彼は(完璧すぎて)友達が居ない   作:ソーダ水一号

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水着回まで到達しませんでした。



05: 市民プールはフラグがない そのいち

 

「ん、早いな星奈」

 

小鷹と夜空が並んで談話室の扉を開けると、そこには赤いラップトップに目線を落とす星奈の姿があった。

ここ最近、小鷹・夜空ペアより早く、星奈が談話室に居ることが圧倒的に多い。恐らく授業が終わり次第、即、談話室に直行しているのだろう。

 

『小鷹。自販機でジュースでも買ってからこっそり来い』

 

最近、夜空から指令を受けて、殊更のんびりと――なるべく人気の無いタイミングで――礼拝堂へ向かうようになった小鷹と、それを待つ夜空より早く星奈が部室に居るのも、当然ではあった。

小鷹自身は気づいて居ないが、最近、礼拝堂へ足繁く通う小鷹の姿が噂になりつつある。

罪を懺悔しに行っている、だとか、誰かと逢引してる等という噂まで立ちつつあった。小鷹自身、そういう自覚が薄いこともあって、夜空は更に神経を使っているのだった。

尤も夜空にしてみれば、予め予想されていた範疇に収まっている事を安堵していた。突如として隣人部に人が押しかけるような事にならないだけ、マシなのだ。

 

「星奈?」

 

そんな小鷹と夜空の入室にも、星奈は一向に気付く様子がない。

視線はラップトップに釘付けであり、よく見れば、ラップトップの外装と同じ色をしたヘッドフォンを付けている。

 

「肉め……私を無視するとはいい度胸だ」

 

「いや、無視されたのはこっち……ま、いいか……」

 

不快気に鼻を鳴らした夜空が、星奈のつけているヘッドフォンのジャックへと手を掛ける。

そこに来て初めて星奈は、夜空の接近に気がついたらしい。慌てた様子で夜空を止めに手をのばすが、それよりも早く、夜空の手がイヤホンジャックを引き抜いた。

 

『あっ、いや……だめぇっ!』

 

隣人部に響き渡る、女の嬌声。

小鷹は一瞬で事態を理解した。星奈の顔は羞恥で真っ赤になり、続いて『何するのよ!』と逆ギレ的に夜空へと食って掛かった。

夜空はあまりの事態に固まって、続いて顔を真っ赤にして、わたわたと何事かを言いかけて――三日月夜空のそんな姿が見れるのも隣人部だけ、という言葉が小鷹の脳裏をよぎった――咳払いと共に星奈を睨みつけた。

 

「なっ、何をやっている、この変態肉!神聖な部室で何と破廉恥な!」

 

「かっ、勘違いしないでよね! これは『聖剣のブラックスター』っていう、今一番話題の美少女ゲームで、愛と勇気の大冒険ファンタジーなの!

 これは、数多の苦難を乗り越え破壊神を倒した主人公のルーカスが、ヒロインの女騎士セシリアと、二人の愛を確かめ合う崇高なシーンな訳!」

 

決して、断じて、やらしいシーンでは無い。

結果として表現方法がそうなっているだけで、背景にある精神性、物語性はこの作品を何にも代えがたいものにしているのだ。

星奈の熱弁は続くが、夜空はそれらに聞く耳を持たないようだった。デスクトップに映る女の裸体と、それを組み敷く男の裸体は、青年期にある少年少女には些か刺激的なものである。

小鷹は気まずそうにただ、何も言わずにコーヒーを淹れにその場を離れた。

 

「黙れこの変態! 部室でよりにもよって……そ、そういう如何わしいゲームをする事自体が問題なのだ!

 この痴女!露出狂の色情魔!貴様など、肉からド変態肉に格下げだ!」

 

夜空のマシンガン詰問に、星奈の顔が羞恥で染まっていく。小鷹は心の目でそれを幻視した。

 

「そっ、そういうシーンがあるって知らなかったのよ!

 きらスクの後、ネットでオススメのゲームを探してたら『今一番アツいのはコレ』ってあったから、クラスの男子に言ったら……」

 

「ええい、変態の言い訳など聞きたくない! 寄るな、子供が出来る!」

 

「なんでゲームやってただけでそこまで言われなきゃ行けない訳!?

