水平線から太陽が昇る。
眼下に広がる水面にはまだ朝霧が薄いカーテンの様にかかり、太陽の光の反射を少し鈍らせていた。
静かな朝だ。
耳をすませれば船が海原を分けすすむ音と、少し離れて並走する護送船の上で今日も元気に竹刀を振るうコビメッポの雄叫びが風に乗って時折聞こえてくる。
私は船のメインマストの横柱の上に立っていた。
この時間はメインマストの見張り台には誰も居らず、マスト上は、柱の上に立つ私一人の空間だ。
出航してから三日、私の右拳は奇跡的に死んではいなかった。筋肉の隙間に入り込んだ銃の欠片を全て除去し、折れた骨と骨をつなぎ合わせ、さらには筋肉、切れた血管を復元し、まだ手術痕も傷自体も全く治ってはいないが、なんとか元の拳の形には戻りつつある。安静にしていれば、一ヶ月程で以前のように拳を握れるようになるらしい。
二日前の手術後に船医から聞いたそれは、私にとって非常に嬉しいニュースであったが、拳が使えないからと言って、ただ一ヶ月病床に臥して待つわけにも行かず、私は右拳を使わない足技の訓練に朝早くからやってきていた。
わざわざ足技の訓練にこのような足場が悪過ぎる場所を選んだのには幾つか理由がある。一つはバランス感覚の鍛錬に、脚力の増強。そしてもう一つあるのだが、まぁこれはわざわざ言及する必要もない。
呼吸を整え、準備の屈伸運動で膝を伸ばす。軽く虚空に下段の蹴りを放つように膝を曲げ伸ばしして、十分に膝関節がほぐれたのを確認すると、私は動作の段階を一つあげた。
靴を脱ぎ、裸足の左足で柱をしっかりと掴み、左足を起点に右足をゆっくりと持ち上げていく。
絶対に膝は曲げない。添え木を当てられているかのようにピンと伸ばしたまま、額に足が触れるすれすれまで持ち上げる。
見ての通り、片足立ちの体勢である。
しかし、柱を掴む左足と持ち上げた右足がマストに垂直に立つ柱のように、一本の直線を描いている点は普通のものとは明らかに異なる。
胴体も、決して後ろには倒さず、持ち上げた左足と胸がくっつくような位置を維持している。
少し爪先やかかとに体重が偏って乗ってしまえは、重心はズレ、マストから転落してもおかしくない。
落下しないために体は一切ぶれさせず、鍛え上げた体幹で全てのバランスを支える。
ある程度の時間その状態を維持し、頃合いを見計らって、軸足を反対側の足に変え、反対も同様に足を天高く伸ばす。
やがて両足の準備運動を終えたら、今度は六式の中の一つ『嵐脚』の練習に移る。マストの上を綱渡りするかのように引き渡し船の反対に回り、海に向かって重心を下げる。
左足を前に、右足を少し後ろに下げて腰を落とす。体重は右足に乗せ、太ももとつま先に力を貯めていく。
そして曲げた右足を前に向かって蹴り出し、左足に体重を移動させながら鞭のようにしならせた右の蹴り上げを…。
『嵐きゃ…』
『少佐ァー!何処ですかァー!?』
放とうとしたところで下から響いた医務官の声に力を吸い取られた。
って、わっ…わっ…落ちるっ!?
