彼は(完璧すぎて)友達が居ない   作:ソーダ水一号

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水着回です。星奈メイン。
どうすればもっと臨場感あふれた表現が出来るのか…。


06 : 市民プールはフラグがない そのに

 隣人部の部室へ足を踏み入れた小鷹を待っていたのは、相も変わらず、テレビに向かって座り込んでいる星奈の姿であった。

此処数日ですっかりお馴染みとなった光景に、小鷹は人間の順応性に対する驚きを感じてしまう。

何ともなしに星奈が小鷹を振り返る。真白い彼女のうなじが、小鷹の視界に入った閉ざされたカーテンに良く映えるようだった。

 

「おはよ。あれ、ねえ、今日は夜空来てないの?」

 

「ああ。何でも欲しい本の発売日なんだと」

 

「ふぅん。あの性悪女狐が居ないんなら、清々しくゲームが出来そうね」

 

そう一つ笑うと、星奈は再度テレビ画面へと向き直った。

画面に映るのは海の絵。そしてオレンジ色の水着を身に纏ったキャラクターの立ち絵。

どうやらまたギャルゲーをプレイしているらしい。エロゲで無いだけマシか――小鷹はソファに腰掛けると、ふう、と大きな溜息を吐いた。

 

「……ねえ。小鷹ってさ……その、泳げる?」

 

「ん……まあ、それなりには泳げると思うぞ」

 

些か唐突な星奈の問いかけに、小鷹は深く考えず素直に答えた。

九州に居た頃には、よく妹である小鳩にせがまれて海を泳いだ経験がある。

水泳のプロとまでは行かないにせよ、それなりに泳げるという自負はあった。

 

「それじゃあさ、私に泳ぎ方教えてくれない?」

 

星奈はコントローラーを床に放り投げると、ソファに腰掛ける小鷹へと詰め寄った。

小鷹の眼の前には、星奈の主張の激しい胸元がドアップで映しだされる。小鷹はそっと視線を泳がせた。

 

「まあ、構わないけど……星奈、もしかして泳いだこと無いの?」

 

「そ、そうよ……悪い? 小学校からずっと、水泳の授業なんて無かったのよ」

 

聖クロニカ学園にも、水泳の授業は無かった。

星奈の水着姿はさぞ目に毒だろう。特に思春期の男子にとっては。それを鑑みれば、水泳が無いのはある意味で有り難い事なのかも知れなかった。

 

「そっか。別に泳ぎを教えるのは構わないけど――なんだって急に?」

 

尤もな小鷹の疑問にも、星奈は怪訝そうな顔で答えて見せた。

 

「そんなことも分からないの?

 もし万が一でも夏美に――友達にプールに誘われた時、泳げない、なんて恥ずかしいじゃない」

 

友達作りの予行演習、市民プール編。そう考えれば『隣人部』の活動としても相応しい。

 

「そういうことなら。何時行くんだ?」

 

「それじゃあ明後日の日曜に、竜宮ランドね。

 それと――夜空には私が泳げないって事、絶対に秘密だから」

 

妙に夜空をライバル視している星奈の事だ。もし、夜空が泳げて、自分が泳げないとなった時を想像しているのだろう。

だからこそ先んじて練習を重ねたいとする、彼女の気持ちは小鷹にも理解できる。

小さく笑って頷いた小鷹に、星奈は不服そうな顔をしていた。

 

「それじゃあ私、今日は帰るわ。

 明日は用事――買い物があるから、こっち来ないって夜空に言っといて」

 

星奈はそう言うや否や手早く荷物をまとめ、きっちりセーブを残した後、早々に談話室を後にした。

 

「……日曜か」

 

洗濯・掃除に割り当てる筈の休日、その予定を頭の中で組み替えて行く。

星奈も、夜空も居ない隣人部の談話室は酷く静かで、人気のない外から時折聞こえる誰かの足音だけが響いていた。

夜空は無事、新刊を手に入れられたのだろうか。詮無いことをぼんやりと考えながら、小鷹はソファに深く腰掛けた。

 

 

*

 

 

 あくる日の日曜日の午前中から、小鷹は駅前のバス停へと急いでいた。

聖クロニカ学園へ移ってから初めての――それ以前の高校生活を含めても、片手で数えるに足る程度の――友人との待ち合わせである。

自然と心は弾み、顔は笑みを形どっていく。道行く数名が、その子供のような無邪気な笑みに心を撃ちぬかれていたが、それはさておき。

 

(時間は――まだ平気、か)

 

腕時計に目を走らせれば、星奈との待ち合わせ時刻にはまだ余裕がある。

肩に下げた鞄をしっかりと担ぎ直しながら、小鷹は一昨日に交わした夜空との会話を思い出していた。

特筆する事のない、他愛ない会話だった。夜空は購入した新刊を読むのに夢中だった事もあってか、特段、彼女が隣人部を欠席した日の事を問われる事は無かった。

そうした事もあってか、小鷹は終ぞ――星奈の言う通り――星奈と二人でプールに行く事に関して、ヒトコトも触れることはなかった。

当たり障りなく、昨日買った本の話や、今後の隣人部の活動内容等について少しだけ会話を交わしただけだ。

夜空と市民プールはあまり結びつくものでは無かったし、そもそも夜空に必ず伝えなければならない決まりごとが在るわけでも無い。

それでも、まるで夜空を除け者にしたかのような振る舞いが、小鷹に一抹の罪悪感を感じさせていた。

 

