『ひっぐ……えぐ……うぇ』
少年が一人、部屋の隅で壁を背にして塞ぎこんでいた。
傍らにはヒビの入ったマグカップが一つ置いてあり、ヒビの部分にはセロハンテープが無造作に貼られている。
微かに漏れる嗚咽が、少年が壊してしまった事を暗に告げていることがわかる光景だ。
切欠は些細なことだった。
飲み物を飲もうとお気に入りの
そう、少年は落としてヒビを入れた訳ではなく、カップをただ
しかもこれは大切な人からの
それを壊してしまったという罪悪感とまたやってしまったという後悔の念……それらがごちゃ混ぜになり、少年はついには泣くことしか出来なくなっていた。
かれこれ一時間こうして
『あっくん?』
ひょこっと顔だけ覗かせ、奥に居る少年の名前を呼ぶ女性が現れる。
ビクッと僅かに身体を震わせ、あっくんと呼ばれた少年はゆっくりと顔をあげた。
『お、おかーさん……』
『あらら、こんな所で何してるのかと思ったら……どうしたのあっくん?』
言いながら部屋の明かりを点けて見ると、そこで彼女は少年の涙の理由を理解した。
同時に少年も彼女の視線に気がついたようで、更に目元に大粒の涙を溜めることになる。
『…………、』
『ご、ごめんなさ……』
彼女の表情が険しくなっていく。
もう謝るしかないと悟った少年は震えた声で必死に謝ろうとする
『ちょっと! あっくん大丈夫!? 怪我は無い?』
が、彼女がこちらに物凄い勢いで迫ってきたために最後まで言うことが出来なかった。
てっきり怒られるかと思っていた少年はそれだけで呆気に取られてしまう。
『……うん、どこも怪我してないね。よかったぁ~』
念入りにチェックを入れた後、心底安心したような
『なんで……』
『うん?』
『なんで怒らないの? ぼくはおかーさんからもらったものをこわしちゃったんだよっ! このまえだって……』
ぽろぽろと喋るのも億劫なぐらい涙が溢れてくる。
『あっくん』
対して彼女のとった行動は、少年を抱き寄せることだった。
彼女の温もりが、少年を包み込む。
『いいの。コップなんてまた買ってあげるから。だからほら、泣かない泣かない』
『ひぐっ……ごめんなさい、ごめんなさい』
顔を埋めながら、ただただ少年は謝る。
そんな少年の頭をゆっくり、優しく彼女は撫でる。
数分の間この状態を維持した二人は、やがて少年の方から離れた。
その目元は案の定、赤く腫れ上がっていた。
『落ち着いた? あっくん』
『……ん』
コクッと小さく頷く。
よかった、とニッコリ微笑んで返す彼女に、少年はひび割れたマグカップを渡した。
『ごめんなさい。おかーさん』
『さっきも言ったでしょ? あっくんが怪我してなければいいよ。また買ってあげるから』
『やっぱり……』
ポツリ、と一つ言葉を漏らす。
目の前の彼女が反応するが、構わず少年は続ける。
『やっぱりぼくは――――”ばけもの”なのかな?』
『……っ!? あっくん、なに言ってるの』
だって、と止まったはずの涙が再び溢れ出してくる。
『ようちえんで、みんながいうんだもん。”ばけもの”、”かいぶつ”って』
いつだか、少年に突っかかってきた一人の男の子がいた。
理由は単純で、砂場で遊んでいた所をその男の子が独り占めにしようとしたことが理由だった。
これだけ話を聞く限りだと悪いのはその男の子なのだが、その後が問題だった。
男の子は砂場で遊んでいた少年のシャベルを無理矢理奪い取り、一言「でていけ!」と言い放ったのだ。
その言葉にムッときた少年は、立ち上がり男の子を
普通ならばただの子供の小さな喧嘩で済むはずのものだったのだが、如何せんそうもいかなかった。
――――突き飛ばされた男の子は三メートルもその身を転がしていたのだから。
