妻との出逢い   作:キューブケーキ

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妻との出逢い 2/2

 アルモリカの民兵たちはひたすら訓練を続けていた。武器の扱いに慣れ始め声も揃い出した。

「戦える……かもしれないな」

 デニムがぽつりと漏らす。だがその横で、カチュアはまだ憂いを帯びた目で遠くを見ていた。

「でも何かがおかしい。戦いが始まるのに、あの人の目だけが楽しそうに見える」

 その視線の先にいたキヌゴシーは、ただひとり、帳の外にいるかのような微笑を浮かべていた。

 そしてついにアルモリカの門前に黒き旗が翻った。

 ロスローリアン本隊の進軍。重装の騎士、聖印を掲げた僧兵、魔術師と戦象を従えた隊列は、まさに神の鉄槌の如き威容であった。

 城壁の上、キヌゴシーは冷ややかに言い放つ。

「綺麗に整った布陣だ。こちらに対する敬意と余裕の現れだな」

 隣のフラミンゴがうめく。

「大将、笑い事じゃねえぞ……」

「いや笑っておこう。死ぬ前くらいはな」

 その時、伝令が駆け上がる。

「報告! ガルガスタンの一部部隊が、ローディス軍と交戦状態に入りました!」

「……釣れたな」

 キヌゴシーの笑みが深くなる。

「奴らは同盟など結べていない。ただ敵の敵というだけ。そこに揺さぶりをかければ、崩れるのも早い」

 策は成功していた。先に交わしていた商人との取引で、偽の命令文と密通情報がばら撒かれていたのだ。

 敵陣に混乱が走る。

 その隙を突いて、キヌゴシーは指を振った。

「全軍、突撃! 今だ!」

 開門と同時に突撃するアルモリカ兵。整備され始めた民兵たちは、死に物狂いで剣を振るい、盾を構えた。

 混乱するロスローリアンの先鋒が押し戻される。

 戦場の中、キヌゴシーは独りごちた。

「神の兵に人の謀が通じるか……試してみる価値はあるさ」

 戦の終わりは、常に唐突に訪れる。

 ロスローリアン先鋒部隊の敗走。炎に包まれた戦場に勝者の凱歌はなかった。

 ただ疲弊と空虚、そして泥と血の匂いが残った。

 キヌゴシーは剣についた脂肪分と血肉を拭い、地に落ちた兜を踏みつける。

「神の兵とやらも所詮は人間。死ねば終わりだ」

 傍らに立つアルマは、震える声で尋ねた。

「こんな……ことをしてまで、あなたは勝ちたかったの?」

「勝ったから生きている。生きていれば次がある。誰かを守るとはそういうことだよ」

 彼の声音には熱も怒りもなかった。ただ、決まり切った事実を読み上げるような冷静さだけがあった。

 その夜、アルモリカの城壁内で祝勝の宴が開かれた。

 だが浮かれる者は少なかった。

 キヌゴシーは人混みを避けて、静かな回廊に立っていた。

 背後から足音。振り返るとカチュアがいた。

「勝利の代償として、あなたは何を得たの?」

「……立場と時間。あと、少しばかりの信頼」

「でもそれ以上に、あなたは多くを失ったわ」

 彼は答えなかった。ただ夕月に照らされた城の中庭を見つめ続けていた。

 その視線の先――ロスローリアンの再編成が、すでに始まっていることを、彼は知っていた。

「ちょっと皆に声をかけておくよ」

「そう……」

 風が止み、焚火の火が細く揺れた。

 訓練場に集まった若き兵士たち、そしてカチュア、デニム、アルマ、ティータが視線を向ける先――キヌゴシーは、手袋を外して素手で土を掬い取った。

「……俺は、甘い」

 その声は静かだった。だが確かに全員の胸に届いた。

「女子供は死なせたくない。……誰だってそうだろう。だが俺はそれを言葉で済ませたくない」

 彼は立ち上がり、手のひらの土を握りしめる。

「仲間と認めた者たち――この場にいるお前たちだ。その命は何としてでも守り抜く。生きて故郷に帰してやりたいと心から思っている」

 ざわめきが広がる。けれど誰一人、口を挟むことはなかった。

「それが貴族の責務だとも思っている。身分や階級なんて戦場では盾にもならん。ただ責任だけが残る。……だからこそ」

 彼はすべての視線を一身に集めて言い放つ。

「俺は――この戦に勝って生き残ってやる。お前たちと共にだ」

 炎がはぜた。誰かが剣を抜き天に掲げた。

「おおおおおっ!」

 歓声があがる。若き兵たちが、初めて己の戦を誇りとして認めた瞬間だった。

 そしてその中心に立つキヌゴシーの瞳は、なお冷静に、なお鋭く、だがわずかに温かかった。

(……甘さが命取りになるか。それともこの甘さこそが、俺を人間に留めてくれるのか)