突然の声にバランスを崩し、危うく軸足がマストの柱から滑り落ちそうになる。なんとか側にあったロープを左手で手繰り寄せ、なんとか事無きを得るも、部下達には結局今日もばれてしまったようだ。
「少佐が逃げたぞー!全員慌てず急いで優しく捕獲せよ!」
『はっ!』
早朝にも関わらず、副官の号令に従って船室から部下達が飛び出して来る。私がマストの上という不安定な場所で訓練を行っている理由の最後の一つがコレだ。
三日前に右拳を負傷して以来、副官をはじめとした部下達が全員、悉く私に対して過保護になってしまっているのだ。そのため今回のようにこっそり医務室や自室から出て、誰の目にも届いていないところで訓練をしようものなら、こうして全員で捜索が始まり、見つかると自室か、船尾楼まで強制送還されてしまう。さながら迷子の子供になった気分だ。少佐の威厳なんてあったもんじゃない。
さらに、その過保護のおかげで訓練はもちろん、何時もなら部下たちに混ざって行っていた舵取りや帆の調整までも危ないからといってやらせてもらえていない。
今の私の仕事は、専ら自室で海図を見ながら航路を考えたり、見舞いにやってきた部下とおしゃべりしたり、船尾楼で舵をとる副官に指示を出したり、果物を剥いてくれる部下に餌付けされたり、時折こちらの船に移って訓練をするコビメッポに口頭で指導したり、無意味に船首に座ってぼーっとするという、何とも働いている皆には申し訳ない程度の仕事しかしていない。
今まで怪我という怪我なんて一度もした事が無かったから、みんな神経質になっているのかもしれないけど、それでも何もしないというのは、基本的に働いていたい体質の私にとって、かなり辛い事になっている。
そして私が最も困っているのは私が医務室や自室にいる時に、手の空いている部下達がひっきりなしに詰め掛け、りんごやら桃やらを剥いたり、部屋におかれたお見舞い用の花の水を替えたりと、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる事だ。
部下からの手厚い看護というのは私としても、上官としてもすごく嬉しいのだが、生憎私にはそれに見合った対価を彼らに払うあてがない。
彼らはやりたいからやっていると言ってくれているのだが、それでも申し訳なさというものは払拭し難いものなのだ。
「あっ!少佐、そんなところにいらしたんですね。早く医務室に戻ってください。包帯を変える時間ですよ」
「あぁ、分かった。わざわざすまないな」
結局、今日もあっさりと部下の一人に見つかり、マストから飛び降りて大人しく医務室に向かう。
今日の午前中には引き渡しが始まる予定なのに、こんな調子で大丈夫なんだろうか…。
♦︎
『な…なんでだ…なんであの人がここに!?』
『あの船首…本物か!?』
『罪人の引き渡しに中将が来るなんて聞いたことないぞ!?』
合流地点に近づくと、すぐ近くを並走している護送船から声が上がる。
それもそのはずだ。一週間前の通信では本部大佐が乗ってくるはずだった引き渡し船に、本部中将にして『海軍の英雄』という異名を持つ生きる伝説。『モンキー・D・ガープ』が乗ってくることなど誰が想像できようか。
しかし、突然の出来事に驚きを露わにしながらも慌てて敬礼の姿勢を取る向こうの護送船の船員達とは対照的に、こちらの護衛船に乗る船員達達は、ガープ中将の突然の登場にも全く慌てた様子など見せず、どちらかと言うと死んだ魚のような目をして、甲板の上で遠巻きに敬礼を向けていた。
私と共に151支部を出てきた若きリード隊の皆は、私を強制的に鍛えようとやってくるガープ中将に幾度となく顔を合わせたことがある。
さらに、時折巻き添えを食らって私の訓練に強制参加させられたり、思いつきで始まる中将の流行の遊びに付き合わされるなどの経験から、ガープ中将の子供のまま大きくなったような性格を嫌という程体で理解している。
それ故に、彼らがこの様な態度になるのも無理ない。全員が頭の中に考えているのは大方こんなところだろう。
ーー絶対、ただ事じゃない何か事件を拾ってきてる!
ーーつーかそれ絶対に面倒ごとか厄介ごとだ!!
声に出さない叫びが、彼らの表情からありありと伝わってくる。
『ぶるるるああぁ!!ぶゥるるるァ!!』
うひゃう!?
