アンジュ・ヴィエルジュ *Skyblue Elements*   作:トライブ

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第10話――それでもわたしは、

 いよいよ、ブルーミングバトルの当日になってしまった。

 美海は朝、普段よりも早く寮を出た。

 緊張はしている。しかし、それでもガチガチで何もできないというわけではない。頭は当然のように不安を訴えているが、心は不思議と凪いでいた。

 ――よーし、これで遅刻はなさそうだね!

 遅刻への不安というのはもちろんあったのだが、春樹との壊れた関係性もまた、当然ながら不安になる要素だった。しかし、美海は心配していない。昨晩電話で彼と話し、彼の声を聞いて。美海にとっては、それだけで良かった。彼が美海達の前を去った時に発した悲痛な声は聞くに耐えない痛々しい響きを持っていたが、電話で聞いた彼の声は、普段通り――いや、普段以上に静かで、落ち着いていた。その声が、美海は大好きだった。

 ――まずは、やっぱりごめんなさいだよね。

 電話での謝罪など、謝罪のうちに入らない。直接会って謝るのが大事だ。美海はそう思っているし、みんなもそうだと言っていたので、まずはみんなで謝ろう。そうすれば、きっとブルーミングバトルだって、悪い結果にはならないはずだ。

 

 だが、どんな時も、理不尽な暴力はある。

 

 朝の居住地区は、人通りが少ない。現に、今すれ違った男性2人が最後に、美海の視界から通行人がいなくなってしまった。

 突如、背後から気配。警戒する暇もなく、美海の顔に布が当てられる。

 その芳香を思い切り吸い込んでしまった美海の意識は、容赦なく闇に引きずり込まれた。

 

…………

 

「うわぁ、腫れてるね」

「痛そうでゴザルな。誰に……なんて聞くまでもないでゴザルな」

「あわわ、し、志賀先生呼んできますっ!」

 いよいよにぎやかになってきた青蘭学園ブルーミングコロシアム。春樹は冬吾に殴られて腫れ上がった頬をさすりながら、会場をウロウロしていた。

 春樹たちの試合は午後からだが、午前中は青蘭大学のαドライバーがバトルを行うため、こうして午前中からコロシアムに足を運んでいる。

 琉花と忍と兎莉子は、まず春樹に会うなり深く頭を下げて、謝罪した。春樹としてはもう済んだ話なのだが、本人達的には、頭を下げなきゃ済まないらしい。しかし、昨日も思っていたとおりむしろ謝るべきはこちらだ、ということで春樹もちゃんと頭を下げた。

「俺、今日のバトルに、絶対勝ちたくなっちまったんだ。俺、頑張ってみんなのことを信じる。信じきる(・・・・)。みんな、力俺を信じてくれるか?」

 そう発した言葉に含まれた一抹の不安は、みんなの満面の笑みによる肯定で見事に吹き消された。

 美海の姿は見えないが、琉花と忍と兎莉子が言うには、彼女は先に寮を出たらしい。先にコロシアムの席を取っておいてくれたりしているのだろうか。しかし、それならメールをくれるなりSMSに何かしら書き込むなりしていてもいいはずなのだが、そんな様子はない。

(ひょっとして、食べ歩いてんじゃねえだろうな?)

 今日は『スプリング・ストライクショー』。ある種のお祭りでもあるので、コロシアムの周りには、普段商業地区で屋台を構えて商売している店(美海が大好きなクレープ屋もそのうちのひとつだ。)が、今日だけこちらで商売しているのだ。美海なら目を奪われて、ちょっと食べ歩き、なんてしていそうなのがまた彼女らしい。

 しかし――妙な胸騒ぎがする。

「美海、どこにいるんだろうな?」

「電話、掛けてみるわ」

 ぼやいた春樹に応じる琉花。携帯を取り出し、電話を掛ける。が、繋がらない。不審に思った春樹がSMSに『美海、今どこにいるの?』と書き込んでみるが……返事がない。

「先生、春樹さんが」

「あらあら、ホントに腫れちゃってるわね。男前が台無しよ?」

 兎莉子が連れてきたらしい養護教諭・志賀(しが)龍姫(りゅうき)先生が、いつものように天使のような微笑みで近づいてきた。彼女はプログレスで、『高速治癒』のエクシードを持っている。志賀が春樹の頬に手を添えて力を込めると、ジンジンと熱を持っていた頬の痛みが、嘘のようにぬぐい去られた。中等部に所属している時から、このエクシードには度々お世話になっていて、彼女には頭が上がらなかった。

「あ、ありがとうございます、志賀先生」

「いいのいいの。あら? このメンバーで揃ってて、美海ちゃんがいないのは珍しいわね? 春樹くん達、バトルに出るんだから、バトル開始前の少なくとも30分前には控え室に入らないといけないわよ?」

「それはわかってるんですけど、なんか、美海と連絡がつかなくて……」

 事情を説明すると、志賀はうんうんと話を聞いてくれ、

「分かったわ。見つけたら、春樹くん達が捜してたって伝えておくわ」

「ありがとうございます」

 春樹たちは志賀にお礼を言って別れた。

 

 しかし、これで異変が終わったとは、到底思えなかった。

 

 

…………

 

 心地よい振動だと思っていたら、不意に、ガタンと揺れる。

「ん~、どうかな? これ、売れそう?」

「……かなりの美少女だ。幾らになるだろうか……3000くらい吹っかけても買いそうだ」

 また、ガタンと揺れる。その揺れで、美海は目を覚ました。

 視界に入ってくる情報から察するに、大きな車の後部座席にいるらしい。でも、おかしい。どうして横向きになってるんだろう……――

 ハッとした。そして、もう遅かった。美海は腕も足も縛られ、口には布が詰め込まれ、更に覆いまでされていた。

「あ、起きちゃった? なんでもっと濃いの使わないのさ。倉庫に運ぶまでは眠っててもらたかったんだけど」

「後遺症が残るからだ。この前の奴、ちょっと強くしすぎたせいで、なんかすぐに壊れちまったみたいで。散々お怒りだったからな」

「あ、なるほど」

「――――!」

 倉庫。

 運ぶ。

 後遺症。

 壊れた。

 美海は、自分がどうなるかを朧げに察する。

 ドラマや映画でしか見たことのない――それにしたって1回か2回程度だ――いわゆる、拉致(・・)

「ん――! んぅ――――!」

 必死に身をよじり、叫ぼうとするが、手足は固く縛られ、口の中の布が声を出すことを許してくれない。

「あはは、大丈夫だよそんなに怖がんなくて。君の買い手は優しい方だから、気に入られたらきっといい生活ができるよ」

 助手席に座った男性――先ほどすれ違った男性2人のうちの1人だ――が、にこやかな笑みを浮かべて言う。美海は心の底から凍りつき、それを振り払わんと更に暴れようとするが、手足の拘束はまるで綻びを見せない。

「ねえ、君、まだ処女?」

 ――処女?