それはとても異様な光景だった。
周りの子供達も、一緒に遊んでいた先生も唖然とその場では眺める事しか出来なかった。
皆が正気に戻った時には、既に男の子が土煙をあげながら地面に横たわっていた時だった。
『ほんとに、かるくおしただけなのに……ボールみたいにころがってったんだよ! あのときのみんなの目が……ほんとうにこわかった』
『…………、』
『ぼくは”もの”だってかんたんにこわしちゃう。”ひと”だっていつか――――』
『落ち着きなさい。あっくん』
コツン、と彼女の額が少年の額と合わさった。
いつの間にか自棄になっていた少年も彼女の行動でハッと、正気に戻る。
『おかー……さん?』
『目を瞑って』
え? っと思わず声が漏れる。
『なんで目をつぶるの?』
『ふふ、おかーさんがあっくんに”魔法”をかけてあげる』
『まほう?』
なんだろう、と首を傾げるが、早く早くと促されてしまい、少年は慌ててギュッと目を瞑った。
『じゃあ、そのままでねー。さーん、にー、いーち……』
真っ暗な視界の中で、彼女の秒読みが少年の耳に入る。
一体どんな魔法なのだろうか、と内心少しばかりワクワクしていた。
『ゼロっ! もういいよあっくん。目を開けてごらん』
『う、うん……っ! うわぁ~~』
パッと目瞼をあけると、そこに映っていたのは薄暗い部屋ではなく
『すごーーい! きれー』
何処かの丘の上だろうか。
吹き抜ける風を肌に感じながら少年の視界全体には、町が広がっていた。
『すごいよ! おかーさん。どうやったの!!?』
ぴょんぴょん跳ね上がる少年を、彼女は笑みを浮かべながら眺めていた。
『ふふん! これがお母さんの”魔法”の力だよ』
『まほーすごーい!』
先ほどまでの涙はどこへいったのやら。
少年は目をキラキラと輝かせてその先に広がる町を見下ろしていた。
その横に彼女は並んで同じく町を見下ろす。
『海鳴がよく見えるでしょあっくん』
『うんっ! すごいきれーだよ』
『ふふ、良かった。喜んでくれて』
少年の頭を撫でて彼女は地面に腰掛けた。
つられて少年もちょこんと横に座り、二人で町を眺める。
『あっくん』
『なーに? おかーさん』
不意に彼女が少年の名前を呟く。
『これから先、いろんな事があっくんにあると思う』
『いろんなこと?』
いまいち意味を理解していないのか、少年は小首を傾げていた。
それでも構わず、彼女は言葉を紡いでいく。
『うん、いろんなこと。辛いことや悲しいこととかいっぱいね』
『こわいの?』
『怖いこともあるよ』
『うぅ~~……』
少年の問いに素直に答えると、今にも泣き出しそうになる。
『けどね、それと同じぐらい楽しいこともいっぱいあるんだよ』
『たの、しい……?』
『そ、あの町みたいにキラキラが沢山あるんだよ。辛いことも、悲しいことも……怖いことだって全部吹き飛ばしちゃうぐらいのね』
だから、と一呼吸置いて彼女は少年を抱きかかえると、そのまま肩車をし始めた。
『うわわっ!』
『だからあっくんも、強くてカッコいい男の子になりなさい! お母さんは何時までもあっくんの味方でいるから――』
『うわーー! たかーいっ!!』
ぐん、と立ち上がり少年の視界は一気に天高く舞い上がる。
今にも空に届きそうな程の視界の変化により、少年の顔を満面の笑みを浮かべていた。
そんな少年をよそに彼女は小さく苦笑を浮かべることになる。
『あらら、この子話聞いてたかしらね。せっかくカッコよく決めたのに……まぁ、いいか』
何時までもこんな楽しい時間が続けばいい、と肩にかかる息子の重さを実感しながら、二人は完全に日が落ちるまでの間、この風景を目に焼き付けていた。
◇
「――――っあ」
目が覚める。
