武芸者が幻想入り   作:ㅤ ْ

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第139話

 先手を取ったのは川上であった。

 

 後ろ足で前足を払う歩法にて一瞬で切り間に入ると同時、野太刀を水平に薙ぎはらった。

 

 前足を進めてから後ろ足を引き付ける、本来使われる踏み込みとは違い。瞬きの瞬間に距離を潰しながらの斬撃。しかしそれに対して霊夢はすっと飛翔した。

 

 川上の手の届かない位置、前方上空に霊夢は浮かんでいた。

 

 その姿は闇夜に溶けそうに希薄であった。事実彼女の姿は半透明となり闇が透けていた。

 

 今の一刀も霊夢は躱したのではない、刀身は霊夢の腰辺りを抜けた。本来であれば下半身が生き別れとなっているはずだが、霊夢に傷一つなく、川上にも確かに捉えた筈なのに手ごたえがなかった。

 

 博麗霊夢の能力。ありとあらゆるものから浮き、あらゆる干渉を受けぬという本質。

 

 その具現がこの状態。夢想天生と名付けられた技である。もっとも正確には技法ですら無いわけだが。

 

 この状態では博麗霊夢はあらゆるこの世の干渉を受けない、つまりこの状態の彼女に通用する攻撃は皆無。しかし霊夢側の攻撃は通るというわかりやすい反則。

 

 博麗霊夢はこれがあるが故に無敵、まさしく無双なのである。博麗霊夢が本気になったら勝てるものはいないと言われる所以であろう。

 

 もはや川上の眼を持ってしても、霊夢は見えてはいても視えない(・・・・)。さらに周囲からも霊夢の情報が無くなった。

 

 これを使ってくるという事は本気で決めに来ているという事だ。川上にもそれは伝わった。

 

 有難いと川上は思った。もう先程使った薬の効果が何時までも持たないのだ。

 

 先程の連中相手に術で絡められたのは不覚であり、これ程リスキーな薬物を使わざる負えなくなったのは川上の不覚であった。

 

 実は霊夢は川上の手の届かない場所からネチネチと攻撃し続けて持久戦に持ち込めば、やがて川上は薬が切れ禁断症状により呆気なく倒れ、霊夢は勝ちを拾えるのだが彼女はそれを知る由もない。

 

 あるいは霊夢なら知っていてもその選択は取らないかも知れないが。

 

 川上は上空を取った霊夢に対して、自ら大きく下がって距離を取った。近接戦が主体であり、手持ちの飛び道具を使っても彼自身の攻撃範囲はどう広く見積もっても十間はない。であるのに何故あえて下がるのか。

 

 まず霊夢がしてくるだろう事を考えての事である。霊夢は右手に札を構えた。おそらくは飛び道具で徹底的にダメージを与えにくるはずだと見越しての事。単純に飛び道具なら距離があったほうが避けやすい。

 

 霊夢の手から放射状に放たれた札。川上の周囲に無造作に降り注ぐように放った中に本命の川上自身を狙う札。何も考えずに避ければその札は確実に川上の身を裂く。

 

 が、川上は一見しただけで、飛んでくる札の僅かな隙間に身を置いて避けた。

 

 並の避け勘ではなさそうだと、それをみて霊夢は思った。続けて六枚の札を抜く。

 

 今度は川上を狙ったものでは無い。川上を中心に囲むように六の札は地面に向かう。捕縛札である。等間隔に地面に着弾した札は線で結ぶと丁度六芒星(ヘキサグラム)になる。そして札が囲んだ範囲を電撃が襲い、対象を直接スタンさせる。

 

 範囲が広く、投擲から着弾、発動までに札の囲いから脱出するのは人間にはまず無理である。

 

 で、あるが地面に着弾し川上を囲った札は発動しなかった。地面に張り付いた札の一つ、それが川上が投げ打ったナイフで貫かれ破られていた。

 

 上手い。そう霊夢は思った。この捕縛陣は札一枚でも欠ければ六芒星による陣は成立せず不発となる。また四間は離れた小さな紙切れを即座に打ち抜く技量も並では無い。

 