 美海は戸惑う。そういう性的な話には疎いという自信がある。でも、これに関しては、少しだけ知っていた。

 ――それって、まだ、男の人とエッチなことをしたことがないってこと?

 なぜか、頭の中を一瞬春樹の顔が()ぎり、思わず頷いてしまう。すると、男性は嬉しそうな笑みを浮かべた。

「ねえ、この子まだ処女なんだって! これ、もう500はふっかけられるでしょ」

「それは朗報だ。なら、くれぐれも丁重に扱わねばな。連中が「性能調査だ」とか言って手を出したりしたら困る」

「あの男爵、優しい顔して結構鬼畜だからねぇ。ほら、この前の子覚えてる? ものすごい抵抗して5人殺した子」

「ああ」

「あの子、もう死んじゃってたよ。薬漬け(・・・)にしてもまだ抗ったとかで。あんまり暴れるもんだから、遊びづらかったみたいで……結局見せしめ用(・・・・・)串刺し(・・・)にしたって。この前行った時に門のところに立ってたよ。なんか食べかけ(・・・・)だったけど。ま、腐ってた(・・・・)からとっとと撤去したほうがいいよって言っといた」

「では、今回新品(・・)が欲しいと言っていたのは、そのせいか」

「その点、この子は良さそうじゃん。なかなか健気そうな顔してるし、きっとあの絶倫男爵のことも気に入るだろうさ」

「なんにせよ、良い取引になりそうだ。もしかしたら、今までで一番良い取引になるかもな」

「だといいねぇ。あのブタが気にいるかどうかは、また別問題だけど」

 耳を塞ぎたくなるような会話が、まるで茶飲み話か何かのように繰り広げられている。

 

 ――嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!!!!!!!

 

 美海は暴れる。必死にもがく。抗う。しかし、何もできない。

 

 2人の男性はそれには目もくれず、残虐極まる思い出話に花を咲かせるのだった。

 

 

…………

 

 やはりおかしい。皆、そう思い始めた。バトル開始は1時30分、集合時間はその30分前。そして、現在の時刻は10時40分。あと2時間20分しかない。

 なのに、相変わらず美海に連絡がつかない。

「……こっちから探すか?」

 時間が惜しい。だが、このまま放置するという選択肢はありえない。3人に相談すると、まず琉花が、

「外に屋台があったっしょ? みうみん、結構常連だから、もしかしたら見かけてる人がいるかも」

 続いて忍が、

「拙者、一旦寮に戻るでゴザル。小春殿に話を聞きたいし、何か手がかりがあるやも知れないので」

 最後に兎莉子が、

「とりあえず、先生方に連絡しましょう。流石におかしいです。先生方も探して下さるはずです」

 と、三者三様の意見を出してくれた。とりあえず、春樹は2手に分かれて美海を探すことにした。自分は兎莉子と行動を共にし、辺りで聞き込みを行う。忍と琉花は一緒に広範囲を捜索する。連絡は電話もしくはメールで行う。

 別れる前に、まずは教師に連絡をした。こういう時に最も頼りになるのは……去年大きく世話になった(・・・・・・・・・・・)雄馬だ。

『なに? 美海がいねぇだと?』

「そうなんです。連絡もつかなくて……」

 事情を説明したあとの雄馬は早かった。

『分かった。こっちも探す。お前らも探してもいいが、やばい状態になったらまず俺らに連絡しろ。いいな?』

「分かりました」

 時間にして3分も話していなかっただろうが、幾分か安心できる。あの講師は、こういう状況に強い男だった。

「それじゃあ、別れよう。雄馬先生も言ってたけど、なにかまずいことになったら絶対に連絡してね」

「了解!」

「承ったでゴザル。では、行こう琉花殿」

 忍と琉花が走り去った。春樹は横の兎莉子を見下ろして言う。

「こっちも動こう。まずは、聞き込みからだ」

「はい!」

 兎莉子は、決意の表情で言った。

 

…………

 

『…………はい、もしもし。キシベです』

「おう、アイ。今すぐ出てこい」

『お仕事?』

「そうだ。お前が必要になる」

『分かった。お給料は弾んでね』

「10個でいいか?」

『15』

「わかったよ、欲張りさん。青蘭学園コロシアムにいるから、早くおいで」

『うん』

 家への電話を切った雄馬は、次々と講師仲間や教師陣へと連絡していく。生徒が行方不明だ、捜索をしてほしい。会場及び周辺の警備を増強せよ。皆、了解とともに行動を起こしていく。まるで陰陽師が幾つもの式神を放っていくように、雄馬の警告で皆が動きだす。

 生徒には、極力感づかれないほうがいい。今は楽しいショーの最中なのだから。だが、(さと)い子は気づいてしまうだろう。

 ――さて、どうするか。

 そして最後に、虚空に向かって呟いた。

「お前も、警戒を怠るな」

 雄馬のそばで、微かに気配が揺らいだ。

 

…………

 

 あと、2時間と少しでバトルが始まる。

 冬吾は、ナナに治してもらった頬をまだ撫でながら考えていた。

 現在、冬吾のチームは、先輩方のブルーミングバトルを観戦している。試合は中盤から終盤に差し掛かり、バトルフィールドを挟んで対峙する2人のαドライバー両者ともに肩で息をしているが、これからがクライマックスだ。

 しかし、冬吾は試合の内容がぼんやりとしか頭に入ってこなかった。これから、自分があの場に立つ。だから、出来るだけ多くの情報を持っておきたいのに、頭の中を支配するのは、春樹の言葉だけだった。

 

 ――理解して欲しい思いを無視して、理解できるところだけ一方的に理解してるフリをするお前よりも、はるかにいい!