バッ、と起き上がり時計を確認してみると、時計の短針は”四”を指し示していた。
「ああ、居眠りしちゃってたか。もう夕方じゃん……腕も痺れてるし」
欠伸をしながら身体を大きく伸ばし、固くなった筋肉を解していく。どうやらテーブルの上で腕を組んで寝てしまったらしく、ぴりぴりと腕が痺れていた。
「はぁ……また昔の夢、か」
窓辺からは夕日が射しかかり、部屋全体が淡い”あか”に染め上げていた。
――――最近、懐かしい夢をよく見る。
前から昔の夢を見ることはあった。それらはふとした切欠で忘れてしまいそうな、そんな儚いものばかり。
だが、ここ最近の夢は本当に当時に戻ったような、変にリアルな夢なのだ。
さらには夢を見る回数だ。一週間に一度昔の夢を見れるとするならば、現状はほぼ毎日見ている事になる。
これは流石に偶然を通り越しているようにしか思えない状況だった。
「それとも、今更ながら寂しくなっちゃったか~俺?」
おどけながら問いかけるように呟く。
が、返ってくるのは勿論静寂のみ。
当然、今このリビングには自分一人しかいないのだから当たり前だが。
「そういや……お前も一緒だったな」
傍らには一冊の鎖の巻かれた本が置いてあった。
秋人は
(しかしまぁ、何で俺はこの本が気になるんだろう? はやてのモノなのに)
鎖がまかれ、中身が閲覧できないめずらしい本だからか?
「……分かんないな」
どうにも昔の夢を見た後だからか、うまく考えがまとまらない。
ポリポリと頭を掻きながら立ち上がり庭のほうへと足を運ぶ。
「――――お?」
外の空気を吸おうと窓を開けてみると、そこには普段居ない筈の客がいた。
「…………、」
猫だ。
こちらの存在に気づいても鳴き声一つ出さない、かといって逃げる素振りも見せない奇妙な猫が一匹縁側で腰を落ち着けていた。
「なーんだ。
言いながら猫の隣に移動した秋人はそのまま隣に腰を落とす。
猫は逃げなかった。
普通ならば警戒し距離をおくか、脱兎の如く逃げ出す筈なのだが、この猫は変わり者のようでどちらの行動もとらない。
最初の頃は人懐っこい猫なのかと秋人は考えていたが、それもすぐに違うことを理解した。
自分からは近づこうとしない、餌を持ってきても食べようとしない。
これのどこか”人懐こい猫”に当てはまるだろうか。
それに首輪などの飼い猫の証もなく、野良猫なのだからなお更驚きだ。
「
「……にー」
基本こちらの呼びかけには答えてくれない猫なのだが、今日に限っては反応を示した。
今日は機嫌が良いのかもしれない。
(しかしまぁ、よく逃げないよなこいつ)
本当に変わり者だな、と夕日を眺めながら小さく溜息をつく。
「にやぁ」
「なんだよ。今日はやけに鳴くな――――って!?」
視線を猫の方へ戻してみると、丁度手に持っていた”鎖の本”に猫が触れようとしていたところだった。
慌てて、触れさせまいと本を上に持ち上げた。
「ダメだぞ。勝手に触っちゃ……傷でもついたら大変だからな」
「…………、」
そう言って本を足元に持ってくると、それ以降猫は行動を起こす事はなかった。
猫は興味を失ったかのように意識をあさっての方へ視線を向け始めたので、秋人もつられてそちらに目をやる。
そこに映ったのは、一台の高級車がちょうど家の前に停車した所だった。
「ん? あの車は確か……」
直後、一人の男性(恐らく運転手)が車のドアを外から開けた。そして車内から現れたのは、車椅子に乗ったはやてだ。
秋人は立ち上がると、一度鎖の本をリビングに戻してから庭にあったサンダルを履いてそちらの方へと歩を進めた。
「よぉ、おかえりはやて」
「あっ! 兄ちゃんただいまー」
秋人の声に気がついたはやては嬉しそうに言葉を返していた。
