武芸者が幻想入り   作:ㅤ ْ

45 / 140
第45話

モノクロの世界───

 

 

 そこではすべての物体、現象が停止していた。

 

 空を飛ぶ鳥が中空で羽ばたきもせず静止しており、植木の葉からこぼれ落ちた水の雫が球状となりやはり地にも落ちず停止していた。メイド服に身を包み背からカゲロウのような羽の生えた少女は躓いて完全にバランスを崩して転ぶ瞬間の途中の姿勢で魔法のように固まっていた。まるで時が止まっているかのような世界。

 

 

 それもそのはず、実際に時は止まっていた。

 

 色のない世界でただひとつの色彩があった。

 

 煌くような艶やかな銀髪に白磁のごとく透き通るような肌、メイドが着るエプロンドレス──ただしスカートの丈は短めだが──に身を包んだどこか幼さも残しながらも凛とした優美な立ち姿の少女。

 

 紅魔館のメイド長、十六夜咲夜だった。

 

 このモノクロの世界で動くものは彼女だけだった。当然だ、ここは彼女の世界彼女だけの世界なのだから。これが彼女のもつ『時間を操る程度の能力』で時間停止をおこない作り出された世界だった。

 

 この世界で動けるものは咲夜と咲夜が触れて時間停止を解いた無機物だけだった、人のような生き物には干渉される事はない代わりに咲夜も時間停止中の人に干渉は出来ない。時間停止中に誰かを移動させたりナイフを突き立て殺害するような事も不可能。

 

 零時間で人にナイフが刺さるなどありえないからだ。

 

 だが大した問題ではない。能力で人を殺したかったら時間停止で背後に回って構えてから停止を解いた瞬間頚椎にナイフを突き立てれば誰でも即死させられるからだ。

 

 人が持つにはあまりに強力過ぎる能力。だがその能力が万能でもないことも咲夜は理解していた。

 

 彼女以外一切の例外なく動くもののない世界、彼女の主さえもこの世界の中では彼女に干渉出来ない。

 

 それは孤独だった。

 

 この世界を知ってしまった時からある意味彼女は孤独だったのかもしれない。

 

 咲夜がただの人間とは一線を画する最も大きな理由がこの時を操る能力であり、咲夜の骨子と言えるのがこの力であった。

 

 しかしこの色彩のない世界にいる時、時折咲夜は恐怖に駆られることがあった。

 

 ある日突然能力を失ってしまうこと、──それ自体はそれほどの恐怖ではない。だがこのモノクロの世界で能力を失ったら?

 

 永遠の孤独の世界に閉じ込められる事になったら?

 

 零時間の中から出られなくなったら、対外的に見て咲夜は消滅という形となるだろう。そして咲夜は死ぬまで、あるいは永遠を孤独の世界で過ごすことになるだろう。

 

 咲夜は能力を使うことにそういうリスクが伴うと思っている。あまりに強力な能力だ、そういうしっぺがえしがあってもおかしくはない。

 

 だがリスクがあっても咲夜は能力を行使することに躊躇いはない。この力こそがレミリア・スカーレットの従者たるものとして必要なものだからだ。だから少女はいつも完全なる孤独の世界を駆ける。

 

 そして彼女はモノクロの世界の中転びそうになっている部下のメイド妖精の前にクッションを置く。これで時間停止を解いた後メイドが倒れこんでも怪我はしない。咲夜が指を鳴らすパチンという音と共に時間停止のモノクロの世界が解ける。

 

 「きゃあ! ‥‥あれ? 痛くない?」

 

 「足元には気をつけなさい」

 

 「あれ、メイド長」

 

 クッションに倒れこんだメイド妖精は顔を上げて自分の上司である咲夜を見とめた。

 

 「あの、ありがとうございます」

 

 どうやら自分が助けられた事に気づいたメイドが礼を言った。

 

 「いいのよついでだったから。それより仕事に戻りなさい」

 

 「はい、わかりました」

 

 妖精メイドがそう言って顔を上げた時には咲夜は煙のように消えて幻のようにそこにはいなかった。妖精メイドは何度か眼をしばたかせた後すでに誰も居ない空間に一礼をした。

 

 

 

 