 しかし霊夢が舌を巻いたのはその危機回避能力。いまの捕縛札を破って見せたのは勘だの反射的だのとは思えない。まるで何処に身を置けばいいのか、どう動けばいいのかあらかじめ分かってるかのような動き。どうやら相手も反則を持っているようだと霊夢は思った。

 

 霊夢は刹那に瞬間移動で川上の後ろを取っていた。常に距離を取って戦うのが霊夢の戦法と思ったら大間違いだ。

 

 まして夢想天生を用いている以上、霊夢はどの距離だろうと絶対の安全圏なのだ。直接叩き潰した方が早いという理由から霊夢は近接戦も好む。

 

 霊夢の脊骨を狙った前蹴りを川上はノールックで避けながら霊夢の方に向き直る。霊夢は左の大幣を右肩上に振りかぶり、視線を川上の左首筋に点けた。

 

 その構えと視線移動から当然左首筋を打つと相手に思わせておいて、大幣は変則的な軌道を描き右首筋を襲った。

 

 川上は分かっていたかのように体を引き間合いを切って、カウンターで打ちに来た霊夢の左小手を斬った。やはり手ごたえは無かった。だが

 

「近い」

 

 ポツリと呟く。その川上の側面に瞬間移動した霊夢の左回し蹴りが脇腹に飛んでくる。川上はこれを食らいながらダメージを流して飛び技で距離を取った。

 

 こちらからは干渉出来ないが、向こうからは干渉出来る霊夢は防御面での無敵が最大の脅威である。しかし同時に攻撃の恐ろしさも特筆すべきだろう。

 

 触れる事の出来ぬ霊夢の攻撃は受け流すことも受ける事も出来ず、こちらの防御をすり抜けヒットポイントにのみダメージを伝えてくる。対処は完全に避けるほか無い。

 

 つまり夢想天生は最強の盾と最強の矛。文字通り矛盾を併せ持つという訳だ。

 

 ふと、霊夢も視界が遠くなるような感覚に襲われる。一瞬自分が何をやっているのかわからなくなる。

 

 霊夢は見たことはないだろうが、丁度映画館のスクリーンを通して自身を見ているような感覚。現実感の乖離。

 

 ふと、霊夢は怖くなる。世界からほぼ外れながら自身からは干渉出来るという場所にいる事はギリギリの天秤に乗っているようなものだという自覚はあった。

 

 この能力を使い続ければ一体どうなるのだろう。

 

 こんな力を使う霊夢はこの世界に確かに存在すると言えるのだろうか。

 

 早く、早く。終わらせたい。霊夢はそう思う。

 

 この男を早く殺し、また明日から縁側で魔理沙の下らない雑談をお茶を飲みながら聞き流す。そんな日々に戻らなくては。

 

 あぁ、殺し合いという異常に身を置いて改めて気付いた。案外霊夢はそんな毎日が嫌いでは無かったのかも知れない。

 

 ——その雑談の相手を何時か殺す事になるかもしれないのにか——誰かが囁いた気がした。

 

 そうだ、今この男に対しているように私は魔理沙を殺す。そんな日がもしかしたら——

 

 頭から股下までが何かを通り抜ける感覚がして霊夢は一瞬の意識の空白から戻ってきた。川上の斬撃を浴びたのだと理解して霊夢は後ろに飛び、そのまま上に飛翔した。

 

 一瞬とはいえ自失していた自身を霊夢は叱責する。そしてすぐ違和感を覚えた。今、斬撃を浴びた感覚が分かった。

 

 斬られてはいない。そも斬夢想天生を使っている霊夢が斬られる訳がない。

 

 だが……紫の言葉を思い出す。斬神。

 

 霊夢の勘が告げる。また集中を切らしたら、死ぬ。

 

 川上もまた剣先の感覚を感じた。もう少し、出来る。工夫はもうほぼ完成した。

 

 幾千、幾万の剣を振るっただろう。幾万と組太刀をした。そして数え切れぬ修羅場を潜った。そうしてただ練り上げ続けた。

 

 洗練は突き詰めると簡潔になる。

 

 彼の修練はただの一刀に収束し完結する。

 

 後は仕上げのみだ。

 

 霊夢は手札を切った。忘れるな、殺らなければ殺られる。

 

 夢想封印

 