「あぁ」と返事を返すと、不意に車の窓が開いて中から一人の女の子が顔を出した。
「それじゃあはやてちゃん。またね」
「うんっ! 今日はありがとうな、すずかちゃん」
すずかは微笑んで頷き視線を今しがた来た秋人の方へ向ける。
視線に気がついた秋人も彼女と同じように微笑を浮かべながら互いの視線を交えた。
「何時もありがとうねすずかちゃん。うちのはやてがお世話になって」
「お兄さん……いえいえ、こちらこそ。何時もはやてちゃんを連れまわしちゃってお兄さんにはご迷惑を――――」
「いやいや、迷惑なんて欠片も思ってないからさ。むしろ感謝してるよ。君とアリサちゃんやなのはちゃんには、ね。本当にありがとう」
「い、いえいえ……」
すずかは若干恥ずかしそうに両手をぱたぱた動かす。
そんな様子を見た秋人は思わずクスッと笑ってしまう。
「わ、笑わないで下さいよお兄さん……」
「はは……ゴメン。つい」
二人で会話に華を咲かせていると、いつの間にか蚊帳の外になりつつあるはやてが「こほん!」とわざとらしく咳払いをし始めた。
その行為に二人はハッと気がつき
「あぁ……悪いはやて。すっかり忘れてたよ」
「ごめんねはやてちゃん」
「二人とも酷いっ!?」
「えぇ! なんで!?」
ガーンと彼女の背後にそれが浮かび上がるようなリアクションに対し、すずかは驚き、秋人は内心ほくそ笑んでいた。
すずかに至ってはまさに言葉の通りの謝罪のはずが、秋人がふざけているために彼と同様にふざけているものだとはやては解釈してしまったようだ。
勿論すずかはそんなことは解る筈もなく、友人の突然の反応に慌てることしかできなかった。
「二人とも酷い……わたしの存在を忘れてイチャイチャして……」
「は、はやてちゃん! ち、違うよそんなつもりじゃ……」
およよ、とはやてはわざとらしく泣き始めた。それを見たすずかはさらに慌て始めてどうしたらいいか解らなくなっていた。
流石に可哀そうになってきた彼女を見兼ねて、秋人ははやての頭部に向かってチョップをかます。
「あうっ」と小さく声を漏らし、はやては両手で頭を押さえる。
「いきなり何すんねん兄ちゃん!」
「あんまり意地悪してやるな。すずかちゃんが困ってるだろ?」
ほら、と視線をすずかの方へと移すと、確かに困り顔で二人のやり取りを眺めていた。
「あっ……ごめんすずかちゃん。悪ふざけが過ぎたわ」
「う、ううん。別に大丈夫だよ」
素直に謝るはやて。すずかも先ほどの流れが悪ふざけと解ると、いつも通りの笑顔ではやての謝罪を受け取っていた。
「ほんますずかちゃんは優しいなー……どっかの意地悪さんとは大違いや」
「おいおい、どういう意味だそれは?」
訝しげな妹の視線と何処か含みのある言葉に秋人は眉をひそめる。
「元はと言えば兄ちゃんがあんな言い方するからいけないんや」
「うぐっ!?」
痛いところを突かれ、思わず声を漏らしてしまう。はやても兄の反応に対して「やっぱり」と溜息交じりに口にしていた。
「いや……お前ならノってくれるかなーなんて考えててさ、つい」
「”つい”て……まぁ、ノったわたしも悪いんやけど……」
呆れ半分、後悔といった所か。どうにもバツの悪い表情を浮かべながらはやては兄から視線を外し、もう一度すずかの方へ戻す。
「ごめんなー……わたし達で勝手に話進めてしもうて」
「ううん、気にしないで。はやてちゃんとお兄さんは仲がいいんだね」
最初の方は戸惑いを隠せていなかったすずかだが、二人のやり取りを見ている内にそれが彼女達なりのスキンシップだと解ると、自然と笑みを零していた。
当の本人も真正面から、それも率直な一言に恥ずかしくなったのか、「そ、そやね」と視線を泳がせながら小さく呟いていた。
