灼眼のシャナ外伝『ピオッジャ』   作:枝折

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スーヴニール

001

 

 気がつくとスクランブル交差点の傍の歩道に立っていた。急なことで瀬川公太は困惑した。目に映るのは信号機の青い光と交差点へと踏み出す人の群れ。それはどこにでもある街中の光景のようで、まるで違っていた。

 横断を始めたサラリーマンが片足を宙に浮かせたまま静止している。仲間内で談笑していた女子高生の集団は笑顔のまま表情を固めている。

 世界が公太の知る世界のカタチとあまりに違っていた。時が鼓動を止めている。空は煉瓦色に染まっている。地には奇怪な紋章が刻まれ、遠くで陽炎が揺らめいている。そして――

 

「グォオオオオオオ!」

 

 咆哮が轟く。制止した世界の中で唯一動くソレを公太は呆然と見つめた。

 口元から覗く長い牙。手の先から伸びる鋭い爪。堅い獣の毛に覆われた体躯は巨大で、アスファルトを踏みしめる足は丸太のように太い。

 人狼。空想の世界にしかいないはずの化け物が、交差点の中心に立っていた。

 ありえない! なんだこれは! ここはどこだ? いつから、どうして俺はこんな場所にいる? 理解を超えた光景に混乱し公太はただ立ち尽くした。

 

「グォオオオオオオ!」

 

 世界に再度咆哮が鳴る。体を叩きつけるような恐ろしい人狼の吼え声は、何もわからずに混乱していた公太にようやく一つの理解を与えた。目の前の化け物はどうしようもなく危険であると。 

 逃げないと。今すぐに。公太はすぐさま怪物に背を向けて走り出そうとしたが、公太の足は地面に縫い止められたかのように動かなかった。この世界では公太もまた周りの人間と同様に動くことを許されていなかった。

 何もできずに立ち尽くす公太の方に、異形の怪物はゆっくりと近づいてくる。自分を狙っているのか、それとも自分と同じようにピクリとも動かない周囲の人間を目標にしているのかはわからない。ただ怪物はこちらに歩を進めていた。

 怪物の一歩一歩が死への秒読みだった。死まであと三歩の距離まで迫った時、怪物が大きく口を開ける。見るのも恐ろしい牙が眼に入る。

 ああ、自分はあれに喰われて死ぬ。程無く訪れるであろう死を感じ、公太は瞼を閉じようとしたが――。

 次の瞬間、人狼が突如として炎上した。鮮やかな青の炎に包まれた人狼はもがくように腕を振り回す。炎はますます勢いを増し、やがて人狼は断末魔を上げながら焼失した。

 助かったのか……? そう思った途端に安心と疲労がどっと押し寄せ、ゆっくりと意識が遠のいていくのを感じた。視界が暗転する直前、公太は燃え散る人狼の向こうに少女の姿を見た。

 少女の手の平には勿忘草色の炎が燃えていた。

 

 

002

 

 七月七日、月曜日。起床した瀬川公太は、夏だというのに寒気にぶるっと身を震わせた。

 恐ろしい夢だった。

 時の止まった世界。揺れる炎。人狼。そして少女。夢で見た光景は、過去を夢で追体験したかのように、現実感を伴っていた。もしあのまま人狼に喰われていたらと想像して恐ろしくなるくらいに。

 ま、夢なんだけどと、公太はかぶりを振って想像を振り切った。

 時刻は九時。当然ながら高校の始業はとっくに過ぎていた。今さら急いでも大して変わらないかと、だらだらと登校の準備を始める。一人暮らしには無駄に広い3LDKの部屋を右往左往して支度を済ませると、公太は家を出た。

 外に出ると途端にじりじりと首筋に太陽が照り付ける。痛いくらいの日差しは、まさしく夏のそれだった。

 

「あちー、体力奪われるー。太陽なんて消えればいいのに」

 

 馬鹿なひとり言を呟いてみても、太陽が消えるわけもなく、暑さはまったく変わらない。

 照り付ける日差しが公太の登校意欲を溶かしていく。公太の通う高校は山の上の方にあって、通学の度に軽い登山気分を味わう羽目になる。この気温の中、ハイキングなんてまったくもってナンセンスだった。

 やれやれとため息をつくと、公太は通学路を外れた。暑いし、遅刻だし、変な夢もまだ後を引いていて、学校に行く気がすっかりしなくなった。あてもなくふらふらと歩き、目についたゲームセンターに入る。こういう時、一人暮らしはいい。学校をさぼったって誰もうるさくいわない。

 ゲーセンに客はほとんどいなかった。タバコを吸いながらメダルゲームのレバーをガチャガチャやってる、見るからに無職のおっさんが二、三人だけだ。まったく平日の午前からゲーセンにいる奴なんてろくなもんじゃない。

 おっさんたちから離れるように公太はゲームセンターの奥、自販機の方へ進んだ。缶コーヒーを買って、そのまま自販機脇のベンチに座り込む。ゲームがしたくて入店したわけじゃない。そもそも今は何もする気が起きなかった。

 今というより最近か。ここのところ夏の暑さのせいだろうか、どうにも調子がよろしくない。体も心もだるくて、何かをしようという気力がこれっぽっちも湧いてこない。公太がダウナーな気分に身を任せながら、ぼーっと無気力にコーヒーをすすっていると

 

「はあ!? なんで今のがダメなわけ?」

 

 ゲームセンターに鳴るやかましい電子音を跳ね飛ばすようにして、その声は飛んできた。大声に思わずびくっと肩をすくめた公太が、何事かと声の方に目をやると、クレーンゲームの前で一人大騒ぎしている少女がいた。

 こちらに背を向けていて顔が分からないので断言はできないが、少女はおそらく中学生、ひょっとすると高校一年生かもしれない、というくらいの年に見えた。奇妙な話だ。あの年頃の女の子が平日のこんな時間帯にゲームセンターにいるなんて、と公太は自分のことを棚上げして思った。

 どうやらその少女は目当ての品が取れずに苦戦しているらしかった。無理もない。クレーンゲームってのはあれで意外と難しい。公太もドはまりして一時期やりまくっていたことがあったが、収支はまったく合わなかった。ようやくうまく取れるようになってきたころにはもう飽きてしまっていた。

 

「ガッデム!」

 

 どうやらまた失敗したらしい少女が頭を抱えて叫んだ。ばたばたと騒々しい少女の様子を眺めながら、それにしても、と公太は考え込んだ。あの少女を最近どこかで見た気がしたのだ。あの線の細い立ち姿を最近どこかで――。

 がたり。気が付くと椅子を鳴らして公太は立ち上がっていた。そうだ。今朝方、あの恐ろしい夢の中で見たんだ!