「星奈が泳げるようになったら、夜空も誘おう。うん」

 

詮ない言い訳を口にした小鷹の先には、既に停車しているバスと、その前で待つ星奈の姿があった。

色合いの鮮やかなフリルで構成されたワンピース・ドレスの上に、薄手の水色をしたカーディガン。

胸元のワインレッド色が、星奈の肌色と良く映えている。率直な感想を述べれば、可愛らしい、と称するべきだろう。

 

「遅いわよ」

 

約束の時刻まで十分程早く来た小鷹を、星奈が不満気に出迎えた。

ジーンズにシャツというラフな出で立ちにも関わらず、小鷹の格好は堂に入ったものである。

星奈からすれば、かっちりと制服を着ている姿が何時もの羽瀬川小鷹の出で立ちなのであり、私服姿とのギャップがまた、彼女に新鮮な驚きを与えていた。

日本人離れした腰の位置や、程よく引き締まった二の腕や胸板を見て、星奈は俄に視線を彷徨わせる。

 

「悪い。何時から居たんだ?」

 

「十分前くらい」

 

星奈は腕を組みながら、小鷹の顔を見遣る。それは何処か、夜空らしい行動だと小鷹は感じた。

 

「待たせちゃったな」

 

小鷹が時計に目を落とせば、時刻は待ち合わせ時刻の10時やや前であったが、しかし、男として小鷹は素直に頭を下げる。

女性を待たせるとはジェントルマンシップに悖る行為だ、そう思ったからだった。

尤も、小鷹がそうした紳士的心がけを実践したのは――悲しい事に――今回が初めてであったのだが。

 

「ま、いいわ。時間には間に合ったし……早く行きましょ」

 

踵を返し早々にバスへと乗り込んだ星奈を追い掛け、小鷹もバスへ乗り込む。

他の乗客は疎らに幾つか席に座っているだけで、お世辞にも多いとは言えそうにない。どうやらプールが満員という事は無さそうだと、小鷹は内心で安堵した。

ただでさえ少ない乗客を避ける様に、星奈と小鷹の二人は後部座席へと腰掛ける。二人が並ぶ一角は、傍目からすれば美男美女カップルの居る特別席のような印象だった。

 

「ところで、小鷹ってどこで泳ぎを覚えた訳?」

 

「ん……前は九州の方に居てさ。海が近かったから、そこで、かな」

 

緩やかにバスが動き出したのを切欠にした星奈の問い掛けに、小鷹は僅かな逡巡の後に答えた。

 

「小中の時に水泳の授業も在ったし、何より海でしょっちゅう泳いでたから」

 

「そういえば、小鷹って編入生だったのよね……」

 

九州の海と小鷹の取り合わせが想像出来ない――その星奈の言葉に、小鷹は俄に苦笑混じりで頷いた。

向こうに居た時も、しょっちゅう誰かに絡まれたり声を掛けられたりと、忙しかった覚えがある。

 

「そういう訳だから、まあ、人並みには泳げる筈だ。

 尤も、実は妹――小鳩の方が泳ぎは上手なんだけど」

 

「そういえば妹が居るんだっけ。

 小鳩ちゃんかあ……泳ぎも上手で可愛いなんて、反則よね……会ってみたいなあ」

 

何処か自慢気な小鷹に、星奈は恍惚そうな表情を浮かべる。

星奈は小鳩と面識は無い。従って顔も知らない筈なのだが――小鷹の疑念を余所にして、星奈は『とにかく』と小さく咳払いを一つした。

 

「竜宮ランドには波の出るプールもあるって言うし、楽しみね」

 

些か興奮した面持ちで、星奈は薄く笑みを浮かべている。

 

「まだ泳げもしない内から、気が早いな」

 

小鷹のからかうような口調に、星奈は俄に頬を膨らませた。

 

「ふんっ、何よそれ。この私にかかれば、泳ぎなんてあっという間に覚えられるわ」

 

ギャルゲーと同じよ、と息巻く星奈に、小鷹は苦笑交じりに頷きを返す。

これまで一度も水泳の経験がない人間でも、飲み込みが早ければ午前中に泳げるようになるかも知れない。

夜空曰く『勉強も運動も出来るいけ好かない奴』である星奈のスペックならば、もしかしたらね、と小鷹は前置きする。

 

「それでも水泳は一歩間違えれば命の危険があるから。

 疲れで足を攣ったりしないよう、ゆっくりやろう」

 

「分かったわ。小鷹……小鷹センセ?」

 

星奈の発言に、小鷹は肩をがくりと落とした。

 

「センセイって何だよ、止めてくれ」

 

「小鷹コーチの方が良かったかしら?」

 

何処と無く危ない雰囲気を感じて、小鷹は何方の呼び方をも禁止した。

まるで何かイケナイレッスンをするようじゃないか。そういうふしだらは許したらいけない。バレれば後で何を言われる事か。

今日は居ない筈の第三者の声に、小鷹は身を僅かに震わせた。

 

