一人の青年が居た。
青年は武術を志し貪欲に学び、そして実践した。
やがて、青年は類比なき使い手となり一つの極致にまで到達したと師に言わしめた。
青年は満足しなかった。
極めたと思えば続きがある、終わったと思えばそこから始まる。
青年は極めるなんて事はないのだと薄々理解していた、道に終わりなどない、ただただ進む。
稽古も続け、様々な流派の工夫を取り入れ、様々な相手と実戦して、しかし青年は壁に突き当たる。
頭打ち、ここが自分の限界
とは、青年は思わなかった彼は考える考えて考えてそしてあまりに簡単な答えにたどり着く。
最後にものをいうのは基本の基だということ、迷ったら基本を思い出せと誰かの言葉を思い出した。
一つ、一つでもいい更に先に行けるなら、青年は剣を選んだ。
剣の基本を考える、甲冑剣法から時代が下がると平服での素肌剣術になった、そして素肌剣術において大抵の流派の基本は真っ向切り下ろしだ。
基本である、しかし新陰流においては十文字勝ち、一刀流の切落しなどただ真っ向に切り下ろすだけの一手を必勝の勝口にしている所は多い。
青年はただ上から下に真っ直ぐ切り下ろす事を愚直に始めた——
「リザイン」
「やった、私の勝ち」
フランドールは川上に対して勝どきをあげた。
対して川上は何も言わずに煙草を咥えた、火を点けて一服し、吐いた紫煙は夜の空気の中溶けていった。
紅魔館のバルコニー、時刻は夜、川上はフランドールとチェスなどに興じていた。
良くレミリアとテーブルゲームを嗜んでる川上を見てフランドールもやりたがった、それは単なる遊び心か姉への対抗心か、ともかく川上はたまに相手をしていた。
戦績は現状五分五分である、しかしレミリアと渡り合うほどの川上にまだまだ初心者のフランドールがそこまでいい勝負が出来るはずがない。
実際フランドールは何も考えていないようで頭の回転が良く視野が広いのか初心者ながら飲み込むは早かったが、最初のうちは言葉にするのも憚るほどのボロ負けでの連敗だった。
しかし、癇癪を起こしたフランドールがボードごとテーブルを打ち抜いて粉砕して、さらに一部屋を壊滅させた当たりでやっと川上は手加減する事を覚えた。
それから川上は気付かれぬよう徐々に手を抜き現状のパワーバランスまで持っていった、つまりは接待プレイである。
言うまでもなく圧勝するのも手加減するのも川上には暇つぶしにもならぬ時間の浪費だ、しかし上司の咲夜にそれも仕事と言われては無碍には出来ない、どちらにせよ別に川上は時間に追われてる訳でもないので構わなかった。
バルコニーは風が感じられ今夜は過ごしやすかった、ふと空を見上げると空にはほぼ真円に近い月が浮かんでいた、今日は妙に大きくみえる。
月、かどこかの姫が月に関して言っていた事を思い出す。
「妹様」
川上はチェスの駒を初期化しながら呼びかけた。
「月は好きか」
特に意味もない問いかけだった、吸血鬼というと月というイメージからのただの興味本位。
「月?」
川上の問いを受けてフランドールは唇に指を当てん〜、と考えこんでいるような仕草。
そう難しい事だろうかと川上は思いつつ灰皿で煙草をもみ消した、そこでフランドールは腑に落ちたような顔になり指を川上に向けた。
「名前」
「?」
フランドールの言葉の意味が川上にはわからなかった。
「名前とは?」
「名前で呼んで」
フランドールは川上の問いなど全く無視してそんなことより何かが引っかかりなんだろうと考えた。
そして気づいたのは川上はフランドールが知る限り誰も名を呼んでいないという事だ、この男は役職や種族などで呼びかけている。
川上としてはそう呼べと言われたなら特に逆らう理由もない、ない、が。