 つかつかと少女の方に近寄り、声をかける。

 

「おい、おまえ!」

「ん? あたし?」

 

 振り返った少女の顔を見て公太は呼吸を止めた。

 首の後ろで一つ結びにされた濡れ羽色の髪。なめらかな白肌。形のいい目鼻。桜色の薄い唇。それはもう大変な美少女がそこにいた。

 何より印象的なのは少女の眼だった。ほんの少し釣り気味のきらきらと輝く大きな瞳はまるで猫のようだった。少女の首元の銀のチェーンネックレスもなんとなく首輪のように見えてくる。

 背はさほど高くない。公太より頭一つ半低く、おそらく百五十センチくらいだろう。小首をかしげながら公太を見上げる少女はありたいていに言って可愛かった。そして、重要なことに、公太の好みのど真ん中だった。

 すっかり固まってしまった公太に、少女は怪訝な表情で呼びかける。

 

「おーい。もっしもーし。聞こえてる? 話しかけてきといてだんまりってどういうこと?」

「あ、ああ……悪い」

 

 ばたばたと騒がしい少女の声で公太は我に返った。そんな公太の様子を不審に思ったのだろう。少女は猫のような瞳をいぶかしげに細めた。

 

「それで? あたしに何の用?」

「あー、そのー」

 

 少女の問いかけに公太は口ごもった。まさか夢で見たから声をかけましたなんて、バカ丸出しの台詞は言えない。

 

「前に俺とどこかで会ったことがないか?」

「あ、ないでーす」

 

 代わりに出た問いかけに、間髪入れず少女が答えた。考えるそぶりもなかった。少女はくるりとはクレーンゲームの方に向き直ると、ひらひらと手を振って

 

「悪いけどあたし今忙しいんだ。ナンパなら他所でやってくんない?」

「なっ」

 

 どうやら公太は少女にゲーセンでナンパするチャラ男として認識されたらしい。何という勘違い。勘違いだが、少女にどきりとしたことは事実なので否定しづらい。

 ゲームに戻った少女は真剣そのものという表情で標的とクレーンに注視していた。どうやら少女の狙いは、ケースの真ん中にででんと鎮座しているぶさいくなデブ猫ストラップらしい。何だそのチョイスは。もうちょいマシなデザインの奴狙えよ。それとも女子にはコイツが「カワイイ」になるのだろうか。

 少女がボタンを押すとピコピコと電子音を鳴らしながら、クレーンが動き出した。少女はじいっとクレーンを見つめながらタイミングを待っていた。少女の並々ならぬ真剣さにつられて緊張しながら、公太はクレーンの行方を見守る。一秒。二秒。クレーンがゆっくりと標的の方へ移動していき、

 

「もらったあ!」

 

 少女が勢いよくストップボタンを押した。動きを止めたクレーンはツメを広げて下降し、標的より二十センチはずれた場所で空を切った。

 

「ああん。もうちょっとだったのに~」

「どこがやねん」

 

 ほぞをかむ少女に公太は思わず関西弁でツッコんでしまった。掠りもしなかったというのにどこに惜しい要素があるんだ。ヘタクソにもほどがある。公太の言葉に少女はぷくーっと不満げに頬をふくらませた。

 

「むー、まだいたの? あたし忙しいって言ったじゃん。しつこいと嫌われるよー?」

 

 少女がじろりと公太の方をにらんだが、迫力はなかった。むしろ可愛いと思ってしまうのは、少女が公太の好みのタイプだからだろうか。

 

「ちょいどいてみ」

「はあ? なんで?」

「いーから」

 

 公太は少女を押しのけて、機械に百円玉を入れた。

 こういうのはブツを直接つかもうとするんじゃなくて、ストラップの紐のところにツメを引っ掛けるのがコツなんだよな。公太はクレーンゲームにはまっていた頃の感覚を思い出しながら、ボタンを押し、クレーンを動かす。はい、ストップ。下降したクレーンはストラップをあっさり吊り上げ、排出口まで運んだ。

 ちらりと公太が少女の方を見ると、少女は信じられないようなものでも見たかのように、大きく目を見開いて固まっていた。

 

「ほら」

 

 ぽすりと少女の手の平にストラップを落とす。少女は渡されたストラップをたっぷり三秒は見つめてから、面を上げて――

 

「クレーン神降臨!」

「大げさにもほどがあるわ!」

 

 予想外の反応を示した少女に公太はツッコんだ。少女はもう一度ストラップを見ると嬉しそうに笑って、ありがとうと言った。

 

「そんなにほしかったのか、ソレ? もうちょいマシなやつがいくらでもある気がするんだが」

「そうだけど、ケースの中からこいつがガン飛ばして来たんだよ。『オレを取ってみるニャー!』みたいな?」

 

 両手をにゃんこの形にして少女が言う。その仕草に公太は変な奴と思いながらも笑ってしまった。

 

「意味わかんねー」

「私とぶさ猫の間には他人にはわからぬ勝負があったの!」

「ああ、そうかい。じゃあ、勝負の邪魔をしちまったか?」

「ううん。あれ以上やってもお金の無駄だったし、止め時ができてむしろラッキーかな。そうだ。これさっきのお金」

「いらね。別に頼まれてやったわけじゃねーし」

 

 少女が差し出した百円玉を公太は拒否した。さすがにそんなにダサい真似はできない。少女は公太の行動に目をぱちくりさせて

 

「ふうん、キミいい人だったんだね。いいよ、ナンパだっけ? お礼にひっかかってあげる」

 

 などと言い出した。軽い少女の調子に公太は顔をしかめた。

 

「いや待て。ちょろ過ぎにもほどがあるだろ。警戒心ゼロか」

「えー? 警戒する必要ないじゃん。だって君、見るからに女慣れしてないし、モテなさそうだし」

「ちょっと待て。何故俺をモテないと決めつけた?」

「顔」

「ストレートにもほどがあんだろ!」

「冗談だって。そんなに悪くないよ」

「え?」

「ま、良くもないけど」

「あげてから落とすんじゃねえ!」

「あはは。キミ、おもしろいね。最近のモテない不登校ちゃんはみんなこんななの?」

「誰がモテない不登校ちゃんだ!」

「平日の昼間からこんなところにいて違うの?」

「ただのサボりだよ」

「モテない不良ちゃんだったかあ」

「せめてモテないって修飾をはずしてもらえませんかねえ! 大体そう言うお前こそ平日の昼間っからサボりじゃねえか」

 