突然私の胸元から響いた声に、私を含む全員の肩がビクッと跳ね上がる。慌てて胸元の紐を手繰り、取り出してみると可愛らしかったカルゴ君の顔にはヒゲが生え、左目を囲うようにして古傷の痕がある、ガープ中将の顔に変わっていた。
このおかげで電話の相手が誰かはわかるから便利なんだけど、わざわざここまでやる必要あるのかな…?というか毎回思うんだけどちゃんと元に戻るよねコレ…このまんまとか絶対嫌だよ。
「少佐…」
「分かってる。みなまで言うな」
副官が心底嫌そうな顔をしながら私に促した。周囲の兵たちはもう覚悟を決めたのか、それぞれ遠く離れた場所でイルカが跳ねたのを遠い目で見ていた。
『がちゃ…あーあー、聞こえとるかエヴァ。こちらじいちゃん。こちらじいちゃん』
「はい、聞こえています。お久しぶりですガープ中将」
あぁ…久しぶりだ…。
久しぶりに声を聞いたというのに、懐かしさよりも憂鬱が押し寄せるあたり、自分の心の奥底に刻まれたガープ中将に対するトラウマの深さが分かる。中将の事は決して嫌いなわけでは無いのだが、この声を聞くとどうしても過去の地獄のような訓練がフラッシュバックしてしまい、どうしても一歩引いた気分になってしまう。
『なんじゃ堅苦しい!いつもじいちゃんと呼べと言っとるじゃろうが!』
「はい…すみませんお祖父様…」
『じいちゃんと呼べじいちゃんと!それにその堅苦しい言葉遣いをなんとかせい!』
ぐぬぬ…やはりそう来たか…。
幼い頃、私は中将の事をじいちゃんと呼んで基地に来るたびにくっついて甘えていた。親心というのか、爺心というのかよく分からないが、中将は未だに私の事を幼いままに捉えているらしく、最近になって部下の手前、何時までも海軍の英雄をじいちゃんと気安く呼ぶのもはばかられ、『ガープ中将』と呼ぶようにしたら、その度にじいちゃんに戻せとその都度、だだをこねられるようになってしまった。そして厄介なことに、このじいちゃんのわがままは、私が幼い頃のように口調を崩すまで終わらない。
私も中将と話す時に気兼ねなく話せるのは楽だし、嬉しいことではあるのだが、問題は部下がいる時だ。付き合いが長い一部の部下は中将の性格や、今回のような時の対処法は理解しているため『あぁ、今回も大変ですね』というような視線を向けてくれるだけで私が砕けた口調で話しても特に気にはしないでいてくれるのだが、それでもやはりこれまでの偉そうな態度をとっていたことを考えるとどうしても恥ずかしくなってしまう。
『おーいエヴァ!聞いとるのか!?』
『ガープ中将!エヴァが困りますからそろそろ要件をお願いします!!』
『ぬ…仕方あるまい。エヴァ、護送戦に続いてわしの船の左舷に船を着けろ。そしたら護送戦でオルガンとチェロをわしが預る』
『モーガンとクロです。ガープ中将』
『なんでもいいわい。それより早く来るんじゃぞエヴァ。プレゼントがあるんじゃ!』
いつも通りの無茶振りに、どうしたものかと副官と二人で頭を抱えていると、唯一、中将を止められる頼れる副官のボガードさんが通信の先で助け船を出してくれた。
さすがボガードさん。私達にできないことを平然とやってのける。そこに痺れる、憧れる。
ボガードさんのお陰で、三十分はかかるだろうと見ていた中将との通信は三分とかからず一方的に終了した。私達はこの後すぐに進行方向にある中将の船の左舷に船を着け、引き渡しの護衛を行う。正直言って話の最後に出てきた『プレゼント』が非常に不吉な雰囲気を醸し出していて、行きたくない気持ちでいっぱいなのだが、仕事だからそういうわけにもいかない。
「面舵いっぱい。ガープ中将の船に乗り込んで引き渡しの護衛を行う」
『了解…』
部下たちも中将の出現と謎のプレゼントに戦慄しているのか、かなりテンション低めで持ち場についていく。
あぁ…どうかなにも起こらずに終わりますように…。
♦︎