 

 昨日は、春樹に対してひどいことを言った。喧嘩の火蓋を切ったのは自分だ。でも、そうしてでも春樹に伝えたかった。自分が、春樹に取り戻してもらいたかったものを。

 高等部1年生の頃の春樹は、輝いていた。大好きな人たちに囲まれ、毎日が本当に楽しそうだった。

 冬吾は気づいて欲しかったのだ。例え一度失ったとしても、お前の周りに今いる子達は、お前のことをちゃんと思っている、ということを。そうすれば、彼はまた輝ける。冬吾はそう信じている。

 でも、それはそれだ。春樹を傷つけたという事実は何も変わらない。

 そして、当然ながら冬吾は春樹に傷つけられた。自分が理解できていない、セニアの思い。

 春樹の言っていたことは、正直、図星だった。自分は、確かにセニアの思いには気付けなかった。

 何よりも、セニアが自分に直接言うよりも、春樹に相談することを選択したのが、ショックだった。でも、だからといってセニアを責めるわけにはいかない。信頼していないのは、自分だって同じだ。

 

 わかっているのに、わからないふりをする春樹。

 わからないから、わかっているふりをする冬吾。

 

 どっちが悪くて、どっちが()いのか、冬吾にはわからなかった。だから、だからこそ、勝ちたかった。自分が、春樹よりも善く有りたいから。

 ――でも、それは意地汚い意志(・・)だ。

 目の前で、片方のチームのプログレスの1人が覚醒――エクシードレベルがレベル5になることの俗称だ――し、試合は最高潮へと達する。レベル5になるためにはただ普通にレベルを上げ続ければいいというわけではない。他の誰ともセカンドリンク及びαリンクできない状態になるサードリンクというものを30秒間も結んだ上で始めて達することができ、レベル5でいられるのはたった20秒のみで、しかもその時間制限が過ぎると無条件にレベルが0に戻される。言うなれば諸刃の剣だ。登場する後にも先にも大きなデメリットを強いるレベル5プログレスは、その条件に見合った強力さ故にブルーミングバトルを大きく盛り上げる存在のひとつだ。

「…………」

 隣でセニアが、目を丸くして試合を見ている。始めて見るブルーミングバトルの様子に、目を奪われているようだ。

 試合はそこから大逆転を見せる。なんと、レベル5を出されてしまった側のチームは、なんとかその攻撃を耐え切ったのだ。そして、レベル0に戻ってしまうその隙を見逃さず、一気に畳み掛ける。鮮やかな逆転劇で、会場は最高潮に達した。

「……すごかったです」

 セニアは普段以上に呆然としながら呟いた。

「ねえ、セニア?」

「はい、なんでしょうマスター?」

 ふと、セニアを呼んでみると、セニアは普段通りの無表情で冬吾を見上げた。しかし、普段と違う。

 彼女の目は、こんなに澄んでいただろうか。

 セニアに、昨日春樹から聞いたことを言い出したいのに、思わずその瞳の純粋さに気後れしてしまう。

「……いや、なんでもない」

「そうですか」

 冬吾は、横目でじとっとした視線をユーフィリアとテルルとナナが向けていたことに気付かなかった。

 と、そこに何やら焦っている様子の講師アルマが駆け寄ってきた。

「あ、冬吾。ようやく見つけた」

「なにかご用ですか?」

 冬吾が尋ねると、アルマはいつもよりやや早口で、

「いや、お前らバトルに出るんだから、1時には控え室に入っとけよって」

「分かってますって」

「そか? なら大丈夫か。いやなに、念の為に」

 それからアルマはすぐさま踵を返すと、振り返って「バトル、頑張れよ。健闘を祈る」と言って、また慌ただしくどこかに行ってしまった。

 あのアルマが、焦っている。あんな様子のアルマを見たのは1度しかない。そして、そういう目(・・・・・)で周りを見ると、顔を知っている教師の面々が、皆何やら焦っているみたいだ。

 ――こんな様子、前にも。そう、あの時(・・・)以来だ。

「……変だな」

「はい?」

 しかし、冬吾には関係ない(・・・・)

「いや、なんでもない……」

 冬吾のつぶやきにセニアが首をかしげるが、冬吾はまたもや隠した(・・・)

 しかし、それにはどちらも気づくこともなく、冬吾はいつものように――いつもよりぎこちなく――セニアの頭に手のひらを乗せた。

「……がんばろうな」

「はい」

 春樹のことをバカにできない、と冬吾は思った。

 ――僕だって、十分臆病者だ。

 

…………

 

「美海ちゃん? うーん、僕、今朝は結構早くからここで準備してるけど、美海ちゃんは見かけてないなぁ」

「そうですか、ありがとうございます」

 普段は商業地区の広場で商売をしているクレープ屋の店主に礼を告げて、その場を立ち去った。「バトル、直接見れないけど応援してるよ!」と激励されてしまったが、今の状態では出場できるかどうか……。

 かなり多くの人に聞いてみた。今のような屋台の店主は、なんだかんだいって3年間ここに住んでいる春樹とは顔なじみだし、美海もよく通っている。たまたま来場していたいつぞやの猫カフェの店員さんもいた。沙織などの、美海のクラスメイトにも会った。早朝から会場設営に携わっていた教職員にも聞いた。しかし。

 困った。手がかりが、本当になかった。この周辺にいる人は誰ひとりとして、美海の姿を見ていないのだ。

 しかし、それは逆説的にあることを証明している。それは、美海が今日、コロシアム周辺には来ていないという事実だ。

 となれば、より重要な情報はここよりも満月寮側――即ち居住地区の方にあると思われる。そして、忍と琉花は居住地区にある満月寮に一度戻っている。となれば、向こうに連絡してその旨を知らせるのが賢明だろう。

「美海ちゃん、ホントにどこに行っちゃったんだろう……」

 隣で兎莉子が不安そうな声を上げる。春樹はその頭に手のひらを載せて撫で、「大丈夫だ」と言いながら携帯電話で琉花に通話をかける。

 ほとんど間髪入れずに通話は繋がった。

『ハル先輩! みうみん、見つかった!?』

「いや。どうやら美海は、こっちには一度も来ていないらしい。誰も美海の姿を見ていないって」

『そう……こっちも、みうみんの情報は無かったよ。でも……』

 琉花が不安そうに声のトーンを落とす。

『ちょっとヤバげな噂聞いちゃって、それでシノが「調べたいことがある」って言って、どっか行っちゃったんだ』

「噂?」

 春樹が聞き返すと、琉花は更に声を低くする。

『……青蘭諸島のプログレスが……いや、女の子が、時々ふらっといなくなっちゃうって噂。2ヶ月か3ヶ月くらい前かららしいんだけど……青蘭学園のプログレスも、前に1回いなくなちゃって……それで、今も見つかってないって』

