人は何を以て幸福とし、何に己が生を託すのか。
幾星霜を経た今も、我はそれに明確な答えを持たぬ。
だがただ一つ言えることがあるとすれば、家を興し、子を為し、血脈を残すことこそ、最も根源的な意味を持つのではないかということだ。
キヌゴシー・トウフ。その名を記憶せし者は少ない。
が歴史の傍流に在りながらも、彼の歩んだ軌跡は幾人かの命運を左右した。
彼の語り口を借りれば、こうなる。
「俺こそが真の家庭を築いた男だ」
戦乱の世に果たしてそのような言葉がどれほどの重みを持つのか。だが彼にとってそれは誇りであり、指針であった。
物語の発端は、獅子戦争の更に先に遡る。
オルダリーア王国――通称、鴎国。
その王ディワンヌ三世が後継を定めぬまま崩御したことに始まる。
男色家であったのか、あるいは正妃に実がなかったのか。真相は闇の中である。
王位は遠縁にあたるヴァロア四世が継承した。
だがこの決定に畏国――イヴァリースの王デナムンダ二世は納得せぬ。
「我こそが、ディワンヌの叔父である。なぜ、あの若造が王位を継ぐのか」
そして戦は始まった。
デナムンダ王の宣戦布告を正当化したのは、ゼラモニアの存在である。
国境の要衝に位置し、かつて鴎国に征服されたこの地は、今や畏国に救いを求めていた。
道義を掲げて剣を取るのは、王の常である。
だがその裏で、老王の野心が蠢いていたこともまた事実であろう。
戦は泥沼となった。ロマンダの参戦、敗戦による財政破綻、農民一揆、反乱。
戦場で命を散らした兵の遺族に報酬も払われぬまま社会は荒廃した。
この乱世をキヌゴシーは青年期の只中に迎えた。
父モメーン・トウフは文官として生き延び、貴族の列に名を連ねていた。
戦場で剣を振るうのではなく、書簡と印璽で家を守った男である。
「良いかキヌゴシー、子を作り家を繋げ。それが貴族の務めだ。妻と側室を娶り、家を繁栄せよ」
兄達、アゲダーシとオカラは側室の子であるため家督の継承権は無い。
だがそれぞれ北天騎士団と南天騎士団へと送り込まれ、家の保身と勢力拡大の駒として機能していた。
それがトウフ家の生存戦略であった。
キヌゴシーもまた、王立士官アカデミーへと進学し将来の道を模索していた。
士官候補生として彼は王家に忠を尽くす教育を受け、また同時に己が地位と血筋に強い誇りを抱いていた。
だが彼の前に立ちはだかったのは、同じ候補生ラムザ・ベオルブという存在であった。
天騎士バルバネスの息子でありながら、妾腹の子。
彼の側には常に平民出の友人ディリータがいた。ディリータは心卑しい野心家であり、キヌゴシはその性根を読み取っていた。
「平民は平民同士で馴れ合うがいい」
キヌゴシーはそう吐き捨てた。だが、彼の傲慢の裏には、己にしか分からぬ焦燥があった。
この国が、変わろうとしている――と。
時代の端境でキヌゴシーとラムザの物語は、静かに交差し始める。
ある日、生活隊舎の回廊でラムザがキヌゴシーに声をかけてきた。
「キヌゴシー、近くの集落に賊が現れた。僕たちで討伐に向かうつもりなんだ。君も同行してくれないか?」
その声には、誠実さと真剣さが滲んでいた。
しかしキヌゴシーは鼻で笑った。
「賊退治? 本職に任せればいい。北天騎士団と近衛騎士団が骸旅団掃討に動くという話を聞いている。俺の実家の筋からな」
「本当なのか?」
思わず漏れたラムザの問いに、キヌゴシーの眉が僅かに動いた。
「てめえ、俺を誰だと思ってる。トウフ家嫡男だぞ、ベオルブの妾腹が生意気言うな」
その言葉にラムザは押し黙る。隣のディリータが睨みを利かせるが、キヌゴシーは一瞥すら寄越さない。
「まあ、いい。ベオルブの令嬢たちに恩を売っておくのも悪くない。協力してやる」
そうして集められた仲間は、コットン、フラミンゴ、アリス。
皆、貴族の子弟であり、将来は各家の旗の下に仕える運命にある。
討伐作戦の内容は、ラムザたちが町外れで待ち伏せ、キヌゴシーたちが賊を追い立てるというものだった。