 黒い礼服に身を包んだ細身の男がいた。彼は腰のベルトに常寸の刀を一振り帯刀しておりやや前髪の長い黒髪に黒の眼でひと目で日本人と分かる男だった。歳の頃は20代前半と思われる男の顔立ちは整ってはいたがその眼は鋭利な輪郭に白眼に対して比率の小さい黒目が正面や上を見るとき黒眼の左右だけでなく下にも白眼が見える三白眼でそれが酷薄な雰囲気を漂わせ男を近づき難い印象を与えていた。

 

 男は紅魔館の唯一人の男の使用人、川上だった。

 

 川上が香霧堂に行ってから数日が経っていた。それからの川上の立ち振るまいはマイペースの一言だった。言われた仕事をただ黙々と驚異的な集中力でこなしていた事もあればいつの間にか持ち場を離れ図書館で本を読んでいたという堂々としたさぼり振りをみせた事もある。

 

フランやメイド妖精のアニスとテーブルゲームなどで遊んでいることもあれば、遊んで欲しそうに近寄ってきたアニスを煩わしそうに窓から外に放り投げ捨てた事もある。昼間に勝手に川上のベットで寝ていたフランを恐るべき事に壁に投げ飛ばした事もある(怒って暴れたフランによって部屋は半壊したが川上本人は傷ひとつ付かずに咲夜に部屋を変えてくれと顔色一つ変えずに言ってのけた)。

 

かと思えばフランとネコの兄妹のように仲良くくっ付いて寝ていたこともある。レミリアのボードゲームに付き合うこともあれば、暇があれば中庭で剣の素振りの鍛錬を延々と三時間もやっていた事もあれば、よく日の当たるテラスで本を読んでいたかと思えばそのまま陽だまりの中無防備に昼寝をしていたりした事もある。

 

 川上という男は気まぐれだった。

 

 猫のように気まぐれで移り気だったのだ。

 

 そして今日彼は館の廊下の清掃を言い渡されそれに従事していた。

 

 いや従事しているのか?バケツは彼の足元に置かれ中に張られた水はそこそこ黒く濁っているからある程度彼が仕事していたのが伺える。

 

 しかしモップは壁に立てかけられ、川上本人は格好を崩して壁に寄りかかりタバコを喫煙していた。サボりか?ただの休憩か?

 

 彼は少し上を向いて長く濃い紫煙を吐く。吸ってるのがフィルター付きタバコと違い吸い口まで葉の詰まった両切のため口に葉が入ったのかペッと葉を吐く。

 

 そしてすこし上向きにどこかを見ているようでなにも見ていないようなけだるげな眼をぼんやりと中空に向けながらふぅ、と一息吐いた。

 

タバコを指に挟んだ手を口にやりもう一口煙を吸い、吐く。そこで川上はさも煩わしげにちっ、と舌打ちすると携帯灰皿にタバコを押し付け消した。そしてかったるそうな緩慢な動作で壁に寄りかかっていたのを立ち直り右に向き直り眼を向けた。

 

 そしてそこには銀髪のメイド、十六夜咲夜がいた。

 

 

 

 

 モノクロの世界の中で咲夜は一人の男に眼を向けていた。ほかの事象と同じく停止しているそれは紅魔館に最近勤めだした外来人、川上だった。停止している彼は掃除中なのに壁によりかかり指に火の付いたタバコを挟みぼんやりとした様子だ。

 

 咲夜は紅魔館に来てからの川上を観察していた。いや、それはむしろ監視と言ったほうがふさわしいかもしれない。

 

 理由は川上がここに最初に来てから懸念していた事、すなわち川上が自分の主、レミリア・スカーレットの脅威となりえないか?その一点だった。そして今まで川上を見ていて下した判断それは──

 

 なんだかよくわからない。だった‥‥。

 

 まず白兵戦では恐ろしく腕が立つ。その点では考えたくないがレミリアでも川上の間合いで戦ったら危ないのではないかと思わせるほどに。

 

それは川上の古流武術の錬度の高さもさることながら先読みの異常なほどの上手さに由来していると咲夜は分析していた。まるで次に何が来るのか分かっているような異常なまでの勘の良さ。いやあるいはそれがパチュリーの言っていた川上の能力の片鱗なのかもしれない。

 

さらに人を斬り殺すのも妖怪を斬り殺すのも殺意もなく包丁で野菜を切るのとなんら変わらない感覚でやってのける神経は人間として破綻している。しかも主であるレミリアにも運命が読めないという謎も懸念である。

 

 これだけで考えれば川上は滅茶苦茶危険な人物なように思える。

 

 だが川上には悪意だとか邪気の匂いもまったくしないのである。無邪気故に虫の足をもぎ取り遊ぶ子供のような残酷さはあるだろう。しかしそれイコール危険だろうか?