 彼はまだ、その答えを知らない。

 夜半、見回りを終えた兵士たちの間に、奇妙な静けさが流れていた。

 それは敗北の予感ではなかった。むしろ彼らが今初めて生き残りたいと願い始めた証だった。

 キヌゴシーは、仄暗い回廊をゆっくりと歩いていた。

 すれ違う若者たちが僅かに頭を下げる。

 その視線に敬意が宿りはじめているのを彼は見逃さなかった。

(……火は灯った)

 その火を絶やさぬために彼は振る舞う。

 指揮官として、指揮下部隊に当該任務の目的・目標を明確にして、自主積極性を助長する様に訓示を与え、笑顔を交わし、傷ついた者には膝を折って声をかける。

 そして帳の奥――少女たちの天幕の前で、深く息をつく。

 貴族であるということ。それは、剣や知略だけではない。

 ときに柔らかく囁き、ときに抱きしめ、心に火を灯す役目をも担う。

「宣撫や士気を上げることも、睦事で甘く囁くことも……すべて貴族の責務だ」

 自嘲のような微笑を浮かべ、彼は布をそっとくぐる。

「ティータ。夜風が冷たい。少し話さないか?」

 少女は驚いたように目を見開き、やがて――小さく頷いた。

 甘い言葉も優しい抱擁も、すべてが戦の一部であると彼は知っていた。

 そして今宵もまた誰かの心に、生きる理由の火を灯すのだった。

 戦場は剣と血だけで築かれるものではない。

 とりわけ若き兵が多くを占める軍では、心こそが最も脆く最も貴重な資源となる。

 キヌゴシーはそれを知っていた。

 否、彼は誰よりもそれを信じていた。

 だからこそ――少女たちを、甘く、優しく、蕩けるように染める。

 アルマには聡明な敬意を。ティータには守られる安心を。カチュアには誤魔化しの効かぬ真実と温もりを。

 その言葉は柔らかく所作は丁寧で、指先は決して乱暴でなかった。

「君たちがここにいてくれる。それだけで俺は剣を振るう理由がある」

 そう囁く声に少女たちは静かに頬を染め、身を寄せてくる。

 欺きではない。下心だけでもない。

 ――信頼と絆の構築のため。

 彼にとってそれは戦略であり、生き様であり、そして何よりも優しさだった。

 血に染まった戦場で、少女たちの柔らかな髪を撫でるたび、彼は確かに人間であり続けた。

 それが偽善だと誰かが言うならば、キヌゴシーは微笑んでこう答えるだろう。

「偽ってでも優しさを示す方が、剣よりも救いになる夜もある」

 彼の夜はそうして更けていった。

 

 

 