 確かにこのゲームには過激な表現が含まれるわ。でもそれは一部に過ぎないの!」

 

夜空の言葉に強く反論をしながら、星奈は尚も持論を展開していく。

確かに過激な表現が含まれるかも知れない。だがそれは、決してこの物語の重厚な――ある者は文学性と呼ぶ――物語それ自体を貶める物ではない、と。

 

「決してそこらの文学に劣らない、言わば芸術作品とでも呼ぶべき作品なのよ!」

 

小鷹は出来うる限りゆっくりとコーヒーのフィルタを入れ替える。

星奈の言い分はいくらか無理がある――とは小鷹も認識するところだった。

だが星奈が正しいにせよ、夜空が正しいにせよ、小鷹にこの話題が飛び火する事は避けたいところであった。

 

「いやらしいシーンを食い入るように見ていた癖に。

 素直に言ってしまえ――私は変態です、と!」

 

夜空も幾分か平常心を取り戻したのだろう、何時もの調子で以って星奈へと食って掛かる。

星奈はいくらか狼狽した様子で、だがしかし、決して逃げては成らぬとばかりに踏みとどまって、夜空に真っ向から対峙しているようだった。

 

「な……わ、私はただ、セシリアと仲良く成りたかっただけよ!

  私の想いはとってもピュアなの!こっ、このシーンだって全くこれっぽちもいかがわしくなんて――」

 

「――そっ、そんな如何わしい場面を見せるな! この変態!」

 

コーヒーメーカーの奏でる音に、小鷹は意識的に耳を傾ける。

 

「こんな素晴らしい芸術をいやらしい目でしか見られないなんて、可哀想にも程があるわ!」

 

「……ほう。だったら肉、そのシーンを声に出して読んでみろ」

 

「――えっ?」

 

空間に張られた蜘蛛の糸にかかった蝶々――小鷹の脳裏に、そんな例えが浮かび上がった。

静かに注がれたコーヒーの香りに、小鷹は小さく頷く。

 

「いかがわしくない芸術作品なら、全然恥ずかしく無いはずだ。そうだろう?」

 

「そ、そうよ!全くその通りよ!

 でも人前で文章を朗読するのは、ちょっと恥ずかしいっていうか……」

 

下手な逃げ口上だった。夜空がしめしめとばかりに嗤う顔が、小鷹には容易に想像出来る。

心のなかで、星奈に念仏を唱えた。ついでにこの先の展開から行けば、きっと、小鷹にとっては嬉しい展開になるだろうという予想もあった。

 

「だったら私も読んでやろう、貴様の言う芸術作品をな。私も朗読するから、お前も読んでみせろ。それとも何か――やっぱりそのゲームは芸術でも何でも無く、定価一万そこそこの慰みモノにしか過ぎないのか?」

 

安い挑発である。それでも星奈には効果抜群だった。

無理もない。きらスクが人生と言って憚らぬ彼女にとって、彼女が認めた作品を乏される事は我慢出来ないのだから。

 

「なっ……このゲームを……セシリアを侮辱するのは許さないわ!いいわ、そこまで言うならやってやろうじゃない!」

 

小鷹が静かに――極力、音も気配も立てないように――振り返った。

その先には顔を真っ赤に染めて、震える手でマウスを握っている星奈の姿。それを見つめる夜空も、心なしか頬が赤くなっている。

 

「……わ、私の……ない……ば……」

 

「もっと大きな声で!」

 

情け容赦のない夜空の叱咤に、星奈は吹っ切れたかのように声を上げる。

 

「わっ、私のイケナイ"バルニバル"を……貴方の大きく、くっ、黒光りした……聖剣で、貫いて……」

 

小鷹は静かに――足音を殺して――星奈の背後、夜空の更に後ろに立った。

胸が高鳴る、とはこの事だった。

 

「そんなにも俺の……せ、聖剣が欲しいのか……。セシリアは本当にっ、い、淫乱な雌豚だな……」

 

金髪の隙間から覗く星奈は、耳たぶまで羞恥で真っ赤に染めている。

夜空も何処か、食い入るようにして事態の推移を見守っていた。

小鷹もコーヒーのことなど頭から追い出して、次のテキストの表示をただ待つことにした。

 

「い、意地悪な事、言わないで……ルーカス」

 

もう殆ど泣きそうな調子で、星奈は一息に長台詞を読み上げる。

 

「も、物欲しそうな顔……しやがって……。ほ、ほら、雌豚。

 こいつが欲しかったら、もっと丁寧に、お、おねだりしてみろ……」

 

ラップトップに表示されているCG画面が切り替わる。

セシリアの羞恥に染まった顔。そして桜色した裸体。小鷹は思わず一歩身を乗り出しそうになった。

セシリアは、何を、どうしている?

