「それで川上と言ったか」
神奈子は早苗が持ってきた湯飲みから茶を一口啜り、口を湿らせてから言った。
「君に一つ聞きたい事があってね」
早苗は少し表情を硬くしたまま元の場所に座りなおした。川上は紙巻から一服吸ってから言った。
「なんだろう」
「これは私の事は気にせず君の忌憚無い意見を聞きたいのだが」
神奈子はそう前置きをした。魔理沙は話にも入れず手元で知恵の輪をカチャカチャと弄っていた。
「あぁ」
「君は神を斬れると思うか」
「斬れる斬れないで言えば斬れるだろう」
「そうか、では質問を変えようか。君は神を斬れるか」
その質問に驚きの表情を見せたのは川上ではなく早苗である。
「斬れないな」
「そうか、嘘だな。本当は」
「斬れる」
川上はあっさり前言を覆した。かちゃり、かちゃりと音がしていた。また雲行きが怪しくなってきたと魔理沙は思いながらももはや口だしもせず、顔すらあげない。
「ほう、根拠はあるのかな」
その言葉に川上は答えも返さずに深く最後の一口を吸ってから煙草を消した。湯飲みから残った茶を飲み干す。
「境内を見学させて貰ってもいいだろうか」
そして川上が発した言葉は全く別の事だった。しかし神奈子は何か得心がいったような顔をした。
「あぁ、構わないよ。案内はいるかい」
その言葉に早苗の表情が一瞬強張った。川上は右手で刀を一振り取り立ち上がった。
「必要ない」
それだけ言い残して川上は部屋から退室して歩き去っていった。神奈子は何処か楽しんでいるような顔で湯飲みを取った。
「あの、神奈子様。あの人は」
「さぁ、根拠でも探しにいったのかもね」
神奈子は茶を啜りながら面白がっているように答えた。
「後早苗、相手に不快感を覚えてもそれを表に出してはいけない」
神奈子は一転して毅然とした口調で苦言を漏らした。
「嫌悪を見せれば付け込まれる。例え嫌いな相手でも嫌悪を押し隠し、好意を見せる。そうすれば上手く相手を使う事も出来る、それが賢い女のやり方ってもんさ」
くっ、と笑みを浮かべてそう神奈子は早苗に説いた。早苗も思わず笑う。
「はい、分かりました」
「そういう意味じゃあの男の方が上手か…」
本人は自覚していないだろうが、などと神奈子は呟いた。
かちゃんと金属音がして魔理沙が弄っていた金具が二つに分離した。
「おっ、やっと外れた」
昔々の話である。
ある所に村があり、そこにはたいそう美しい女がいたという。
その美しい女は同じ村の青年と恋仲だった。二人はたいそう仲が良く日々を幸せに過ごしていた。
しかしこの二人の幸せはある悲劇によりいつまでも続かなかった。
ある日女が一匹の虎に襲われて無残に殺されて喰われてしまったのだ。
恋人を殺され一人残された青年は嘆き、悲しみ、怒り、慟哭し泣いた。来る日も来る日泣き喚き、波も枯れる頃には最早悲しみなければ喜びもなく青年の中にはただ一つしか残って居なかった。
殺意である。
もはや青年を突き動かすのは恋人を殺した虎への殺意だけだった、武器を取り虎を殺すために森に入る青年の顔にもはや昔日の穏やかな風貌は残っていなかった。
来る日も来る日も仇を討つために虎を探す日々。そしてある日とうとう林の間で遠くに横たわる大きな虎を青年は見つけた。
憎い、憎い憎い虎。彼は矢を弓に番えると引き絞った。涙を流し歯を食いしばり凄まじい形相で弦を引いた、一心に殺意を込めて放った矢は遠距離にも関わらず狙い違わずに虎に突き刺さった。
青年はすかさず次の矢を番え、止めを刺さんと慎重に歩みより、そして自身の勘違いに気付き力が抜けた。
遠くからは横たわる虎と見間違えたそれは大きな岩だったのだ。そしてその岩に彼の放った矢の一隻が
あり得ない事だ。何の変哲もない矢が岩に刺さる訳がない。青年は不可思議な光景に試しに矢をその岩に放ってみたが全て弾かれるだけだった。
恐らくは青年の執念が不可能な現象を可能としたのだろう。奇跡の、しかし必然の一射。
人の念は岩すら容易抜く。中国の故事である。
同じ理念を掲げる日本武術には馬庭念流という剣術流派がある。これもその流派名が表す通りただ一念を貫き通す事を極意とする。
