アンジュ・ヴィエルジュ *Skyblue Elements* 作:トライブ
朝、起きると、お母さんは寝ていた。
お父さんは、仕事で家にいなかった。
――行ってきます。
誰も「いってらっしゃい」って言ってくれなかった。
学校が終わって、家に帰ると、お母さんは仕事で家にいなかった。
お父さんは、仕事で家にいないか、寝ているかのどっちかだった。
――ただいま。
誰も「お帰りなさい」って言ってくれなかった。
だから、「いってらっしゃい」と「お帰りなさい」が当たり前だと思っているあの子が、妬ましかった。
…………
明かりの付いていないベッドルームに月光が差し込んでいる。
「……琉花?」
「ん……」
「大丈夫?」
「……うん、へーき」
満月寮の2階の1室で、琉花はベッドに横たわり、毛布にくるまっていた。それを眺めるのは、ルームメイトの希美だ。
恐慌状態に陥った琉花は、その場にいた本条に軽い眠りの魔法を掛けられ、泣き疲れていたのもあって、すぐに眠ってしまった。教員の運転する車に乗せられ、満月寮に帰ってきた後もしばらく眠り続け、夜の8時になってようやく目覚めた。
「小春さんが、晩ご飯用意してくれてるよ。食べに行く?」
「ん……そだね。お腹空いた」
いつもの元気一杯な琉花はそこにいない。彼女の様子は、奇妙に静かだった。
琉花がベッドから降りて、着たままの制服を脱いでいる最中、リビングから持ってきたキャスター付きの椅子に腰掛けていた希美は、そっと琉花に訊いた。
「ねえ、琉花?」
「……なに?」
「あのさ、『私じゃない』って言ってたよね」
「…………うん」
「あれ、どういうこと?」
疑いたくないのに、自分からああ言われては、声にも疑るような響きが入ってしまう。
対する琉花は、ブレザーを脱いで、スカートを下ろして、そこで手を止めた。
「別に……なんでもない」
「でも、みんな聞きたがってる」
「そうだろうね」
「教えて、くれないの?」
「…………」
琉花は胸の前で両手をギュッと握り締めた。
「……言ったら、嫌われる。だから、言いたくない」
「そっか」
希美は努めて素っ気なく返事した。そして、
「どうしてもっていうなら、無理には聞かないけど……辛いなら、ちゃんと誰かに相談してね」
なぜ「私に相談してね」とは言えなかったのか、この時の希美には分からなかったが、希美も琉花と同じく、辛いのだ。
ただ、異常が表面に出た琉花とは異なり、希美は異常を必死で隠している。隠せてしまっている。
そして、希美に背を向けた琉花は、
「うん、そうする。ありがと」
と言って、ベッドルームから出て行った。しかし、その声は、琉花とは思えないほど、硬質なものだった。
…………
「…………誰も、分かってくれるわけ無いじゃん……」
…………
事件が起こった青蘭学園には、執行部刑事課による捜査の手が入った。また、使用された毒物が魔術的なものであったことから、魔術犯罪捜査課――通称『魔捜課』も捜査に加わる。
当然ながら学園は休校となり、生徒たちは外出禁止が言い渡された。犯人が捕まっていないため、どこで事件が再発するか不明なためである。
青蘭大学病院に搬送された兎莉子は、体内に巣食っていた呪いと共に、原因究明及び犯人の特定の重要な手がかりになるので、彼女の体調を完全に回復させることを最重要項目としながらも、兎莉子から直接事情を聴取する。
――しかし、春樹が気がかりなのはその兎莉子の安否と、どうも様子がおかしかったらしい琉花である。
現在学園に在籍しているαドライバーは、全員1人暮らしをしているため、個々に自宅へ帰すと孤立してしまいかえって危険だという執行部部長の意見により、例外的にαドライバーのみ学園の教室で寝泊りすることになった。もちろん、警護はついている。が、それゆえに落ち着かない。
現在、春樹たちαドライバー5人は、普段は選択科目の授業で使用している空き教室に留まることを命じられている。学園には、災害発生時に使用する布団などが備え付けられており、もうすでにそれらは床に敷かれている。寝たければいつでも寝れるが、春樹は兎莉子と琉花のことが心配で、ずっと落ち着かないでいた。