 

 それに普段のかったるげというか投げやりな様子も見ていると、よほどの意味なくしては精力的に誰かを攻撃するとも思えない。そう考えると無害、いやでも何の意味もなく周りを攻撃するかもしれない。

 

 つまるところよく分からないのである。咲夜では川上という人間を理解しきるのは無理だった。

 

 あるいは誰にも無理なのかも知れない。

 

 ──故に咲夜ははっきりさせる事にした。咲夜は時間停止を解く。

 

 色を取り戻した世界で川上は一つ舌打ちした。それは顔も向けてもいないのに死角に咲夜が出現したのが明らかにわかっている態度だった。タバコを消すと面倒そうに壁から体を起こし咲夜に向き直った。

 

 5メートルの距離で黒髪の青年と銀髪の少女は相対していた。

 

 「‥‥いいのか? メイド長自らこんなところでサボリとは」

 

 「それは今の今まで堂々とサボっていた貴方が言えた事じゃないわね」

 

 まぁ、貴方のは今に始まった事じゃないけど。そんなことを続けた咲夜に川上は特に反論もしない。なんでもよさげだった。ここまでは軽口の応酬あるいは牽制か。

 

 「で」

 

 川上が口をひらいた、その時場の空気が硬くなったのは気のせいだろうか?

 

 「用件は?」

 

 川上はメイド長がわざわざ出向いてきた理由を問うた。あるいは彼は答えを察していたのかもしれないが、ただその声色はやっぱり投げやりだった。

 

 「短刀直入に聞くわ」

 

 咲夜が言った。

 

 「貴方はお嬢様に害なすつもりはないでしょうね?」

 

 その問いを聞いて

 

 「っく」

 

 川上は

 

 「くっくくははっはははははははっ」

 

 笑った。

 

 あまり感情の動かない彼としては信じられないほど面白そうに。

 

 「‥‥なにが可笑しいの?」

 

 対して咲夜は氷のような無表情であくまで冷静に聞いた。

 

 「くくっ、いや、すまない君が余りにくだらない事を聞いてくるものだからな」

 

 まだ笑い混じりの川上の答えに咲夜の周りの温度が下がった気がした。

 

 「‥‥なにがくだらないと言うの?」

 

 冷静に、だが底冷えするような声で咲夜はまた聞く。

 

 川上はすぐには答えずくっくと残りの笑いをひときしり吐き出した後ふぅ、とひとつ息をつく。それの意図は呆れか侮蔑かあるいは関心か?顔を上げた川上はあれほど愉快げな笑いの余韻の一欠けらもなく眠たげな眼をした面倒そうな顔だった。

 

 「なにって」

 

 投げやりに川上は言う。

 

 「その質問、相手に直接聞いて意味あるのか?」

 

 心底無意味だと川上は言った。敵か味方か分からない相手への対処。それが『お前は敵か?』と問うという手段だということの愚を言外に含ませていた。

 

 「はい、そうです。とでも答えれば満足か?」

 

 面倒臭そうに言う川上に咲夜はうつむく。自分の愚直さを恥じたのか、それとも怒りを覚えたのか?

 

 「‥‥そうね、確かに貴方の言う通りだわ」 

 

 どちらでもなかった。

 

 瞬間川上の目の前から咲夜が消え、その時には川上は体を投げ出すように前返り受身を行っていた。一刹那前に川上の首があった空間を後ろから銀光が煌き走った、受身のまま座構えに移行した川上に今度は正面から眉間に真っ直ぐ走る銀光。しかしそれは川上が懐からとっさに抜いたナイフの平面部分で止められていた。

 

 時間停止による瞬間移動での後ろからナイフで斬りつけをかわされたうえ、川上の受身の移動地点に置いておくかのように刺突を放った咲夜は、それすらも止められ顔に一瞬驚愕が走る。その隙を狙い座構えからの川上の前蹴りが咲夜の膝を狙うが、すでにその空間に咲夜はおらず蹴りは空を切った。

 

 「‥‥やっぱり直接・・確かめる事にするわ」

 

 声は川上の後ろから聞こえた。川上は無言で立ち上がる。

 

 どうやら咲夜は少々荒っぽい方法で川上を試すことにしたようだ。『真実は斬ればわかる』‥‥どこかの庭師のがうつったのかも知れない。

 

