汗で濡れた布団から這い出れば、茹だる暑さを耐え忍び、朝の刺激的な日差しを掻い潜り、辿り着いた井戸で肉体労働に勤しむ。
それが幻想郷での仕事だ。
正確に言えば向日葵畑の水遣りが一日の仕事であり、それを朝と昼に済ませれば暇である。だいたいいつもの来訪者とのんべんだらりと過すばかりだ。
あとは年に一度収穫時期に種などを回収して人里で物々交換したり売ったり。
向日葵の種なんて売れるのかっていえば案外売れるものである。
教わった知識によると元々は海外の植物で江戸時代には渡来し『丈菊』と呼ばれ、油や化粧品の材料、栄養価の高い食べ物にもなる優れものなのだ。
ましてや古い時代文明を色濃く残すこの隠れ里だ、現代人には久しくとも此処等辺の人々には珍しいものじゃない。
最近は販路が見付かって大口のお客様も縁ができて益々順調である。
という訳で対価を得て、清貧に徹すれば日々生活するに困窮する事はない。なんていう悠々自適で理想的な隠居生活を送っていた。
まさに夢のスローライフである。老後も安心だ。
今日も今日とて仕事だ、と作業の繰り返しに勤しもうとすれば何時もとは違う変化があった。
桶の隣に置きっぱなしにしていた柄杓に植物の蔦が絡んでいる。
「朝顔か」
俺にとって朝顔とは罪悪感の象徴である。
小学生の頃、夏休みの宿題には必ず植物の観察日記をつけるやつがあった。その観察対象になっているのが目の前にある朝顔だ。
授業で鉢植えした物を持ち帰り、夏季の間自宅で育てるのだが必ず枯れ落ちてしまう。両親も仕方が無いと励ましてくれるのだが毎回納得出来ない気持ちがあったのを忘れられないのだ。
手入れを欠かしたのでもなく、水遣りが不十分だった訳でもなく。終ぞ自宅で朝顔が花開いた姿を見たことが無かった。
その朝顔がこうして青紫の花弁を開かせ、存在を雄弁に語っている。
たったそれだけの話なのだがなんとなしに無下には扱えない。
「朝顔に柄杓取られてもらい水、ってか」
結局、枯らしてしまっていた罪悪感が数十年の月日を越えて湧いたようだ。
まぁ柄杓を諦めても桶に水を汲んでは手で掬って撒き散らせばいい。蔦を引き千切るのもなんだか可哀想な気がする。
不思議な話だが子供の時にはあれほど残酷であれたのに大人に成ると無意味やたらに生き物を殺したり、草花を引き抜いたりできなくなった。
何時の間にか意思疎通もままならないものに同情心が芽生えているものである。
「これも風見さんの影響もあるのかねぇ」
「それはとびきり良い影響に違いないわ」
噂をすればなんとやらである。
それにしてもなんでいつも背後とか人の死角から現れるのだろうか。
「御機嫌よう」
「今日は随分と朝早くからのお越しで驚きましたよっと」
「早起きは三文の徳というでしょう? なら毎朝、長寿の私がすれば塵も積もれば億万長者に成れるって寸法よ。まぁ、金銭なんて特に興味は無いのだけれども」
「そりゃやる意味も無くなってる」
くすくすと笑みながらそうね、と肯定する風見さん。
「でもお陰で縁起物は見れたわね」
「なんのこと?」
「それそれ」
指差す方を見れば柄杓に撒きつく朝顔。
「その植物は元々牽牛花といってね、七夕頃に花咲かせるのも相俟って牽牛星の彦星を連想させるから年に一度の逢瀬を象徴して縁起が良い夏の風物詩なのよ」
流石、種族が花の妖怪である。博識だ。
「意外と此処等辺では見ないから余計に珍しい」
なるほど。確かにそうだ。
何処から種が来たのだろうか。帰省した折に持ってきてしまったのだろうか。花の生命力はなんとも不思議なものだ。
「といっても風情があるのは悪くは無いのだけれどそれでは不便よね」
「まぁ蔦を切るのも気が進まないんで当分の間は手とか適当な容器を使いますから」
「心意気はいいわ。でも適切な誰かに頼るのも手よ」
そういうと風見さんは口許に人差し指を添えて
「私の力を見せてあげる、少しだけよ?」
悪戯っぽく微笑んだ。美人だからこそ絵になる姿だった。
思い返せば彼女は人ならざる妖怪で、寓話とか御伽噺の様な力を持つ存在である。なんだけどその力を確認したことは無い。
であるからして、すごく興味が惹かれる。
「ふふっ」
俺の反応に御気を召したようで軽やかに右手を動かすと朝顔の方へ指を鳴らした。
すると驚くべき現象が起こった。なんと蔦が独りでに動き出し、絡め取っていた柄杓からするすると離れ出したのである。
通常では有り得ない、まさに超常現象だ。
印象的には少し現実として完全に受け止めきれず、実際に起こっている事なのに作り物めいたものを感じる。
あれだ。映像を百倍速で再生するやつとかあるがあの感じだ。現実に魔法とかを目撃するとこういう印象を受けるのだなと思いました。
「ふぇ~、すごいっすね」
風見さんと朝顔を交互に何度も見返してありきたりな感想を口にする。
「そうです。私はものすごいのです。枯れ木にだって花を咲かせられるのよ?」
「ほう! それでは差し詰め俺は大名ですかね。褒美は何を所望か」
「じゃあ冷たい麦茶などを」
「うむ、相分かった。用意するので暫し時間をば」
母屋に行く前に風見さんの魔法がどうなったのか確認すると柄杓から完全に離れた朝顔の花が此方を見守っていた。まるで姫の様な毅然として凛々しい姿であった。
後ほど知った事であるが、「牽牛花」という呼ばれから織姫を連想させたのか転じて「朝顔姫」という名前もあるらしい。
まぁ、お察しの通り全て風見さんの受け売りである。