「…楽しそうだな…あっちの船は…」
「…そうだね…」
窓がなく薄暗い砲列甲板、火薬庫の中で大砲の整備を行いながらヘルメッポさんが呟いた。
「…またリード少佐が医務室を抜け出して訓練してたんじゃないかな?少佐はすごく真面目な人だから…」
「あぁ…そうかもな」
護送船に乗り込んで以来、ヘルメッポさんはずっとこんな調子だ。しかしそれも無理はないだろう、僕らが乗るこの護送船は、ヘルメッポさんのお父さんである、モーガン元大佐を処刑台に送るための船だ。リード少佐とリッパー中佐が率いた遠征での死傷者があまりにも多く、その数合わせとして乗ることになった僕らだったが、その命令は、ヘルメッポさんにとってはあまりにも残酷な命令だった。
「…気にすんなよ、俺だって覚悟は出来てんだ。親父のしたことはとても許せることじゃねぇ。リカやあの鬼少佐に会って俺はようやく分かったんだ…」
「…うん、ごめんね…」
あの一件で、生育環境に問題有りという理由で罪を免れたヘルメッポさんは、僕と一緒に雑用として働く中で少しずつ変わっていった。
最初は以前までの癖が抜けず、誰に対しても高圧的で高飛車だったヘルメッポさんも、過酷な訓練や、自分が今まで全く無縁だった雑用などを行う中で、一人の海兵としての役割を知り、リカちゃんや、町の人達と関わる中で、人とのつながりを知った。最近では理想の海兵として僕と共に少佐の影を追うようになった。
しかし、その事が余計にヘルメッポさんを苦しめる結果になってしまった。
リード少佐を見て正しい海兵の在り方を知った事で、モーガン元大佐がどれほどの悪人だったかを知り、リカちゃんや、町の人達に優しく接してもらったことで、自分がこれまでどれほどその人達に非道な行為をしてきたのかを知ってしまった。
だから、ヘルメッポさんは今ひどく苦しんでいるのだ。悪に手を染めたとはいえ、彼にとっては実の父だ。それを処刑台に送るための今回の航海に苦しまないはずがない。
「…とにかく俺たちは、さっさと少佐みてぇに強い海兵にならないとダメなんだ。誰にも後ろ指さされないくらい強くなって…親父の罪を俺の名で隠せるくらいに、正しくて強い海兵にならねぇと…」
「うん…頑張ろう、ヘルメッポさん!」
涙がこぼれそうな表情だ、薄暗い船室でランプに照らされた横顔を見て思った。
しかし必死に何か気の利いた言葉を考えても、僕の乾いた口から溢れるのは、せいぜいヘルメッポさんの言葉を肯定することくらいだった。
努めて明るく言ったつもりだが、それを言った僕の顔は本当に笑えていたのかはわからない。何を於いてもあと数時間で引き渡しは始まる。その間も、終わった後も、ヘルメッポさんのことは、親友である僕が支えなければならない。
僕に…出来るかな…。
薄暗い船室の中に大砲を磨く高い音と、火薬樽から中身を出すために側面を叩く重厚な音が響く。
それから僕らは、互いに一言も声を発することはなかった。
♦︎
合流地点に指定されていた、とある無人島の沖、四キロメートルの海域に、わんこ印のガープ船が浮かんでいた。
「ぶわっはっはっは!久しぶりじゃのうエヴァ!!ついでにお前ら!」
「うん、久しぶりだねおじいちゃん」
『はっ!ご無沙汰しております!!』
それを視認した私は船員たちに指示を出し、ガープ船の左舷に横付けして貰い、右舷につけるために周囲を旋回する護送船よりも早く、一番付き合いが長い部下達を三人だけ連れてガープ中将と、後ろに控えるボガードさんとの久しぶりの再会を喜んでいた。
「相変わらず小さいままじゃが、しっかり牛乳は飲んでおったのか?お前がいる基地に行くたびに最高級の牛乳を取り寄せてやったじゃろう?」
「牛乳は飲んだけど効かなかったよ?」
そりゃ二メートル五十センチもありゃ未だに一メートル五十と少ししかない私の身長なんていくら伸びても、たいして代わり映えしないわな!