 霊夢の十八番とも言える代名詞的な技。無数の大きな光弾が敵に時間差で殺到し、炸裂する。追尾性能はホーミングアミュレットの比では無い、当たるまで追尾すると言っても過言ではない。

 

 これもごっこ用に威力を抑えたものではなく殺害出来るものだ。

 

 川上の手の届かない上空から放たれた夢想封印。これも一つ一つが別々の軌道を描き、しかし正確に川上に向う。今度は矢留では防げない。しかし川上は自身に向かってくる光弾を見ても動かなかった。

 

 しかし、直撃するかと思うほど引きつけておいて川上は受身。飛ぶような前返りで光弾を避ける。川上を狙い追尾して軌道を変えて来た時間差で次々とくる光弾を川上は後ろ返り、横返りにと受身に使われる体変術でギリギリで大きく躱しまくった。

 

 光弾は本来避けられてもUターンするくらいしつこく追尾して来るが上から撃ち下ろしたため地面に着弾してしまった。霊夢は上から面制圧すれば確実だと思ったのが逆手に取られてしまった。

 

 霊夢は悟った、遠距離攻撃は通用しない。これを繰り返してたら仕留めるまでどれくらいかかるか。

 

 だが、当てられた攻撃もある。近接での直接打撃だ。

 霊夢は地上に降り立った。

 

 それが確実である。しかし危険だというのも霊夢は理解していた。

 

 分かっている。夢想天生。この技で一方的に殺すなんて話はあまりにも虫が良すぎている。きっとしっぺ返しかもしれない。

 

 距離は八間。だが霊夢には勝てる自信もあった。あの長刀。逆に懐に入ってしまえば振るえないだろう。霊夢には瞬間移動があるのだから。

 

 霊夢は大幣を落とした。本来の利き手の左手に霊力を集中していく。右手に札を構える。本命は左である。霊力をエネルギーとして零距離から直接叩き込み、決める。

 

 霊夢が終わらせに来た事を理解したのか、呼応するように川上が野太刀を上段に取り上げた。静かに息を吐く。

 

 一瞬、霊夢は目の前の男に吸い込まれそうな印象を受けた。孤高の霊夢がまるで川上と一つになったような、そんな錯覚を感じた。

 

 川上は次で刀の工夫を完成させるつもりだった。

 

 二人は戦いながら移動して、森の端まで来ていた。木は疎らだ。

 

 黒に塗りつぶしたような空だったのが東はもうだいぶ明るい青みを帯びていた、夜明けが近い。

 

 最後の、次が二人の最後の交錯だ。そしてもう二度と交わる事はないのだろう。

 

「光なく ただ刃金にて 切り開き」

 

 川上が口を開いた。歌を詠んだ。

 

「天道非ず唯一人往く」

 

 その言葉を最後に川上が駆けた。ただただ前に出て霊夢に太刀を浴びせんという真っ直ぐな気勢をぶつけた。

 

 距離を素直に詰められたら危険なのは霊夢だ。だが霊夢は冷静に右手のホーミングアミュレットを放った。無数の札が川上に向う。これにどう反応してもいい。川上が最低限の動きで避けても、矢留を使っても、あるいは食らっても。

 

 僅かにでも、一瞬でも川上の意識をホーミングアミュレットの対処に意識が行く、その間隙に霊夢は野太刀の振るえぬ台風の目へと瞬間移動して王手をかける。

 

 川上は前から自身の上体に向かって襲い来るホーミングアミュレットを、体変術。その場で仰向けに倒れるこむような形の縦流れで躱した、倒れた川上の上をホーミングアミュレットは通過した。

 

 それとほぼ同時に後ろ返りで後ろに転がり座構えになり刀を頭上に取り上げると。

 

 少し前、切り間に霊夢がいた。

 

 前に出んとする気勢と走り、これは虚実の虚であったのだ。前に出んと見せて、実際には札を避ける際に後ろ返りでバックした。

 

 そして前に出てくる事を前提にアミュレットを川上が避ける瞬間に懐に瞬間移動してしまった霊夢。完璧なタイミングだったがこれだけでは駄目だったろう、後ろ返りする川上を黙って見逃す霊夢ではない。

 