 

「お願いします、ご主人様……! あ、貴方の聖剣を、やらしい私の……こっ、ここに……挿入して下さい……」

 

もしかしたら、もう一生、小鷹の人生の中では聞くことのないセリフかも知れなかった。

妙な後ろめたさに引かれて、小鷹は窓の外へと視線を移す。夕暮れ時の礼拝堂に、人が来ない事を祈る他は無かった。

 

「『ここ』では……分からん……な。正式名称を、い、言って……みろ……」

 

ドSなルーカスのセリフから一点。次のセリフを口に出せない星奈の背後から、夜空がすう、と近づいた。

実に楽しそうな顔をしていた。小鷹は静かに合掌する。内心で暴れだした心臓の音が、妙に煩い。

 

「――どうした。ほら、早く言ってみろ」

 

ドSな夜空のセリフに、星奈はわなわなと身体を震わせた。

ここで椅子を蹴り倒して逃げる事も出来たかも知れない。だが恥ずかしさと悔しさ、そしてこの状況への怒りが彼女を引かせなかった。

 

「ルーカス……わっ……わた、私の……いやらしい…………」

 

小鷹はついに一歩を踏み出した。

 

「いやらしい………お……お……ぁ……ぅ――――って言えるかァ!夜空のバカアホドジ間抜けぇ!」

 

木製のテーブルを叩き壊さんとした勢いで立ち上がった星奈はそのまま、泣き声と共に談話室を飛び出していった。

『こんな世界滅びてしまえばいいんだ』と叫びながら、そのまま全力で礼拝堂から走り去っていく星奈の影が、談話室のカーテン越しに伺えた。

可哀想だった。

 

「夜空。流石に今回はやり過ぎたんじゃないか……?」

 

積極的に止めに入らなかった己を棚に上げて、小鷹は苦い顔でそう苦言を呈する。

対する夜空は気にした様子も無く、淡々と鞄の中からレコーダーを取り出した。

 

「ところで、今の肉の朗読をこっそり録音したんだが。これ、オークションに出したら売れると思うか?」

 

「――悪魔だ……」

 

夜空は『冗談だ』と言わんばかりに嗤うと――傍らの小鷹には、全く冗談には思えなかったのだが――改めて、鞄から一冊の本を取り出した。

真白いブックカバーを掛けている所を見れば、夜空の私物なのだろう。

 

「それは?」

 

小鷹の問いかけに、夜空はぱらぱらとページをめくりながら答えた。

 

「……私も芸術作品を朗読すると言ったからな」

 

 

 ――汚れっちまった悲しみに

   今日も小雪の降りかかる

   汚れっちまった悲しみに

   今日も風さえ吹きすぎる

 

「……なすところもなく日が暮れちまったな――」

 

中原中也、山羊の歌。

蓋し、日本を代表する芸術作品であった。

 

 

*

 

 

「クックックッ……漸く我許へと姿を表したか、下僕よ……」

 

すっかり辺りが暗くなった時分になって漸く、買い物袋を手に自宅へ帰宅した小鷹を待ち構えていたのは、彼の妹でもある羽瀬川小鳩だった。

長く伸びた、小鷹と同じ黄金色のシルクの髪。見る者を引き込むような大きなブルーグリーンの瞳と、それに対になるかのようなスカーレットの瞳。

ゴスロリちっくな衣装に加え、お気に入りのウサギのぬいぐるみ――継ぎ接ぎされた不気味なウサギだ――を抱えている姿は、その言動を除けばティーン誌の表紙を飾れそうな程だ。

彼の妹たる小鳩もまた、母譲りの美しい容姿を余す所なく受け継いだ――ついでに邪気眼的な要素も同じく――美しき少女である。ちなみに片方の瞳はカラコンを入れている。

そんな妹の姿を一瞥した小鷹は、だがしかし、事もなさ気に小鳩へと買い物袋を見せつけるように掲げた。

 