「それより小鷹。今日の事、夜空の奴には内緒にしてるんでしょうね?」

 

唐突な星奈の言葉に、小鷹は静かに頷いた。先程感じていた夜空への罪悪感がまた、彼の中で首をもたげる。

 

「あ、ああ。夜空には今日のこと、言ってないよ」

 

「ならいいのよ。ふふふ……今度隣人部でプールに行った時、華麗に泳ぐ私の姿を夜空に魅せつけてアイツを仰天させてやるんだから……!」

 

夜空が泳げなければ良し。泳げれば競争して打ち負かしてやる――当初の目的からすっかり形を変えては居たが、星奈のモチベーションは最高潮のようだった。

妙な対抗心を燃やす星奈の姿を横目にして、小鷹はバスから伝わる振動に身を委ねる。

夜空が泳げるか否かを、小鷹は知る由もない。ただ何となく夜空は、泳げはするが水泳は嫌いだろうな、と小鷹は感じていた。

隣人部での付き合いを通じて、夜空は余り肌を晒すような格好をしたがらない、という事に小鷹は気づいていた。より言えば、服装に関してはやや保守的な様な気がするのだ。

星奈が時折持ち込むファッション誌も、夜空自身は余りいい顔をしては居なかった。

尤も、偶然夜空がファッション誌を見ている所を目撃した時の、その夜空の恥ずかしそうな顔が印象に残っていた。

 

「…………何ニヤけてんの?」

 

自然と綻んだ小鷹の顔を見咎めたのだろう、隣からの冷たい視線に小鷹は思わず頭を振って反論する。

 

「いや、何でもない」

 

「ふん。どうだか。どうせやらしい事でも考えてたんでしょ。 

 あ、もしかして、私と夜空の水着姿を想像して……!?」

 

本格的に後ずさり始めた星奈に、小鷹は出来る限りにこやかな顔を作って言った。

 

「ああ。さぞ綺麗だろうなと思って」

 

「っ……ホント、そういう事平気で言うって……この変態」

 

小鷹のささやかな逆撃に、星奈は僅かに頬を染め、だが唇を尖らせてそっぽを向いてしまう。

平然と、軽い調子での小鷹の発言。そして、小鷹の意図を知りながらも――僅かばかりあっても、動揺してしまった自らへの怒りを含めた言葉だった。

すっかり機嫌を損ねた様子の星奈に、小鷹は慌てたように言葉を重ねる。だがそれらを一顧だにしない星奈に、小鷹は困り果ててしまった。

 

「悪かったよ、星奈」

 

「……」

 

小鷹の謝罪にも、星奈は彼の方を振り向きもしなかった。

停留所に泊まったバスが扉を開ける音がする。疎らだったバスに一人、二人と乗客が増える中で、星奈は車窓から流れる景色をぼんやりと見つめているフリをしていた。

知らぬ間に、バスは駅前から市街地を抜けて、最中目的地である市民プール『竜宮ランド』へと到着しようとしている。

 

「分かった。悪かった、次から気をつける。もう言わない。

 なんだったら、昼ごはんをご馳走するから」

 

心なしか口数の多い小鷹に、星奈は一つ、はあ、と溜息を零した。

『口数の多い男は信用するな』――柏崎の家に仕える家令であり、彼女にとって姉のような存在であるステラから聞いた言葉が、星奈の脳裏に浮かび上がる。

 

「……星奈?」

 

「はいはい。ま、その殊勝な態度に免じて、お昼だけで許してあげる」

 

身体に残った熱が逃げていくのを感じながら、星奈は――彼女が出来うる限り――傲岸不遜な顔を作った。

小鷹もそれに安心する所があったのだろう。『分かった』と頷くと、小さく安堵の溜息を吐く。

 

『長らくのご乗車、有難う御座いました。次は、竜宮ランド前。竜宮ランド前――』

 

バスに流れたアナウンスに、小鷹は顔をあげ、フロントガラスに映る景色へと目を向けた。

開かれ整備された道の向こうには、市営のものにしては立派な構えの施設が鎮座している。

遠巻きに見えたバス停には時刻もあってか人は居らず、何処と無く、夏の日の物寂しさを演出しているようだった。

 

「……なんだか、あんまり人が居ないみたいだな」

 

小鷹の呟きを拾って、星奈が続けた。

 

「ああ……ま、泳ぎの練習をするんだし、そっちの方が好都合じゃない?」

 

「それはまあ……そうだけど」

 

「ほら、もう着くんだし、早く行きましょ」

 

星奈がせっかちにも立ち上がるか否かの所で、バスは微かなブレーキ音と共に竜宮ランド前へと停車した。

星奈に押し出されるようにして、小鷹はバスから降り立つ。バス停に設置された雨よけの影と、それ以外の眩ゆいばかりの日差しとの明暗がやや眩しく映った。

 

「何してんのよ、早く来なさい」

 

ぼんやりと立ち尽くしている小鷹を怪訝な表情で見遣る星奈に、小鷹が小声で毒づいた。

 

「……プールが楽しみで仕方がない子供みたいだ」

 

「誰が子供だって!?」

 

「……今行きます」

 

