ペラペラと紙を捲る音が響く室内。忙しなく動く瞳は、文字の羅列を捉え、次々と視覚情報を脳へと送り込んでいく。
しかし、近くから聞こえてきた安らかな寝息に気付き、徐にライトはポケギアで時刻を確認した。
(うわ……十時かぁ)
時刻は深夜の十時。まだまだ成長期の子供であればもう布団に入り、明日の為の休息をとるべき時刻だ。
昼間のジガルデとのバトルに触発されたライトは、コルニの所有物である本を借りて熟読していたが、どうやら普段よりも真剣に読み耽っていた。
そろそろ自分も寝なければならないとばかりに、ベッドの上で胡坐をかいて読書していたライトは、ウンと背伸びをした後に本を返そうものかとコルニの方を一瞥する。
(……お腹出てる)
基本、寝間着も薄着であるコルニ。只でさえ寒そうな寝間着で眠っているのにも拘わらず、布団を脚で退け、尚且つポリポリと手でお腹を掻いているときた。
眠気で暫し茫然と眺めていたライトであったが、余りにも無防備なお腹を鼻で笑い、たどたどしい足取りでコルニのベッドまで歩み寄り、退けられた布団を被せる。
「う~ん……」
ガバッ。
しかし、良心で被せた布団は、ものの数秒でコルニの足で退けられる。
暑いのだろうか。そのようなことを考えながらライトは、再び退けられた布団を掛けるが、
「むにゃ……」
すぐに退けられる。
それはそれはとても幸せそうな寝顔を浮かべながら、良心で掛けてあげた布団は退けられたのだ。
少々カチンと頭にきたライトは、再び被せる。
だが、
バサッ。
ガバッ。
バサッ。
ガバッ。
「……」
起きていて意図的にやっているのではないかと思われるほどの反応の速さ。何度被せても、すぐに布団が退けられる。それのローテーションだ。
次第に笑っていない顔になったライトは、目元に影を浮かべながら、無防備に晒されているお腹を一瞥した後に、部屋を見渡す。
そして徐に歩み出し、部屋に備え付けられている筆記用具の内、水性マーカーを手に取った。
キュポ。
(何描こうかな)
***
「ねえライト。アタシのお腹にコイルが描いてあるんだけど……」
「おはよう、コルニ」
「あのさ、コイル……へその部分が目に」
「ブフッ……あ、朝ご飯に」
「ちょっと!」
***
「すみません、クチナシさん……私が不注意だったばかりに」
「んや、足の甲に罅が入ってる奴に言われてもよ。それにお前さんが苦戦する相手だ。
「……買いかぶり過ぎですよ」
「謙虚で結構、っと……」
異なり連なる町、レンリタウン。高低差がこの町では、近くの山から流れてくる澄み切った川が至るところで流れている。
特に『ホテル・レンリ』の近くにある滝壺では、水中を泳いでいるポケモンの姿がはっきりと見えるほどだ。
そのような街に佇む病院の一部屋に、終の洞窟から救助されたリラは居た。
軽い切り傷や打撲の他に、足の甲の骨に罅が入っている彼女は現在、白く清潔なシーツが敷かれているベッドの上で上体を起こしたまま、上司であるクチナシと話している。
年季の入った黒いコートはくたびれており、どこか哀愁を漂わせているが、逆にそれが彼の厳格そうな雰囲気を錯覚させていた。
しかしクチナシと呼ばれた男は、頬杖を突きながら溜め息を吐く。
「だがよ、最後の案件だから指揮だけじゃなくて現場に行かせろって上に言って、着いてみたら部下が怪我だから病院って、おい」
「う……すみません」
「冗談だよ」
至極申し訳なさそうな顔を浮かべるリラに対し、冗談であると口にするクチナシはニヒルな笑みを浮かべてみせる。
「それよりも、お前さんをどーにかしたっつーポケモンの話だが……」
「あ、それについてでしたら手帳にまとめておきました」
「ん、そーかい。どれどれ……」
徐に机の上にあった手帳をクチナシに差し出すリラ。
普段は、捜査のメモに使っているであろう手帳は、既にかなりくたびれてしまっている。その手帳を開いて、リラを襲ったというポケモンについて書かれているページを見たクチナシは、数秒沈黙し、こう告げた。
「芸術的だな」
「はい?」
「……分かった。ほら、返すよ」
「あ、はい……」
意味深長な言葉を口にしてリラに手帳を返すクチナシはこの時、『こいつに人相を描かせる役目は絶対に押し付けないようにしよう』と考えていた。
それよりも気になっていたのは、
(……やっぱり、臭いってモンが分かるのかねぇ)
余りにも芸術的な絵であった為、何に襲われたのかを解らぬまま終わってしまうものかと思っていた。