「まぁな。俺とはやての兄妹仲はそんじょそこらのとはわけが違うね」
「も、もうっ! 兄ちゃん恥ずかしいからやめてや!!」
しかし兄のほうは特に恥ずかしがることもなく、当然の如く肯定を示していた。
それがはやてにとって余計に照れくさいのか、秋人の袖をぐいぐい掴みながらやめるようにと訴えかけていた。
(ああいう
みんなと遊んでいる時とはまた違った表情をするはやて。まだ知り合って日が浅い彼女には、とても新鮮味のある光景が広がっていた。
(わたしとお姉ちゃんもあんな感じなのかなぁ? 自分ではよく解らないけど)
目の前の兄妹やもう一人の親友たちを比べると自分らは幾らか大人しいが、それでも仲が良いか悪いか問われれば負けず劣らずといった所だ。
困ったときは手を差し伸べてくれるし、相談ごとも乗ってくれる、妹思いの姉。すずかはそんな姉を慕い、尊敬している。
たまにからかってきたり、意地悪してくることがあるがそれもまた姉妹故、か。目の前の二人がそうであるように。
客観的に自分達の姉妹像を想い描いていると、不意に運転席の方から声を掛けられた。
「お嬢様。そろそろ――――」
「あっ、うん。分かったよ」
運転手には一言で返しておくと、すずかは視線を二人の方へと戻す。
「ごめんねはやてちゃん。そろそろ時間だから行くね」
「だからっ!!――――え、あ、もうそんな時間?」
すずかが頷いて答えると、はやては「そっかぁ……」と名残惜しそうに肩を落とす。
「わっ!?」
「まあそう落ち込むなよはやて。”また”遊んでもらえばいいだろ?」
「に、兄ちゃん! 髪の毛がボサボサになってまう……」
少し乱暴にはやての頭を撫でる秋人。はやては首を動かし逃れようとするが、彼女の動きに合わせるようにしてくる兄にされるがままだった。
「また
「はいっ! もちろんです。それでは――――」
秋人に笑顔で返したすずかは運転手に出るように告げると、車はゆっくりと動き始めた。
はやては大降りに手を振りながら去っていくすずかを見送った。
「さてっ」と一間置いた秋人は、はやての乗る車椅子を操作して自宅に戻ろうと歩を進める。
「そういえば、なんで庭の方から出てきたん?」
「ん?」
そして玄関の扉を開けようとしたところではやてに声をかけられた。
「あぁ、猫と夕日を眺めてたんだ」
「…………、」
そのままの出来事を妹に話すと、この兄は何を言っているんだ? 的な目をされた。
「え……なに? それってボケてるん? 兄ちゃんまたわたしにツッコミをしろと?」
ようやく沈黙を破ったと思ったら、随分と酷い言われようだった。
まぁ、確かに行き成りこんな事を真顔で言われた日には「何言ってんの?」と同じように返してしまうだろう。それがペットなら多少は理解出来るが、
「ボケって……いやいや、事実だから」
「えぇ~、そんなん信じられへんわ」
「本当だって! よくうちの周りをうろついてる猫なんだけどさ」
言いながら、その猫のよくいる場所の塀を指差す。
追うようにはやては視線をそちらに巡らせて確認してみると、
「あっ! ほんまに猫がおる――って、あの猫……」
先ほど秋人と一緒にいた猫が塀の上でこちらの様子を伺うように居座っていた。
まさか本当に居たとは思わず、秋人も驚きの表情を見せている。
(マジでいやがった……)
そういえばはやては塀の上の猫を知っているような口ぶりをしていた気がする。
「知ってるのか?」なんて訊ねてみると、はやては首を縦に振って頷いた。
「あの猫はわたしも何度か見てるんやけど、いつも逃げられてまうねん」
秋人が学校で家を留守にしている間に、はやては何度かあの猫に遭遇しているらしい。