「遅くなって悪かったな、小鳩。

 今日のご飯はすき焼きだぞ。支度するから、手伝いしてくれ」

 

「えっ、すき焼き――じゃない。さ、流石は我が半身、よく弁えているようだな……」

 

好物である肉料理が出た事に一瞬満面の笑みを形作った小鳩だったが、思い出したかのように咳払いを一つすると、やや頬を赤くして小鷹へと突っ掛かり始めた。

小鳩が長く幼少期を過ごした九州の面影が色濃く残る口調で――こうなった時は、素の小鳩自身が表に出ていることの現れだが――頬を膨らませる妹に、小鷹は取り合う事無くその背中を洗面所へと押してやる。

小鷹とて、妹の邪気眼的言動に、一抹の不安を覚えない訳ではない。『鉄の死霊術師』と言うアニメに、彼女がどっぷりハマっている事も知っている。

だが、小鳩とて現実と空想の区別が付かぬ程に幼稚では無い。小鷹からすれば――贔屓目もあるが――小鳩は十二分に優秀な成績を収めているし、彼女自身が『役に成り切っている』事もきちんと認識している。

中学生の頃にかかる、麻疹のようなものだ。きっとそう。将来、あの時を思い出して枕に顔をうずめて叫びたくなる程度の。小鷹はそう納得していた。

 

「さ、手を洗うぞ」

 

ほらほら、と催促する兄の姿に、小鳩は諦め顔で踵を返し洗面所へと向かっていく。

 

「小鳩、ちゃんと爪の間も洗うんだぞ」

 

「クックックッ……小鳩とは仮の名に過ぎぬ……

 我が名はレイシス・ヴィ・フェリシティ・煌――我を凡庸な人間共と一緒にするとは……笑止」

 

「――小鳩?」

 

鋭く光った小鷹の眼光に、小鳩は『うぐ』と言葉を詰まらせる。

 

「……うぅう、あんちゃんノリ悪いけん……」

 

しぶしぶ、と言った調子の小鳩に続いて、小鷹は手早く手を洗う。

指の間、爪、手首、流水でしっかりと石鹸を洗い流し、清潔なタオルで手を拭った。

 

「ハサミ使って、しらたきの袋開けといてくれー!」

 

「はーい」

 

先んじてキッチンへ立つ小鳩へと、小鷹は声を投げる。

それに応えて、小鳩も冷蔵庫に仕舞われたしたらきの袋を手にすると、汁を抜くべくハサミを取り出す。

小鳩が中等部に上がると同時に、小鷹は、しばしばこうして小鳩に晩御飯の支度を手伝わせていた。

小鳩が少しでも家事に興味を持ってくれる事。そして、料理に少しでも親しみを持って欲しいという小鷹の親心故である。

手先自体は器用な小鳩の事である。今ではちょっとした料理くらいであれば、少々危なっかしい手つきではあるものの、指示を待たずとも難なく調理出来るようになってきた。

 

「小鳩、そのまましらたき切っておいてくれ」

 

「はあい……」

 

ぶつぶつと文句を言う小鳩を視界に入れつつ、小鷹は危なげない手つきで玉ねぎをスライスしていく。

次いで白ネギ、エノキ、菊菜、豆腐。次々に切り揃う具材からは、小鷹がこの手の作業に慣れている事を伺わせる。

冷蔵した牛脂を適量、熱したすき焼き用鍋へと投入していく。続いてネギを入れて香りを立たせると、牛肉を投入していく。

さっと火が回ったのを確認すると、醤油にみりん、砂糖と適量の水を投入し、切り揃えた具材を次々と放り込んでいく。

手間暇の割にボリュームがあり、何よりご飯が進む。食べ盛りの二人にとっては、すき焼きはコストパフォーマンスに優れた料理なのである。

 

「よし、小鳩はテーブル綺麗にしておいてくれ」

 

「うぅ……あんちゃん、妹使いが荒いけん……じゃなかった。

 に、人間の分際で我を顎で使おうとは…………」

 

項垂れながらも台拭きを手にしながら、小鳩はいそいそとテーブルを水拭きして行く。

 

「ん……後はちょっと煮込めばオーケー、かな」

 