 心臓が止まりかける。

「琉花、琉花はいまどこにいるの?」

『え? 私は今、居住地区で普段のマラソンコースに手がかりがないか調べてる』

 春樹は、やや足りない頭をフル回転させる。琉花と忍は別行動をしている。美海の今の状況を考えれば、琉花が1人で歩いているのは不安がある。それに、もしかしたら、という可能性。

 美海が、寮を出てから西――学園特区に向かったのではなく、東――灯台のある岬へと向かった可能性だ。

「……俺もいまからそっちに行く。一通り探し終わったら、満月寮の前で待っててくれ」

『分かった。気をつけてね!』

 通話を切ると、兎莉子が不安げに春樹を見上げていた。

「ど、どうでした!?」

「向こうも美海は見つからなかったみたいだ。それで、いまから島の東の方に行ってみようと思う。ついてこなくても大丈夫だけど、どうする?」

「ついていきます!」

 兎莉子は涙目になりながらも、決意の篭った声で言った。

「じゃあ、行こう」

「は、はい!」

 

 

 バスで行けば、満月寮には割とすぐに着く。琉花は既に寮の前にいた。

「あ、ハル先輩! それにウリちゃんも」

 駆け寄ってくる琉花に、美海が島の東側に向かった可能性があることを説明する。

「確かに、そうかもね……でも……」

「で、琉花はなにかわかったのか?」

「うん。私らのランニングコースって、一部が普段学園に行くときに使う道なんだよ。で、そこの通りにある家のおばさん、今朝美海を見たって言ってた(・・・・・・・・・・・)んだよ」

「え!?」

 春樹の叩き出した推理が、今の一言であっさりと崩れ去った。もしそうなら、島の東に行ったという可能性は殆どない。むしろ、嫌な可能性に突き当たる。

 

 学園に向かったのに、今どこにもいない。ということは、必然的に何かに阻まれた(・・・・・・・)――

 

 携帯が鳴る。慌てて取り出すと、忍からの着信だった。

「も、もしもし」

『ああ、春樹殿! 美海殿に関する情報がさる伝手(つて)より入ったので、お知らせするでゴザル』

「な、何?」

 忍は意図的に感情を殺したような声で、淡々と情報を伝えてきた。

『まず、美海殿は寮を出て、学園特区につく前……即ち、居住地区内にいる間に、どうやら拉致(・・)されたようでゴザル』

 心臓が、一拍止まる。

『拉致したのは、どうやら《ファントム》と呼ばれる犯罪組織の一部でゴザル。現在位置は目下捜索中でゴザルが、どうやら青蘭島西側にある倉庫群(・・・)のどこか……春樹殿?』

 忍が不審げな声を出したのは、春樹が携帯を取り落としたからだ。取り付けられた貝殻のアクセサリーが、じゃらりと音を立てる。

 

 ファントム。

 

 彼女ら(・・・)を傷つけた、絶対に許すことのできない輩。

 

 それに美海が、攫われた。

 

 心臓が早鐘を打ち出す。呼吸が荒くなり、見当識が覚束なくなる。

 いつの間にか春樹は、アスファルトに膝をついていた。呼吸がどんどん早まっていく。携帯を拾おうとしても、無意識に手足ががたがたと震え、上手くいかない。

「は、ハル先輩!? ちょ、シノ、ハル先輩に何を……」

「は、春樹さん!? 大丈夫ですか!?」

 そばで琉花が、春樹の落とした携帯を拾い上げて忍と会話し始めた。兎莉子がかがみ込んで春樹の背中を撫でるが、春樹の震えはむしろひどくなっていく。

 

 朧げに記憶の底から蘇ってくるのは、血に染まった右手。ただ憎しみのままに拳を振るう、自分。

 初めてではなかった。誰かを殴るのは。あの、生涯忘れないであろう感覚は、前にも味わっていた。しかも、何度も、何度も。それによって自分が覚えた感情は――

 美波。

 セーレ。

 プリエ。

 ミミ。

 大事な人々を傷つけたあいつ(・・・)を――この手で――

 

 また大事な人を失ってしまうのか?

 今度は、美海を?

 恐怖が春樹を支配し、何もわからなくなる。

 怖い。美海を失うのが、怖い。

 奪われるのが、怖い。

 汚されるのが、怖い。

 壊されるのが、怖い。

 

 殺されるのが、怖い。

 

 嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!!!!!!!

 

 そんな、怒りと恐怖から来る発作は、不意に訪れた柔らかさによって安らいでいく。

「春樹さん……!」

 一度その柔らかさを認識したあとは、呼吸が徐々に整っていく。気が付けば兎莉子が、春樹の頭を抱きしめていた。小さな、それでも溢れんばかりの慈愛に満ちた手が、春樹の背中と頭を優しく撫でていた。

「大丈夫です……私、ここにいます。大丈夫です……」

 兎莉子が春樹の耳元で優しく囁く。大丈夫、大丈夫、と。その言葉が春樹の胸の奥に染みわたり、落ち着きを取り戻させていく。

 多くの動物と触れ合ってきた兎莉子だからこそ、こうして怒りも恐怖もぬぐい去れるのかもしれない。

「はぁ……はぁ……」

「大丈夫です、春樹さん。まだ、間に合います。大丈夫です」

 兎莉子の囁きで、心が鎮まっていく。そうだ。諦めてどうする。あの時は何もできなかった。でも、今は違う。琉花も忍も兎莉子も、まだここにいる。

 

 信じるんだ。彼女らを。そして美海を。

 