 朝靄の中、天幕から出てきたティータは頬に微かな赤みを残していた。

 隣を歩くアルマもまた、どこか柔らかくなった表情を見せる。

 そしてそれを誰より敏く見抜いたのは――カチュアだった。

 彼女は夕暮れの砦の回廊でキヌゴシーに向かって言った。

「あなた……何人に同じことを言ってるの?」

 問いは冷たくも鋭くもなく、ただ淡々としていた。だがそれがかえって彼を試す。

 キヌゴシーは、曖昧に笑って見せた。

「言葉は同じでも想いは違う。ティータには守られる安心を。アルマには心許せる理解を。そして君には……」

「私には?」

 何かを試す様に、顔を近づけるカチュア

 わずかに間を置き彼は言った。

「君には、真実を語る資格がある」

 カチュアは目を細める。その意味を測るように。

 重ねられる唇。けれど拒絶の色はなかった。

 ――同時に、軍の中で変化が起きていた。

 兵士たちは士気を保ち、互いに言葉をかけ合い、誰かを守るために動き出していた。

 その中心に立つキヌゴシーの姿は、もはやただの外様ではなかった。

 少年兵が言った。

「トウフ様のいる場所が、俺たちの陣だ!」

 誰かが応じ声が連なる。叫びがひとつの節になり、軍となり、意思となる。

 キヌゴシーはそれを見て低く呟いた。

「女のぬくもりも、兵の信頼も……全部、俺が背負う」

 そしてその重さに決して膝を折らぬよう、背筋を伸ばした。

 戦雲が濃くなるにつれ、ヴァレリアの地はひたすらに重苦しさを増していた。

 それでも、アルモリカ解放軍の中では奇妙なほど空気が安定していた。

 敗北と死の恐怖が薄れたわけではない。むしろ、皆がそれを理解し受け入れていた。

 ――それでも、自分たちは生きて帰る。

 そう信じられるだけの何かが、今は確かにあった。

 それはキヌゴシーの存在であり、彼の放つ言葉であり、背中で見せる態度だった。

「おい、見たか。ティータ様が花を飾ってたってよ。トウフ様のために」

「アルマ様もだ。お守りを縫ってたって噂だぞ」

「ははっ、そりゃ戦場に出る甲斐があるってもんだ」

 兵たちの笑い声が砦にこだまする。血と鉄の匂いに塗れたこの場所で、そんな声が響くこと自体が奇跡のようだった。

 一方で、カチュアは静かに彼を見つめていた。

 決して頷きもしない。けれど拒絶もしない。

 キヌゴシーはそれを理解と呼んだ。

(絆とは言葉で確かめ合うものではない。交わる意思が、重なる沈黙がそれを繋ぐ)

