その瞳に吸い込まれて
七月二十八日
まどろみから覚めるときはいつも憂鬱だ。
どうして働いているのかと自分に問いかけながら生活する。
まぁ働かなければ生活できないのだから、仕方ないと言えばそうなんだが。
そして今アラームが鳴っているということは、起きなければ仕事に遅刻するということ。
それをしてしまえば自分の専属アイドルに迷惑をかけてしまう。それだけはしちゃいけないことだしな。
そう思いつつ重たい体を動かそうとするが、意に反して動くことはなく、仕方がないので枕に顔を埋めたままアラームを止めることにした。
そうしていると突然音が止まる。
あれ?小町かな?いやいやそもそも実家じゃないし。遂に使われなさすぎて俺のスマホが壊れたか。
買い換え時なのか。そんなことを考えつつ、二度寝をしないように体を起こした。
「おはようございます、八幡さん」
「………」
ん?
あれ?
ん?え?
「まだ寝ぼけてますか?ふふ、お寝坊さんですね」
「あ、えっと…ここは俺の家だよ…な?」
「何言ってるんですか?見てわかるじゃないですか。もう、まゆのプロデューサーなんだからしっかりしてくださいね?」
「あ、ああ。俺の家だよな…悪い」
ん?俺の家だよな。…おかしくないか?
人間パニックになりすぎると落ち着くんだな。とりあえず状況を整理しよう。
間取りは1DK。二年ほど前から過ごしているマンション。
見慣れているはずのインテリアに一つだけ違うものが混じっている。
佐久間まゆ。
俺の専属アイドルだ。
「いやいやなんで悪いとかいってんだよ。まゆがいるのはおかしいだろ。俺は悪くない」
「?」
いやそんな首をかしげられても。なんなのこの子。
ん?あれ、俺がおかしいの?いやいや、合鍵も渡してないし、寝てる間に家に入ってくるのはおかしいだろ。ぼっちはATフィールド全開なんだぞ。
「…一度落ち着こう。まゆはなんでここにいるんだ」
「!そうなんですよ。今日は八幡さんに朝食を持って来たんです!家で作ってきたんですよ?」
…手を叩いて思い出したように喋るまゆ。
違うんだ…そうじゃなくて。何故じゃなくてどうやってここにいるのか知りたいんだ…。
「あ、ありがとな」
「はい!」
「いや、違う」
「?トマトは入れてませんよ?」
流石まゆ。いやいや違う。
再び首をかしげる。可愛いな。
可愛いは正義だと言う言葉があるが、それでもこの状況を正義だと肯定するのはいただけない。そもそも不法侵入だし。
「…どうやって入ったんだ?」
「?鍵を開けて玄関から入りましたよ?」
うん?なんでこの子当たり前みたいに言ってるのん?
「鍵渡したっけ?」
「いえ、まゆが自分で作りましたよ?」
……もういいか。これじゃ平行線だし、まゆなら別に悪いこともしないだろう。
決して面倒になったとかそういうことじゃない。
「…まぁスキャンダルにさえ気を付けてくれればいい」
「はい!それじゃご飯食べましょう?」
「ああ」
七月二十日
「八幡さん、今日の仕事は終わりですか?」
「ああ、お疲れ。まゆの家まで送る」
今日の仕事は二件。今のまゆなら何てことない仕事だが、テレビの仕事だった為どうしても終わりの時間が遅くなってしまう。
「はぁ。残念です…まだ八幡さんと仕事したいです…」
「まじか。仕事したいとか信じられんな。それに未成年はこれ以上働けんぞ」
「う~ん…働きたいって言うよりかは、八幡さんと一緒に居たいんですよ?鈍感ですね」
「…何が楽しいかわからん。俺はお前に仕事を持ってくる悪魔みたいな奴だぞ」
「ふふ。それじゃ分かってもらえるまで今日は一緒にいますか?」
「遠慮しとく」
こいつは距離感が近い。というより近すぎる。
最初は凄く嫌われていたように感じるが、時間がたってくにつれ距離が縮んでいく。
むしろまゆの赤いリボンで手繰られていくように感じる。
「とりあえず送るから車に乗ってくれ」
「はーい。残念です」
いくら最強のぼっちとはいえ、この時間にアイドルを、ましてやか弱い女の子を一人で帰らせるわけにはいかない。
例え彼女にいつも迫られていて、二人きりの時間をなるべく作りたくないとしても。
「そういえば八幡さん」
「どした」
少し走らせたところでまゆが俺の鞄を持ち上げる。
「駄目ですよ、局で鞄を手放しちゃ」
「ん?手放したか?」
鞄は確か控え室に置いていたはずだ。そこにはまゆしかいなかったし、手放したとは言えないと思うが。
「はい。控え室に置いたまま番組プロデューサーに挨拶に行きましたよね?」
「ああ。でもまゆがいるだろ」
「ふふ。そうですね、まゆがいます。だから鞄の中見ちゃいました。駄目ですよ?マッ缶ばっかり飲んでたら体壊しちゃいます」
見ちゃったのかよ。え?まゆに気を付けろって話?