小鷹は小走りで星奈に追い付くと、すぐさま、エントランス前にある券売所で手早くチケットを購入する。

二人前をしっかりと買わされた小鷹だったが、中に入るや否やで星奈は財布から二千円を取り出すと、小鷹へと押し付けるようにして手渡した。

 

「別にアンタに奢って貰う程、困ってないわよ。

 それじゃ、更衣室から出たトコで待ってて」

 

もう待ちきれないと言わんばかりに、星奈は小走りで更衣室へと消えていく。

それをぼんやりと眺めながら、小鷹は己の財布に先程の二千円を突っ込んだ。

 

 

 全天候型の市民プールには、小鷹が物寂しさを覚える程に人の姿が無かった。

もう夏も近く――夏本番からは遠いにせよ――プール開きを始めるには絶好の時期である。

更衣室前で星奈を待つ小鷹は、興味深そうに視線を彷徨わせる。

椰子の木やハイビスカス等、南国調の赴きを取り入れた店構え。広々とした遊泳用の流れるプールや波の出るプール、競技用にも使用されているであろう二十五メートルプール。

市営のプールにしては豪華、と呼んで差し支えない程に充実している。

敷地も非常に広々としていて、客入りの具合によっては殆ど貸し切りに近い状態と言えた。

 

「……おまたせ」

 

すっかり耳慣れた星奈の声に小鷹が振り向けば、そこには、青いビキニの水着に身を包んだ肉――もとい、星奈の姿があった。

パーカーこそ羽織ってはいるものの、隠し切れない豊満な肉体美は、思春期の青少年には刺激的に過ぎた。

白い肌。太腿に微かに食い込むビキニ。柔らかそうな、だが女性らしいスタイルを保った腰。はっきりと見て分かる胸元の谷間。揺れている。何故――小鷹はそこで一切の観察を打ち切った。

小鷹は瞳を閉じた。理性が悲鳴をあげはじめたからである。

 

「――――アリガトウゴザイマス」

 

「は……?」

 

怪訝そうな星奈の表情を横目に、小鷹は至極普通の表情を装う。

 

「なんでもない。とりあえずは――水に慣れる所から、だな」

 

小鷹は颯爽とプールサイドを歩き始める。疑わしそうな顔を貼り付けながらも、星奈がその後に続いた。

周囲から見れば、金髪碧眼の美男美女カップルが――西洋人かと見紛う形だ――仲睦ましい雰囲気で居るように映るのであって、従って、少なくない人々からの好奇の目を受けてしまうだろう。

プールの経営状態は悪化の一途であろうが、しかし、人が少ない事を小鷹は内心で感謝していた。

 

「足とか良く伸ばしておいた方がいいぞ」

 

軽い準備体操代わりのストレッチを行うと、小鷹は勢い良くプールへと飛び込んだ。

久々に触れる水の感触に、小鷹は思わず身震いする。体中にまとわり付く塩素混じりの水は、小学校、中学校の頃を否応なしに小鷹に思い出させるのだった。

 

「手、貸そうか?」

 

「平気よ、これくらい。自分で入るわ」

 

手を差し伸べた小鷹を尻目にして、星奈はステンレスの梯子へと手を掛けた。

小鷹に背を向ける形になった星奈の、その形の良いヒップが視界へと飛び込んでくる。丁度、小鷹が星奈のおしりを見上げる形だ。

 

(これは……っ……)

 

小鷹は思わず、殆ど反射的に目をそらした。青い水着と白い肌のコントラストが小鷹を揺さぶってくるようだった。

ハイビジョンより高画質な己の瞳に映った光景を何とか頭から追い出すように、小鷹は前髪をぐいと持ち上げる。

 

「――よし、そしたら、まずは水中で目を開ける所からやろう」

 

「馬鹿にしないでよね! それくらい楽勝なんだからっ……」

 

水をかき分けて小鷹の前に立った星奈は、言うや否や、水中に勢い良く潜っていった。

後を追った小鷹が目を開けば、そこには彼と同じ青い瞳を水中で開く星奈の姿がある。どうやら水に対する恐怖心は無さそうだ、と小鷹は安堵した。

もし恐怖心から取り除かなければいけないのなら、相応の時間をかける必要があったからだ。

 

「ぷはっ……! よし、合格。それならバタ足から練習だ。

 手を出して、ゆっくり身体を水に預けるようにして……」

 

小鷹の言に頷いた星奈が言われるがまま、小鷹の差し出した両手を取って、その足をゆっくりとプールの底から離していった。

ふわり、とまるで無重力状態になったようにして、星奈の身体が水面へと浮上していく。

水に濡れた星奈の金色の髪が妙に艶かしい。胸元にまで貼りついたその毛先から視線を引き剥がして、小鷹は小さな咳払いを一つ。

 

「足首だけを上下に……そうそう。

 身体はまっすぐ、力を出来るだけ抜いて」

 

「こ……こんな感じ……?」

 

たどたどしい星奈の動きに、小鷹はゆっくりと頷いた。

そのまま少しずつ、プールの中を後ろ向きで歩いて行く。星奈に泳ぎの感覚を教える為である。

 

「息継ぎは時折、水面に顎を付けるくらいでいいから――そう、あんまり思い切り上体を仰け反らせると、逆に沈んじゃうからな」

 