その日、守谷神社の裏の湖に乾いた音が響き、一斉にあたりの鳥達が飛び立った。
洩矢諏訪子は奇跡の
暫くして戻ってきた川上と魔理沙、早苗と神奈子は茶を飲みながらお互いに近況などを語り合い、気付けば良い時間だった。
「魔理沙さんもまたたまにはうちの神社にも来てくださいね」
「ここにくるの面倒なんだよぁ、まぁ気が向いたらくるぜ」
そろそろ帰ろうという事になった境内で並んで立つ川上と魔理沙、二人に相対する早苗と神奈子がそう別れの挨拶を交わしていた。
「川上さんも、またいらして下さい」
「気が向いたら」
早苗ば最初に比べると大分自然に川上にそう言った、暫く談笑していて苦手意識が薄れたのか、あるいは神奈子の教えを守っているだけかも知れない。
「縁があったらまた会おう。私も根拠が知りたいしな」
神奈子の言葉に川上は目礼で返した。
「じゃあな」
「失礼する」
魔理沙は片手を上げ背を向け、川上は一礼して回れ右をして歩きだした。
「また歩いて降りる気か、乗れよ」
そう川上の背に箒に乗って追いすがり魔理沙が突っ込んでいたが、それを見届けずに神奈子は背を向けた。
「そういえば諏訪子様のお姿が見えませんね」
早苗も神奈子の後ろに付いて歩きながらふと先ほどから気になっていた事を言った。
「近くにはいるようだ、ちょっと様子を見てくる」
「では私は夕食の支度をしてますので」
「あぁ、いつもすまないね」
神奈子の言葉に早苗は一礼をしてその場を歩き去っていった。
神奈子は迷いなく、真っ直ぐに神社の裏手の湖の方へと足を進めた。
さく、と足元で小さな音を立てて林を抜けると開けた場所に出た。
大きく広がる湖、その湖面は沈みつつある太陽光を反射して眩く光っていた。
大小の岩が転がるそのほとり。高さだけで2メートルはあるだろう大岩の上に諏訪子は腰掛けてまるで姿通りの子供のように足をぷらぷらとさせていた。
神奈子はその岩に向かって歩みよると岩の上から諏訪子が顔を向けた。
「いつからうちの神社は天石立神社になったんだ?」
神奈子は苦笑いまじりに、しかし何処か嬉しげにそう言った。
「ちょっと前に、残念ながらやったのは石舟斎じゃあなかったけどね」
諏訪子が腰掛けている大岩は真ん中から真っ二つに割れていた。
誰がそんな事できるか、この場なら大地に干渉する事が出来る諏訪子なら簡単だろうが、人間には無理なはずである。
いや、その岩の滑らかな断面は
この大岩を斬る。言うまでもなくあり得ない。手頃な拳程の大きさの石でも刀で斬ろうとすれば並の刀では折れるだろう、良くて割るのが精々。
あり得ない?神奈子は自分の思考に自嘲した。さっき諏訪子が口にしたように過去これを成し遂げた剣客が一人いるではないか。
今も外の世界で現存するその大岩の名を神奈子は思い出した、確か一刀石。
「どーする神奈子、この石も新しい名所にしちゃう?」
諏訪子は笑いながら羽ばたくように袖をパタパタさせながら聞いてきた。
「二番煎じじゃないか、そもそもこの山で天狗を斬った云々の触れ込みはまずいだろう」
「逆にぴったりかも知れないけどね」
苦笑いして答えた神奈子に諏訪子は返しながら大岩から飛び降り、高さや体重を感じさせない軽い着地をした。
「どう思う?」
「ホントに斬れるようになりかねないね、このままじゃ」
諏訪子は肩を竦めてへらりとした顔で緊張感なく答えた。
「面白いな」
「面白いね」
神奈子と諏訪子は笑って互いに言い合った。
「しかし、差し当たり我々には関係ないか」
神奈子は笑って断ち切られた岩を撫でながらそう言った。
「そうだね、信仰してくれなそうだし」
「力をやると言えば信仰するかも知れんぞあのタイプは」
神奈子は諏訪子に向き直り冗談めかして言った。
「信仰してくれないかも知れないねあのタイプは」
神奈子の言葉に諏訪子も面白がっているような口調で返した。
「戻るか」
神奈子の言葉に諏訪子は頷き、二柱は湖に背を向けた。
「兎角、人間は面白い」
最後にその言葉を残して。