他の4人も、言葉数は少ない。これがただのお泊まり会だったら盛り上がっていただろうが、事件が起きた後となれば、皆が皆、自分のプログレスを心配するのは当たり前だ。そして、まだプログレスを見つけられていない早輝も、相性善し悪しの前にクラスメートである皆の身を案じており、話している言葉にもどこか元気がない。
早輝を含む1年生のαドライバー3人は、呪いに苦しむ兎莉子と恐慌状態の琉花を直に見ている。そのため、例え自分のプログレスでなくとも不安そうな色が表情に出ている。被害に遭った兎莉子と状態がおかしかった琉花は春樹のチームのプログレスだから、心配するのは当たり前だ。
「春樹?」
「ん……?」
声を掛けてきたのは、春樹と同学年であり親友のαドライバー、
「そんなに辛い表情しないで。今の春樹を見たら、美海ちゃんたち驚いちゃうよ」
「…………そうだな」
冬吾の言葉に、春樹は最小限の言葉で返した。
春樹は去年の暮れに、自分のチームに入れようと思っていたプログレス4人が爆弾で攻撃された。彼女らは白の世界の病院へ送られ、現在も目を覚ましていない。さらに、前回のブルーミングバトルの直前に、美海が拉致されかけた。
それらの事件に関わっていたのは《ファントム》と呼ばれる犯罪組織である。
ファントムはその規模が不明で、青蘭諸島どころか他の世界でも様々な事件を起こしている。裏社会などどこにでも形成されてしまうものだが、青蘭諸島の場合はそれの大部分がファントムで占められてるという。
仮に、今回の事件がファントムによるものだった場合、春樹は自分と仲の良いプログレスを6人も攻撃されたことになる。春樹は今ここにいる5人の中で、最も強い憎しみをファントムに対して抱いているのだ。なので、辛い表情をするなという方が無理だった。
ただ、冬吾も無神経でそう言ったかといえば、そうでもないことが春樹にも分かっていた。冬吾は「チームリーダーである春樹のテンションがチームメンバーに伝播する」ことを示唆しているのだ。特にチームの要であり、春樹に若干依存気味の美海が影響を受けると、チームが根幹から揺らぎかねない。琉花も、理由こそ不明だが心を揺らしている。忍だって例外ではないだろう。
今春樹がするべきことは、とにかく毅然としていることなのだ。そして、それはまさに「言うは易し、行うは難し」そのものである。
不意に、携帯電話が鳴った。画面を見ると、カレンから電話が掛かってきている。
「悪い、ちょっと電話」
春樹は冬吾に断ると、廊下に出て通話ボタンを押した。
「もしもし」
『こんばんは、神城春樹』
「どうしたの、こんな遅くに」
カレンから電話が掛かってくることは結構珍しいため、驚いて聞いてみると、彼女は淡々とした声音で、
『貴方様がチームリーダーとしての責を果たしているかどうか、確認したいのでございます』
と言った。続けて、
『那月琉花と話しましたか?』
「……いや」
琉花に電話をしようとは思っていたが、今は混乱しているだろうし、本条によって眠らされたことは知っていたので、明日にしようと考えていた。だが、これも言い訳なのかもしれない。
春樹は心のどこかで、琉花の秘密に踏み入ってしまうことを恐れていた。ちょうど先月、己の秘密に踏み入られることを恐れていたように。
『なら、今すぐ電話しなさい』
「でも……もう夜遅いよ?」
『それでもでございます。貴方様はチームリーダー。リーダーはメンバーの状態を常に知っておかなければなりません。今の琉花がどのような状態なのか、知っておくべきでございます。電話を掛け、仮に出なかったとしたら、それは「電話に出れない」もしくは「電話に出たくない」ような状態だということでございます。それを知るためにも、まずは連絡を取りなさい』
通話口からすらすらと流れるカレンの声は、春樹の頭にすんなりと入ってきた。それで、自分が今まで気を滅入らせていたことに気づく。同時に、自分がリーダーとして求められる行動を取れていなかったことを後悔した。
「うん、分かった。今すぐ電話してみるよ。ありがとう、カレン」
『礼には及ばないのでございます』
カレンはそう返事した後、少しの間を開けて、新たに声を掛けてきた。
『春樹』
「ん?」
『貴方様は、リーダーという立場になるのは初めてでございますか?』
「え? そうだな……こんなに重要なチームのリーダーになるのは、確かに初めてだけど」