「骸旅団の残党ども、我が家の私兵三千が狩り立てるぞ! 大人しく死ね!」
誇張と虚勢に満ちた宣言だったが、効果は絶大だった。
賊どもは怯え、逃げ惑い、討たれた。
この日、キヌゴシーは初めて命を奪った。そして、それが自らの誇りに傷一つ与えることもないと知った。
「生き残るために手段を選ばぬ。貴族とは、そういうものだ」
その笑みは、薄暗い回廊に浮かんだ刃のように冷たく鋭かった。
討伐戦から数日後、白羊月第一日。士官候補生らはアカデミーの講堂に集められた。
壇上に立つのは北天騎士団の高官。
重々しい口調で、告げられたのは士官候補生への動員令であった。
「諸君には、骸旅団掃討戦の後方支援任務に就いてもらう。命を賭す覚悟を持て」
イグーロス城の防衛、物資搬送、情報伝達。
任務は多岐にわたり、そのいずれもが命の危機と隣り合わせである。
だがキヌゴシーにとっては違った。
イグーロスには、アルマとティータがいた。
「神よ、我が導きを祝福あれ」
彼は彼女たちの護衛を命ぜられたのだ。
かつて修道院で説教を受ける中で出会った、ベオルブ家の妹姫たち。その可憐な笑顔と上品な物腰に、キヌゴシーは一目で心を奪われていた。
運命と呼ぶには、あまりに都合が良すぎるか。
だが彼は本気で信じていた。己こそが二人の救いであり導き手であると。
その傲慢と幻想を、神がどう裁くのか。それを知る者は、まだこの時点では存在しない。
イグーロス城へ向かう途上、ガリランド市街に騒乱が走った。
賊の一団が夜陰に紛れて市壁を破ったのだ。
「ベオルブ候補生は第一分隊、トウフ候補生は第二分隊に配属。各隊、教官の指揮下に入れ」
突如の命令に混乱する士官候補生たち。だがキヌゴシーは無駄な動揺を嫌った。
「盗賊退治で人殺しを済ませておいて正解だったな」
誰に言うでもなく独りごちる。
市街の石畳に火矢が降る。叫び、血飛沫、肉の焦げる臭い。まさしく初陣にして地獄の洗礼であった。
それでもキヌゴシーの剣は鈍らなかった。
生存のための殺人。貴族としての誇りのための殺人。
どちらでもない。ただ剣を振るい、敵を斃す。彼にとってそれは、呼吸と変わらぬ作業であった。
「殺せ。生き残るために。誰もがそうしてきた」
冷たく、鋭く。若きトウフ家の嫡男は、そうして戦乱の只中を歩み始めたのである。
イグーロス城への道中、野営の夜。キヌゴシーは火を囲みながら、地図とにらめっこしていた。
「この辺り……王都からも遠く、兵站線は脆弱だな」
コットンがあくび交じりに言う。
「ここまで来て襲われたら笑い話にもならないな。あの北天騎士団、あてにならねえ」
アリスが干し肉を齧りながら言う。
「それでも守るべき者がいるなら、戦うのが騎士の務めだ」
キヌゴシーの言葉に仲間たちは顔を見合わせた。
嘲るでもなく納得するでもない。冷えた空気に薪がはぜる音だけが響いた。
そして夜明け。予感は的中した。
イグーロス城近郊の浜辺で、突如、正体不明の集団が接近。
警備兵の報告では武装の規模から見てただの盗賊ではない。
「王都の背後に火が回るぞ、ってか?」
冗談めかして呟くと剣を抜く。
アルマとティータを連れ、波打ち際まで走る。
「ボートだ! 二人とも乗れ!」
「でも……!」
「命令だ!」
騎士の名を騙るならば、守らねばならないものがある。
敵の矢が宙を裂く。剣で弾き、盾で受ける。振り向かずに、背にいる少女たちを信じた。
「皆、急げ! チョコボのつがいでも引っ張ってこい! 逃げ切るぞ!」
小舟が波を滑る。風が背を押す。
だが彼らの行き先に待ち受けていたのは、さらなる戦乱と――異国の旗であった。
潮の匂いが湿った砂に重く沈んでいた。
「街が……見える」
アルマが呟いた指先の先、霧の向こうに灯が揺れていた。どうやら港町らしい。
だがそれがイヴァリースのものでないことは地形と建築様式が物語っていた。
「ここ……どこだよ」
フラミンゴがぼやいた。誰も答えられなかった。
舟は座礁していた。道具の多くは波にさらわれたが命はある。