 これを決めるために川上が使った技法は基礎的な卑劣だった。縦流れの際に足で地面の土を跳ね上げたのだ。これが丁度瞬間移動してきた霊夢の顔を襲った。

 

 無論、夢想天生を使った霊夢に土が眼に入る訳がない。だが人体には意識ではコントロール出来ぬ反射というものがある。例えば熱いやかんに指先が触れた際、考えるよりも先に腕を引く行為。

 

 例えば、眼に向かってものが飛んで来た時、咄嗟に目を瞑ったり顔を背けてしまうなど。

 

 ほんの一、二秒の時間稼ぎ。それで川上は自身の間合いを盗って見せた。

 

 川上に左手を打ち込む事しか考えてなかった霊夢は川上が既に刀を取り上げているのを見て、考えるより先に直感的に体を引いた。瞬間刀が一閃。

 

 霊夢はその勘の良さに助けられ体幹を守ったが、川上に打ち込むために前に出してた左腕が音も無く落ちた。工夫が、為った。

 

 霊夢が咄嗟に後ろに飛ぶが左腕の断面から血がしぶき、片腕の喪失により重心を崩したのか霊夢はかくり、とよろけた。はっきりしなかった霊夢の輪郭が鮮明になり半透明だった霊夢の姿が戻る。夢想天生を維持出来なくなり生身に戻っていた。

 

 勝機である。確実に殺れる絶好の好機。川上は刀をもじり下から刀を繰り出さんと前に出て

 

「——織り込み済みよ」

 

 しかし跳ね上げた刀は何も捉えず空を切った。

 

 とん、と川上の背中に手が触れた。瞬間移動で川上の後ろを取った霊夢の左と同じく霊力を込めていた右手。

 

「見事」

 

 川上が言った瞬間ドン、と霊夢は霊力を叩きつけ川上を打ち抜いた。川上は受身も取らずにズシャリと地面に崩れ落ちた。

 

 殺った。霊夢は相手の腎臓、主要臓器を潰した必殺の手ごたえを噛み締めるようにその右手を握りこんだ。

 

 そして倒れた川上を見て。止めを刺すべきかと一瞬迷う。だが、左腕の断面からの迸る出血に霊夢の意識は戻った。このままでは出血で自分が死ぬ。

 

 霊夢は上腕に独立して着いていた袖の残った上部を右腕で引っ張り上げる。口で袖口を咥えて噛んだまま強く上に引く事で袖で左腋下の止血点を圧迫する。それにより出血は止まった。

 

 霊夢は袖を噛んだまま、落とした大幣を拾い。棒部分を袖口に通して蛇口を閉めるように時計回りにグルグル回して袖を絞る。

 

 そして充分に絞ったところで自分の首の後ろに棒を引っ掛け圧迫した状態で固定して止血処置を終えた。

 

 霊夢は残った右腕で自身の斬り落とされた左腕を拾う。自身の腕は案外重いものなのだなと霊夢は思う。

 

 うつ伏せに倒れ伏せたまま微動だにしない川上を霊夢は一瞥した。

 

「さようなら」

 

 霊夢はただ一言だけを残して、飛び去って行った。

 

 東の空が緋色に色付き始め。川上は身じろぎをした。

 

 腕を突き体を起こす。下半身はもう言う事を聞かなかった。撃ち抜かれた背中から腹部にかけては痛みすら感じない、それがダメージの深刻さを逆に物語っていた。

 

 あまりに深過ぎる損傷は脳が痛みをシャットアウトしてしまう。おそらく中は滅茶苦茶だろう、腎臓がやられたのは致命的だった。

 

 川上は這って行った。自分の事だから分かる。死ぬ。残された時間はもう少し。

 

 川上は腕で体を起こし何とか一本の木に寄りかかった。

 

 そこは丁度森の切れ目だった。霧の湖は今朝は霧も出ず澄んだ湖面が見えた、遠くには赤い館。彼が身を置いていた場所。もう戻る事はない。

 

 川上は懐からゴールデンバットを取り出し、両切り煙草を一本咥えた。震える手でマッチを取り出し、擦ろうとするが手が震え上手くいかない。一服も出来ないのかと川上は軽い絶望を覚えた。

 

 その時、川上の前にいつの間にか一人の女が立っていた。

 