「マッ缶は千葉県民の血液だ。それがないと生きていけん」
「…そう、ですか。じゃあまゆも予備を持ち歩きますね」
どうしてそうなる。予備ってそこまで飲んでないぞ。
仕事の合間に二、三本飲んでるだけだし。
「八幡さん」
「どした」
まゆは助手席で鞄を大切そうに抱えながら微笑む。
「楽しみです。今日とても良いことがありましたから」
「ん?何かあったか?」
「はい!楽しみだな~」
…少し不安だな。
七月二十八日
「あの時か…」
ふと思い出した。
あの日局で鞄を見たと言うまゆ。その時に鍵の複製を作るための何かをしたんだろう。
例えば粘土で形をとるとか…。想像したくないな。
「どうしました?」
「いや、そうか。それがまゆの楽しいことだったんだな…」
「はい!今楽しいです!八幡さんと朝から一緒だなんて」
…はじめの頃の恐怖感はどこいった。
目が怖くて近寄りたくありませんとか言われてた頃が懐かしい。
戻ってこないかなー。
「…八幡さんは楽しくありませんか?まゆとじゃ嫌…ですか?」
やめろ。そんな顔をするな。
「楽しい。これでいいか?」
「駄目です」
そう言って俺の顔を掴む。掴んだまま、まゆと目を合わせられる。
吸い込まれそうな瞳。いや、もう俺の気持ちはこの瞳に吸い込まれつつあるのだろう。
「そんなんじゃ駄目です。もっとまゆを見てください。見て」
言葉を発っせないまま、瞳に釘付けになる。
「もう一度言ってください」
「…ああ。まゆといると楽しい」
「ふふ。合格です。八幡さん、まゆのことずっと見ててくださいね?」
「…ずっとは無理だな。俺が女の子をずっと見てたら警察につき出される」
「本当に捻くれてるんですから。まゆのことはずっと見てて良いんです。ずっと…ですよ?」
九月十日
あの日からまゆは頻繁に家に来るようになった。呼んでいない。
大事なことなのでもう一度言う。
呼んでいない。
しかし意に介さず鍵をかけているはずのドアは今日も勝手に開く。
「おはようございます、八幡さん」
合鍵は回収できていない。あの日作られた合鍵は今もまゆの手の中にある。
「八幡さん、今日も…いいですよね?」
そしてあの日からもう一つの習慣ができた。
最初に言っておく。俺は別にMじゃない。
「はぁ。いいぞ」
ありがとうございます。そう言いながらまゆは近づいてくる。
三メートル。
二メートル。
一メートル。
三十センチ。
十センチ。
まるで恋人がそうするように、まゆは座っている俺の背中に腕を回し、膝の上に乗ってくる。
そして俺の顔を見る。
まるで今からキスでもするのかというような雰囲気。
しかし、まゆの顔は正面を外れ、肩へと向かう。俺の服を肩の部分だけはだけさせる。
最初にこれをされた時、混乱して頭が働かなかった。まぁ普段から働きたくないとか言っている俺の頭だから仕方ないのか。
「あむ」
「つ!」
まゆは肩へと噛みつく。
甘噛じゃない。少量の血が出るように噛み、それを飲む。
それが新しい習慣になった。
まゆは突然言ってきた。
「血の味ってどんな味でしょう」
「鉄っぽい味だろ」
突然なんの話だ。しかもなんか怖い。
「そうなんですか?わからないじゃないですか。それが特別な人の血なら」
そのとき背筋が凍ったのは言うまでもない。
そしてあの目に睨まれるのだ。
「八幡さん、良いですか?」
「あ、いやそれは」
「見てください」
「まゆを見て」
「良いですか?」
「あ、ああ」
そうしてあの瞳に負けた。
なにかが間違っているような気がするが、それでも受け入れてしまうのだから結局は自分のせいなんだろう。
捻くれるどころじゃない。歪んでいる気がする。
まぁいい。
そう思えるほどにまゆの赤いリボンに縛れている。
きっともう、ほどかれることはない。
「この傷はまゆのモノって意味ですからね?ふふ。八幡さん、ずっと、一緒ですよ?」