奇跡と呼ぶには皮肉が過ぎる漂流だった。
徒歩で街道を進む。その途中――惨劇の場に出くわす。
少年と少女、そして老人が、複数の武装兵に囲まれていた。
うち数名は人ならざる異形の姿すらあった。
キヌゴシーは剣を抜いた。
「騎士が女子供を嬲る光景など、二度と見たくないものでな」
応じるように仲間たちが散開し、詠唱の声が響く。
「雷よ、鉄を砕け」
雷撃が敵陣を貫いた。
戦いの後、少年が名乗った。
「僕はデニム。こっちは姉のカチュア。君たちは――?」
キヌゴシーは、すぐには答えなかった。
異国、異語、異なる争い。その只中に飛び込んだ彼にとって、今必要なのは――名ではなく、立場だった。
「……通りすがりの騎士団だ。助けが要るなら、貸してやってもいい」
その瞳に宿るのは、善意か策謀か。答えを知るのは、まだ先の話である。
港町ゴリアテ。そこはもはや町と呼ぶにはほど遠い、瓦礫と煤に沈んだ幽鬼の集落だった。
「一年前……暗黒騎士団がこの町を焼いたんだ」
デニムの言葉に、カチュアが俯く。
案内された場所には、かつての住民らしき者たちが粗末な天幕に身を寄せていた。
男たちは痩せこけ、女たちは目を伏せ、子供たちは笑わぬ。
キヌゴシーは、腕を組みながら辺りを見渡した。
「敗者の匂いがするな。……だが敗者が必ずしも愚かとは限らん」
その視線はカチュアに向けられていた。
彼女は礼儀を守り、感謝を述べ、情報を提供した。立ち居振る舞いにも隙がない。
(良い器だ。貴族の妻としても通用する)
そんな内心をよそに、カチュアは言った。
「アルモリカ城のロンウェー公爵が捕らわれています。彼を救えばヴァレリアの未来は変わるかもしれません」
デニムが反論しかけたが、キヌゴシーが先に言葉を被せた。
「公爵様、ね。身代金、影響力、軍備……どれも悪くない」
カチュアがわずかに顔をしかめた。
「……軽々しく言うことではありません」
「失礼、貴女がそれだけの信念で語るなら、耳を傾けよう」
彼は手を差し出す。カチュアは一瞬ためらい、だがその手を取った。
アルマとティータが同時にキヌゴシーの袖を掴む。視線には問いと警告が込められていた。
「大丈夫、誰も手放さないよ」
そう微笑むキヌゴシーの足元に、戦乱の影が忍び寄ることを、誰もまだ知らない。
アルモリカ城へ向かう道中、峠の岩陰に伏せたキヌゴシーは、標的を視界に捉えていた。
夜闇の中、松明の灯りを頼りに見張りを続ける兵――その背後に忍び寄る。
(この配置……外郭に五、内郭に十か)
地図に記された防備とは明らかに異なる。ガルガスタン側が警戒を強めている証だ。
呼吸を整え剣を抜きかけたところで、予想外の声が響いた。
「きゃあああああっ! この変態っ! ド変態っ! EL変態ーっ!」
茂みから転がり出た少女に、キヌゴシーは思わず後退した。
「な、何を見てるのよ! このっ……このっ……!」
少女の拳が飛んでくる。避け損ねた頬に赤い線が浮かぶ。
「ち、違う、俺は……!」
言い訳する暇もなく、警戒の声があがった。
「何事だ!?」
駆けつける兵の気配に、キヌゴシーは地を蹴った。
逃げる。その間に仲間が別の場所で火を放ち、混乱を引き起こす――予定通りとは言い難いが、結果として敵の注意は逸れた。
燃え上がる外郭。叫びと怒号の中を、彼らは突入する。
「公爵を探せ!」
キヌゴシーの声に従い、アリスが魔法で扉を吹き飛ばす。
血と炎の迷宮。その最奥、拘束されたまま倒れていた老貴族が目を開いた。
「……神よ、我を見捨てたまわず……」
「お目覚めですか、公爵殿。地獄からの使者にしては、なかなか頼れる連中でしてね」
キヌゴシーの皮肉に、公爵は目を細めて応じた。
「ふむ……ゼノビアの騎士ではなさそうだが、君たちは何者だ?」
「イヴァリースからの漂流者です」
その言葉に、公爵はしばし沈黙し――やがて口を開いた。
「……ならばこの戦に、君たちはどう関わるつもりだ?」
それは問いであり誘いであった。
「どう関わるか、ですって?」
