今日からボーカルレッスンを行う事になる。と言っても内容は単純な物だ。実際に歌うのではなく、鷺沢文香と新田美波の音を合わせるのが目的だ。ただ、今日は特別な客が見学にも来ている。
(頑張ってください!)
声には出していないが部屋の隅から送る視線の先の文香を、橘ありすは身を乗り出しそうな形で見ている。文香から事情を聞いて、応援に来たのだ。
「――がんばりましょうね、文香さん」
「はい。よろしくお願いします」
この二人も仲が良くなったものだ。同い年という事もあるのだろうが、もともと合っていたのかもしれない。
「今日は、音合わせをしますので気を楽にして行ってください。それでは、お願いします」
「――わかった。では、よろしく頼む」
これに関しては、プロに頼む。機材を使って音を出し、それに二人が合わせて行く。絶対音感の無い者には、この作業は難しい。それにこれはあくまでも始めだけ、それからはより専門的なものになっていく。
武内は、トレーナーに後を任せてありすの横に移動する。今回は、邪魔にならないように見守るぐらいしかやる事がない。
♢♢♢♢♢
レッスンが始まって少し経っただろう。見ている限りでは問題はない。二人の息は合っているし、文香の様子も悪くはない。たまにありすの事を見ているように思えるが、それも文香に取っては精神の安定へと繋がっているのかもしれない。
(ステージの時は、問題はなかったんでしたね)
記憶では、体調を崩したものの文香は、ありすと共にステージへと上がる事になった。その様子は、舞台袖で見ていたが素晴らしいものだったと思う。彼女が調子を崩したのはそれからだ。ふと、思い出すのだろう。もしあの時に何もできず、迷惑を掛けてしまったらと。それからは、美城常務の判断で仕事などは減らされていた。それだけ彼女は、思い詰めていたのだろう。レッスンで自分を追い込むほどに。
「――プロデューサーさん」
隣から小さな声がする。元々大きな声を出す子ではないが、レッスンの邪魔にならないようにしているのだろう。
「なんでしょうか?」
「文香さんの様子はどうなんですか?」
表情にも声にも不安が見て取れる。大切に思っているのだろう。
「……そうですね。今の所は、問題は見られていません。声質に関しては、とてもお綺麗です。音も新田さんと合わせられています。とても安定した物だと思います」
「――そうですか! ……すみません……でも、良かった……」
こうして見ると、彼女も年相応の少女なのだと思う。
「今日の成果には、橘さんの存在も大きいと思います」
「私ですか?」
「気づいていると思いますが鷺沢さんは、橘さんを見ると安心した顔をされます。橘さんの存在が文香さんを支えているのでしょう」
文香の不安の大きなところは、迷惑を掛けて見捨てられる事だ。彼女の世界は、一人だけの世界だった。自分にできない事をやる人達を見るだけの灰色の世界。またそこに戻るのが怖くなったのだ。
「……文香さんのお役に立てているんでしょうか?」
「――はい。とても」
「そうですか……」
ありすは、今もレッスンをしている文香へと視線を送る。今、彼女は何を思っているのだろうか?
「プロデューサーさん……私のお願いを聞いてもらえますか?」
「なんでしょうか?」
「……私も一緒にはできませんか? こうして見ているだけじゃなくて、一緒に……そばに居たいんです」
ありすなりに考えたのだろう。大人に意見すると言うのは、子供である彼女には怖い事だ。今も不安の色が見える。でも、それでも自分の考えを口にする。
「……わかりました。少しだけ時間を頂けますか?」
「――ありがとうございます! ……ごめんなさい……また……」
「謝る必要はありません。橘さんの気持ちはわかりましたから。それでは、私は少し外します。橘さん、私の代わりにお二人をお願いします」
「――はい。でも、見ている事しかできませんけど」
「十分です。先ほども言いましたが、橘さんがそこに居てくれるだけでも、鷺沢さんにとっては救いになります。では、後はお願いします」
武内は、レッスン場から出て行く。ありすの願いを叶え、文香を輝かせるために。
♢♢♢♢♢
美城常務の許可が下りた。ありすは、同じユニットの人間であるので必要があるのなら武内の判断で決めていいと。仕事などのスケジュールは、ユニットを組んでいる文香に合わせる形で減っている。代わりにレッスンなどが入っているので、これらを調整すればありすも参加できる。
「これなんて、ありすちゃんに合うと思うんですけど、美波さんはどう思いますか?」
「そうですね。でも、少し難しい漢字もないでしょうか?」
「大丈夫です。コレで調べながら読みますから!」
読書会にありすが加わり、今はありすの為に文香と美波が本を選んでいる。今では、シンデレラ・プロジェクトのメンバーも参加しているので持ち寄った本が大量にある。それこそ個性的な彼女達を表すように様々なジャンルがそこにはある。
(こんなものでしょうか?)
そんな光景を見ながら今後の事をデスクでまとめる。ありすもレッスンに加わり、目標であるステージへと立つことになる。ありすの評価などを取り寄せて考えてみたが正直な所、文香と美波とは差がある。もっともこの二人が高い位置に居るだけでもある。どちらもボーカルレベルが単純に高い。
(調整が難しいですね)
二人ならありすに合わせられる。しかし、全体的なレベルを下げては意味がない。課題曲を変える事も検討しておく必要があるかもしれない。……どうしたものか?
「――プロデューサーさん」
声のした方を見ると、ありすが飲み物を持ってきてくれている。
「その……紅茶を淹れてみたんですけど……」
「ありがとうございます」
考えていて気付かなかったがどうやら紅茶を淹れてくれたらしい。
「いただきます」
ありすから受け取り、紅茶を一口飲む。
「……美味しいですね。あまり、紅茶は飲みませんが、これは飲みやすくて美味しいです」
「――本当ですか! やりました!」
ありすは、文香と美波の方を見る。三人は、お互いに笑顔で向き合っている。問題だとは思ってはいなかったが、気が合うのは良い事だ。
「今度も私が淹れますから言って下さいね!」
ありすは、上機嫌で二人の所に戻っていく。文香と美波にも褒められ、ありすの機嫌は益々良くなる。
(――頑張りましょう)
この光景を見せられて、他に道などない。3人がステージの上で輝ける方法を探すしかない。それが、プロデューサーとしての役目だろう。