だが、案外特徴は描き出されていた故に、何が彼女を襲ったのかはすぐに理解できた―――理解できてしまったのである。
忘れようにも忘れることのできない、あの日に現れた緑と黒のポケモン。
もし本当にあのポケモンが狙ってリラを襲ったのであれば一大事だ。
「……なあ、リラよぉ」
「はい。どうかしましたか?」
「お前さんを助けたあんちゃんってどこに居るんだ?」
***
レンリタウン・村営バトルコート。住民のみならず、旅や観光で来ているトレーナーに解放されているバトルコートで、二人のトレーナーがポケモンバトルを繰り広げていた。
石畳のバトルコート一面には水が薄く張られており、絶え間なく水のせせらぎが鼓膜を優しく揺らす。
その中で二体のポケモンは、水飛沫を上げながら激しい攻防を繰り広げる。
互いにヒットアンドアウェイを主とするバトルスタイルで、バトルコートのあちこちを飛び交いながら、虎視眈々と隙をどうやって作ろうかと思考を巡らせる二体。
そしてふと思い立ったコジョフーが“スピードスター”をジュカインの足元に放つ。
すると水の張られた足元に放たれた“スピードスター”は、狙い通り着弾の衝撃で大きな水飛沫を上げ、ジュカインの目を眩ませることに成功する。
一瞬動きが止まるジュカイン。
そこへコジョフーは畳み掛ける様に飛び掛かり、凄まじい勢いで膝蹴りを喰らわせた。
「よっし! “とびひざげり”が成功した!」
その一部始終を眺めていたコルニは嬉しそうに拳を握り、見事“とびひざげり”を成功させたコジョフーに笑顔を見せる。
主人の嬉しそうな顔に、同じような顔を浮かべながら頭を掻くコジョフー。
すると次の瞬間、コジョフーの体が光に包まれていき、刻一刻と小さな体が華奢でスラリとした体へと大きくなっていく。
『おおっ』と声を挙げるコルニは、コジョフーを包み込んでいた光が晴れると同時に、中から姿を現した藤色の体毛を靡かせるポケモンを目の当たりにし、感嘆の息を漏らす。
「進化したぁ!」
「おぉ~! コジョフーの進化形……っと」
『コジョンド。ぶじゅつポケモン。腕の体毛をムチのように扱う。両腕の攻撃は目にも止まらぬ速さ』
カイリキーやハリテヤマを剛とするのであれば、柔の戦いを主とするらしいコジョンド。進化してどこか妖艶な雰囲気も漂わせるコジョンドは、進化した嬉しさからか、その長い腕の体毛をコルニに巻きつけるようにして抱きしめている。
どこかの地方には、トレーナーを抱きしめて背骨をクラッシュするポケモンもいるようだが、コジョンドはそういったことはない。
ペロペロと頬を舐められながら抱きしめられているコルニは、擽ったそうな表情を浮かべながらこう言い放った。
「さらもふ~♪」
「体毛の話?」
「うん!」
「へ~」
コルニは、コジョンド最大の特徴を撫でまわしながら、愉悦な顔を浮かべる。そこまで気持ちいいのなら自分も触ってみたいと思ったライトであったが、ボールの中から放たれる
それは兎も角、こうして互いに高め合う存在であるコルニのポケモンが進化したことは喜ばしいことだ。
特に、よくコジョフーを相手取っていたジュカインにしてみれば、より一層特訓の質を高められることに繋がるだろう。
「ようし……コルニ! 続き―――」
「お~、成程な~」
ふと、背後から響いてくる声。
反射的にスッと振り返ってみれば、黒いコートを羽織った猫背の男性が、横に淡藤色の体毛を靡かせる猫のポケモンを連れて佇んでいた。
距離にして、約二メートル。ここまで近づかれていて何故気付かなかったのか。ライトは自分に対してそのような問いを投げかけながら、口をあんぐりとさせたまま男性を見つめる。
すると男性は、訝しげな瞳で自分を見つめてくる少年を見かね、気だるげな挙動で懐から手帳のようなものを取り出した。
「国際警察、って言えば分かるか? 俺はクチナシって言うんだがよ、部下が世話になった」
「あ……い、いえ!」
据わった目つきのまま礼を言われたライトは、耐えかねて『こちらこそ』と軽くお辞儀を返す。
その時、クチナシがサンダルを履いているのが視界に入り、コートにサンダルとは如何なものかと心の中でツッコんだ。
国際警察―――その彼が口にしたことを察すれば、昨日救助に関わったリラの上司ということになるのだろう。
彼女は物腰が柔らかそうで話しやすい人物であったが、どちらかと言えば裏の組織に通じてそうな風貌の男性。まだ十二のライトにしてみれば最初からフレンドリーに話すことなどできない存在だ。
だが、それ以上にライトが気になっていたのは―――。
(ペルシアン?)