キヌゴシーは肩をすくめた。炎の揺らめきが公爵ロンウェーの皺深い顔を照らしていた。
「こちらとしては、ただ元の場所へ帰りたいだけです。ですが……」
彼はちらとカチュアを見る。その視線は信義か打算か判然としない。
「そのために、一時的な協力関係を結ぶのは吝かではありません。人手が足りぬのなら、こちらにも事情がありますし」
ロンウェーは目を細めた。しばしの沈黙ののち、重々しく頷く。
「……よかろう。君には、アルモリカの騎士としての待遇を与えよう」
「それはまた、光栄なことですな」
にやりと笑うキヌゴシーの背後で、コットンがため息をつく。
「また厄介ごとに首を突っ込んだな」
だがフラミンゴは首を横に振った。
「違う。これは――立場を得るための手札だ。あいつは最初からそれを見越してた」
キヌゴシーは振り返らず、アルマとティータに視線を送った。
「しばらくはここに腰を落ち着けることになる。君たちの安全は俺が守る」
ティータが少しだけ微笑み、アルマは不安げに頷いた。
そして、民兵たちの訓練が始まる。
粗末な装備、経験も気力も乏しい彼らをどこまで兵に鍛え上げられるか。それはキヌゴシーとその仲間たちの力量に委ねられた。
漂流者が一つの軍団を率いる。
この不条理な運命に、彼はむしろ歓喜すら覚えていた。士官学校の教育成果が実証出来ると。
素人相手の訓練は予想通りの苦難だった。
槍を握る手は震え、号令の声はか細く、盾の構えは形ばかり。
村の農夫たちを兵に仕立てるには、あまりにも時間が足りなかった。
「貴族というのは、もっと根気強いものかと思っていたが?」
皮肉気に笑ったのは、かつてガルガスタン兵を斃した場にいた若者――デニムである。
「おや、平民にしては言うことが小生意気だな」
キヌゴシーは笑って返す。だがその目に怒りも侮蔑もなかった。
むしろ試すように見つめていた。
「根気強さは、兵を殺さず鍛えるための徳ではない。無能を見限るための試金石さ」
「なら、お前はこの民兵を見限るのか?」
「必要とあらば。……だが現時点では、使い捨てるには惜しい素材もいる」
デニムは返す言葉を失い、代わりにカチュアが一歩踏み出す。
「あなたのやり方には疑問があるわ。だけど、実際に兵が育っているのも事実」
キヌゴシーは肩をすくめた。
「兵は道具だ。だが丁寧に扱えば長持ちする。その程度の理屈だよ」
その夜。焚火を囲む中、ティータがそっと口を開いた。
「キヌゴシー様……貴族って、冷たいんですか?」
その問いに彼は少し黙り――やがて苦笑した。
「冷たいのではなく、冷たくなることを求められるんだ。貴族とはそういう役目だからな」
火の粉が夜空へと舞い上がる。
その下で少年少女たちは、それぞれの思惑と信念を胸に、次なる戦場へ向かっていくのだった。
戦の火蓋は、夜明け前に落とされた。
アルモリカ近郊、グロム峠。ガルガスタン軍の先遣部隊が、解放軍の拠点へ奇襲を仕掛けたのである。
凍てつく霧の中、警鐘が鳴る。
「敵襲――! 北側斜面より多数接近!」
民兵の叫びに、キヌゴシーは即座に指示を飛ばした。
「第二列を迂回路に、第三列は崖下を警戒。アリス、火術の準備!」
「了解、ファイラ詠唱に入る!」
混乱する新兵たちを叱咤しつつ、彼は自ら前線に立った。
敵は統率に欠ける雑兵ばかりだったが、数は侮れない。
「一つ、二つ……さて、何人まで殺せるかな?」
剣が振るわれ、返り血が地に染み込む。フラミンゴが背後を援護し、コットンが崖上から矢を放つ。
「背中を見せたら死ぬぞ、クソ坊主共!」
アリスの炎が敵陣を包み込む。
混戦の中、カチュアとデニムも刃を交えていた。
「やるじゃねえか、平民」
敵の首を切り飛ばしながらキヌゴシーが呟いたその刹那、敵の指揮官らしき重装の男が突撃してくる。
「アルモリカの狗どもめ……!」
「おっと、吠えるだけなら犬でもできる!」
キヌゴシーの剣が敵の刃を受け、流し、返す。鎧ごと肉を裂く感触が腕に残る。
短く悲鳴を上げて倒れる男を見下ろし、彼は呟いた。