 公太が反撃を試みると、公太をからかっていた少女がきりりと目を吊り上げた。

 

「はあ!? ふっざけんなし。私、元から高校行ってないし」

「中卒かよ!?」

「中卒舐めんな! っていうかさっきからそのお前っていうのやめてほしいんだけど? あたしは人の名前を蔑ろにする人がだいっきらいなの。知らないの?」

「いや知らんし。ついでにオマエの名前も知らん」

 

 公太がそう言うと少女はきょとんとした顔になった。

 

「ああ、そういえば名乗ってなかったっけ? 私はナツキ。お前じゃなくてナツキって呼んでくれると嬉しいな」

「ナツキ……」

 

 試しに少女の名前を呼んでみると、それだけでいやに自分の鼓動が早くなった。

 

「ん、よろしい。それでキミの名前は?」

「瀬川公太」

「公太、こうた、コータかあ……」

 

 舌の上で転がすように、少女は何度も公太の名前を繰り返した。少女の鈴の鳴るような声で呼ばれるとさして珍しいわけでもない平凡な自分の名前が何か特別なもののような気さえしてくる。

 

「良い名前だね」

 

 少女はぱっと花開くように微笑んだ。その笑顔にどきりとした公太は思わず目を逸らした。

 

「そうか?」

「そだよ。ところで急に話変わるんだけど」

「何だよ」

「あれ、マズくない?」

 

 ナツキの指さす方を見て、公太はげえっと顔をしかめた。ゲーセンの入り口に警官が入って来る姿が見えた。あれはひょっとしなくても見回りだろう。年頃の少年少女が平日のこの時間帯にゲーセンにいるだけでも不自然なのに、おまけに公太は制服姿だった。このままでは確実に警官に見咎められてしまうだろう。

 

「ほら、行くよ」

 

 公太が警官の登場にフリーズしていると、左手に柔らかい感触が伝わった。ナツキが公太の手を取って歩き出していた。

 

「ちょっ、おまえ、手」

「おまえじゃなくてナツキだってば。怒るよ」

「悪い。つうか、引っ張るな。行くってどこに?」

「どこって」

 

 公太の言葉にナツキは振り返り、悪戯っぽく笑って

 

「デートに決まってんじゃん」

 

 

003

 

「で、なぜバッティングセンターなんだ?」

 

 警官から逃げてきた公太たちがやって来たのはバッティングセンターだった。たまたま前を通りがかったところをナツキが「ボール打ちたい」と言い出して、公太を引っ張って行ったのだ。

 

「なに? ご不満?」

「別にそう言うわけじゃねえけどデートだとか言ってなかったか?」

「……デートでバッティングセンターっておかしいの? 私そういうのよくわかんないんだけど」

 

 公太の言葉にナツキは不安そうな表情で聞き返してきた。

 年齢と彼女いない歴がイコールの自分に聞かれてもと公太は思ったが、しかしバッティングセンターは女子から誘われる場所ではないような気はした。というか散々人のことモテなさそうだとかなんとか言っておいて、自分も経験ないのかよ。公太は若干呆れてしまったが、ナツキがおろおろしているので、とりあえず肯定することにした。

 

「いいんじゃないか、バッティングセンター。ほら、野球は青春の花形だしな」

 

 公太が適当にそう言うとナツキはぱっと顔を輝かせた。

 

「そうそう! 野球と言ったら青春。青春と言ったらデート。デートと言ったら野球だよ! まあ、あたしは野球のことなんて良く知らないんだけどねー」

「なんだ、その不思議な三角関係。そして知らないならなんでここに来たんだよ!」

「気分に決まってんじゃん。さあ! 目指せ、甲子園!」

「甲子園は知ってんのかよ……」

 

 勢いよく叫びながらナツキがバッティングボックスに入っていく。驚いたことにナツキは最速の球が出るピッチングマシーンの前に立った。

 

「そこ、最速の機械だぞ?」

「知ってるよ」

「怖いぞ」

「なにが?」

 

 きょとんと可愛らしく首をかしげるナツキに、公太はなんて無謀なと嘆息した。バットを構えるナツキは野球未経験であろう割には形になっていたが、それでも百数十キロの球が相手ではかすりもしないだろう。もし仮に、万が一バットに当たったとしても、ナツキの細腕では前にはじき返せるのか疑問だった。

 

「なあ。ビビって泣き出す前に止めといたほうがいいんじゃないか? ほら、危ないしさ」

「うるさいなあ。黙って見てなよ」

 

 強情なナツキに公太はへいへいと肩をすくめた。まあ、一球やればビビッてバッターボックスから出てくるだろう。そう思って近くのベンチに腰かけてナツキの方を見ていると、ナツキが左打席に入っているのに気が付き、ああこいつは左利きなんだなあなんてことをぼんやり考えているうちに、機械から白球が放たれた。しゅーんとこちらにまで風切音が聞こえるほど速いボールは、

 

「だありゃっしゃあ!」

 

 快音とともにはじき返された。公太は思わずガタリと椅子を鳴らして立ち上がった。バットに真芯を捉えられたボールは一直線にホームランゾーンへと消えていく。

 

「おいおい。うそだろ……」

「ようし、もう一丁」

 

 再び快音が響き、ボールがまた遠くへはじき返される。目を丸くする公太の前でナツキは次々とボールをスクリーンへと打ち返し、終わってみれば打率十割。その全打球がホームランだった。

 

「そんなアホな」

 

 呆然と呟く公太の方にナツキが戻って来る。彼女はひどく得意げな表情で公太を見上げると、ビシッとVサインを突き出した。

 

「どうだ! 次はコータの番だよ」

「俺もやんの?」

「当然。コータは運動してその不景気な顔を吹っ飛ばした方がいいよ」

「不景気な顔って……」

「ほら! 思いっきりかっ飛ばしたらすっごく気持ちいいよ!」

 

 差し出されたバットを公太はまじまじと見つめる。断わっておくと、公太は決して運動神経が悪いわけではない。けれどナツキほどほいほいかっ飛ばせるかと言われると無理なわけで、おそらく空振りとかもするわけで、女の子の前でそれは格好悪い気もするわけで。公太が迷っているとナツキがははんと目を細めた。

 

「あれえ、ビビっちゃったのかなあ。そうだよね~。ボール速いと危ないもんねえ」

 

 先ほどの仕返しのつもりなのか、ナツキは最高に人をイラつかせる笑顔で煽って来た。いちいち可愛らしいのが余計に腹立つ。

 公太はひったくるようにバットを奪うと、バッターボックスに入った。男には意地という物があるのだ。

 

「一球でもホームランにできたら昼ご飯おごってあげるよ」

 