その隙にサラダを盛り付ける。レタス、プチトマトを軽く流水で洗い、オリーブオイル・ソースを回しかけるだけ。

別湯でしておいたゆでたまごを添える辺り、芸の細かい男である。木製の器もまた、優しげで健康的な印象を与えてくれる。

 

「ん……お皿運んでくれるのか。ありがと、小鳩」

 

キッチンに立つ小鷹の裾を引く小鳩に、小鷹は棚から取り皿を下ろす。

小鳩の視線はテーブルと、コンロにかけられているすき焼き鍋とを行ったり来たりしている。

余程お腹が空いているのだろう。分かりやすい反応に、小鷹はつい、笑みをこぼした。

 

「そろそろ食べようか」

 

「待ち侘びたぞ、我が半身よ……ククク……」

 

鍋敷きにすき焼き鍋を乗せ、生卵を用意する。すき焼き鍋を囲っての、家族水入らず――羽瀬川家は現在、二人暮らしだが――の時間だ。

小鳩は何時の間にかワイングラスとトマトジュースを用意している。最近の小鳩のトレンドだった。

 

「ふっ……やはり処女の生き血は格別だな……」

 

恐らくきっと、小鳩自身、言葉の意味を理解しては居ない。小鷹はそう信じていた。

まだティーンエージャーに片足を突っ込んだばかりの妹なのだ。アダルティな話題をするにはまだ早いのである。

すき焼きの方も、良い具合に煮えている。牛ロースにネギ、焼き豆腐。春菊にしらたき。生卵にからめて食べるもよし、そのまま、白米の上に乗せて食べるもよし。

 

「小鳩、ご飯要るか?」

 

無言の首肯に、小ぶりの茶碗一杯によそられた白米が差し出された。湯気が立ち上ると、炊きたてのお米の香りが鼻腔を擽る。

卵と牛ロース、甘辛のタレが絡んだ絶品の味わい。そこに白米が入る事により生まれる、何とも言えぬ食欲増進効果。

無我夢中で肉を取り米を書き込む小鳩の姿を、小鷹は微笑ましそうな表情で見ていたが、しかし、ふと思い立ったかのように彼女を制した。

 

「小鳩。お肉ばっかりじゃなくて、玉ねぎも食べること」

 

「えぇ……」

 

心底嫌そうな顔で、小鳩は差し出された箸に摘まれた玉ねぎを凝視している。

余程食べたくないのだろう。形の良い眉を寄せて、小鳩は拒否を示していた。

 

「辛くないから、大丈夫」

 

「うー……」

 

渋々、と言った調子で、小鳩は小さな口を開く。その様子は、まるで注射が嫌で仕方がない乳幼児のようなリアクションである。

まだまだ子供なのだ、我が妹は。小鷹は小鳩へ肉と春菊、ネギ、豆腐、そして玉ねぎを入れた器を差し出した。

甘辛く仕上げたタレが絡んだ春菊、そしてネギ。柔らかな牛ロースと卵のコラボレーション。玉ねぎもまた、変わり種ではあるが味に深みを与えている。

 

「あんちゃん、また玉ねぎ……」

 

「甘かっただろ?」

 

「うぅ……我を謀るか、無礼者……」

 

頬を膨らませる妹の可愛らしい仕草に、兄である小鷹は思わず笑い声をあげてしまう。

からかわれた事に大して小鳩は頬を僅かに赤くすると、強がりなのか、サラダの器へ威勢よく箸を付け始める。

レタスにトマトを一息に口の中に押し込むと、それを流し込むかのようにすき焼きを放り込む。

 

「こらこら、一気に食べたら駄目だぞ」

 

小鳩は小さな口を一杯にしながら、涙目になって咀嚼している。

その様子に微笑ましいものを感じながら、小鷹は自身もサラダを手にとった。レタスのシャッキリとした食感を楽しみながら、小鷹はここ数日の出来事をぼんやりと思い返していた。

ここ最近では、隣人部の活動を優先していた事もあって簡単な料理で夕御飯を済ませることが多く、それを考えれば、今日のすき焼きは久しぶりのご馳走であり団欒の時間でもあった。

 

「ところで……我が半身よ。最近、我への供物を捧げる時間が……その、遅いのではないか?」

 

