
不味い。これは本当に不味い。
この様子だと、周囲の鬼属は全員魔法使いだと思って良い。それも確実に私より上等だろう。魔力の残量は僅か。これ以上は動けなくなる。地面に叩きつけられた。
先の対戦相手だった男は、先程から銃で応戦しているが相手の魔法の前に太刀打ちができてない。
「何なんだお前たちは!!」
立ち上がりながら叫ぶ。
何故、あちらの世界から来たのか。あの孔は何なのか。どうして私達を襲うのか。言いたいことは色々ある。
「お前達に恨みはない。だが、こちらにも正義があるんだ。」
鬼属の一人が答えた。
「正義?そんなの知らんさ。どうせ私欲にまみれた下らないものだろう」
銃を撃ちながら、男は答える。
「煩いな黙っていろ。
「なっ······」
炎魔法の、最上の火力を出す魔法。太陽に匹敵する灼熱を集めた球体が、ビリオンマスケットの名を持つ男を、一瞬で骨まで焼き尽くした。······炎魔法の基本を習得している私が、あと50年、炎魔法だけを突き詰めようとして、辿りつけるかどうかという境地の魔法。
後に残ったのは肌に感じる痛いほどの熱だけだ。
死を意識する。
少なくとも、相手がその気になれば私など一言で殺せることはたった今、証明された。しかもそれが百以上。無理だ。逃げ場がない。
「君は、魔法使いか?
口の中が乾く。少し震えながら、頷く。
「あの孔を通って、こちらの世界に来たのだろう。」
「······そうだ。」
「端的に言おう。私達は、こちらの世界を滅ぼしに来た。」
厳かな声だ。
突飛ではあるが、その言葉には嘘はない。
「どうして······」
理由を聞きたかった。
初対面、そして圧倒的に強い、恐らくは、あちらの世界では相当大成したであろう魔法使いが何故、そんなことを言うのか。
だってあちらの世界に居たときは、もうひとつの世界の存在すらも知らなかったのに。
残念ながら、その返答を聞くことはできなかった。
鬼属の魔法使いの首が、一振りの大鎌によって撥ね飛ばされたからだ。
「······無事ですか。フィル。」
「エレナ······!」
エレナの持つ大釜は水のように透き通った、美しい刃を持つ。それは命を奪った直後でも、一点の汚れもなく輝く。
「······少々お待ちを。この程度なら、すぐに片付く」
状況に頭が追い付かないまま、頷く。
エレナは大鎌を持ち、担ぐように構えた。
────雨が、降り始めた。
エレナが、鎌をすっと、音もなく横に振る。
一瞬、雨音すら消える。
「水よ、刃となれ」
私達を囲んでいた、百の魔法使いの首が。
その一瞬で、断たれた。
雨に赤色が混じる。
目の前の地獄に脳が理解を拒否した。
勇者とは、この国で最も勇き者に与えられる称号。
「とりあえず片付きましたね。フィル。姫様と合流しましょう」
それは圧倒的な強さを持ち、それを扱うことができることなのだと、今更ながらに悟った。