「ニャーゴ」
「なんだ、あんちゃん。ペルシアン見るの初めてかい?」
顔を上げた後、ジッと凝視してくるペルシアンに目が点になりながら立ち尽くすライト。
彼の知っていたペルシアンは体毛が白く、額に輝く宝石のような物体が赤い。しかし、クチナシがしっかりとペルシアンと言った個体は、体毛が淡藤色で、額の宝石が青い。
そしてなにより、顔の形が、
「……お饅頭」
「そりゃあペルシアンの顔のこと言ってるのか?」
「ニャーゴ!!」
「わッ!?」
ぷっくらと、まるで饅頭のように丸い。
それをライトが口にした途端、気に障ったのかペルシアンが目を光らせてライトに飛び掛かる。
その光景にあっと口を開く周囲の者達だが、唯一クチナシは動く様子も見せずに溜め息を吐くだけだ。
驚いて身構えるライトに飛び掛かるペルシアンだが、傷付ける考えは毛頭ない。
代わりに、バッグの中に煌めく物体に目を光らせ、俊敏な動きでバッグの中を漁ろうとする。
「あぁ! ちょ!」
「悪いなあんちゃん。ウチのペルシアンは手癖が悪くてな」
「いや、『手癖が悪くてな』じゃなくて!」
あっという間にバッグの中を漁られ始めたライトは、大焦りでペルシアンの主であるクチナシに抗議する。
そうしている間にも物色は終了し、ペルシアンの口には一枚の虹色の羽が咥えられているのが周囲の者達の目に留まった。
しかし、ライトのバッグの中から持ち出された虹色の羽に驚いたのはクチナシだ。
体は微動だにしないが、先程までの気だるげが見開いたのだから、分かりやすいというものである。
(成程。これでライコウがねぇ)
「あの……それ、僕の」
「おう。悪かったな。ほらよ」
「あ、ありがとうございます!」
一人勝手に納得したクチナシは、ペルシアンが物欲しそうな顔で咥えたままの虹色の羽を取り上げ、持ち主であるライトにすぐ返した。
光の反射で虹色に煌めく羽を取り上げられたペルシアンはショックを受けた顔を浮かべるが、警察の手持ちが子供の持ち物を盗んだとあれば大問題だ。
それが世界を股に掛ける国際警察であれば尚更。
だが、そろそろ退職するクチナシにしてみれば、それほど自分に降りかかる問題でもないので動揺はしていなかった。
兎も角、虹色の羽を返してもらったライトはホッと安堵の息を漏らし、大事そうに羽をバッグの中のポケットにしまいこむ。
『綺麗な羽だね』と声を漏らしながら歩み寄るコルニに対し、『ジョウトで拾ったんだ』と答えるライト。
「あんちゃん。ジョウトから来てるのかい?」
「え……あ、はい! 今は留学でカロスに……」
「成程。確かに向こうじゃペルシアン白いもんな。このペルシアン、おじさんの地元の―――アローラ地方のペルシアンなのよ」
「……リージョンフォームの!」
「お、物知りだねぇ」
徐に地面に腰を下ろし胡坐をかき始めたクチナシは、そのままペルシアンの喉元に手を伸ばして撫で始める。
以前も聞いたことのある、アローラ地方の自然環境に適応して変わった姿。それを学会では『リージョンフォーム』と呼ぶが、世間一般には未だ広く知られてはいない。
それを知っている事を単純に感心したクチナシは、先程の虹色の羽を取り上げられたことによるペルシアンの傷心を癒す為、長年連れ添って知っているツボを絶妙な力加減で撫で続ける。
「カントーとかジョウトは【ノーマル】なんだろ? このペルシアンは【あく】なのよ」
「タイプがですか?」
「おう。だから、泥棒みたいに手癖が悪くてな」
「は、ははっ……」
つい数分前に実感したことを口に出されたライトは、引き攣った笑みを浮かべながら饅頭のような顔のペルシアンを見遣る。
「まあ、地元じゃポケモンの盗みは寛容だけどよ」
「へ?」
「……言い方まずかったな。あ~、アレだ。ポケモンを盗むって訳じゃなくて、野生のポケモンが店に並んでる木の実を盗んだりって事だ」
「はぁ……」
「自然の恵みは分かち合うものだとかだってよ。まあ、食べ歩きの時に横取りに気を付けろってことよ」
そう言ってからニヒルな笑みを浮かべるクチナシ。
一瞬、地元のイメージダウンにつながる変な誤解が生まれるところであったが、なんとかそれは阻止できたようだ。
もし、観光業が盛んな地元のイメージダウンにつながる事などを口に出したりすれば、『土地神』に仕置きを貰うかもしれない。それはクチナシとして避けたい所であった。
