大正浪漫風某国大統領妄想譚   作:喪部学生

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勉強会のお誘い

 「新しい語学の先生が来る」という噂は、ここ数日学生たちの間でゆるゆると流れていた。

 「どんな人が来るの」「おっかない人は嫌だわ」などと談笑することはあっても、それほどの関心は持たれていなかった。

 ところがいよいよプーチン先生の授業が開講されると、学生の話題は先生のことでたちまち持ち切りになった。

 

 

 ざわついていた教室が、彼の入室と同時にしん、と静まり返ったのを思い出す。

 皆、彼の姿に見入っていた――というより、魅入られていた。

 引き締まった体躯を紺の三つ揃いの背広で包み、凛として教壇に立つ彼。

 そう、私に話しかけてきたときと同じ佇まい。

 なのに、改めて教室で見る彼は、あの柔らかな笑みを私に向けた人物と同一なのだとは思えなかった。

 どこか冷たくて、自分と他人の間に線を引いているようで。

 最初こそ張り詰めていた教室の空気も、先生が授業を進めながら涼しい顔で冗談を交えることもあり、徐々に温かなものになった。

 まるで、すべて私の気のせいなのだと言い聞かせるように。

 それでも、授業が終わるまで、得体の知れない違和感が消えることは無かった。

 

 級友たちは概ねプーチン先生に好感を抱いたようだった。

 また、涼しく精悍な容貌の彼の名前が「ぷうちん」という響きであることが、可愛らしくも面白かったのだろう。

 それも手伝って、学内での知名度はたった1日で急上昇した。

 

「白馬の王子様って感じでは無いけれど、美丈夫よねぇ」

「生真面目そうなお顔をなさっているのに冗談もおっしゃるんだから、面白い方だわ」

 

「そう……ね」

 

 すっかり先生のことが気に入ったらしい友人たちは、きゃっきゃとあれこれ先生について談義している。

 日直の仕事を終え、私も友人たちよりいくらか遅く帰り支度に取り掛かる。

 私の仕事が終わるのを待っていた友人以外の人々は、教室から既にいなくなっている。

 

 あのときも、人影のない夕方で……。

 

 ことあるごとに、気がつけばあの日のことを思い返している自分がいて、妙に落ち着かなくなる。

 その事実が気恥ずかしくて、なるべく何も考えないようにして、急いで勉強道具を抽斗から引っ張り出して鞄に詰め込んだ。

 

「じゃあ、帰りましょうか」

「喪子も一緒に帰りましょ? 私、小腹が空いちゃったからミルクホールに寄りたいわ」

 

「それ名案! コーヒーミルクが――」

 

 飲みたいの、と言いたかった。

 けれども、それは叶わなかった。

 

「喪子」

 

 私の名前が、低くも柔らかな響きをもって呼ばれた。

 声が聞こえた方を見ると、いつの間にか、教室前方の扉の前にプーチン先生が立っていた。

 名前、憶えていてくださったなんて。

 意図せず頬が熱くなる。

 これは、突然呼ばれてびっくりしただけ、きっと、そう――。

 

「この後、少し良いかね」

 

 えっ、と私が言うより早く、鼻息を荒くした友人たちが「OK! OK!」と私を先生の方に突き出した。

 かと思えば、そそくさと後ずさりして教室から出ていこうとしている。

 

「喪子! 報告楽しみにしているから!」

「ごゆっくりどうぞ!」

 

「ねえ、何を言っているの! 待ってったら!」

 

 叫びもむなしく、友人たちはこの上なく愉快そうな表情を浮かべながら、袴を翻して去っていった。

 先生の表情をこっそり伺うと、よくわからないものを見た、とでも言いたげに首を傾げている。

 ……ご機嫌を損ねていなければ良いのだけれど。

 

「問題無かったか?」

 

「ええ、まあ……」

 

「では、本題に入ろう」

 

 辺りを一瞥すると、先生は私に歩み寄り、ごく自然に私の左手をとって、両手で包んだ。

 

 これが……露西亜流の、挨拶なのかしら。

 

 いつもの私なら取り乱してしまうような事態なのに、あまり頭が働かない。

 ぼんやりと、意外に温かな先生の掌の感触を感じていた。

 帰路につく学生のにぎやかな声が外から聞こえてくる。

 そんな外のざわめきが遥か遠くのものに思えるほど、教室はあまりに静かで、自分の心臓の音ばかりが響いている。

 

「私は、君のことを見知らぬ地で初めてできた唯一の友人だと思っている。そこで折り入って、ひとつ頼みがある」

 

 さらりとすごいことを言われたような気がしたけれど、私には刺激が強すぎることが起こりすぎて、最早何も考えられなくなっているようだった。

 今はただ、彼の美しい瞳を見つめることしかできない。

 

「私に日本語を教えて欲しい。代わりに、私からは英語でもロシア語でも、教えられるものは教えよう。放課後、お互いの都合が良い時間にどうかね」

 

 そんなの、私から返せる答えなんて、ひとつしかない。

 多分彼も、そのことを知っている。

 この人は……。

 

「勿論……喜んで」

 

 ――ああ、この笑顔だ。

 

 なんてことはない、ただの勉強会のお誘い。

 なのに、私の心はひとりでに、大袈裟に舞い上がってしまっている。

 交際の申し込みを受けたわけじゃあるまいし……駄目、頭がおかしくなってしまったんだわ。

 

 包まれていた左手が、より一層強く握りしめられる。

 この左手みたいに、私自身も、この人の掌から逃れることはできないのかもしれない。

 

 この人は……ずるい。

 

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