 後ろからナツキの完全に舐め切った調子の声が聞こえてきた。あんにゃろうと、公太はかっかしながらバットを構えて、マシンをにらみつける。機械のくせに人間様から空振り取ろうなんて思い上がりも甚だしい。一球でも二球でも打ってやるよと意気込んでボールを待つ。

 しかし、ピッチングマシーンから飛んできたボールは想像以上に早かった。

 ボールがひゅうんと音を残してホームベースの上を通過し、バックネットに突き刺さるまで、公太は微動すらできなかった。たらりと冷や汗が頬を伝う。あいつはこんなもんを打ち返してたのかよ、と公太は頬をひきつらせた。

 

「振らなきゃ当たんないよ?」

「うっせえ、わかってるよ」

 

 落ち着け。公太はそう自分に言い聞かせた。いくら早くともただのストレート。ボールをよく見れば当てられないことはないはずだ。集中しろ。無心で白球を追い、バットを振り抜く――

 

「あはは、下手くそじゃん」

「ぬかせえ!」

 

 掠りもしなかった。後ろから飛んでくるナツキの楽しげなヤジに公太は大声で叫び返した。オーケー、認めよう。あのマシンは難敵だ。だがスピードは理解した。もっとだ。もっと集中しろ。バットと一体になれ――

 

「お?」

 

 ナツキの意外そうな声が聞こえた。三球目がバットにかすり、チップになったのだ。タイミングがあってきた証拠だ。ざまあみろ。少し口元緩めながら次の球を待つ。来た! バットを振ると、今度は鈍い音がして前に転がった。

 いける! そう確信した直後に放たれた五球目。公太のバットはボールの真芯を確かに捉えた。

 

「いっけえええええ!」

 

 叫ぶ。打球は弧を描きながらスクリーンへと吸い込まれていった。

 

 

004

 

「う~、女の子におごらせるなんてサイテーだよ?」

「ははは。敗者の泣き言を聞くのは気分がいいな」

 

 バッティングセンターでひと汗かいた後、近くにあったファミレスに公太とナツキは入った。店内に人は少ない。昼時には少し早い上、平日だからだろう。

 向かい合わせで座る公太とナツキの間のテーブルには二人分にしては多めの料理が並んでいる。どうせナツキのおごりだからと公太がここぞとばかりに注文したのだ。

 満足げにピザを咀嚼する公太にナツキは恨めし気な視線を向け、公太はふふんと勝者の笑みを浮かべる。

 

「ぐむむ、むかつく~」

「昼飯おごるってお前が言い出したんだろ」

「そうだけどこんなに注文するかなあ」

「成長期なんでな」

「あーあ、失敗したなあ。コータも意外とやるじゃん」

「全球ホームラン女に言われてもな。どこの超高校級の野球少女だよ?」

「別に野球少女じゃないし」

「じゃあ、何?」

 

 聞いてからそう言えばコイツのことなんも知らないなと公太は思った。それもそのはずで、公太はナツキと出会ってまだ数時間しかたっていない。ナツキがあまりに気安く接してくるので、すっかりずっと前から一緒にいるような感覚になっていた。

 

「私は調律師だよ」

 

 ナツキの口から出てきたのは予想外の言葉だった。

 

「調律ってピアノを調整するやつのことか?」

「んー、ピアノじゃないんだけど、まあ似たようなものかな。私はね、調律しながら世界を旅して回ってるの。この町にも実は調律の仕事をしに来たんだよ」

 

 急に話のスケールが大きくなって、公太は食事の手を止めた。自分とたいして歳も変わらない女の子が世界旅行だって? またご冗談をとナツキの顔を見たが、ナツキに嘘を言っている様子はなかった。

 

「ニューヨークとか、パリとか、オーストラリアとか。けっこういろいろ回ったよ。移動するだけでもすごい時間がかかってさ。世界って広いんだなって感心しちゃった。でもやっぱり日本が一番なんだよね。生まれた国だからかな。たまに帰って来たくなるの」

「わからなくはないな」

 

 旅先でふと家を恋しく感じるのと同じ理屈だろう。その感覚は公太にも経験があった。もっとも公太の経験とは修学旅行で沖縄に行った時のことだったので、海外に長期間というナツキとは場所も期間もずいぶんとスケールが違っていた。

 

「けど、海外もいいだろ? こんな退屈な町にいるよりはよっぽどさ」

「この町も素敵だと思うけど」

「そうか? 田舎でも都会でもない。平凡なところさ」

 

 そう言って窓の外を見やる。行きかう車と人、舗装された道路、その脇に立つ街路樹。そこにはどこまでもありふれた街の風景が広がっていて、別段すばらしいと感じる要素は見当たらない。

 

「逆にこれのどこが素敵なのか聞いてみたいもんだ」

「平凡なところ」

 

 公太がそう言うとナツキは即答した。

 

「都会だとか田舎だとかは関係ないの。この町では当たり前に人がいて、当たり前に幸せそうで、当たり前に穏やかで心地の良い時間を過ごしている。そんな場所が素敵じゃないなんて嘘だよ。案外あっさりなくなっちゃうものだからさ。当たり前ってやつは」

 

 ナツキは急に達観したようなことを言った。窓の外を眺める猫の様な瞳にはほんの少しだけ憂いのようなものが見えた。黙って静かに遠くを見つめるナツキの横顔はやけに大人っぽく公太はどきりとした。

 

「どうしたの?」

 

 公太がナツキの大人びた表情に思わず見入っていると、公太の視線に気が付いたナツキが小首をかしげた。公太ははっと我に返ると、ごまかすように言った。

 

「いいや。急に悟りを開いたご老人みたいなことを言うもんだから驚いただけだ」

「ひっど。私まだそこまで長生きしてないし」

 

 不満そうにナツキが唇を尖らせた。その仕草はさっきの表情が嘘だったかのように子どもっぽかった。

 

 

005

 

 ファミレスを出る頃には三時を回っていた。ナツキがぺらぺらとよく喋ったせいか、思ったより長居していたらしい。公太が「これからどうする?」とナツキに尋ねると、

 

「ねえ、コータはあそこに入ったことある?」

 

 ナツキはビルとビルの隙間の細い道を指して言った。

 

「ないけど」

「じゃあ、こっち」

 

 ナツキは公太の手を握ると、その道に向かって歩き出した。ビルの合間の細道をするする抜けていく。公太はナツキの意図が分からないまま、手を引かれて後をついて行く。

 

「おい。どこ行くんだよ?」

「探検!」

「はあ?」

「初めて通るんでしょ? 何かあるかもしれないよ」

「何かって何だよ?」

「さあ?」

 