 自らの手で少女たちの心に触れ、兵たちの信念に火を灯し、戦場の秩序を作る。

 それが彼にとっての貴族の責務であり、今や誇りだった。

 そして、ついにその日が来た。

 夜明け前の濃霧の中、哨戒に出ていた兵が悲鳴を上げながら城門へ駆け込む。

「敵襲――! 西の尾根から、ロスローリアンが接近中!」

 鐘が鳴る。兵たちが跳ね起き、武具を身につけ叫びが飛び交う。

 だが混乱は長く続かなかった。

 中央の広場に立った一人の男が、すべてを押しとどめる。

「落ち着け。状況は想定の範囲内だ」

 その声は熱くもなく冷たくもない。だが確かに皆の耳に届き、膝の震えを止めさせた。

 キヌゴシー・トウフ。

 士官候補生として漂着した異邦人は、今やこの砦の柱になっていた。

「さて、これから敵の主攻撃正面の判定だな。アリス、準備は?」

「陣地防御一般の要領に従い、攻撃準備破砕射撃の準備完了済み。前方地域の離脱開始はいつでも始めて」

「よし。フラミンゴ、チョコボ隊を東へ回せ。後詰の偽装だ」

 チョコボの機動打撃が、霧に乗じて接近すれば、敵が先に痛みを見る。

「任された!」

 その背中を誰も疑わなかった。

 ティータは弓を握り、震えを抑えながら言った。

「キヌゴシー様……私、あなたに守られるだけじゃなくて……あなたを守りたいんです」

 彼は静かに微笑んだ。

「なら傍にいてくれ。それで俺は立てる」

 少女の手がほんのわずか、彼の指先に触れた。

 霧が割れ戦が始まる。

 命を守り、愛を抱き、誇りのために剣を振るう――キヌゴシーにとって、それは最も自然な生き様だった。

 戦端はすでに開かれていた。だがキヌゴシーの思考は常に次にあった。

 公爵の主要決心がどうであれ、敵を退け、砦を守る――それだけでは意味がない。

 翌朝、作戦室にて彼は仲間を前に地図を広げ、静かに語り始めた。

「叛乱鎮圧の定石は、敵策源地の掃討だ。正規軍の会戦の目的もまた、敵野戦軍の撃滅にある。つまりどちらも根本は同じだ」

 コットンが眉をひそめる。

「つまり……俺たちがやるべきは、砦を守ることじゃなくて……?」

「ああ。敵の継戦能力を徹底的に奪うことだ」

 地図の一点に指を置く。ロスローリアンの補給拠点とされる小谷の集落だ。

「敵は物資を地元から徴発している。あの村を潰せば補給線が断たれる」

「だが民間人が――」

 デニムが言いかけたが、キヌゴシーは遮らなかった。ただ先に口を開いた。

「民を殺す必要はない。だが敵の兵站を破壊する。それだけは譲れない。情と戦略を秤にかけるなら勝利が常に重い」

 静かな言葉に誰も反論できなかった。

 彼の目には勝つという一点しかなかった。そこに私情も容赦もなかった。

 アルマが声を落として呟いた。

「それでも……あなたが指揮を執るなら、私は信じる」

 その言葉は重かった。そして深く響いた。

 兵たちが動き出す。

 この戦いの目的は、もはや生き残るためだけではない。

 ――敵を絶つための戦争が、いま始まろうとしていた。

 

 

 

 

 出撃前夜、砦には一種の沈黙が満ちていた。

 作戦は決定し、部隊は準備を終えていた。あとは夜が明けるのを待つだけ――ただそれだけのはずだった。

 だがキヌゴシーのもとに、二つの気配が静かに近づいていた。

 アルマとティータ。

 焚火の灯が照らす幕の奥、彼女たちは言葉もなく並んで立っていた。だがその瞳は語っていた。

「……お願いです。今夜だけは……」

 先に口を開いたのはティータだった。その頬は紅潮し、けれど視線は逸らさなかった。

 アルマは何も言わず、ただその手を彼の胸元にそっと添えた。

「明日、あなたが死ぬかもしれないと思うと……黙って見送るなんて、できない」

 声が震えていた。

 キヌゴシーは深く息を吐いた。戦場では誰よりも冷静で計算高く振る舞う彼も、今だけは逃げなかった。

「……分かった」

 その言葉は誓いでも命令でもない。ただ静かな了承だった。

 幕の内に灯がともる。

 少女たちを抱きしめる腕は、戦を知る武人のそれではなかった。

 彼の本質、優しさと温もりが今だけはそのまま差し出された。

 唇が触れ合い、鼓動が重なり声が漏れた。

 ――これは約束ではない。ただ、明日を迎えるために必要な夜だった。

 少女たちの指が彼の腕に絡み、彼の鼓動を確かめるように頬を寄せてくる。

「生きて、帰ってきてください……」

 その願いが戦の神に届くか否かは分からない。

 だが彼はそれに応えるように、しっかりとその身体を、想いを抱き締めていた。

 そして夜は明けた。

 濃い靄が砦を包むなか、部隊は静かに進発の構えをとっていた。

 兵たちの顔には緊張が張り詰めていたが、誰一人、臆して足を止める者はいなかった。

 その最前に立つキヌゴシーの表情は、どこまでも静かで揺るぎなかった。

 だがその胸の奥には、前夜の熱がまだ残っていた。

 アルマとティータの柔らかな吐息。指先の震え。祈るようなまなざし――

(俺は、彼女たちに生きて帰ると誓った。ならば、どれほどの非情でもやり遂げてみせる)

 彼の決意が風を切る。指揮棒を高く掲げ、低く力強く命じた。

「前進。敵補給線を断つ。目標は西の谷、グランベルト集落」

 号令と共に地が鳴る。

 兵たちはキヌゴシーの背に従い、まるで一本の槍のように整然と進んだ。

 彼らは知っていた。この戦いがただの小競り合いではないことを。

 敵の首根っこをへし折る一撃であり、自分たちが正規軍を揺るがす本物の軍団であることを示す試練であることを。

 だから誰もが、その背中に視線を向けていた。

 そしてキヌゴシーは、それに応えてまっすぐに戦場へと歩み出していた。

 すべては帰るために。

 少女たちの温もりのある場所へ――必ず、生きて。

 

 

 

 

 グランベルト集落、夜明け直前。

 敵はそこにいた。

 ロスローリアンの補給部隊。十数人の守備兵に加え、魔導士と小隊規模の偵察兵が展開していた。

 だがキヌゴシーは怯まなかった。

 