 川上は投げやりに構えもせず振り返る。だがそこには咲夜は居なかった。

 

 「どこを見ているの?」

 

 声は川上の真後ろ、耳元で聞こえた。

 

 「廊下」

 

 川上はもはやピントのずれた返答をした。

 

 ギンッ、と金属音とともに中空で銀光と火花が弾けた。時間停止で川上の側面に移動しながらの咲夜の斬撃を川上はナイフの峰部分ブレイドバックで弾いたのだ。川上と咲夜は互いのナイフが弾けると同時にバックステップし今度は互いにシースナイフを持つ形で正面から対峙した。

 

 咲夜が左手に持つナイフは普段良く使う投擲用の銀製ダガーではなく刃長14cm程度の細身で片刃の炭素鋼のブレード持つ相手を直接鱠に刻むためのナイフだった。

 

 川上が右手に持つナイフは刃長13cmのストレートポイントのATS、ステンレス鋼製の多目的性のあるユーティリティーナイフだった。自前ではなく魔理沙の家から持ち出した物だった。

 

 川上は刀を抜かなかった。なぜなら本来なら得物はリーチのあるほうが有利だ。だがリーチのある武器は懐が甘くなりがちである。そして咲夜の時間停止の前にリーチ差などないに等しい。懐にあっさり入られてあの世行きである。故にあえて相手と同じリーチの短武器を使う。川上は得物の選択ミスはしなかった。

 

 川上は咲夜を眼の前にふぅ‥‥と息を付く。その息を吐き終わり吸い・・に転換する瞬間の僅かな隙を狙い一刀足以上はなれていた距離を無視し咲夜のナイフの連撃が川上の急所に迫るが、川上は一つを体裁きで避け二つをブレイドバックで弾き、突きを避けながらその小手を逆に切り裂こうと手首の返しだけで極めてコンパクトな斬撃を放つがそれは外された。

 

眼の前から消えた咲夜に対し川上はノールックで真後ろに突きを放つ。それは時間停止で後ろに回っていた咲夜の喉元に迫ったが咲夜は危うくスェーバックでそれをかわし、冷や汗をかく暇も惜しんで時間停止も利用して突きこんできた川上の腕を取り切り裂こうとしたが、やはりノールックのまま放たれた川上の後ろ蹴りが腕に気を取られていた咲夜の水月にモロに入り咲夜は床に転がった。

 

 激痛に息の詰った咲夜は刹那に死を予感し、とっさに絶対の安全圏である時間停止を展開する。瞬時にモノクロに染まる世界で咲夜はなんとか顔を上げ川上も間違いなく停止していることを確認すると、安心して床に伏せ腹部を襲う激痛と呼吸困難にゲホゲホと咽びながら悶絶した。今のは効いた。咲夜は思った。時間停止にまで簡単についてくるとは思わなかった。こちらが能力を使わなかったらこれでは勝負にもならない。

 

 「‥‥本当に人間なの?」

 

 自分が言えた義理ではないがと、何とか床から立ち上がり咲夜はそう思った。とりあえず腹部のダメージが抜けるのを待つ。そして戦闘可能にまで回復すると今度こそは手傷を川上に負わせようとほとんど川上に密着するほどに接近し、腰溜めに構えたナイフの切っ先を川上の腹部に添えた状態で時間停止を解くと同時に体ごとナイフを突き込んだ。

 

 が川上はいきなり目の前に現ると共に体ごと突きを放ってきた咲夜に即座に対応しその場で回転し体の軸を咲夜のナイフから外し、自分のナイフで突きを絡めるように外に完全に逃がした。体当たりに近い感覚での突きの力のベクトルを流されてしまった。

 

咲夜は刹那に無防備になってしまい時間停止も間に合わず川上に投げられ満足な受身も取れずに背中から床に叩きつけられ一瞬息がつまった。

 

 「ゴホッ‥‥とんだ化け物ね」

 

 時間停止に逃げず床に転がったまま咲夜は吐き捨てる。それを川上は追撃もせず悠然と見下ろした。

 

 「君は冷静なようで意外とそうでもないな」

 

 川上の言葉への返答は左側面からわき腹めがけた突きだったが、川上は左手で腰に差した刀の柄を使い容易くそれを受ける。

 

 「あぁ、お嬢様が絡むと特にそうなのか」

 