「……春樹、さん?」

「だ、大丈夫……だいぶ落ち着いた。ありがとう、兎莉子」

 弱々しい笑みを浮かべて兎莉子の頭を撫でる。彼女は心底安心そうな表情をしてくれた。

「ハル先輩! 大丈夫!?」

「ああ……なんとか。琉花も、ありがとう」

 琉花から携帯を返してもらい、忍にも取り乱したことを謝る。

 しかし、どうする。ここからどうやって島の西まで行く? 実のところ、春樹は青蘭島の西側にはあまり行ったことがない。そもそも家が東側にあるのだし、行ったところで特に何もないからだ。バスで行けば、少なくとも1時間はかかってしまう。島の東と西を直接つなぐバスは運行していないため、一旦商業地区で乗り換えなければいけないからだ。かといって、徒歩で行くという選択肢もまた有り得ない。

 教師陣に一任するという手もあるが……。

 3人にそのことを相談すると、意外なことに、真っ先に手を挙げたのは兎莉子だった。

「それなら、私にお任せ下さい!」

 兎莉子はいつも身につけている可愛らしいポシェットから、何やら木製の小さな笛を取り出し、思い切り息を吸い込んでから、吹いた。

 甲高い笛の音が空を吹き抜け、響いていく。

 何だったのだろう、と思って空を見上げる春樹と琉花の視界に、巨大なシルエットが写りこんだ。

 

…………

 

「やはり、ファントムか……」

 雄馬は春樹から連絡をもらい、行き着いた結論に唸り声を上げる。

 ファントム。青蘭諸島の闇に棲み付いた、規模不明の犯罪組織である。末端はいくら摘発してもキリがない。あっという間にどこからか欠員を補充している。青蘭諸島執行部と呼ばれる警察組織は何度も彼らを一網打尽にしようとしているが、あまり効果が見られない。根っこの部分が、深く青蘭島に食い込んでいるためだ。そして、その末端は様々な事件を起こす。強盗、恐喝、そして拉致。

『いまから、倉庫群に向かうつもりです』

 春樹の言葉は、雄馬が即座に否定せねばならないものだった。

「ダメだ! 万が一、お前らにまで何かあったらどうするつもりだ!?」

『それでも、俺、見てるだけは嫌なんです!』

 春樹の必死の叫びは、皮肉にも、雄馬が青蘭学園の生徒だったときに発したそれと、とても良く似ていた。心を揺らされる。が、すんでのところで留まった。

 ――でも、春樹と俺は違う。春樹には力がない(・・・・)……!

「だいたい、どうやって行くつもりだ? お前、今居住地区にいるんだろ? だったら、バスで行くなら1時間はかかる――」

『兎莉子が手段を用意してくれたんです!』

「何? 兎莉子だと?」

『はい、彼女が呼んでくれたんです。グリフォンを(・・・・・・)!』

 ――マズい!

「やめろ! お前ら、どれだけ危険か分かってんのか!」

 雄馬が堪らず怒号を発する。それに釣られるようにして、彼の体から妙な気が漏れた。人の心を底から寒からしめるかのような、怒りの気。

 しかし、生憎春樹は電話の向こうにいる。伝わるわけがない。

『分かってます! でも、美海はもっと危険なはずです! 俺だけ安全なところで美海が助けられるのを待ってるなんて嫌だ!』

 それはごもっともだ。春樹の思いはよくわかる。しかし……。

『それに、俺らだけで仕掛けるつもりもありません。着いたらちゃんと連絡して、正確な位置を絞り込みます!』

 そこまで言うなら……と、雄馬が折れた。

「……出来るだけ、倉庫から離れた場所に着陸しろ。連中が感付くかも知れない。いいな?」

 春樹の了解の声を聞いて、雄馬は通話を切った。即座に、別の連絡先に電話をかける。

『……雄馬か。どうした』

「西の倉庫群にファントムがいる。美海はそれに拉致られたらしい」

『――ッ!』

「お前、今どこにいる?」

『……商業地区だ』

「車出してんだろ? 急げ。春樹たちはグリフォンを使って行くつもりだ。恐らくお前よりも早く着く。凌雅に連絡して向かわせた上で、お前も急いでくれ。アルマとサイオンは警備に回す。デルタはオペレーティング・ルームから外さない。俺はすぐにここを発つ」

『……了解した』

 雄馬は通話を切る。すぐ横で、アイが不思議そうに雄馬を見上げていた。雄馬の放っていた気に、まるで動じていなかった彼女は、雄馬のコートの裾を摘んでいる。前を開いた薄手の黒いコートの下から見えるのは、青いネクタイに白いワイシャツと黒いスラックスという、男性のような姿だ。腕にはピンクゴールドの小さな腕時計が光っている。

「ゆーま、焦ってる?」

「……そうだな」

「焦らない」

「わかってる。行くぞ」

「うん」

 雄馬とアイはそこから走り去った。

 愛する生徒たちに魔の手が忍び寄るよりも前に、すべて終わらせてやる。そう誓って。

 

…………

 

「うわわ、マジで飛んでるよー!」

「琉花ちゃん、あんまりうるさくしないでください! ゲイルさんがうるさいって!」

 叫ぶ琉花を静止する兎莉子は、珍しく声を張り上げている。

 春樹達3人は、兎莉子の呼び出したグリフォン(名前をゲイルというらしい)に乗って、まさに空を飛んでいた。春樹は無言だが、怖くないというわけではない。どちらかといえば、怖いがゆえに声を出している余裕がなかった。なんというか、ジェットコースターに乗ると終始無言になるタイプだ。

 しかしこの速さは心強い。ゲイルの翼は力強く、羽ばたくたびに大きな推進力を生み出してぐんぐんと前に進んでいく。寒さで凍りつきそうだったが、ゲイルと、後ろからしがみついている琉花、そして春樹がまさにしがみついている兎莉子の体温がそれを少し和らげていた。これなら、10分とかからず倉庫群に着きそうだ。地形を無視できるという空路の強みが、よく出ていた。

 下を見るのは恐怖の極みだったが、それでも美海の手がかりを探さなければならない。頑張って地上に目を凝らしていると――ふと、キラリと光るものが視界に入った。倉庫群と海を挟むコンクリートのスペース。あの輝きを、春樹は見たことがある。

 兎莉子の指示で、ゲイルは倉庫群から少し離れた公園の中に降り立った。犬の散歩をさせていたらしいおじさんが、ぎょっとしたように目を剥いた。

 春樹は輝いていたのがなんだったのかを確かめるために走り、倉庫群の近くまで駆け寄る。

 果たして春樹の予想は正しかった。それは貝殻(・・)だった。

「あ、これ、みうみんの携帯アクセサリー……?」

「これ……俺が美海にあげて、それを美海は携帯のアクセサリーにしてた……」

 やはり美海はここを通った。もう間違いない。このずらりと並んだ倉庫のどこかに、美海が捕われている。

「これがあれば……そうですね。場所、わかります。ちょっと待っててください!」

 公園に駆け戻っていく兎莉子。数分後、彼女は1匹の犬を従えて戻ってきた。先ほどゲイルが着陸した公園で散歩をしていた小型犬だ。

 ――そうか、犬なら。匂いに敏感な犬なら!