先日の『きらスク』事件の際にも酷く機嫌を損ねていた妹の姿を思い出し、小鷹はやや恥じ入るような表情を作った。

 

「……そうだな。部活があってなかなか……悪いと思ってる」

 

「むぅ……全く、我と部活とやら、どちらが大切なのだ……」

 

尚も不満気な小鳩の仕草は、寂しさの裏返しの現れでもある。

幼さの残る面影からも伺える様に、彼女はまだ中等部の二年生なのだ。

強烈な自我に目覚める年頃とは言えども、まだまだ甘えたいざかりの年代。

彼自身が思うよりも遥かに、寂しい想いをさせている――この事に、小鷹は今度こそ恥じ入った。

 

「ごめんな、そんなこと言わせて」

 

「むー……」

 

問題の本質に触れず巧く話を逸らした――結果的に、ではあったが―兄に対して、小鳩は無言の抗議を飛ばしていく。

兄である小鷹は、その妹である小鳩にとって実際、ただの兄では無かった。元々、二人の母であるアイリが此の世を去ったのは、小鳩がまだ幼い頃の話である。

それきり父の都合で、各地を転々とする根無し草生活が長かった彼女にとっては、仕事で多忙な父に代わって一切を引き受けていたのが兄である小鷹であった。

頭を撫ぜる、兄の大きな掌の感触。それは小鳩にとって慣れ親しんだ、温かみを感じさせるものであった。

彼女とて、兄である小鷹の学園生活が充実する事に対して、文句を述べている訳ではない。寧ろ好ましい事だと、頭の中ではわかっているのだ。

しかしそれでも――それでも、彼女にとっての大好きな兄が、件の『隣人部』に取られてしまうような気がして。

 

「や、やめ……」

 

首をもたげ始めた幼子染みた羞恥心に、小鳩の頬が俄に赤く染まる。

甘えたいざかりの年頃の妹を、兄として、そして父代わりに見守ってきた小鷹としては、そのような仕草もまた可愛らしいものであった。

小鷹はついつい、いい具合に煮えたロース肉を小鳩の取り皿に入れていく。

 

「さ、どんどん食べて大きくなれよ」

 

小鷹の浮かべる余裕の笑みに、小鳩の羞恥心は更に掻き立てられた。

まるきりの子供扱いをされたのだ。誤魔化しだった。この一万年の時を生きる夜の血族――という設定である――レイシス・ヴィ・フェリシティ・煌を。

 

「……あんちゃんの阿呆」

 

「ん?」

 

兄の爽やかな笑みに、妹はついぞ文句を二度口にする事は出来なかった。

 

「なんでもない……トマトジュース――じゃない、生き血が無くなったけん……」

 

「ああ。明日買ってくるよ――ふう、ご馳走様。

 小鳩も食べ終わったら持ってきてくれ」

 

てきぱきと食器を片付けていく兄の姿を眺めながら、小鳩は鍋へ残るロースへと手を伸ばした。

キッチンに立つ兄は比較的上機嫌の様子で、皿や食器を片付けていく。ダイニングテーブルに座る小鳩には、兄の大きな背中が見えていた。

 

「はあい……」

 

牛肉と黄身、そして白米の味を堪能してから、小鳩はそう返事をした。

リビングへと目を向ければ、緑色をしたソファの向こう、テレビから流れるニュースが目に入る。

どれも小鳩の――遊びたい盛りの彼女の興味を惹く話題は無い。

 

「……ご馳走様」

 

ありったけの肉を何時の間にか食べ尽くした事に、やや残念そうな顔で小鳩は手を合わせる。

きちんと挨拶が出来るのは、彼女が良い教えを受けているからだ。勿論、彼女自身の性根が善良だということもあるだろう。

 

「ご苦労だったな……我が半身よ」

 

食器を差し出しながら、小鳩は傲岸不遜にもそう言ってのけた。

 

「良く出来ました」

 

「わっ、我を子供扱いするな!我は一万年の時を生きる真祖で……!」

 

「はいはい」

 

「むー!」

 

むくれてリビングへ向かう小鳩を見て思わず、小鷹は小さく笑い声をあげる。

少しばかりおふざけが過ぎた事を反省しつつ、手早く、食器を洗い始めるのだった。

 


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