 今度は真正面から眉間を狙った鋭い突きが飛んで来た。川上が後だしで繰り出した突きが咲夜の突きを弾いて外しそのまま咲夜の首筋に走るが咲夜もとっさに首を傾げてかわす。弾いてから攻撃に転じるのではない、相手の攻撃を外すのと自分の攻撃が一拍子。新陰流剣術でいう合撃の応用だった。

 

 「少し肩の力を抜いて冷静になったほうがいい」

 

 「珍しく貴方も良く喋る‥‥わね!!」

 

 いいつつ斬撃を一つフェイントに咲夜は頭部を狙った上段蹴りを放つ、がまた蹴り足は力のベクトルを外され同時に軸足を掬われ投げられてしまう。今度はすかさず川上は床に倒れた咲夜に直打法でナイフを打った投げたが、それは一刹那前まで咲夜が倒れていた床を穿っただけに終わった。

 

 即座に死角から襲ってくる咲夜のナイフを体を投げ出すような前返りで床を転がりながら避け突き刺さっていたナイフを回収し、そのまま前面に回り込んでいた咲夜を斬り上げるがこれもかわされる。

 

 川上と咲夜は互いに決定打に欠けた状態で再び相対した。互いに呼吸の乱れはない。

 

 「そもそもお嬢様の意思で雇われた俺を君の独断で殺す事はむしろ君がお嬢様への謀反となるんじゃないか?」

 

 それは正鵠を突いていたのか咲夜の眉がピクリと上がる。

 

 「まぁ君も本気で殺りに来ていないようだが」

 

 互いにナイフを手に無造作に垂らした状態で川上は言葉を紡ぐ。

 

 「確かに俺がお嬢様に刃を向ける事がありえないとは言わない。絶対なぞないからな」

 

 「だが、相応の理由やメリットがなければそれをする意味がない。自分の命を賭ける訳だからな、だから君が懸念する事態はまず起こらないと思ってくれていい」

 

 相対していた二人が瞬きの間に互いの急所を捕らえて交錯していた。咲夜のナイフが川上の眼球の一ミリ手前で寸止められており、川上のナイフは咲夜の頚動脈に突きつけられていた。

 

咲夜がそのままナイフを突き込めば眼球を破り眼底も貫き脳まで到達し川上を絶命たらしめるが脳が破壊されるまでの僅かな時間で川上のナイフも咲夜の頚動脈を破るだろう。つまり条件は互いに同じ。互いが互いの命を握って膠着していた。

 

 「信頼しろとは言わない。だが信用しろ」

 

 やはり投げやりに川上はそれを言った。

 

 「できなきゃこのまま殺せ」

 

 そのまま2秒ほど動かなかった両者だがやがてどちらからともなくナイフを引いた。

 

 「確かに貴方のいう事も一理あるわね」

 

 咲夜は静かに告げた。

 

 「私は貴方を信じさせてもらうわよ、川上」

 

 「‥‥お好きに」

 

 川上の返答も聞かずに咲夜はそのまま去った。川上は手元のナイフに目を落とした。ブレードのバックや平面部分には無数の斬り込み疵が走り僅かに刃毀れしている。まぁキズはどうしようもないがシャープニングすればナイフとしてはまだ使えるだろう、川上はそう考えながら適当に手近な部屋に入って一息ついた。そして少し気疲れした彼はソファーに身を投げ出し、寝た。

 

 結局この日の川上の本来の仕事の廊下掃除は中途半端にしか果たされなかった。

 

 

 

 

 

 

 ──咲夜は自室までなんとか辿りつくと壁に寄りかかり荒い息を吐いた。

 

 ‥‥咲夜の全身が悲鳴を上げていた。川上から受けた当て身も投げも並のものではなかった。一撃で戦闘不能になるような内臓まで響き骨を軋ませるそれをいくつか受けながら時間停止も利用し何とか戦闘続行していたが流石に無理がたたった。

 

 川上も言っていたように咲夜も本気という訳ではなかった。だが勘違いしてはいけないが決して容赦はしなかった。本気ではなくとも殺す気でやっていた。だが傷一つ負わす事もかなわなかった。あの男は取り敢えずは信用に足りえる人物だと咲夜は今回判断した。

 

 それと同時に化け物だとも。

 

 咲夜の手にはポイント切っ先が折れ、エッジがボロボロに刃毀れしもう使い物にならないナイフが握られていた。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。