矢継ぎ早に飛ぶ小鷹に指示にも、星奈はこれといって不満を述べる事は無い。

それどころか、星奈は真綿で水を吸うようにして小鷹の教えをモノにしていく。これには小鷹も驚愕した。

夜空が嫉妬混じりに言うのも頷ける――物は試しと小鷹がゆっくりと手を離すと、そのまま、星奈は何事も無かったかのようにバタ足で前へと進んでいった。

 

「ぷはっ! はあ……案外泳ぐのって簡単ね」

 

息を整えた星奈が、再度、二十五メートルプールの向こう側へと向けて泳いでいく。

その動作は淀みなく、危なげがない。小鷹が並走して後を追うが、この調子であれば、バタ足はあっという間に習得してしまうだろう。

 

「バタ足は楽勝だな。それなら次は、クロールでも覚えてみるか」

 

「クロールって……あの腕をぐるぐる回す奴?」

 

「まあ、大雑把に言えばそう、なるのか?

 バタ足をしたままで、腕をこう伸ばし、水中で八の字を掻くように――」

 

教えがいのある生徒を持つと、教師役というのは楽しくなるものだ。

ご多分に漏れず、小鷹は次々と泳ぎのノウハウを星奈に教授していった。

星奈は飲み込みが早いもので、一時間も練習した後は、危なげなく二十五メートルをクロールで泳げるようになっていた。

流石に、競争では小鷹の方が早いものの、それでも、つい先程まで全く泳げなかったというのが信じがたい程に、星奈の水泳スキルは上達を見せている。

 

「星奈ってホント、物覚えが早いんだな」

 

「ま、当然って事よね。この私にかかれば、水泳なんてお茶の子さいさい……」

 

珍しく含みの無い賞賛に、星奈がやや照れたように返す。

お茶の子さいさいはやや古いだろうとは言わず、小鷹は素直に星奈を褒めそやした。

折角勢いに乗っているのだ。このペースを崩したくは無い。

 

「ねえ小鷹。とりあえず、一旦休憩しない?」

 

「ん――そう、だな。一時間半くらいはぶっ続けで練習してたし、休むか」

 

肩で息をする星奈に、小鷹は素直に賛同する。

小鷹の体力と星奈の体力とでは、やはり基礎部分に違いがある。教えていた小鷹でさえ、水中から上がると酷く身体が重く感じられた。

案の定、星奈は手すりを酷く重たそうに登って来る。地上の重力が普段どれ程負担を与えているのか、改めて分からされる瞬間だ。

 

「う……水からあがると、こんなに身体が重いのね……」

 

「丁度いいし、お昼にしよう。はい、タオルとパーカー」

 

「ん……ありがと」

 

星奈が、濡れた身体にタオルを当てていく。柔らかな肉が揺れる度に、小鷹は心のなかでカウントを刻んでいった。

おもちが一つ。おもちが二つ。おもちが三つ。小鷹は人知れず、今日と言う日に感謝を捧げたくなる。尤も、それを顔に出す事は無かったのだが。

 

「ふう、いいわよ。行きましょ」

 

竜宮ランドの施設内はかなり広いが、売店や休憩所があるコーナーは競技用の二十五メートルプールに程近い所にある。

まだ地上の重力に慣れぬ身体を引きずって、小鷹と星奈は、適当なパラソルの一角に腰を落ち着けた。

 

「じゃあ約束通り、適当に何か買ってくる」

 

「あ、私お茶がいいわ」

 

「……了解」

 

小鷹は足早に売店へと向かい、プール――より正確には『海の家』――定番のメニュー、焼きそばを二人前、お茶を二つ購入する。

ラジオから聞こえた時刻はもうお昼を回ったにも関わらず、売店に居る人間は疎らであった。

 

「随分早かったじゃない?」

 

「客も居ないし」

 

白いパックに入った焼きそばとお茶をテーブルに置くと、小鷹も、星奈の対面に腰を下ろした。

ぐるりと視線を見渡しても、やはり、客入りは芳しくない様子だった。

 

「まぁ、この調子じゃパパの言う通り、もう直ぐ潰れちゃいそうね」

 

星奈はお茶のストローに口をつけながら、何事無しにそう零した。

 

「……やっぱり、客が少ないから?」

 

競技用プールや波の出るプール。ウォータースライダーに飛び込み台。

全天候型オールシーズンのプール施設にしては広々としており、内容も充実している。

南国風の椰子の木であったり、あるいは売店の充実具合であったり、それ程客入りが悪いようには小鷹には思えなかった。

 

「前に市長がパパと話していたの。後何年持つかって――ほら、見ての通り客が全然居ないじゃない。

 立地の問題かしらね。建物も設備も新しいし、市営とは思えない程なんだけど」

 

焼きそばを上品に口元へ運びながら、星奈が皮肉げな笑みを零した。

昨今の景気後退にともなって、どの市も予算配分には難儀しているのだろう事が伺える。

 

「パパって……ああ、学園の理事長さん、か。

 うーん……一度、挨拶に伺ったほうが良いのか……?」

 

さりとて小鷹には動員人数の増加に関する妙案も無く、飛び出した話題は星奈の父親――聖クロニカ学園理事長でもある――に関するものだった。

星奈の父親へ挨拶する男。その意味する所を察したか、星奈が顔を一息で赤くする。口に入れた焼きそばに噎せたのだろう、苦しそうな反論だった。

 

「ごほっ、けほっ――は、はあ!? え、ちょっと、何で……どうしてアンタがパパに挨拶する訳?