 細道を出ると、今度は適当に曲がって、進んで、また曲がって。気ままに進むナツキに引っ張られているうちに目抜き通りから外れ、ひっそりとした雰囲気の通りに出てきてしまった。

 

「この通りは来たことある?」

「いや、ないな」

 

 ここは公太の知らない場所だった。公太の答えを聞くとナツキは満足そうに笑って言った。

 

「ずっといる町でも知らない場所ってけっこうあるでしょ? 例えばこうやって少し道を外れるだけでも違った景色が見える」

「つまり何が言いたい」

「平凡な町にもそれなりの冒険が待っている!」

「なんだそりゃ……」

 

 楽しそうに言うナツキに公太は呆れた。平凡な町の中でどれだけ景色が変わろうとも、結局は平凡なままだ。公太は内心そう思ったが、目的なく歩く今の時間を悪くないと感じていたので口には出さなかった。単純な話だが、タイプの女子と街を歩けて嬉しくないやつなんて男にはいないのだ。

 常に公太の一歩先を行き、そんな珍しい景色でもないだろうに、町をきょろきょろと見回すナツキは、見知らぬ土地を好奇心のままに歩き回る子猫のようで見ていて飽きない。

 それにこの手。ゲーセンの時といい、ナツキは異性の手を握ると言う行為に対して抵抗がないらしい。すっかり動揺している公太に対し、ナツキは自然体そのものだった。年頃の純情な男に対してこれを意識的にやっているのならとんだ悪女だし、無意識でやっているのだとしたら性質が悪いことこの上ない。

 小さく、柔らかいナツキの手に握られていると奇妙なくすぐったさが伝わって来る。困ったことにそれは不快な感覚ではなく、むしろずっとそうされていたいと思うような心地良さを伴っていた。

 

「見て。人形職人のアトリエだって」

 

 ナツキがぴたりと足を止めて道沿いの建物の一つを指さした。

 それは背の低いありふれた建物だった。唯一特徴と言えるものは、ナツキが見つけた木彫りの看板くらいだ。人形職人のアトリエとひねりも何もない文字が並んだ看板は、隣の建物の前におかれた鉢植えの影に隠れるようにしてひっそりと立っていた。これでは大半の人間が気が付かずに通り過ぎてしまうだろう。

 

「せっかくだから入ってみようよ。ほら入場料五百円だって。出して、出して」

 

 ナツキにせがまれて公太は財布から千円札を引っ張り出した。当然のように払わされているのはこの際気にしない。昼飯代のかわりだ。

 静けさに満ちたアトリエの中にはたくさんの西洋人形が展示されていた。公太は近くにあった人形に目をやった。

 茶色の長い巻き髪とオッドアイが特徴的な等身大の少女のドール。丈の長い若草色のエプロンドレスに身を包み、頭に白いヘッドドレスを被っている。人形は細部に至るまで精巧に作りこまれていて、こちらを見つめる双色の瞳にはまるで本物の人間のような感情の光さえ浮かんでいる気がした。

 これ、いくらくらいするんだろう? すぐに値段を気にするのは庶民の性だなと思いつつ、人形の値札を見て、うわっと目を丸くする。やっぱこういうものは高いらしい。

 

「気に入ったの?」

 

 公太が熱心に値札を見ていたせいで、その人形を気に入ったと勘違いしたらしいナツキが言った。ナツキは、アトリエを満たす厳かな雰囲気につられたのだろう、公太の方に少し顔を近づけて図書館でするようにひそひそと囁いた。急に近寄って来たナツキの横顔に、公太は内心動揺したが、努めて平静に「よくできてると思ってな」とだけ返した。

 アトリエには棚が中央に島を作るようにおかれているため、すべてを見るには入り口から壁に沿って店をぐるりと一周することになる。ナツキはきらきらと目を輝かせながら人形を一つ一つ丁寧に見て回り、公太はそんなナツキの表情を見るのに忙しかった。

 店の奥の方へ進むと、一体のアンティークドールが展示されていた。清楚な白のドレスに身を包んだ少女のドールだ。少女は専用のトランクケースの中で胎児のように丸まって目を閉じていた。胸の前で軽く握られた少女の手の傍には精緻な彫刻が施された金色のねじが置かれていた。どうやらねじまき人形らしい。

 

「かわいい娘だね」

 

 ナツキの言うとおりだと思った。鮮やかな金色の髪に縁取られた少女の幼さの残る寝顔には愛らしさの他にどこか気品のようなものがあった。無垢な少女はまるで楽しい夢でも見ているかのように薄く微笑んでいる。少女は店のどの人形よりも表情が豊かで、そのうちに目を開けて動き出しそうなほどの現実感があった。

 

「どんな気持ちなんだろうな」

 

 公太の口から言葉がこぼれる。「うん?」と尋ねるナツキに公太は続ける。

 

「こいつさ。人のように動くことを夢見て、ネジを巻かれるその時までじっと眠ってる。けどさ、ねじを巻かれてようやく動き出しても、カタカタと音を立てながら決まった動作をするだけで、人と同じようには動けないだろ? こいつは動き出してしばらくして、ようやく自分の存在を知るんだ。自分は人間に似た不完全なナニカに過ぎないんだって」

 

 口を突いて出てきた言葉に公太は自分でも驚いていた。突然こんなことを言い出して、変に思われただろうか? ナツキの方を見ると、ナツキはどこか寂しげな表情をしていた。

 

「自分を知ることと知らないままでいることのどっちが幸せなんだろうね」

 

 ぽつりとナツキが呟き、公太の方を見る。

 

「ねえ。コータならどっちを選ぶ?」

「そりゃ知りたいと思うんじゃないか。幸せかどうかは知らんが、自分が何なのかを知らないままってのも変な気がするしな」

「そっか……」

 

 公太が答えるとナツキが目を伏せた。どこか辛そうにも見える仕草だったので、公太は何か悪いことでも言ってしまっただろうかと慌てたが、思い当る節がなかった。公太がどうすることもできずにいると、ナツキが視線を上げて、不意に言った。

 

「マリー」

「はい?」

 

 ナツキの言葉に公太が間の抜けた声を出すと、ナツキはもう一度「マリー」と言って人形の足元にあるネジを指さした。

 

「この娘の名前だよ」

 

 確かによく見ると、ねじにはMARIEというアルファベットが彫り込まれていた。

 

「ナニカなんかじゃないよ。この娘はマリー。立派な一人のアンティークドール。ね?」

 

 静かに、だけど言い聞かせるようにナツキが言った。公太はこくりと頷いた。

 