 瞬時に兎莉子の考えを理解した春樹は、貝殻を犬に差し出す。

「チコちゃん、これ、よく嗅いでください。匂いを辿って。この倉庫のどこかに、この匂いの元があるはずです。どこかわかったら、その倉庫の前でくるくる回ってください。……そう、そんな感じです。そしたら戻ってきてください。あと、絶対に吠えないでください! お願いできますか?」

 兎莉子の丁寧な説明に了解したらしい犬は、地面を注意深く嗅ぎながら前進していき、8番目の倉庫の前でくるくると回った。そこに、美海がいる。

「ありがとうございます、チコちゃん!」

 駆け戻ってきた犬を抱きしめて撫でる兎莉子。

「すいません、彼女を戻してきます」

「……そうだな。兎莉子は公園にいてくれ。ゲイルと一緒なら、兎莉子が襲われるってことはないだろうし、後から来る講師の先生達への連絡役を頼める。お願いできるか?」

「は、はい!」

 兎莉子は真剣な表情で頷くと、公園へと戻っていった。それと入れ替わりになるように、今度は忍が現われた。

「春樹殿、お待ちしていたでゴザル」

「忍。場所がどこだか分かった。こっちから数えて8番目の倉庫だ。諜報できるか?」

「お安い御用でゴザル。見たところ、魔力系の結界も無い様子。では、少し行ってくるでゴザル」

 忍は、まさに忍者が消える時の典型のような、いわゆるドロンと消えた。それを確認し、今度は雄馬に連絡する。

『……着いたか?』

「はい。場所もどこだか分かりました。今、忍を諜報に向かわせています」

『そうか。絶対に手を出すなよ。俺もあと少しで着く』

「分かりました」

 雄馬と情報を交換していると、そこに忍が戻ってきた。

「どうだった?」

 春樹が恐る恐る聞くと、忍は安心した表情で、

「美海殿はまだ無事でゴザル。手足は拘束され、口も塞がれ、男性数人に囲まれてゴザったが、乱暴された様子はなかった模様。どうやら取引の商品にされるようでゴザった」

 それを聞いて、春樹は大いに安心した。通話越しに雄馬の安心も伝わってくる。

 その時、悲鳴が聞こえた。はっきりとわかる、美海のものだ。春樹の安心が、一瞬にして吹き飛ぶ。

『待て、春樹!』

 すべて察した雄馬が制止するが、春樹には届かなかった。8番目の倉庫の中から、人が2人出てきたからだ。こちらに向かってきている。

「倉庫群近くの公園に兎莉子がいます。詳しいことは彼女から聞いてください。東側から数えて8番目の倉庫です」

 それだけ言って春樹は通話を切った。そして、焦る頭であらかじめ考えていた強襲案をもう一度練り直しながら、忍へ一言、命令した。

 

「やれ」

 

 

…………

 

「……くそッ!」

 走るのをやめた雄馬は思わず毒づいた。このままでは、春樹たちが危ない。周りを気にしている余裕は、最早なかった。幸い、商業地区を抜けたためあたりに人は少ない。今なら大丈夫だろう。

「急ぐぞ。アイ」

「うん。……わっ?」

 雄馬はアイを抱き上げると、

「しっかり掴まってろよ」

「わかった」

 そのまま走り出した。その速度が、どんどん上がっていく。そして、舗装された道路を砕く勢いで思い切り踏み込むと、そのまま大きく跳躍した。しかし、並大抵の跳躍ではない。大砲から発せられる砲弾のような勢いで大空に舞い上がった。跳ぶ、ではなく、飛ぶかのようだ。

「うわ。気持ちいい」

「これやんの、結構久しぶりなんだよな……ほら、落ちるぞ。掴まれ」

「はぁい」

 雄馬の、人間とは思えないどころか人間では有り得ない挙動にもアイは一切動じず、むしろ楽しんでいるようだった。

 

…………

 

 薄暗い倉庫に運び込まれた美海は、恐怖に震えながらも、なんとか頭を冷静に保っていた。

 どうやらこの男たちは、美海に乱暴する気はないらしい。この先のことを考えると怖くてたまらないが、それならこちらにもできることはある。春樹達を信じるなら、きっと。

「な、なぁ。こんな子滅多に手に入らないっすよ。ちょっと味見しても……」

「ダメだ。彼は新品を望んでおられる。お前らの汚い舌で舐めた後では、取引が成り立たない」

「なんすか! ここを用意したのは俺らっすよ!」

「そして、その謝礼はこの子を売ったその代金から支払われる。言った通りの金額が欲しいなら、黙っていろ」

「うぅ……そうだ、少しくらい減ってもいいから、味見させて――」

 いやらしい表情を浮かべて美海の口を覆う布を剥がした男は、その顔を美海に近づける。

 手足が動かせない美海に残された最後の武器、エクシード。口の中。喉の奥に小さな気流を作り出し、それを外に向かって流す。その勢いで口の中に詰め込まれた布を一気に吐き出し、そのまま叫んだ。締まらないのは、その悲鳴が完全に本気の悲鳴だったことだろう。

「愚か者!」

 美海を運んできた男――かなりの大男だった――が、美海に手を出そうとした男を殴り飛ばした。

「誰かに気づかれたかもしれん。全く……誰か、様子を見て来い」

 美海の口を再び覆いながら命じる男。それに従った2人の男が倉庫の扉を開き、外を見て、

「3人、向こうの方にいます! 男が1人と女が2人です!」

「そうか。捕えろ。無理なら始末しろ」

 3人……忍と琉花と……あと春樹? しかし、始末しろ、なんて……。喜びと悲しみが混ざって、涙が出てくる。

「……お仲間が助けに来たようだね」

「…………」

「なら、彼らも同じ場所に連れて行ってやろう。この国らしく、オマケをつけよう」

 大男は薄く笑いながら言った。美海は涙を流しながら、それでも、必死に男を睨みつけた。

 

