深海生まれのバガボンド   作:盥メライ

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神の戸に浮かばれぬ音のレクイエム

 天候に恵まれない不運は何年経っても健在らしい。

 灰色の空を映して海は鈍色。思い立ったが吉日と足を向けてようやく辿りついたと言うのに。

 しかし不運は私の命までは奪えなかった。それどころか、内海に入り込んでいるのに誰にも気づかれていないという凄まじい幸運を手にしているのだけれど、素直に喜ぶことが出来なかった。

 私を出迎えたのはまるで他人のような港だった。緩く曲線を描く不可思議な建物。その形状で立っていられるのか不安になるような大きな塔。

 踏みしめる海の温度を私は知らないし、髪を揺らす風は私を知らない。

 それでも胸が懐かしさで軋む。ここが私の故郷なのだと、私だけがわかっていた。

 

 

 停泊している船のなんと大きなこと。戦うための船ではなさそうだけれど、あまりの大きさに圧倒されてしまう。煌びやかな意匠に目が眩む。鮮やかな白に溜息が零れる。この時代の船はなんて綺麗な姿で生まれてくるのだろう。羨ましい限りだ。

 内海にあるが故に平穏を保つ港には多くの人間達が歩いている。生きているのが楽しそうな顔。誰一人として戦う者の顔をしていない。

 目を凝らせば建物には多くの照明が設置されているのが見える。曇り故の薄暗さではなく夜闇の下であったなら、それはそれは絢爛たる眺めになっていただろうに。色とりどりの光が、今は勿体ない。

 少し離れたところには空を裂くような大きな橋がかかっている。あの上に何隻の船を並べられるだろう。そんな益体もない考えが浮かぶほどに巨大な橋だ。

 

 

 かつての生まれ故郷は記憶にある姿と大きくかけ離れてしまっていたけれど、それに悲嘆する必要なんてない。私は何を不貞腐れているんだ。知らない顔を見せる海も楽しんでしまえばいい。

 もっと見たい。もっと知りたい。ここには何があるのか。夜が更ければ海はどんな顔を見せるのか。朝焼けの海にはどんな風が吹くのか。どんな人間がいて、どんな風に育っていくのか。故郷の美しさを語るには、どんな言葉を並べればいいのか。

 私は帰ってきた。長い航海を経て、満身創痍ながらも。郷愁の横たわる僅かな距離。手を伸ばせば、届いてしまいそうで。でもそれが叶わないことを、私は知っていて。

 僅かな距離を警報が遮って、二度と届かなくなった。

 泣いてなんかいない。私は楽しんでいるのだから。

 

 

 海沿いを歩く人間達が海に立つ私の姿を捉えた。大半が恐怖に顔を引き攣らせてすぐに踵を返してしまった。

 建物から光が消えた。同時に、避難を呼びかける声が響いた。

 大きな船からもたくさんの人間が出て行った。積荷を運んでいた人間も作業をやめて逃げ出してしまった。

 穏やかな海を引き裂く波折り。両手の指ではとても数え切れない。

 故郷との再会を許してくれた深海の奇跡は、その代償に人間の希望で海を埋め尽くした。

 

 

 たくさんの知らない顔が並んで私を睨みつけている。私の後ろに浮かぶ人間の船が砲撃を躊躇わせていた。せっかく綺麗な船なのに傷つけてしまうのは勿体ないから、少しだけ歩こうか。

 足を引き摺る私に合わせて艦娘達もゆっくり移動する。逃げられないように、あるいはどこを撃たれても庇えるように、私を包囲しながら。心配しなくても私の砲はもう動かないのに。

 知らない顔の中に紛れこんでいた知っている顔を見つけた。珊瑚の海で見たあの子。元気そうでなによりだけれど、その眼は少々優しすぎる。あの夜のように毅然と睨みつけるべきだ。隣の艦娘と何をお喋りしているのかはわからないけれど、砲を下ろすのはお勧めしない。私はあなた達の、ひいては人間の敵なのだから。

 彼女のお喋りを皮切りに動揺が広がっていく。何故撃って来ない、どうして何もしない。そんな言葉が聞こえてくる。

 人間の巻き添えを考えなくていい場所まで離れても艦娘達は撃って来ない。私が敵だとわかっているのだろうか。

 不意に当てられた光に目が眩む。ようやくか、と身構えても砲弾は飛んで来なかった。どうしたことかと目を開けると飛び込んで来る柔らかな正体。曇り空に一筋の切れ間があって、光芒が私を照らしていた。

 使い所を間違えた奇跡に思わず頬が緩んでしまう。そんな綺麗な光で私を照らしてどうするんだ。

 

 

 たくさんの知らない顔の中に一人だけ、どうにも初対面だとは思えない艦娘がいた。白藍の長い髪。輪を抜けて私に近づいて来る。名前を呼びながら、縋るように。

 不思議と懐かしさのようなものを感じるけれど、これはどちらにとっても勘違いだ。私に名前なんてないのだから。

 長い髪を引き留めようとする者と迷って動けない者。私が腕を上げると皆が揃って身構えた。指揮者にでもなった気分で少しだけ胸が躍る。お見送りの楽団は恐縮してしまうほど豪華な顔触れだ。かつての古兵でも私ほどの贅沢が出来た者はいないだろう。爆撃の余波を考慮してか、空母に類する者はいないけれど。

 私の身体はもう限界のようで、腕を上げているのも辛い。そろそろ、終わりにしよう。

 構えるがいい、艦娘達よ。私はあなた達の絶望だ。

 

 

 油断するな。隙を見せるな。手負いとて甘く見るな。瞬きの間があれば一捻りで黙らせてやれるのだから。

 手加減も遠慮も容赦もいらない。救いの手など必要ない。引き鉄にかけた指は何があっても外してはならない。

 目を閉じるな。目を逸らすな。深海を相手に優しさは美徳とは限らない。私を、敵を睨み続けろ。

 あなた達の背中に何があるのか思い出せ。優先するものを間違えるな。

 何も想うな。私一人に拘るな、拘うな。敵は敵であって敵でしかない。

 砲を向けられて身を竦ませるな。恐怖は身を滅ぼす毒だ。撃たれる前に撃ってやれ。ちょうど今、あなたを守ってくれた仲間のように。

 

 

 仲間想いの砲撃は私の胸を正確に撃ち抜いた。力の入らなくなった身体がひとりでに空を仰ぐ。港はもう目に入らない。

 堰を切ったように続いた砲撃は全て過剰で無駄な攻撃だったけれど、それは残酷な行為ではない。仲間を守る為ならば一も二も無く行動を起こせるのは、きっと素晴らしいことだ。

 夜ではないし、炎の彩りを添えることも出来なかったけれど、故郷に帰りたいという私の願いは叶った。思い残すことなど何もない。

 海は人の涙で出来ているなんて話があるけれど、だとしたら艦娘の涙は何になるのだろう。なんにせよ、私の身体はもう動かない。拭ってあげることはできない。

 遠ざかる水面に白藍が滲んでいく。伸べられた手も、見えなくなる。

 

 

 

 

 

 そうだ、大変なことを忘れていた。まだ言っていないことがあった。これを言いに来たというのに。

 眠ってしまう前に。物言わぬ鉄になる前に。

 故郷に。ずっと帰りたかった海に。

 

 

 

 




たった四文字の言葉は間に合わなかった。






あと一話続きます。

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