 ひょっとしてアンタ、私と……つっ、付き合ってるつもりじゃ無いでしょうね!?」

 

鼻息荒い星奈に、小鷹は困惑した。

どうして話がそういう方向に成ってしまうのか。バスの中の事が無ければ聞き返していた位である。

 

「今日のコレだって、ま、まさかデート……とか、そういう風に思ってるんじゃ無いでしょうね!?」

 

デート、の部分だけ妙に小声な星奈に、小鷹は漸く事態を飲み込んだ様だった。

 

「何言ってるんだ? そうじゃなくて、星奈の父親と俺の父親が幼馴染なんだよ。

 その縁で、学園に編入する時にお世話になったんだ。だから一言、挨拶くらいはしておかないといけないかな、と思っただけだ」

 

「へっ……あ、ああ……そういう事、ね……」

 

紛らわしい、とボヤく星奈に小鷹は苦笑いを返し、遅々として食べ終わらない焼きそばを、箸で一息に口の中へと放り入れる。

微妙に伸びてしまった麺の軟さと、妙に硬い豚肉の触感が『夏の海』を思い出させてくれる。海と焼きそばの取り合わせの由来は、小鷹にも分からなかった。

 

「ん……肉、硬いな」

 

「……何?」

 

思わず零した焼きそばへの感想に、星奈は怪訝そうな顔で小鷹を見遣った。

 

「どうしたんだ、星奈」

 

「どうしたもこうしたも、アンタ今私のこと呼んだでしょ」

 

お茶の入ったカップをひっつかみながら、星奈は乱暴にその中身を口に含んだ。

 

「へ、別に呼んで――あ、ああ。ゴメン、焼きそばの肉の話。

 ていうか、肉に反応しすぎじゃないか、星奈」

 

「う……夜空の馬鹿が悪いのよ。私の事、肉、なんて呼ぶから……」

 

お茶を嚥下する星奈の喉元が、妙に艶かしい。

 

「……あんまり嫌なら、ちゃんと夜空に言ったほうがいいぞ。

 夜空も本気で星奈が嫌がる事はやらないと思うし」

 

やや取り繕うような形で、小鷹は残りの焼きそばを口に放り込んだ。

 

「別に……そんなに嫌じゃない。その、アダ名みたいなのって、結構憧れてたというか……。

 夜空のアホとそういう仲良しになった、って訳じゃないけど、その、すごくそれっぽいっていうか……」

 

――肉はアダ名じゃなくて、悪口だと思う。

小鷹は喉まで出かかったその言葉を飲み込んだ。

 

「そっか。それなら良かった」

 

いがみ合ってばかりだと思っていたが、夜空と星奈は、案外あれで相性は悪くないようだった。

時折見せる息の合い方といい、前々から小鷹が考えていた通りである。

夜空は夜空で、星奈をいじるのが面白くて仕方がないようだし、星奈は星奈で、気安い感じでコミュニケーションを取ってくる夜空を新鮮に感じているのだろう。

星奈のその気持ちは、小鷹にも十分に理解できるものだった。

夜空は誰に対しても――特別な必要を感じない限りは――彼女独特の男口調を崩すことは無い。

それが彼女にとっての『在り方』であり、ある種の負けん気の強さの発露だとしても、それが小鷹にとっては心地よいと感じられるものだったからだ。

 

「ふん……それより小鷹、早く食べてよ。

 水泳の続きがしたいんだけど」

 

「あ、ああ。でもちょっと待って。ちょっとお手洗いに行ってくる。

 ついでに片付けとくから――悪いな」

 

小鷹は残りのお茶を一気に飲み干して、静かに席を立った。

それに合わせて星奈もお茶を飲み干すと、小鷹に小さなお礼の言葉と共に手渡す。

こういう所でしっかり礼が言えるのは、星奈の美徳だな、と小鷹は頷いた。

星奈が聞けば『子供扱いしないで』と怒る事請け合いである。

 

「っと、こっちか」

 

手早くゴミ箱へと容器を放り込み、小鷹は男子トイレへと向かった。

ちらり、と後ろを伺うと、星奈は既に席を立って、待ちきれないとばかりにプールサイドで準備運動をしている。

小鷹が戻り次第直ぐに泳ぐつもりなのだろう。星奈一人では――人が少ないとは言え――妙なのに絡まれないとも限らない。

小鷹は心持ち急いで始末を済ませ、手洗いの鏡の前に立った。

 

「…………」

 

鏡に映るのは、金髪を額に張り付かせ、青い目を覗かせている男の姿だ。

何時もどおりの羽瀬川小鷹の顔だった。

 

「……よし」

 

小鷹が頬を二、三度叩いて気合を入れ直した瞬間、プールから星奈の大声が彼の耳へと飛び込んできた。

 

「――あんた達みたいなモブキャラ風情が、私と対等に口を聞こうってのが間違いなのよ!」

 