 

006

 

 人形店を出る頃には、日が落ち始めていた。来た時と同じように入り組んだ路地を適当に進むと、ちょうど公太の見知った道に合流した。

 

「なんだ。ここに繋がってたのか」

「知ってる道なの?」

「通学路だよ」

「え? 不登校ちゃんに通学路なんてあるの?」

「そのネタをまだ引っ張るか……。それより、いいところに連れて行ってやろうか?」

「いいところ?」

「こっち」

 

 ふと思いついて公太が歩き出す。ナツキがとことこと後ろをついてくるのを見て、そういえばナツキの前を歩くのは初めてだなと思った。今日はずっとナツキに引っ張りまわされてばかりだった。

 緩やかな坂を上っていく。朝はあんなに上るのが嫌だったハイキングコースじみた通学路も今はさほど悪いとは感じない。夕方になって少し涼しくなってきたせいか、あるいはナツキがいるせいか。おそらく後者だ。公太の足取りは軽かった。

 

「何? コータは今から登校するの?」

「んなわけあるか。こっちだよ」

 

 本来の通学路からわき道にそれて少し歩くと、児童公園が見えてきた。中に入り、外縁部のフェンスのところまで来ると、ナツキがわあと歓声を上げた。

 茜色に染まった町がそこにあった。

 この児童公園は高台にあり、町を一望できる。とりたてて珍しいものがあるわけではないけれど、高所からの景色はそれだけで人の心を浮き立たせる魅力がある。

 

「けっこう悪くないだろ」

 

 隣に立つナツキにそう声をかけるとナツキは「うん」と頷いた後、からかうような視線を公太に向けた。

 

「なんだかんだ言ってやっぱりこの町が好きなんじゃん」

「どうだろうな」

「ううん。きっとそうだよ。ほら! とっても綺麗な町だもん」

 

 ナツキの言うことは公太にはよくわからなかった。確かに高所から見下ろす夕暮れの町の景色にはそれなりの美しさはある。そうでなければわざわざ人を連れてきたりはしない。けれど、この風景を見てナツキのように目を輝かせる人間がどれくらいいるだろう?

 今日、彼女はいつだって楽しそうに笑っていた。どうすればここまで楽な自然体でいられるのだろう。ひねた性格の公太にはどうにもナツキの在り方が眩しく映ってしかたがなかった。

 きっと同じ場所を見ていても自分とナツキでは見え方が違うのだろう。ナツキの眼にはこの町はどんなふうに映っているのだろう? 彼女に近づけば自分も同じ景色を見ることができるのだろうか? たとえば彼女の隣でもっと多くの時間を過ごせたら――。

 大胆な想像に鼓動が高鳴る。

 ちらりと隣に立つ少女の方を盗み見る。

 一目見た時から惹かれてはいた。一日過ごしてみてその気持ちはより強くなった。どこまでも明け透けで、自由気ままで、ほんの少し不思議な雰囲気の少女に対する気持ちは、公太の中で大きくなっていた。

 

「ねえ、コータ」

 

 ナツキがちらりと公太の方を見て、名前を呼んだ。「なんだよ?」と聞き返すと

 

「世界の秘密を知りたいと思う?」

 

 そんな突拍子のない質問が飛んできた。思わず隣のナツキの顔を見ると、大きな瞳がまっすぐに公太を捉えていた。世界の秘密――何かの比喩だろうか? さっぱりわからない。けれど、世界の秘密とやらはナツキにとって極めて重要な意味を持つものであることだけは彼女の面持ちから察せられた。彼女はどこか躊躇うように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「知らないままで終わることもできる。コータにとってはその方がいいのかもしれない。でももしコータが知りたいと望むのなら……」

 

 そしてどうやらそれは自分にも関係のあることらしい。ふと、人形店で交わした会話を思い出す。知らないままでいることと知ることとどっちが幸せなんだろうね。ナツキの言葉が頭をよぎる。

 

「コータは知りたい?」

 

 ナツキがもう一度問う。なんとなくだが、公太にはナツキは知りたいと答えてほしくなさそうに見えた。

 

「俺は――知りたい」

 

 けれど、公太の答えはナツキが望んでいるであろうものと逆の答えを返した。ナツキの顔が辛そうに歪む。泣きそうになるのを耐えるように固く唇を引き結んで、ナツキはうつむいた。ナツキの様子にちくりと罪悪感が公太の胸を刺す。けれど公太は知りたかった。公太はナツキがそんな表情をする理由が気になってしかたがなかった。

 

「わかった」

 

 ナツキが公太の手を取る。そして微かに震える声で言った。

 

「封絶」

 

 

007

 

「なんだよ、これ……」

 

 思わず声がこぼれる。公太の眼前に広がるのは勿忘草色の陽炎のドームに覆われた世界だった。地面には火線で引かれた奇怪な紋章が走り、中空にはぱちぱちと火の粉が舞っている。

 世界が鼓動を止めていた。人間も草木も自動車も、生物、無生物を問わず世界のすべてが止まっていて、動いているのは公太とナツキだけだった。

 目の前の光景を信じられない思いで見つめる公太はしかし一方でこうも思っていた。俺はこの世界を知っていると。これは夢で見たあの世界だ。夢の記憶がちかちかと頭にフラッシュバックする。煉瓦色に染まった空。舞い散る火の粉。恐ろしい化け物。そして少女。

 

「遥か昔、歩いては行けない隣の世界『紅世』から彼らはやって来た」

 

 けれどここは夢ではない。鼓膜を叩くナツキの静かな声が、繋がれた手の感触が、確かにここが現実であることを告げていた。

 

「紅世の徒と呼ばれる彼らは、時に人に寄り添い、時に人の存在を喰らいながら、私たちと共に歴史を歩んできた」

「人の存在を喰らうだって……?」

 

 そんなバカな話あるわけがないと笑い飛ばそうとして、ぎらぎらと光る人狼の牙が脳裏を過ぎる。迫る人狼を前にして、俺は確かこう思ったんじゃなかったのか? このままじゃ喰われるって。

 

「彼らにあるべき存在が食べられて急になくなっちゃうと世界はひどく歪んでしまう。だから世界に対する悪影響を防ぐための緩衝材が作られるようになった。徐々に存在を消失させる人間の残滓。私たちはトーチって呼んでる」

「トーチ?」

「そう。あれを見て」

 

 ナツキが公太から手を離し、数メートル離れたベンチの方を指さした。

 いつの間にか世界は正常に戻り、時が流れ出していた。

 ベンチには子どもと母親が座っていた。公太はわずかに目を見開いた。あの二人はいつからあそこに座っていたのだろうと疑問に思ったのだ。少なくとも公太たちがこの公園に来た時、あの二人はいなかった。

