紅魔館大浴場──
さすがに外見も立派な館だけあり浴場も温泉旅館もかくやと言う規模だった。大きな浴槽にやや温めの湯が張られ、タイル貼りの浴室内は洗い場が並んでいる。なお流水は吸血鬼の弱点だが入浴程度は出来るらしい。
その洗い場で髪を流している男が一人。この館に男は一人しかいないその人物はもちろん川上だった。
彼は図書館の手伝いにさらにフランとの鬼ごっこも重なりそれなりに体力を消耗していたため、汗と疲労を流すには入浴はうってつけだった。日が落ち夕食も終わり彼は汗を流しに来ていた。
だが問題としては川上が来るまで館は女所帯だったというとこだろう。もちろん男湯の区別や時間帯など決まっていない。ゆえに‥‥。
「失礼するわよ」
「あぁ」
館の住人との混浴に高確率でなってしまうのだった。パチュリーは病的まで白い肌と痩せ気味な割りには豊満な乳房も隠そうともせず全裸で川上に構わず浴室に入ってきた。しかし対する川上の反応も実に淡泊なものだった。もとよりこの館にまともな者はいないのだから混浴程度誰も気にしないのかもしれない。
パチュリーが洗い場で髪と体を洗い始めたところで川上は髪を流し終えゆっくり浴槽に浸かった。そして疲労を全て吐き出そうとするかのようにゆっくり深くため息を吐いた。そのまま湯の中で足に触れる。足は張っていた。やはり『鬼ごっこ』で酷使しすぎたと川上は思った。なにせ全瞬発力を使わなくてはいけない壁走りまで使ったのだ当然の結果と言えた。
しかしその日の疲労を明日に持ち越してしまうのはまずい。川上は湯の中で入念に足を指圧し始めた。筋肉のツボを刺激しゆっくりと疲労の溜まった足をほぐしていく。
「何してるの?」
体を流し終わったらしいパチュリーが川上と同じように湯に浸かりながら川上に聞いた。
「足の指圧だ。今日は足に負担をかけ過ぎてしまったからな。まあこういった体のメンテナンスも鍛錬の一環でね」
「ふーん武術家も大変ね」
「武術家なんて果たして俺なんかが名乗っていいのかはわからんがね。だが君は少しは運動したほうがいい。魔女だか知らんが体が弱るぞ」
「余計なお世話よ。自分の体の管理くらい出来るわ。これでも貴方などより長く生きてるのよ」
「それは失礼」
二人の会話はそこで一旦途切れた。川上は黙々と足のマッサージを続けている。パチュリーもゆっくり湯の温かさを感じていた。彼女の白い肌は湯の温度で桜色を帯初めていた。パチュリーはぼんやりと川上の体を観察した。湯に浸かった部分はよく見えないが彼は細身に見えるがその実無駄の無い筋肉のつき方をしているのがわかった。そして左の肩口から胸に走る古傷。
「‥‥その傷は?」
「‥‥あぁ、昔ある武術家と真剣で立会った時にな。まぁ不覚傷というやつだ」
「貴方はかなりの手練だと思っていたけどそれでも傷は負った事はあるのね」
「傷は負ったのはその時だけだが自分でも俺が傷を負わされたなんて信じられなかったな」
傷などただ一人相手の立会いで自分が負うはずがないと摂理のように思っていた、しかし川上の刃が師を貫くと同時に師の執念を象徴するように野太刀は川上の肩口に食い込んでいた。その時確かに川上の摂理はたった一人の人間の意志で破られたのだ。
「大した自信ね。相手は相当強かったのかしら?」
「あぁ、確かに強かった」
川上は師の考えは否定していたがその実力は本物だと認めていた。だからこそ惜しかった。故に自らの刃で全てを清算したのだ。
しかしパチュリーにも疑問はあった。川上は割りと謎だらけだから当たり前といえば当たり前だが。
「貴方外の世界では何をしていたの?」
パチュリーの質問に川上はその暗い三白眼を向ける。何を考えているのかわからない底の知れない眼。
「‥‥自分なりに武というものを突き詰めるため試行錯誤しながら精進していた」
「そう‥‥、なら質問を変えるわ」
「貴方‥‥今までに何人の人を殺したの?」
パチュリーのその質問にも川上の眼は何も映さなかった。
「さぁ数えたことない‥‥。そんなもん数えたところで意味は無いからな」
「別に俺は殺したスコアを気にする『殺人鬼』じゃないからな」
そう川上は皮肉げに笑って冗談だかわからない事を口にする。
「そう‥‥ならいいわ」
パチュリーはそうバイオレットの眼を伏せ言った。
「さて」
裸の付き合いというには剣呑な会話を切り上げるように川上は浴槽から立ち上がった。
「俺は先にあがらせてもらう。またな」
「えぇ‥‥またね」
そう言ってパチュリーを残し川上は浴室から出て行った。
残されたパチュリーは両手でお湯を掬ってぱちゃりと顔にかけた。そのまま顔を手で覆ったまま呟く。
「何よあれ」
「ほんとに人間?」
パチュリーの呟きは浴室に虚しく消えた。しかし彼女は顔をあげ一つ息をつくと言った。
「まぁいいか」
結局細かいことは大して気にしない紅魔館の住人であった。
その部屋は明かりも点けられていなかった窓からは淡い月明かりが差込み室内を淡く照らしていた。そのほの暗い洋間のベッドの上に白い着流しに身を包んだ人影が一人腰掛けていた。
まだ髪の濡れた風呂上りの川上は月明かりの満ちる室内で手に持ったグラスを揺らした。カランとグラスは音を立て、遅れてパキッと氷の割れる音が小さく響いた。灰皿に置かれた火の点いたシガレットがうっすら煙を立ち上らせている。今日は氷を貰ってロックで蒸留酒を楽しんでいた。
灰皿からシガレットを取り一口吸うとそのままもみ消してしまい、グラスから一口酒を口に含む。川上自身の暗い三白眼と合わさって彼は酷く退廃的な雰囲気を漂わせていた。
ゴールデンバットの箱から新しく一本咥えた時川上は小さくまたか、と呟いた。そして丁度火を点けた時、例によってノックもなしに扉が急に開かれた。
「あ、いたいた」
嬉しそう無邪気に笑ってにそう言ったのはセミロングの黒髪に幼い体躯をメイド服に包んだ──
「今度はお前か」
川上によって名を授けられたアニスだった──。
「何か用か?」
「うぅん、用はないけどメイド長に部屋を教えて貰ったからきたの」
「‥‥」
川上は何も言わず自分が呑んでたグラスをテーブルの反対側に滑らせた。
「呑むか?」
「お酒?」
川上は肯首するだけだった。
「うん。のむ~ありがとう」
そういうとアニスは川上の寄こしたグラスを取りコクコクと呑んだ。外見上は幼女にしか見えないアニスが度数の高い蒸留酒を呑む姿は川上にとってもシュールだがアルコールの耐性は外見どうりではないらしい平然と呑んでいる。
「うまいか?」
「うん、ちょっと辛口だけどおいしいよ」
そういいつつアニスはグラスをもったまま川上の隣りに座った。川上は咥えタバコで新しいグラスに酒を注ぐ。
「ところでなんでこんな暗い部屋で呑んでるの?」
「こういうのは雰囲気を味わうものさ」
「ふーん、そういうものなの?」
「あぁ」
そしてその夜はなぜか川上とアニスでサシで呑むことになった──