 もう、希望はないのかもしれない。

 

 ――それでもわたしは、みんなを信じる。

 

 男の命令を聞いた2人が、倉庫の外へと出て行く。しばらく沈黙が倉庫内を支配し……外へ出ていった2人が、帰ってこない。倉庫内にいた男たちは何かを察して、それぞれが武器を手に持ち始めた。拳銃だ。倉庫の入口に銃口を向け、それ(・・)が扉を開けるのを待っている――

 しかし、倉庫の扉を開けた――否、ぶち破ったのは、彼らの誰もが想定していなかったものだった。

 轟音とともに倉庫の扉を破り、雪崩込んできたのは――大量の()だった。倉庫内を洗い流さんとする勢いで流れてきた水流は、まるで意志を持つかのように男たちを包み込んでいく。

 ソファの上に転がされていた美海も、容赦ない水流に呑まれた。布の覆いが水を拒んでくれたが、舐めてみるとしょっぱい。これは海水だ。そしてその海水は、男たちにしたように美海を包み込むのではなく、むしろ美海を倉庫の入口へと押し流そうとした。

「よっし、全員抑えたよ!」

「あとは拙者に任せるでゴザル!」

 入口から飛び込んでくる、元気な声。2人の少女を従えた、男の子のシルエット。美海の涙腺が遂に決壊する。

 春樹が倉庫に駆け込んでくる。しかし、轟音がそれを阻んだ。海水に呑まれてもなお戦闘意識を失っていなかった大男が、春樹に向かって弾丸を放つ。それが、春樹の右肩に当たった。

「ぐあっ!?」

 走り抜けた激痛に囚われ、思わず転倒する。転んだ春樹は、床を濡らしていた水分で滑り、また美海は琉花が操る水流によって春樹の方に向かって押し流されており――2人がぶつかった。

「美海――」

 春樹は、動かせる左手だけで無理やり美海の口を覆う布を剥がすと、その左手を、美海の頬に添えた。彼は痛みに耐えて、それでも懸命に微笑んでいた。

 

「――飛べ。お前の翼で――」

 

 その言葉に、美海は言葉を返さなかった。その代わりに頷き、心で答えた。涙ぐみながらも、満面の笑顔になる。

 

 

 ――ずっと笑顔でいなさいね――

 

 

 彼を信じる。2人の心が、重なる。繋がる(リンクする)

 

 風が吹き抜け、美海の手足の拘束を切り裂いた。美海は立ち上がり、伸ばされていた春樹の手に、自分の指を絡めた。

 

「一緒に、飛ぼう――――!」

 

 それを聞いた春樹は、ニッと太々しく笑った。

 

 その瞬間、2人の心は、完全に繋がった。バトルフィールドでのリンクが明らかに制限されたものだと分かる、強大なリンク。体の底から――心の底から力が溢れてくる。美海は湧き上がる力ををすべて、容赦なく解き放った。

 効果は絶大だった。美海を中心に竜巻が起こり、倉庫内を破壊していく。その中心に立つ美海は、まるで嵐を踏んで世を駆け抜ける風神のようだ。翼のようにツインテールに結い上げた髪が暴れ、水に包まれていた男たちは、竜巻によって宙へ巻き上げられた挙句、壁に叩きつけられて気絶していった。

「あいたっ!」

 見れば、ちゃっかり忍も巻き添えを食らっている。しかし流石というべきか、すぐに受身を取って床に伏せた。琉花は危険を察知して一旦外に逃げたようだ。

「美海、そこまでに……!」

「あっ、うん!」

 美海はぐっと力を込めて、風を止ませた。忍も琉花も春樹も美海も、全員息が上がっていた。それでも、美海が、ここにいた。救出できた。

「美海……」

 春樹が呼びかけると、美海はハッとして春樹を見た。何も言わず、ただ春樹の顔を食い入るように見つめている。その瞳に、涙が浮かぶ。

 そこからは流れるままだった。美海は春樹の胸に飛び込むと、大声で泣きだした。

「うえぇぇぇぇん!! 春樹くん……!!」

 何度も名前を呼ぶ。春樹くん、春樹くん! 二度と会えなくなるかも知れなかったのに、危険を冒して駆けつけてくれた。怪我を負っても、果敢に。

「美海……っ! 良かった……!」

 そして、春樹もまた涙を流していた。美海と同じくらいの号泣かも知れない。失われてしまうかと思った彼女が、腕の中にいる。自分の手で、そしてみんなの協力で守れた。その嬉しさと安堵から、完全に涙腺が壊れていた。

「もう絶対に離さない! みんなのことを信じて、頑張るから! 俺のこと、信じてくれ……!」

「春樹くん……!」

 すぐそばでは、忍は安心した表情で、琉花は美海達と同じように泣いていた。

「さて、感動のシーンはここまでかな?」

 倉庫に響く、軽々しい声。全員の背筋が凍りつく。

「あ、動かないでね。動いたらこの子の頭に穴が開いちゃうよ?」

 視線だけ倉庫の入口に向けると、そこには、琉花の頭に拳銃を突きつけた男が立っていた。美海を運んでいる時に助手席に座っていた、あの男だ。

「さ、両手を挙げてね。それで、地面に膝をついて……そう、それでいい」

 琉花は恐怖に彩られた顔で、男の指示に従った。男が持っているのは、琉花の持っているリボルバー銃(みずでっぽう)とはわけが違う。たった指1本で人を殺せる武器。

「応援があと10分で来る。それまでこうしていてもらうだけさ。君らは全員、商品になるからね」

 男が嬉しそうにクックッと笑う。これまで以上の絶望が、場を支配する。彼には、琉花を傷つける意思がある。だから、忍でさえ、動けない。

 しかし、その笑いは突如途切れた。驚いて顔を上げると、手に持った銃と右腕に、背後からナイフが刺さっていた。

「なっ……!」

 言葉を失った様子で男が背後を振り向く。それと同時に、次々とナイフが降り注ぐ。四肢を狙ったそれは、ものの3秒で男を完全に無力化してしまった。

 悲鳴を上げる男を黙らせたのは、入口にいつの間にか現れていた銀髪の少女だった。彼女の拳の一閃が、男の意識を完全に奪っていった。

 ばたりと倒れるナイフだらけの体に、春樹たちはびくりと身を引く。

「ゆーま、おわった」

 外に向かって呼びかける少女は、春樹たちが全く知らない少女だった。年の頃は同じ程度だと思われるが、奇妙なのは、彼女の顔に一切の表情が浮かばないところだった。黒いリボンをつけた銀色のショートヘアーが、海風に柔らかく靡く。その髪を掻き分ける左手の手首に、ピンクゴールドの腕時計が光るのを見た。