 いや。気が付かなかったのか――? そう公太は思い直した。ほんの数メートルしか離れていないベンチに座る人影を見落とすなんて、通常ならありえない。けれど、その親子の瞳には生気というものが欠けていて、言うなれば存在そのものが希薄だった。見落としてしまっていてもしかたがない。そう思えるほどに――。

 

「え……?」

 

 戸惑いの声が漏れる。変化は一瞬だった。消えた。そこにいた親子が影も形もなく消失してしまった。目の前で起きた現象に公太の頭がついていかなかった。

 

「あっちにも」

 

 一体何が起きたんだ。混乱する公太にナツキは別の方向を見るよう促した。児童公園の入り口の前。杖を突きながらゆっくりとした足取りで歩く老人が眼に入った。

 その老人もまたどこか虚ろな顔をしていた。先ほどの親子と同じく表情がぼんやりとしていて、生気が感じられない。老人の方をよく見ると、老人の胸の辺りに灯のようにゆらめく何かがあった。その灯はあまりに小さく、今にも消えそうで――消えた。

 灯も。老人も。初めから何もなかったかのように消えた。世界から消えた。その時、公太はようやく理解した。

 

「これが……世界の秘密だっていうのか……」

 

 呆然と立ち尽くす公太の頭に不意にナツキの言葉が蘇る。

 

(知らないままで終わることもできる)

 

 終わる? 誰が?

 

()()()()()()()()その方がいいのかもしれない)

 

 まさか――。からからと口の中が渇き、さっと体温が低くなる。いやな予感が胸に渦巻き、呼吸が荒くなる。

 見たくないと思った。けれど、引き寄せられるように、公太は自分の胸に視線を落とす。そして見た。公太の胸には小さな灯が頼りなく揺らめいていた。

 

「うそ……だろ……?」

 

 信じられない気持ちでナツキを見ると、彼女は辛そうに目を伏せた。それから短く息を吐くと、意を決したように面を上げた。ぎゅっと小さな手を握りしめ、絞り出すように真実を告げた。

 

「コータはトーチだよ」

 

 がつんと世界が傾いた気がした。真っ白になった頭の中にくわんくわんとナツキの言葉が何度も反響する。

 

「この町にはね、少し前まである徒が居座っていたの。おそらくコータはそれに喰われてトーチとなった」

「違う! 俺はあんな――」

 

 消えた老人を思い出す。生気のない、虚ろな顔を思い出す。まるで人形のようなアレと自分が同じはずがない。とっさに声を荒げた公太に、ナツキは静かに言う。

 

「そうだね……。コータはただのトーチじゃない。コータは旅する宝の蔵(ミステス)だ」

「ミステス? 何を言って――」

「この世と紅世の狭間に生まれた唯一無二の宝物。それがコータの中に入ってるの。たぶんそれがコータの存在を普通のトーチよりはるかに強くこの世に繋ぎ止めた。灯が小さくなるにつれて虚ろになっていくはずの心もね。でも灯りの大きさは保てないみたい。だからコータはもう――」

 

 消える。ナツキの言葉が静かに響いた。

 今にして思うとおかしな話だった。高校生が3LDKのマンションに一人暮らし? そんなこと普通あるわけがない。もともとあの部屋には自分以外の誰かが居た。父親とか母親とか、そういうナニカが存在していたはずなのだ。

 でも彼らの存在はすでに世界から欠落していて、公太には思い出すことができなかった。顔も、声も、何もかもが、最初からこの世界に存在していないことになっていた。そしてそれは自分も同じだ。

 瀬川公太という少年はすでにこの世から消え去っていて、自分という存在はその残り滓に過ぎないのだ。人の外面だけ取り繕ったあのねじまき人形と変わらない。唯一違うのは、人形は動きを止めてもまた誰かにねじを巻かれるのを待つことができるが、トーチに次はないということ。トーチとは世界に傷跡を残さぬよう、ただゆっくりと消えるためだけに存在するもの。後には何も残らない。

 公太の中に現実が少しずつ浸透していく。それにつれて不思議と恐怖は遠ざかり、空虚だけが残った。視線をもう一度胸の方にやる。この今にも燃え尽きそうなどうしようもなく小さな灯が自分の命だった。

 ああなんてちっぽけな光なのだろう。けれどそれも当たり前。だってこれは消えるためだけに灯された光なのだから。

 自分の存在を正しく認識してしまったせいだろうか。急に自分というモノが薄れてゆく感覚がした。世界から色が消える。体の輪郭が曖昧になる。そして胸の灯が弱々しく揺らめいて――

 

「ダメ!」

 

 ナツキが公太の手を掴んで叫んだ。ナツキの表情を見て公太は息を呑んだ。

 

「そんな風に消えないで……」

 

 ナツキは泣いていた。ぼろぼろと涙を流しながら、公太の存在を繋ぎ止めるように身を寄せる。触れた体からじわりとナツキの温度が伝わってくる。公太は困惑した。

 

「なんで泣くんだよ……。俺はトーチなんだろ」

 

 自分の胸に額を押し付けて身を震わせるナツキに公太は言った。当たり前に消えるモノが、当たり前に消えようとして、どうして悲しむ必要がある。引き留める必要がある。そんな公太の言葉にナツキが答える。

 

「私、君が声をかけてくれた時からコータがトーチで、もうそんなに長くないこと知ってた。だから何かしてあげたいって思ったんだ」

「同情か……」

「最初はそうだった。でも途中からソレすっかり忘れちゃってて……」

「……は? 忘れてたって何?」

「だって楽しかったんだもん。今日はずうっと楽しかったよ」

 

 楽しかった。そう口にするナツキの涙声はほんの少し明るくなっていた。それを聞いた公太は、ああ本当のことなんだなと思った。だってナツキは自分の気持ちに正直で、明け透けだから。そんな彼女に自分は惹かれたのだから。

 

「私はずっと覚えてるよ。今日一日のできごともいっしょに過ごした男の子のことも」

 

 ナツキの言葉はすべてが本心で

 

「他の誰でもない君といっしょに過ごした時間を私は忘れない。人間だとかトーチだとかは関係ないよ」

 

 だからどこまでも真っ直ぐに

 

「だってコータはコータだから」

 

 公太の胸を打った。俺は俺。そんな当たり前の単純な言葉で世界に色が戻って来る。曖昧になった自分の輪郭が戻って来る。

 けれど、残念なことに胸の灯だけは戻らなかった。灯りはどうしようもなく弱いままで、刻々と最期の時に向かって燃えていた。

 