「お疲れ様でした」

 

 何時もの笑みを貼り付け、大陸風の服に身を包んだ女は八雲紫だった。ある意味での黒幕の登場。

 

「貴方は良くやってくれました。おかげで助かりましたわ。最後に何か望みはありますか、お礼にそのくらいはこちらも聞き入れます」

 

 川上を捨て石に利用した紫はあくまで丁寧に、しかし傲岸不遜に言った。最後、人生の最後に望みを叶えてくれるという。

 

 人は何を願うだろうか。愛する人と最後に会う事か、あるいは誰かに伝える言葉を残すか、死に場所を選ぶか、そもそも助けてくれと願うか。

 

「火を……」

 

 川上にとっても渡りに船であった。

 

「煙草に……火をくれ」

 

 紫の表情が僅かに引き攣ったのは気のせいか。川上も理解してないはずがないのだ、自分は目の前の女の掌の上で踊っていただけなのだと。

 

「何故です」

 

「私に恨み言やなんなら一太刀くらい浴びせてもよいのではないですか」

 

 紫は言った。本来言うべきでない事を、彼女は自分の守るものの為に多くの犠牲を強いてきた。だから彼女は傲岸不遜に微笑み続けなければならない。

 

 自分の大事なものの為ならどこまでも傲慢に、冷酷になる。犠牲を強いた命にやりたくなかったのだと言い訳をする事も、こんな事はしたくなかったと謝る事もあってはならない。

 

 殺されておいて、仕方無かった、ごめんなさいの謝罪で浮かばれる魂など存在しないのだから。

 

 だから紫は不遜に笑い続けなければ、この男がそうしてきたように。

 

 なのに、何故。彼女は弱々しく木に持たれかかった一人の男に心を揺さぶられたのか。

 

 川上はただ黙って首を振った。

 

「中々……楽しかった」

 

 短い言葉だった。だがそれが全てだった。掌の上で踊らされていたのと、分かっていて踊っていたのは大違いだ。

 

 これが、この男なのだ。そう最後まで彼は彼であった。無意味に殺して無意味に殺されただけの、薄汚い斬殺魔に過ぎぬ瀕死の男。その様を紫は確かに尊いと感じたのだ。

 

 紫は無言でスキマからガスライターを取り出した。そしてしゃがみこみ彼が咥えた煙草に火を点ける。

 

 その時紫の眼から溢してはいけない熱い雫が一筋流れて頬を伝っていった。

 

 川上は火の点いた煙草から一服吸って、美味そうに紫煙を吐いた。

 

 紫はしゃがみ込んだまま言った。

 

「最後に、言い残す事は」

 

 答えはなんとなくわかっていた。

 

 川上は無言で首を横に振った。

 

「一人に……させてくれ」

 

 紫は立ち上がった。もう何も言わず、スキマを開き消えた。

 

 後には川上一人が残された。彼は咥えたまま煙草を吹かし感慨に耽る。美味いなと。

 

 こんな美味い煙草は初めてではないだろうか。川上は腰から刀を鞘ぐるみのまま抜いて、自身の前に静かに置いた。

 

 ずっと続けていた、工夫が成った。この一刀こそが川上の求めた必勝の太刀だった。すぐに可笑しくなった。必勝?負けているのに?

 

 そう、そして負けた。初めての負け。これまで負けは無しだった。だがそれが正しいのだ、武術とは負けは死だ、生きてるという事は勝ち続けているという事。そして初めて負けた時に死ぬ。これが武だ。

 

 薄い緋色の東の空が赤くなり朝日が昇ってきた、霧の湖の湖面に光が反射してキラキラと輝く。夜の住人であった川上は朝日など見るのはいつ以来だろうか。

 

 朝日とはこんなに綺麗なものだとは知らなかった。

 

 あぁ、やはり最初に睨んだ通りだ。この世界は面白い。

 

 面白、かった。

 

 段々ボヤけて暗くなる視界。ふと一人の女を思い出した。

 

 ここに来てから随分甲斐甲斐しく自分を助けてくれたあの人。あの女の名前は何だったか……

 

 川上はふっ、と笑った。

 

 朝日は昇る、美しい幻想の地を太陽が明るく照らしていった。

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