ぶわっはっはと笑いながら私の頭を撫でるじいちゃんの顔を睨みながら頭の中で訴える。
じいちゃんは私が成長期に入った頃、ルフィやエース達と比べて身長が低いという理由で、偉大なる航路で買ってきた高価な牛乳を金樽で持ってくるようになった。結局身長は一メートル五十と少しで落ち着いたあたり、全くと言っていいほど効果はなかったものの、フレークにかけたりイチゴにかけたりと、食堂で料理長が作ってくれた料理の味は味はすごく美味しかったのを覚えている。
「それより、どうしてこんな仕事にわざわざおじいちゃんが来たの?いつもならめんどくさがって来ないのに…」
「おォ!そうじゃったそうじゃった!これをお前にプレゼントしようと思ってな!ファンの奴が渡していないと言っておったから作らせようと思ったら、目ざとくそれを聞きつけたおつるちゃんが見立ててくれたんじゃ!おい、ボガード!!」
「はい、ここに」
おつるちゃん。その言葉に側にいた数名の部下がどよめいた。じいちゃんの言う『おつるちゃん』とは、当然『海軍本部の大参謀』として名高いおつる中将の事だ。じいちゃんと同期の女性将校で、実力、二つ名からも分かるその知略ともに海軍本部の英雄に讃えられる一人だ。
そんな凄い人から一体何が送られてきたと言うのだ。ボガードさんが高価そうな箱から取り出したこれまた高価そうな大きい二つの紙袋に戦慄しながら、じいちゃんの手から渡されたそれを凝視した。
重ねて持ったそれは紙袋の見た目よりも重く、中身は服か、それとも何か他の布製のものなのか、腕の間に形を変えて沈んでいった。
「どうした、開けてみい」
「あ…うん。ギルス副官、こっちを預かってくれ」
片方を側に控えていたギルス副官に預け、海軍本部のシンボルが刻まれた一つの紙袋の包装を丁寧に解いていく。
「あ…スーツ…?」
中に入っていたのは、胸元に桜の模様が刺繍された白いジャケットとパンツのセットに、淡い桃色のシャツと淡い青のシャツが数枚、そしてそれ似合うネクタイが数種類入っていた。
「そうじゃ、ここに来る前にファンから電々虫でお前が旅立った時いた時に制服のままだと聞いたからな。急いでおつるちゃんに見立ててもらったんじゃが…おつるちゃんめ…自分とお揃いの物を作りよったな…」
「か…可愛…げふんげふん…あ…ありがとうおじいちゃん!でも、なんでわざわざつる中将が?」
「あぁ、少し前に本部の奴らにお前の話をしたら彼奴らまとめてびっくりしよってな。ファンの話と写真を見せたらおつるちゃんがいつの間にか仕立てておったんじゃ。どうせ、自分の部隊に入れたいとか考えておるんじゃろ」
貰った可愛らしいスーツに口が滑りそうなのを必死で堪え、じいちゃんに尋ねると、じいちゃんはいきなりとんでも無いことを言い始めた。
私がつる中将の部下?いきなりそんな話をされても困る。いや、嬉しいのは嬉しいんだけど、そうなると、この東の海とは比べものにもならないほどの危険地帯である偉大なる航路には入らなければいけない訳で、そんな怖いところには正直、行きたくないわけで!!
「おい、少佐も遂に偉大なる航路に入る時が来たぞ…!」
「やっとかよ!遅すぎだってぇの!」
…って後ろの部下たち喜ぶなぁ!!