「アリス、南の林に火を放て。風向きは確認してある。煙が上がれば、敵は退路を断たれたと勘違いする」

「了解、発火魔法、準備済み」

「フラミンゴ、北西の丘へ展開。敵が右へ逃げれば追撃できる。コットン、右翼の射撃指揮を頼む」

 指示は簡潔明瞭で、的確だった。

 かつては実地訓練の延長でしかなかった戦闘が、いまや彼にとって構築であり演出であった。

 部下たちは疑問を挟まない。彼の指揮には、論理と直感、そして勝利への確信があった。

 漂流者仲間のひとりが呟く。

「……あいつ、変わったな。いや、違うな。元から将だったんだ。ただ場が追いついてなかっただけだ」

 やがて奇襲の号令が下る。

 炎と矢と魔法が交錯し、敵は瞬く間に混乱に陥った。

 キヌゴシーは自ら突撃隊を率い、前線で剣を振るう。

「敵指揮官を狙え! 将の首が落ちれば補給線は崩れる!」

 彼の声は剣戟と悲鳴の中でも、確かに響いていた。

 そして敵が崩れた。

 戦いの終わり、誰かが言った。

「キヌゴシー様は、もう士官候補生じゃない。俺たちの将だ」

 その言葉に彼は何も返さなかった。

 ただ剣を鞘に収め、炎上する集落を背に、再び歩き出した。

 勝利の余韻も冷めぬうちに、彼らは次の標的へと向かっていた。

 だが今度は戦場の主役ではなかった。

 ――彼らは影に徹した。

 キヌゴシーが選んだのは、後方攪乱だった。

「敵の主力と正面からぶつかる必要はない。兵団の動きは読まれやすく、重い。だが、俺たちは軽い。小さく、速く、的確に刺せる」

 それは奇襲でもなければ、単なる奇策でもない。

 兵団を混乱させ補給路を断ち、連絡網を裂く。そうして主力を焦らせることこそ、戦場の真価だった。

 敵の第二梯団は混乱した。火の出どころが掴めず、偵察は戻らず、兵站が三日止まり、士気が地に落ちた。

「小部隊ひとつに、千の兵が振り回される。後方攪乱ほど、効果的で鬱陶しいものはない」

 キヌゴシーの言葉にアリスが笑った。

「嫌らしい戦術ですね」

「誉め言葉として受け取っておこう」

 彼らは破壊し、奪い、火を放った。だが一人も捕虜を取らず痕跡も残さなかった。

 ――影のように現れ影のように去る。

 指揮官を失った敵部隊が、勝手に撤退を始めた。

 やがて、ロスローリアン第三梯団が緊急展開を強いられた。

 三百の騎士団が、わずか五十の遊撃隊を追って動く――その馬鹿馬鹿しさにすら気づけぬままに。

「我らは本隊ではない。だからこそ、本隊以上に戦果を挙げられる」

 それはキヌゴシーの思想となり、やがて兵たちの誇りへと変わっていった。

 戦乱のただ中にあっても、火を囲む静けさがある。

 ある夜、遊撃からの帰還後、キヌゴシーは焚火のそばに腰を下ろしていた。

 その隣に、補給部隊と共に訪れたティータが黙って寄り添う。少し離れてアルマが見守り、カチュアはそっと背を向けるようでいて、決して遠くはなかった。

 フラミンゴとアリスが、火の向こうで小声で何か話している。デニムは寝袋の中から目だけをこちらに向けていた。

「……不思議なものだな」

 キヌゴシーがぽつりと漏らす。

「人を殺し、村を焼き、兵を振り回す俺に……お前たちは、まだ信頼や温もりを向けてくれる」

 誰も何も返さない。

 だがその沈黙こそが答えだった。

 愛――守りたいと願われ、求められる存在であること。

 友情――言葉を交わさずとも、互いに背を預け合える距離。

 忠誠――命令ではなく、意思でついてくる者たちの誇り。

 それらすべてが、キヌゴシーという一人の男に集まっていた。

「俺は間違っていないか?」

 問いかけは誰に向けられたものでもなかった。だがティータがそっと彼の手を握り返した。

 アルマが微笑み、カチュアが小さく息を吐いた。

 誰かの足音が火の輪へと加わる。その輪はもう崩れそうにない。

 キヌゴシーは微かな熱を指先に感じながら、静かに眼を閉じた。

(ならば、この命――燃え尽きても悔いはない)

 そう思えた夜は、生まれて初めてだった。

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