「君の名前はなんだったか?」
すでに覚えていなかった、フルネームを聞いたのはいつだったか、川上は名前には無頓着である。
「フランドール、フランドール・スカーレット」
「フランドールか」
「フランて呼んで」
「分かった」
「呼んで」
妙に拘るが名前に思い入れでもあるのか、あるいは特に深い意味もないのか。
「フラン」
川上は記号を読み上げるごとき棒読みで言われた通り呼んだ。
しかし、それで十分だったのかフランドールは満足気に笑った。
結局川上の問いの答えは帰ってこなかった。
「先手だ」
そう促して川上は煙草を取り出し吸い口をテーブルでコンと数回叩いて咥えた。
フランドールは勢い勇み白いポーンを取った。
そしてそのゲームは
「チェックメイト」
フランドールの宣言に川上は降参というように両手を軽く上げた。
「やった!また勝った」
フランドールの二連勝、しかし川上がわざと勝負を拮抗するようにしてから戦略の組み立てが中々上手くなってきた。
次は勝つかと思いつつ川上は煙草を取り出し吸い口を叩き咥える、すでに傍らに置かれた灰皿は吸い殻が溢れ出しそうになっていた。
「お兄様さっきから吸い過ぎ!煙草は身体に悪いんだよ」
さっきからチェーンスモーキングしている川上にフランがびしりと注意した。
「煙草なんかより生きてる事が一番身体に悪い」
川上はふっと笑いそう冗談なのか本気なのかわからない事を返して火を点けた。
「そうなの?」
フランは言葉をそのまま受け取り首を傾げた。
「生きてればいずれ死ぬからな」
「私も死ぬの?」
川上の言葉にフランドールは何故か眼を燗と輝かせて言った。
「死ぬだろうな」
「死んだら死ぬって何かわかるかな?」
「死んだら死ぬのだからわからないだろう」
「え?」
「ん?」
フランドールは首を傾げ、川上も何も考えてなかった為自分が何を言っているのかよく分からなくなり咥え煙草のまま首を傾げる。
「お茶が入りました」
そんなある意味絶妙なタイミングで咲夜が現れた。フランドールの前に紅茶、川上の前にコーヒーをそれぞれ置く。
「ありがとう、咲夜」
「ありがとう」
フランドールに続いて川上も礼を言う、川上はコーヒーに口を付けようとして舌を火傷しそうになりカップを下ろした。
「あと、こちらを」
咲夜が御茶請けとしてテーブルに置いたのは焼き立てと思われるクッキーであった、バターの香ばしい匂いがする。
「これ、変わってるけどおいしいね」
フランドールが早速一つ口にしてそう感想を漏らした。
「川上、貴方も」
「いや、遠慮する」
勧める咲夜に川上は短く断りつつ煙草を揉み消した。
「いいから一つ食べなさい」
咲夜は何故か強く勧めた、彼女なら川上が甘味を嫌う事くらい分かっていそうだが。実際川上はここに来てから甘いものはフルーツですらほとんど口にしなかった。
が、とりあえず言われた通り川上は一つ口にする、まだ暖かいクッキーは口どけが良くホロリと崩れ、チーズの風味とバターの香りが鼻に抜ける。そして川上にとって胸の悪くなるような嫌な甘みが…
「美味い、な」
しなかった。程よい塩気がチーズの風味と調和する。
「甘いものばかりがお菓子じゃないのよ」
柔らかく笑って咲夜は言った、チーズクッキー。甘くないクッキーである。
「では失礼します」
咲夜はその場で一礼して、消えた。
「咲夜、こんなの作れたんだ」
フランドールのカップを両手で包んで息を吹きかけて冷ましつつ、呟くように言った。
川上は特に何も言わずにクッキーを一つ口に放り込み、盤上の駒を初期化し始めた。
フランドールとのゲームが終わるまで川上のチェーンスモーキングは止まった。