しかし、このままではどこか変な雰囲気で終わってしまいそうな気がある。
そこで汚名返上したいクチナシは、『そうだ』と付け足すように口を開く。
「
「急な話過ぎません?」
「的確なツッコミだな。いいね。そういうの、俺結構好きよ」
まるでコガネ出身の者のように早いライトのツッコミに、ヘラヘラとクチナシは笑いを返して見せる。
「……あぁ、でも最近地元のチンピラが派手に暴れてるからな。カツアゲにも気を付けといた方がいいな」
「えぇ~……」
『ハネムーンに来てくれ』と言った傍からの、『カツアゲに気を付けろ』。カツアゲに気を付けた方がいい場所にハネムーンに行くなど堪ったものではない。
子供ながらにそう思ったライトは、先程から解けない引き攣った笑みに呆れのオーラも纏わせる。
しかし、次にクチナシが口にした言葉に笑みは解けた。
「まあ、あんちゃんがポケモンバトル強いなら、話は別だけどよ」
「じゃあライト大丈夫じゃん! ジムバッジ七個持ってるんだし!」
「バッジ? ……ああ、あれか。缶バッジみたいなの」
コルニの言葉に何やら凄いアバウトな認識を口に出すクチナシ。
「えっと……ジムバッジは、八個集めたらポケモンリーグに出れる、その……証明みたいな?」
「資格みたいなもんか」
「はい、そんな感じです」
まるで親戚の叔父とでも話しているかのような雰囲気で会話するライトとクチナシ。
「悪いな。地元じゃポケモンリーグなんてないもんでよ」
「そうなんですか?」
「まあ、造ろうって話は出てたような出てなかったような……まあ、どうでもいいか」
(どうでもいいんだ……)
観光業が盛んなのであれば、多くのトレーナーを呼び込めそうなポケモンリーグ建設は大きな話だと思われるが、クチナシにとってしてみればどうでもいい話のようだ。
ここまで長々と井戸端会議のような会話を広げたものの、そろそろ間が持たないと感じたライトは、灰がかった白髪が生える頭を掻いているクチナシの瞳を見据える。
「あの、すみません……どういった用事で僕の所に?」
「用事? 単純に部下が世話になった礼を言いに来ただけだがよ。あ~、なんか持ってきてやってればよかったか?」
「いや、そんなつもりじゃ……」
「そうだなぁ。俺にできることねぇ~……あ~」
なにか言葉以外にできる礼はないものかと考えだすクチナシ。そんなつもりじゃなかったと口にするライトの言葉にも反応せず、蟀谷をトントンと指で叩きながら出した彼の答えはこうだ。
「そうだ、おじさんとポケモンバトルでもするか? ポケモンリーグに挑戦するなら、チャンピオンってのを目指してるんだろ? チャンピオンになる為の経験ってのをやるからよ」
「ポケモンバトル……ですか?」
「おう。嫌なら、そこら辺で菓子でも買ってやるけどよ」
どっちを選ぶ?
そう問いかけるクチナシであるが、既に腰にボールに手を掛けている辺り、どちらが乗り気なのかは容易く窺える。
だが、ライトにしてみてもバトルか菓子かと問われれば、選ぶのは決まっていた。
「バトルでお願いします!」
「おっ。意気がいいな、あんちゃん」
終始ニヒルな笑みを止めることがない男は、少年から返ってきた答えを聞いてすぐ、懐からボールを四つ取り出した。
それらを軽く放れば、中に納められていたポケモン達が姿を現す。
最初から場に出ていたペルシアンの後ろに付くように出てきたのは、ヤミラミ、ワルビアル、アブソル、ドンカラスだ。
全てが【あく】タイプ。とても警察官の手持ちのようには思えないタイプで手持ちを組んでいる。
「【あく】タイプが好きなんですか?」
「まあ、一応な。なんだ、あんちゃんは嫌いか?」
「いえ、手持ちにブラッキーが居るんで、そんなことは全然ないです」
「そうかい。ま、駄弁るのはこんくらいにしとこうか」
どっこいしょと言いながら胡坐の状態から立ち上がったクチナシ。
サンダルで石畳を踏みしめながら向かうは、ライトが居る場所とはバトルコートを挟んで正反対の場所だ。
「うし……じゃあ、始めるか」
「はい、お願いします!」
「おーおー、元気がいいね」
クチナシがチラリと一瞥すれば、見られたドンカラスが黒い羽を数枚舞わせながらバトルコートに降り立つ。
「ま、久しぶりだからお手柔らかにってね」