アンジュ・ヴィエルジュ *Skyblue Elements* 作:トライブ
それは、遠い昔の光景――――
虹の神殿は光に包まれたその世界の象徴たる建造物だったが、その場所に立ち入ることのできる人間はほんの一握りで、それ以外の人間はそもそも神殿がある場所すら知らなかった。しかし、彼はその一握りに入っている者だった。
「何故、ご理解頂けないのです」
彼は、絶望の表情で眼前の存在に問い質した。
そこは神殿の最上階に位置する、《創造の間》。陽光が差し込む荘厳なる場に、その2人は対峙していた。片方は床に跪き、片方は玉座に腰掛けている。
「一体、何故。世界は破滅の危機に瀕している。それをもたらす破滅の龍を打ち倒すことができれば、世界は恒久の平和に包まれるというのに!」
対照的な2人だった。白髪混じりの髪を振り乱して慟哭する男に対し、赤い髪の女神はあくまで冷静に答えた。
「万物は、産まれ、育まれ、栄え、滅びるもの。その概念に当て嵌るのは、世界とて変わりありません。貴方の考えは、この世の概念を根底から覆すことを是としています」
「しかし……!」
食い下がる男に、女神は辛抱強く、さらに言葉を重ねる。
「世界を破滅から守りたいという貴方の思いは良く分かります。それは私たちも同じです。しかし我々の使命は、貴方が覆そうとしている概念を護ること。それに、破滅を忌避せんがために一度ならず世界を揺さぶろうなど、決して許されることではありません」
磨き上げた己の『智』を否定された男は、がくりとうなだれた。その碧い目は、絶望の色に染まっている。
「私は……ただ……世界を守ろうと……そのためには、この方法が最も効率的且つ効果的だということは、貴女もお分かりのはず……なのに何故、貴女方はそれを認めぬのです? 何故、別の世界の連中の言葉などに耳を傾けられるのです?」
独り言のように疑問をこぼしていた男は、不意に立ち上がると、女神に背を向けて歩きだした。
「お待ちなさい。どこへ行くのです」
「私は、もう貴女方とは分かり合えない。私は、私の道を歩みます」
「貴方の考え方は危険です。どうか思い直してください。世界を試す以外にも、きっと方法はあるはずです」
女神は男の背中に呼びかけたが、彼を説得できるとは思っていないようだった。男は、もう返事をしない。それでも女神は、自らに課せられた義務として、その背中に問いかける。
「何が……貴方の望む世界を変えるというのです? 何が貴方を、そこまで駆り立てるのですか?」
男が立ち止まったことは、女神にとっても意外だった。振り向いたその顔は今まで通りの柔和な面立ちだったが、女神はそこに、有るか無いかの「それ」を感じ取る。
それは「狂気」。
男は口元を歪ませて、言った。
「私は、ただ信じているだけです。『可能性』というものを」
男は再び女神に背を向け、歩き出した。そうして、二度と振り返ることはなかった。
彼は永遠に神殿を去った。神殿は、一度去れば記憶からその存在が消え、二度と戻れなくなる。彼はもうこの場所に帰ってくることはできず、この場所にまつわる全ての記憶を失う事になる。例え復讐を仕掛けようとしても、彼、または彼に連なる者にそれを成すことは不可能だ。
それなのに、女神の心中を満たしていたのは、不安のみだった。
今、私は、とても重要な歯車をひとつ、壊したのかもしれない。
彼女は疲れ切った様子で座っていた玉座に深く体を預けると、深く溜め息を吐く。
男の背中を見るその眼差しは、悲哀に満ちていた。
どこで間違えたのだろう――――
どこで間違えてしまったのだろう――――
「それでも貴方は……何故……?」
暁天の女神アーシーは、去りゆく賢者に問いかける。
その声が届くことは、もう無いのに。
女神の背後で、世界水晶は赤い光を湛えている。
彼女の意思と同じ、静かな光を。