「そうか? あいつ逃げるどころか俺が近くに寄っても居座るような図太い性格してるぞ」
「えぇ!? わたしの時とは全然違う……」
猫の自分と兄の態度の違いに心底驚いている様子だ。
二人してもう一度塀の上に意識を向けると、その姿はどこにもなかった。
「……話してたらいなくなったわ、兄ちゃん」
「だ、な……まぁ、猫なんだし当然と言えば当然なんだけど」
そもそもそこまで気にかける必要があっただろうか。
一抹の疑問が頭を過ぎったが、次に吹き抜ける風と共にそんな思考はどこかへ消えていってしまった――――
◇
とある一室。
無駄に装飾が一切施されていない簡素な部屋の中央に、大型デスクと同様の椅子が設置してあり、腰掛けには一人の男性が身を預けていた。
彼の目の前には空中に浮かぶモニターが視界を埋め尽くすほど展開されており、一つに注目してみると、ある数値とグラフがリアルタイムで稼動、変化を繰り返していた。
それだけを見ると何をしているのかさっぱりなのだが、多数のモニターを同様に確認していくと”特定の個人データ”の収集を行なっているのが見て取れた。
「…………、」
男性は無言のままデータ収集を行いつつ、方や空中にあるキーボードのようなものを片手で操作し、日々の書類仕事を高速でこなしていた。
『収集』と『処理』。これらの動作を同時に、同速度でこなすのは通常では困難である。
マルチタスク。
この技術によって、それらを可能にしていた。
――――人は瞬間に一つの処理しか出来ない。
これはコンピュータにも言える事で、通常一つのCPUしかないコンピュータでは、ある瞬間には一つの処理しか実行できない。しかし、処理時間を短い時間で区切り、タスク間で一つのCPUをタイムシェアリングすることによって、ユーザーからは複数のアプリケーションが同時に実行されているように見える。
まさにその動作を人間の脳内で行なっているのがマルチタスクだ。
だが双方にも個人差と言うものがあり、やはり限界があるわけだが。
「――失礼します。ただいま戻りました」
そこへ女性が一人現れる。男性はチラッと視線を巡らせ女性の姿を確認すると、特に表情を変えずに答える
「あぁ、おかえり。”アレ”は変わりないかね?」
疑問を投げかけている中でも、その両の手と十を越えるモニターを同時に処理する行為は止まらない。
「はい、特には……強いて言えば彼女が『彼』と少々接触した程度でしたが」
「……どちらも問題はないか?」
一瞬全ての動きを止め、眉をひそめるが、目の前の女性は「はい」と簡潔に答えた。
そうか、とそれ以上は深く追求せずに彼は再び作業に没頭し始める。
「……あまり無茶しないでください。身体を壊されたら元も子もありませんから」
「あぁ、きちんと
「了解」
ビッ! と敬礼した女性は振り返り、部屋を出て行こうと歩を進める。
そして扉の前まで歩み寄った所で首だけを動かして背後を覗き込むと、彼女は小さく言った
「それでは後程……
「あぁ、後でな――
頷いた彼女――――リーゼアリアは部屋を後にした。
残った父様と呼ばれた男性――――ギル・グレアムは小さく息を吐くと、傍らにモニターに”とある写真”を表示させ、そちらに意識を向ける。
そこに映っていたのは、一人の青年を中心として両脇に二人の女性が腕を組んでいる、何とも仲睦ましい光景だ。
それはかつての『教え子』たち。グレアムは懐かしい気持ちと共に、胸を締め付けられるような感覚に襲われた。
「必ず……終わらせてみせる。この負の連鎖を」
誰に言ったわけでもなく彼は言葉にする。
それは自身の決意の表れと、今は亡き彼等の無念を晴らすためか。
彼の心中は――――誰にも判らない。
現実でもマルチタスクがあったらなぁ……なんて思ってみたり。