「春樹! 大丈夫か!?」

 倉庫に駆け込んできたのは、雄馬だった。春樹、美海、琉花、忍と見回して安堵の息を吐く。そして、春樹の肩の傷を見て、「馬鹿野郎!」と大喝した。

「春樹! お前、自分がどんなに危険を冒したか分かってんのか!? その肩の傷があと10センチ左にできてたら。死んだかも知れないんだぞ!」

 雄馬は真剣な表情で春樹を怒鳴りつけた。春樹はビクッと身を縮めながらも、美海の頭を抱いたままだった。

「……全く、どうして子供って奴は、大人の気持ちを……」

 雄馬はぶつくさと呟きながらも春樹に近寄り、手際よく傷の応急処置をしていった。

「ごめんなさい……」

「……別にいいさ。誰も死んでないんだから、それでいい」

 素直に謝った春樹に、雄馬は呟くように言った。

「ほら、出来た。外に海斗先生が車を出してるから、それに乗ってコロシアムに戻れ」

 雄馬は立ち上がると、その場にいた全員に向かって、

「お前ら、よくやった。だが連中の増援が来るまで時間がない。とっとと海斗先生のところまで行け!」

 その言葉に突き動かされ、慌てて立ち上がる春樹と美海と琉花。春樹は美海に支えられながら、全員でその場を去った。その背中に、雄馬が叫ぶ。

 

「ブルーミングバトル、期待してるぞ! 頑張れ!」

 

 

…………

 

「……もしもし、龍姫?」

『あ、雄くん。美海ちゃん、見つかった!?』

「見つかったが、春樹が銃弾を食らった。右肩だ」

『た、大変!』

「あと20分で海斗の車がコロシアムに着くから、車から降ろす前に治せ。あの傷は公衆の面前に晒すには、スプラッタすぎる」

『りょ、了解したわ。雄くんも気をつけてね』

「わかってる。それじゃあ」

「……電話、おわった?」

「ああ。……さて、応援はどんだけ来るかな?」

「見たとこ、6人。あんまり割けないみたい」

「そうか。大物はメルと凌雅だけでいいっぽいし、俺らは雑魚狩りってことで、1人頭2人な。行け」

「了解」

 

…………

 

 数学講師の(きづき)海斗(かいと)の車に乗り込むなり、彼は春樹達に対して雄馬と同じような説教をしたが、結局全員生きているし良しということになった。

「ホント、心配させないでくれ。攫われた日向(ひなた)はともかく、神城(かみしろ)。お前はエクシードも何も持たない、一般人なんだぞ。無茶しないでくれ」

「本当にすみません……」

 春樹の頭は下がりっぱなしであるが、肩には相変わらず激痛が走っている。美海と兎莉子がさすってくれなければ、痛さで絶叫しているかもしれない。海斗もそこはちゃんと心配しているらしく、そうまで責めはしなかった。

 兎莉子は春樹の肩の傷を見たとき、泣き叫ばんばかりに心配した。が、彼女の優しい心根を知っていれば当然だと思うかも知れない。

「よし、着いた。……と、志賀先生だ」

 車が止まるなり、ドアを開いて乗り込んできた志賀は、春樹の傷を見るなりそこに右手を当て、力をうんと込めた。

「春樹くん、大丈夫!? じっとしててね!」

「は、はい」

 温かい感覚とともに痛みがどんどん引いていき、2分も経った頃には、もう傷は跡形もなかった。

「ありがとうございます!」

「いいの。それじゃあ会場に向かって。もうあと35分しかないわ」

 志賀に急かされた春樹たちは会場に向かって走り出そうとして――全員、お腹がめちゃくちゃ空いていることに気づいた。

 美海が目敏(めざと)く、コロシアムのそばでクレープを売っている屋台に気付く。まさか、と一同が思うが早いか、美海は「ちょっと待ってて!」と言い残して、ぴゅーと走っていってしまった。

「すいません、ベリーのクレープ5個ください!」

「お、美海ちゃん! 見つかったんだね。もうみんなのそばを離れちゃダメだよ? じゃあ1個250円、5個で1250円ね」

「はい! ……あれ? お財布……あ」

 美海はどうやら攫われた時に、持ち物を全部没収されていたらしい。ポケットを今更のようにまさぐって、財布がないことに気づいた。美海に追いついた春樹も、財布の中の紙幣が海水でびしょ濡れになっていることに気づく。

 しかし、少しおネエ系な店主はくすくすと笑うと、

「顔なじみの美海ちゃんだし、春樹くん達はお得意様だから、サービスしちゃう。ちょっと待っててね!」

 と、あっという間にクレープ5個を差し出した。

「すいません。後で払います……」

「いいのいいの! それじゃあバトル、頑張ってね! ちゃんとモニターで見てるから!」

 店主の激励を再び受けた春樹たちは、クレープを落とさないように、それでも極限まで急いでコロシアムに入り、教師陣に導かれて控え室に入る。

 

 ブルーミングバトル、開始30分前だった。

 

…………

 

「……ねえ、海斗くん。彼、ほんの1時間半前にここに来た時よりも、なんだか一回り成長したみたいだったわ。何があったの?」

「そうだなぁ……もうあのチームは、ブルーミングバトル(花開く戦)を行うよりもずっと、その可能性を花開かせた……ってところか」

「じゃあ、これからバトルをしたら、もっと花開いちゃうってこと?」

「だとしたら、どうする?」

「それは、ものすごく楽しみね」

 昼食に出かけていた観客たちが、コロシアムの中に戻っていく。ただひとつの勝負を見るために。

 

 身を乗り出して海斗の話を聞いていたクレープ屋の店主は、とても嬉しそうに微笑んだ。

 

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