「とりあえず、まずはそれを着て来い。船室を使うと良い。覗いた奴は地の果てまでぶっ飛ばしてやるから安心せい!」
「え…あぁ…うん、ありがとう…」
混乱しながらふらふらとスーツを手に船室の扉を開けて手近な部屋で着替えを始める。
だめだ…いきなり過ぎる話が多すぎて頭がついていかない。甲板ではじいちゃんやボガードさんと何の話をしているのか、ギルス副官やキンドロ二等兵、ジャンク砲長の歓声が上がっている。
…というかスーツの着方とか着たことないからよく分からない。えっと…ボタンは全部閉めていいのかな…ネクタイ…分かんない…襟は…あれ?なんか前と違う階級章が付いてる…結構長いこと付けてたから新しいものなのかな?
「…ネクタイはいいか。戦いにくいって言えばなんとかなるかな…」
手探りで貰ったスーツへの着替えを終え、部屋を出る。甲板への扉の前にあった鏡で軽く格好を確認しても特に違和感はなく、ネクタイ以外は綺麗に着れているようだ。白いスーツというのは初めてだけど、なんかこういうのを着ると出来る人っぽく見えてなんか嬉しい。
「…えへへ」
ダメだ。自分の姿を見て照れるとか恥ずかしい。これから部下の前に出るんだから軽く緩んで見えるしっかり顔面を戻さないと…。
「おーい、エヴァ。まだかー?」
鏡の前で顔をむにむにとマッサージしていると、甲板からじいちゃんの声がかかる。
「はーい、今行く」
顔が元の石仮面状態に戻ったことを確認し、返事をしながら扉を開ける。その扉の先で私を待っていたのは、全く予想だにしないものだった。
『大佐!!おめでとうございます!!!』
「わ…ど…どうした?」
扉の前には連れてきた三人の部下がクラッカーを手に立っており、私が扉を開けると同時にそれを一斉に鳴らして出迎えてくれた。
…ってか今大佐って言わなかった?
「昇進おめでとうございます!これで俺たちも晴れて本部海兵ですよ!」
「そして大佐は海軍支部少佐から一気に海軍本部大佐への大出世だ!こんなにめでてぇ事はねぇやな!」
「こっちの中身は本部のコートだそうです。着てみてください」
「…私が大佐…?本部の…?」
ちょっと待って。エヴァそろそろ頭パンクしちゃうよ?
一体何が起こってるのこれは?ギルス副官、ジャンク砲長、キンドロ二等兵が私の背中にコートを掛けながら口々になんかとんでも無いことを口走っている。
大佐?海軍本部?ごめんちょっとよくわからない。
「なんじゃ、襟章を見ておらんかったのか?本部大佐のものに変えておいたじゃろ?」
「え…あっ…」
言われるがままに船室の鏡で確認した私が口に出せたのはそんな蚊の鳴くような声だった。
私が海軍本部の大佐…?本当に?
「センゴクに話したら本部に召集するように言われてな。わしも元からそのつもりじゃったから襟章を預かって来たんじゃ。本部は実力があればどんどん上の階級に行くから准将のを寄越せと言ったんじゃが、センゴクが自分の目で確かめたいと言うからひとまず大佐に落ち着いたんじゃ。全くあのわからず屋め…」
「い…いや!少佐のままでいいよ!」
じいちゃんの言葉に部下三人組が揃って頷いているのをなんとか制止する。いや…もう何が何だかわからないし、誰も私の話聞いてない!
「わしの拳骨を受け継いだお前ならもっと上でもいいと思ったんじゃがのう。なぁ、ボガード。エヴァの拳骨もなかなかの…」
じいちゃんが私の右手を見ながらそこまで言って言葉を止めた。正しくは包帯で包まれた私の右拳を、だが。
「ど…どうしたんじゃエヴァ!?その怪我は!?」
『いや遅ぇよ!!』
部下達とボガードさんの勢いの良いツッコミが交錯する。ってか本当に気づかなかったのじいちゃん!?
「誰にやられたんじゃ!?アレか、コロか!コロにやられたんじゃな!?」
「クロです、中将」
私の肩を掴んでガックンガックンと揺するじいちゃんにボガードさんが冷静に突っ込む。って、ツッコミはいいから早くこれを止めてー!酔う!せっかくの白いスーツを色々ヤバい液体で汚しちゃう!!