その声に慌てて小鷹がトイレから飛び出すと、小鷹の視界には、案の定、三人組のガラの悪そうな男達に絡まれている星奈の姿が映っていた。

どこと無く忙しなく動く星奈の視線を鑑みれば、彼女が恐怖を抑えて気丈に振舞っている事が直ぐ分かる。

 

「……んだと、このアマ」

 

「下手に出てりゃ調子乗りやがって」

 

「――おい、見ろよ。こいつ、足震えてるぜ」

 

男達も段々と怒りのボルテージが上がってきているらしい。

星奈は図星を突かれたのが悔しいのか、身を守る犬のように男達へ吠えかかっている。

 

「だっ、誰が震えてるですって!? アンタ達、いい加減に……!」

 

「強がっちゃって、可愛いねー」

 

「大人しくしとけば、痛い事はしねぇよ。な?」

 

一瞬にして優位性を認識した男達のうち一人が、星奈の手首を掴んだ。

これ以上は見過ごせない。小鷹は意を決した様に小さく咳払いをすると、なるべく目立つ様に声を張り上げた。

 

『――星奈。大丈夫かい?』

 

その声に星奈が安堵の表情を浮かべ、続いて、困惑の色を見せ始める。

男達は一様に、ギョッとしたような顔を張り付かせて硬直した。

 

「お、おい……」

 

「外人……?」

 

何せ彼らの前には長身の外人――実際は違うが――が、突如現れたからだ。しかも悪いことに、どうやら絡んでいた女の彼氏らしい雰囲気である。

実にお似合いのイケメンだった。無意識的に、男達は一歩、小鷹から後退る。

明らかに日本語では無い言語で話しかけてくる金髪碧眼の男に、動揺を隠し切れていないのが丸わかりであった。

 

『そこの君、手を離せよ。彼女、嫌がってるだろ』

 

「へ、あ、お、俺?」

 

見知らぬ外国人に、強い口調で何事かを捲し立てられると、訳も分からず引いてしまいがちである。

特に日本人は外国人に接する機会も少ない。ある意味では、正常な反応であった。

小鷹の英語は完璧な、母譲りの英国アクセントとは言えないまでも、十二分に、英語に耳慣れない人間を騙せる程度には英語然としたものだった。

 

(……このまま行ってくれ)

 

「……おい。もう行こうぜ」

 

小鷹が内心で祈っていると、男達はとぶつくさ文句を言いながらも、星奈の事を諦めたらしい。

星奈から距離をとって、踵を返して歩き始めた。

安堵の溜息を吐き出す小鷹。だが星奈は逆に、去ろうとした男達へと食って掛かったのだった。

 

「ちょっと待ちなさいよ!よくもこの私を侮辱してくれたわね……!

 這い蹲って足でも舐めて、土下座でもするのが筋ってもんでしょうが!」

 

なんてこった! 小鷹は思わず頭を抱えそうになった。

外人のフリして煙に巻く作戦は見事に失敗だった。しかも味方の裏切りによって、である。

案の定男達は怒り心頭のご様子だった。正しく一触即発である。

 

「んだとテメェ!」

 

頭に血が上れば、もはや女だろうが容赦はない。

男達のうち、尤も長身の男が星奈に掴みかかろうと詰め寄って――そこに、小鷹が素早く割り込んだ。

 

『――止めるんだ。確かに悪いのは彼女だけど……』

 

外人作戦を継続しつつ、小鷹の青い瞳がグッと細められた。

その剣幕に一瞬、男達が怯んだ様子を見せたものの、数の有利を再認識したのだろう。男達は再度、じりじりと小鷹と星奈へと近づいていく。

このままでは殴り合いになる。小鷹は険しい表情を崩さないまま、冷静に男の手首を掴みあげた。

そのまま相手の肘を捻転させるように内に入れる。男が体勢を一瞬崩した隙に、小鷹は男の手首をねじり上げた。

 

「あがっ!あだだ!」

 

男の悲鳴が上がる。そのまま後ろ手に男の手首を極めると、小鷹は静かな口調で告げる。

 

「……悪いけど、ここは引いてくれないかな。彼女には、俺から言っておくからさ」

 

男達は苦々しい顔で以って、小鷹の提案を受け入れた。男達もコレ以上の騒ぎを望まなかったらしい。

んだよ、こいつ日本語上手じゃねぇかよ――男達は吐き捨てるようにそう言うと、小鷹が軽く突き飛ばした男と共に、渋々と言った調子でプールサイドへと消えていった。

 

「――ご苦労様、小鷹。特別に足を舐めさせてあげてもいいくらい。

 もうホント、身の程を知らない頭の悪い奴が多くて困るわ」

 

小鷹は無言で、星奈へと振り返る。その表情は先程、男達に対峙していた時より険しいものだった。

 

「身の程知らずで頭が悪い駄肉なのはお前だ、星奈」

 

まだ微かに震える星奈の手を静かにとりながら、小鷹は強い口調で星奈を叱り飛ばす。

星奈は呆気にとられたかのようにして――どうして自分が叱られているのかも分からないような表情だった――小鷹の剣幕に圧されていた。

 

「どうしてわざわざ相手を挑発した? どうして危ない真似をする?