「名も無き敵に、名も無き死を。これが戦場の掟だ」
そしてとどめを刺した。
頑強な抵抗により攻撃を破砕され、やがてガルガスタン兵は撤退し、グロム峠は解放軍の手に確保された。
だが勝利の代償として――何人かの若き命が、霧に呑まれたまま還らなかった。
戦後の空気はいつも冷たい。
勝利の報せが城に届くと同時に、戦死者の名もまた顕彰碑に刻まれた。
初陣で斃れた少年、無名の兵士、そして名を持たぬ民――誰の死にも区別はなく、ただ戦果」の裏に並べられるだけだ。
キヌゴシーは手帳に目を落としながらつぶやいた。
「十七名。少ないとは言わんが……想定の範囲内だ」
カチュアが睨みつけるように言う。
「あなたにとっては、すべて計算済みの損失……そういうことなの?」
彼はため息をついた。
「すべてを救えると思うな。誰かを守るためには、誰かを犠牲にせねばならん。君だってもう分かっているはずだ」
「でも、それを当然だと思いたくない」
そう言い捨てカチュアは去った。後を追うように、デニムも唾を吐いて背を向ける。
「しょせん素人の平民か……」
取り残されたキヌゴシーに、アルマがそっと声をかけた。
「あなたのやり方、私は嫌いじゃない。でも、誰もが同じにはなれないわ」
「知ってるさ。だが俺は俺のやり方を変える気はない。守るべきものがある限りな」
その時、伝令が駆け込んできた。
「報告! 南の港にて、ロスローリアンの紋章を掲げた部隊を確認!」
その名を聞いた瞬間、場の空気が変わった。
ローディス教国教皇直属の黒き騎士団。絶対の信を背負い、あらゆる戦場で血を流してきた者たち。
キヌゴシーの瞳がわずかに細められる。
「ついに……怪物が現れたか」
ヴァレリアの地に、嵐の予感が満ち始めていた。
南の港町エグロス。霧深い朝、その静寂を破って異邦の鉄靴が大地を踏み鳴らした。
黒鎧をまとった騎士たち――ロスローリアン。その先頭に立つのは、片目に包帯を巻いた壮年の戦士であった。
「この地に反逆の芽ありと聞く。潰さねばな」
低く響く声に、部下たちは無言で頷く。
整然と進軍するその姿は、単なる軍勢ではなく宗教的儀礼の行進にも似ていた。
一方、アルモリカ城では作戦会議が開かれていた。
「ローディスの正規軍……それもロスローリアンが動いたとなれば、これはもはや内戦ではない」
公爵ロンウェーの顔色は、明らかに青ざめていた。
士官学校の教え通りに、敵の可能行動を分析するキヌゴシー。
キヌゴシーは地図の上に指を置き、静かに告げる。
「奴らの目的は秩序の強制だ。見せしめとして徹底的な殲滅を行うはず。まず狙われるのは、このアルモリカです」
敵の兆候から予想戦場となる地域を割り出した。
「我らに抗う力など……」
老臣らの声が揃う中、デニムが拳を握る。
「ならばここで抗わねば、すべての民がただの捧げ物になる!」
沈黙ののち、実行の可能性からキヌゴシーが頷いた。
「全面戦争に備えましょう。だが正面から挑むのは愚策です。こちらにも手段はある」
「策があるのか?」
「はい。……火と言葉と裏切りで」
その瞬間、会議室の温度が数度下がったように感じられた。
英雄か奸臣か――このとき誰もが、彼の正体を測りかねていた。
夜陰に紛れて進む影があった。キヌゴシーはフードを目深に被り人気のない街路を抜ける。
敵の所在と企図が明瞭な時ほど動きやすい事はない。
目的はただ一つ――密通と裏切り。戦いは剣だけでは決まらない。情報と交渉、それこそが勝敗を左右する。
彼が足を運んだのはバクラム人商人の屋敷。中立を装いながら三国間を渡り歩く影の商人たちだ。
「なるほど。ローディスと繋がる裏口が欲しいと?」
主の男は口髭を撫でながら笑う。
「あるいは彼らの計画を一歩先に知る手段でも」
「どちらにせよ代価は?」
キヌゴシーは懐から文書を一通、机の上に置いた。それはガルガスタンの次なる動向を示す偽文書だった。
「これは……面白い。使い道はありそうだ」
握手は交わされなかった。ただ視線だけが交差した。