「おのれクソ海賊が…その名前の通りにボロ雑巾に変えて……」
「クロです。中じょ…おや?」
私を揺すりながらそこまで言って声と動きが止まった。
「Zzzz…」
『寝たァ!?』
…もう…どうしたらいいのこれ。
久しぶりのじいちゃんの奇行オンパレードと部下たちの揃ったツッコミに内心泣きながらじいちゃんの大きな手から脱走する。
「中将はエヴァに会うのを楽しみにしすぎて殆ど眠ってなかったからな…勘弁してくれ」
じいちゃんの手から脱した私に、ボガードさんの声がかかった。よく見ればボガードさんの目にもくまが出来ており、じいちゃんの話に夜通し付き合ってくれていたのが容易に想像できる。
「おォ!いかんいかん、寝ておった。まだ話は終わっとらんぞエヴァ!どこのどいつにやられたか教え…」
「ガープ中将!罪人の護送準備整いました!」
鼻ちょうちんを膨らませ、立ったまま寝ていたじいちゃんが起きたのとほぼ同時に護送船に乗っていた兵がタラップをかけて船に乗って来た。大騒ぎしているじいちゃんに声をかけるが、そんなことでこうなってしまったじいちゃんが止まるはずがない。
「やかましい!そんなのは後じゃ!」
「ダメだよ!?護送が任務でしょ!?」
「ぬっ…しかしだなエヴァ!」
「しかしも案山子もないの!今は任務!引き渡しの準備を整えて!」
「ぬぅ…では後で聞かせてもらうぞ…」
こうなってしまったじいちゃんはこの手に限る。
じいちゃんがたった一人の孫娘である私に甘いのは、ルフィ達といた時から知っていることだ。
とにかく、なんとか引き渡しまでこぎつくことが出来た。終わった後のことはそれから考えよう。
「じゃあじいちゃん。私も船に戻って配置を整えるね」
「うむ。ではあとでな」
そう言って私たちはじいちゃんの元を離れ、船に向かって歩き出す。その間に、ギルス副官が声をかけてきた。
「お疲れ様です、大佐。今回も大変でしたね」
「いや、まぁお爺様にとっては私はいつまでも子供のままなんだろう。これくらいのことは仕方ないさ」
「にしてもさすがは大佐だ。慌てる演技までさすがでしたぜ」
ごめんなさい。あっちが素です。
部下達は私のあの態度をじいちゃんを喜ばせるための演技として捉えている。当然真実は逆で、いつものこの偉そうな口調の方が頑張って演じている方なのだが、まさかそんな事を言えるはずがない。
「おぅお前ら!仕事だ!海軍本部のリード大佐の初命令をよく聞けよ!!」
気を良くしたジャンク砲長が船の外板に立って甲板に集まって、私たちの帰りを待っていた部下に声をかける。その一言で部下たちはざわめき、つる中将から頂いたスーツに、本部のコートを着た私の姿を見た者からは歓声が上がる。
それにしてもジャンク砲長…珍しくいい笑顔でサムズアップされても反応に困るよ。
大方、空気を温めておきやしたぜ、みたいな事を考えているのだろう。
そんなジャンク砲長に左手を上げて応えると、私は部下たちに聞こえるように改めて少し空気を吸い、声を上げた。
「総員配置につけ!引き渡しまでの間の警護を怠るな!」
『はっ!!』
私の言葉に、部下達は一斉に動いていく。さて、いよいよ引き渡しだ。じいちゃんがいるし、何事も起こらないとは思うけど、相手はモーガン元大佐とクロだ。十分に注意をしなければ。
少し浮ついた思考を断ち、部下を引き連れて私はじいちゃんの船に戻っていく。護送船の甲板にはすでに錠で手足を拘束されたモーガン元大佐とクロが立っていた。