「コータはちゃんとここにいたから……私覚えてるから……。いつまでだって……ずっと……」

 

 ナツキにもそれが分かっているのだろう。だから必死に、泣きじゃくりながら、気持ちを伝えようともがいている。最後の方はもう声にもなっていなかったけど、それでも公太にはナツキが伝えようとしてくれていることがわかった気がした。

 公太はナツキの頭に手を置いた。そのまま撫でると心地の良いさらさらとした髪の感触が伝わってきた。

 きっとナツキは迷っていたのだろう。世界の秘密を告げるべきか否か。ずっと迷っていて、最期になって公太に選択を委ねたんだ。

 そして公太は知ることを選んだ。

 知ってしまった今になって、その選択の良悪を考えてもしかたがない。ただ一つ思うことは「自分が何なのかを知らないままってのも変な気がする」なんて、気軽に言いやがった過去の自分をぶん殴りたいということだ。真実はそんな気楽なものではなかったから。

 トーチ。瀬川公太という人間の残滓。世界への悪影響を緩和する緩衝材。それが今の自分の正体だった。

 けれど、たとえ瀬川公太の残り滓に過ぎないものであったとしても、ここにいる自分は偽物じゃない。公太(にんげん)コータ(トーチ)に変わったとしても、刻んだ記憶も胸の奥に灯った感情も、そのすべては変わらず本物だ。

 だったら人間とかトーチとか、そんな区別はいらない。俺は俺だ。瀬川公太という自分が間違いなく世界に存在している。昔も今も、そしてこれからもだ。何せ自分が消えても、この少女だけは自分のことを忘れないらしいから。好意を寄せた誰かに自分の存在を覚えていてもらえるってのはきっと悪い結末ではないだろう。

 

「そろそろか」

 

 公太の言葉にナツキの肩がぴくりと跳ねる。少し名残惜しい気持ちで公太はナツキの体を自分から離した。そして真っ直ぐにナツキの瞳を見つめた。最期に彼女に何を言うべきか。ちょっと迷って、結局出てきたのはシンプルな言葉だった。

 

「ありがとう」

 

 公太が告げると、ナツキは涙で頬を濡らしながら綺麗に――本当に綺麗に笑った。

 

 炎が散った。

 

 少年は消え、少女だけが残った。一人になったナツキは笑顔を崩し、顔を手で覆ってうずくまった。押し殺した泣き声は暮れなずむ街の物悲しげな景色の中にいつまでも響いた。

 

 

008

 

「どうして傷つくような真似をしたんだい?」

 

 首元のチェーンネックレスから中性的な声がしたのはナツキが泣き止んで少し経った頃だった。声はナツキと契約する紅世の王“淵の水鱗”ミヅチのものだった。

 ナツキはミヅチの問いには答えず、腰かけているブランコをほんの少し前後に揺らした。揺れる度にぎぃぎぃと鎖の音が鳴り、それは夜が来て、無人になった児童公園に寂しく響いた。

 

「ミステスだって気が付いていたなら壊して中身を取り出すか、それとも放っておけばよかったんだ。深入りする必要なんてなかったじゃないか」

「知らない」

 

 なおも言う王にナツキはぶっきらぼうな答えを返した。

 言葉を交わした。いっしょに笑った。理由なんてそれで十分だった。コータがクレーンゲームの商品を差し出して来た時にはもう心が動いていた。何かしたいって、そう思っていた。

 

「まったく。キミはいつも考えなしに突っ走っては、その度に転んで泣くんだ。バカみたいだと思わないかい?」

「……そうだよ。私はくるくるぱーのバカやろうだよ。悪い?」

「悪くはないけど、一緒にいる身としてはちょっと心配かな」

 

 拗ねたように開き直るナツキにミヅチが苦笑すると、ナツキがごめんなさいと言った。ミヅチはいいよと返した。

 

「今回はまだマシだから。良いものが手に入ったみたいだし」

「あたしは宝具が欲しかったわけじゃないもん」

「知ってるよ」

 

 ナツキは少年の残した宝具をポケットから出した。楕円形の銀のロケットでチャームの蓋には精緻な花の彫刻が施されている。

 この宝具は名を『スーヴニール』と言った。世界の根源に刻まれたあまねく事象を収集し記録するロケット。たとえお互いの存在が失われたとしても決して忘れない。はるか昔、そう永遠を誓い合った人間と紅世の王によって生み落とされた思い出の宝具だ。

 

「コータ……」

 

 消えた少年の名を呼びながら、ナツキはスーヴニールに存在の力をこめた。すると、チャームの蓋がわずかに開き、その隙間から光の粒子が溢れだした。心地の良い温度を持ったそれは、きらきらと瞬きながら、ナツキの中へ溶けていく。

 

「そっか。コータはこの町でこんな風に過ごして来たんだね。笑って、泣いて、怒って、また笑いながら生きてきたんだね……」

 

 かつてこの世に存在した少年の記憶がナツキの心に流れ込む。スーヴニールには宿主のコータの思い出もまた確かに記録されていた。最後に彼が胸のうちに抱いていた気持ちでさえも。じわりとまた涙が出てきて、ナツキはぐしぐしと目元をぬぐった。

 

「泣き虫」

「うるさい」

 

 茶化してくるミヅチの声を聞きながら、ナツキは手の平に勿忘草色の炎を灯した。それは世界をあるべき姿に戻す調律の自在式だった。

 ふいにナツキが歌を口ずさむ。小さく、静かに、メロディを紡ぎながら、ナツキはコータの記憶を炎へと織り込んでいく。一つ。また一つ。記憶のカケラが織り込まれる度に、炎はいっそう鮮やかに煌めいた。

 

「自在式『雨乞神楽』起動」

 

 全ての記憶を内包した炎は、ミヅチの声でナツキの手の平を離れ、宵闇に一本の光の軌跡を残しながら空へと上っていった。炎は夜空高くで模様を描くように弾けて広がり、やわらかな雨へと変わって、地上に降り注ぐ。

 ぽつり。ぽつり。雨音が響くたびに町は揺らめき、あるべき姿へと形を変えていく。世界に調和が戻っていく。癒しの雨はナツキの歌が終わるまで続いた。

 

「行くかい?」

「うん」

 

 紅世の王が問いかけにナツキは頷いてブランコから立ち上がった。油断するとすぐに目から零れ落ちそうになる寂しさをそっと胸の奥にしまってナツキは歩きだす。夜闇の中へ消えていく調律師の胸元には、小さな銀のロケットが輝いていた。

 

 

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