 ナンパ目的の奴は何処にでも居るし、さっきの奴らよりもっとガラの悪い奴だって大勢いるんだぞ?」

 

「なっ……折角私が褒めてあげたってのに、何よ! お説教しようっての!?」

 

買い言葉に売り言葉の如く、感情を露わにした星奈へと小鷹は食って掛かった。

 

「そうだ、お説教だ。相手を侮辱し返したら、それで自分が危ない目に会うって分かっただろ?

 さっきはたまたま穏便に行ったけど、アレだって一歩間違えれば殴り合いになってたかも知れないんだぞ!」

 

星奈は、怒りを湛えた眼差しで小鷹を睨んだ。

小鷹の表情は酷く真剣だった。ともすれば、星奈は一度も小鷹のこうした表情を見たことが無いかも知れない位だった。

 

「いいか――ここは部室じゃないんだ。誰でも見知らぬ人間にアレだけ言われれば腹も立つ。

 もし俺が戻ってこなかったらどうしてた。乱暴されてたかも知れないんだぞ、分かってるのか?」

 

「うるっさいわね!その時はその時よ!大体、小鷹には関係ない――」

 

星奈の投げやりな態度に、小鷹は怒りも顕に、星奈の肩を掴んで顔を近づけた。

彼女の青い瞳に映る小鷹の顔は、これまでに彼女が見た彼の顔の中で尤も険しく、同時に尤も胸が苦しくなるような、そういう顔だった。

 

「――ふざけんな!関係ない訳ないだろ!

 お前が傷けば悲しむ人は大勢居るんだぞ! このバカ!」

 

小鷹の真摯な表情に――これまでに見たことのないような、悲しげな顔だ――星奈は、改めて自らの不明を悟った。

これまで柏崎星奈という人間に対して、ここまで真剣に心配をしてくれた人物がどれほど居るだろうか。それも、同年代の男に!

それを想えばこそ、星奈は胸の奥が苦しくなるような、奇妙な感覚に囚われた。

心配されている事に対する安堵感。そして心配させてしまった事に対する罪悪感と、僅かばかりの――羽瀬川小鷹を独り占めにしたという――優越感。

星奈は胸中に渦巻いたこの感触を、気恥ずかしさに起因させた。彼女にとって、それは初めての感覚だったのだ。

その感情を処理せぬまま、肩を掴んでいた小鷹の手をそれとなく振り払う。

 

「わ、悪かったわよ……今度から、気をつければいいんでしょ」

 

俯いた星奈の表情は伺えなかったが、小鷹はそれでも、星奈をしっかりと見据えながら問いかける。

 

「……本当に分かったか?」

 

小鷹の真剣な視線を感じて、星奈は居心地悪そうにその身を捩らせた。

心臓の鼓動が妙に鼓膜を打つのを感じながらも、星奈はそのまま、消え入りそうな声を出した。

 

「分かった。分かったわよ……もう、今日は帰る……泳ぐ気分じゃ無くなっちゃったし……」

 

踵を返し更衣室へ早足で駆けていく星奈の姿を、小鷹は黙って見つめていた。

小鷹もまた、他人に対して――同じ部の仲間だとは言え――怒りを顕にしたのは、久しぶりの事だった。

何故、こうまで真剣に怒ったのか。小鷹は己自身に困惑を隠せなかった。

星奈も言う様に、別段、小鷹は星奈を特別な存在として扱っている訳では無い。

それでも、これまで柏崎星奈という人間と接した上で、その人柄を――小鷹自身が考えるよりずっと――認めていたに違いなかった。

 

「……友達作りって、深いな」

 

小鷹は頬を掻きながら、自身も更衣室へと向かっていった。

 

 

 

 

帰りのバス車中では、驚く程に会話が無かった。

星奈は終始黙ったまま、流れる景色をぼんやりと見つめるだけで、小鷹もまた、そんな星奈に何を言うべきか分からないままであった。

時間だけが過ぎて、そうしてバスが駅前に返ってきて初めて――星奈は小鷹へと振り返り、笑いながら言うのだった。

 

「今日はその……ありがと。また泳ぎに行きましょ!

 今度は波の出るプールとか行ってみたいし……」

 

「あ、ああ……そうだな。また行こう、星奈」

 

何時もより、何処と無く優しげに笑う星奈の姿は、小鷹にとって印象深いものだった。

柔らかな表情も、星奈にはとても似合っている。柄にもなく、小鷹は照れくさそうに頬を掻いた。

 

「私、迎えが来るから。それじゃあまた、明日部活で会いましょ」

 

「ああ、また明日」

 

優しげに手を振る星奈に、小鷹もまた、小さく手を振り返す。

終えてみれば充実した――隣人部の活動に相応しい、休日だったに違いない。

帰路に着こうと踵を返した小鷹の背中越しに、星奈が声を投げかけた。

 

「それと小鷹――――プールでどさくさ紛れに駄肉って言ったこと、忘れてないから」

 

「……ごめん」

 

振り返った小鷹の視線が捉えたものは、声のトーンとは裏腹に微笑んでいる星奈の姿だった。

 

 




次から漸く、幸村と理科の出番です。

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