『それなら言っておくのでございます。貴方様は誰でも頼れるのでございます。クラスメイトも、他の学年の者も、教員も。だから、困ったら誰にでも頼るべきでございます。あのいけ好かない三島冬吾を筆頭に、貴方様を助けてくれる者は、決して少なくありません。無論、現在貴方様のチームに身を置く、この
「……」
『貴方様は、「人に頼る」ことと「人を使う」ことの重要さを認識してくださいませ。ひとりで問題を抱え込むことほど無益なことはございません。足掻くことも大事かもしれませんが、どうしようもない時まで足掻いていては虫と同じです。勇気と無謀は別のもの。勇気ある男は素敵ですが、無謀な男を素敵だと思う女はほとんどいません』
「カレン……」
『私は、今の貴方様に対して「頼りにしています」などとは決して言いません。が、それは貴方様が頼りないからではなく、貴方様自身が人を使い慣れていないからでございます。ですのでどうぞ、チームメンバーであり部下である私を
それは、言葉を飾らないカレンなりの優しさだったのだろう。春樹は、淡々としながらも自分を助けてくれると言ってくれた彼女に感謝を覚えながら、
「じゃあ……もし琉花が電話に出てくれなかったら、相談してもいい?」
『了解しました。では、相談を持ちかけられないことをお祈りしていますです』
カレンは、そう冗談めかして通話を切った。
春樹は1回深呼吸をすると、改めて琉花に電話を掛けることにした。通話ボタンを押す指が僅かに震えたが、なんとか堪える。
数回のコール音の後、通話に出た。
『……もしもし?』
「お、琉花。こんばんは」
『ん、こんばんは』
声を聞いてみて、案の定元気が無さそうだった。
『ハル先輩、こんな遅くに何の用?』
「いや、その……先生から、ちょっと様子が変だったって聞いたから。心配で」
『そっか、ありがとね』
口調は同じなのに、声は静か、というか若干硬い。いつもの弾けるような元気が感じられなかった。
春樹は慎重に言葉を選び、
「大丈夫?」
『あー、大丈夫大丈夫。ちょっと混乱しちゃっただけだから。心配しないでオッケーよ』
「そうか、ならいいんだけど」
今はとりあえずこれでいい、と春樹は判断した。彼女はきっと何かを隠している。だが、それを無理やり暴くのは利口なやり方ではないだろう。そんなことをしようものなら即座に通話を切られるに決まっているし、今後の関係にも響くはずだ。
ただ、
「バトルが近いから、何か悩みがあったら遠慮しないで相談してくれよ。俺じゃなくても、友達とか、先生でもいい」
カレンに言われたことを自分の言葉で琉花に伝えると、彼女は一瞬押し黙った後、
『……ありがと』
と言った。しかし、その声音は今日一番硬いものだった。
それは、文面とは裏腹に、拒絶にも聞こえた。
通話を続けるための話題も浮かばず、ちょっとした挨拶を交わすと、通話は切れた。
「……大丈夫、だよな」
口に出してみたが、余計に大丈夫じゃない気がして、怖くなる。
――琉花は何を隠しているのだろう。
…………
目を覚ますと、木目の板が目に入った。2段ベッドの、上段の底板である。これを見ながら起きるのも、もう3ヶ月目だった。
「…………夢、か」
彼女はゆっくりと起き上がると、いつもはベッドから降りて体を伸ばすのだが、今日はそのままじっと何かを考え込んでいた。
――もうアイツのために金を払わなくていいのか。
「……お父さんもお母さんも、大嫌い」
彼女はポツリと呟くと、ベッドから降りた。
…………
授業は無いのに、学校にいるとは新鮮だった。しかも、目覚めて最初に目に入るものが教室の天井だ。
一晩明け、青蘭学園の様子は朝から慌ただしい。執行部による捜査が続いているのだ。そんな中、春樹は特別に許可を貰って、青蘭大学病院へと足を運んでいた。学園特区から少し離れることになるが、今はあちこちに執行部の人間がいて、顔見知りの人も少しだがいるため、それほど危険ではない。
近代的な印象の病院に入り、面会の申請を先生が通してくれたのでその旨を受付に伝え、案内されるままに奥へ入っていく。清潔感のある白い壁は綺麗だが、どこか不気味さを感じるのは、病院がホラースポットとしてよく取り上げられるからだろうか……。
などと無駄なことを考えているうちに兎莉子がいる病室へ着いた。開かれたスライドドアから中に入ると、そこには数人のスーツを着た男女と、ベッドの上で横たわった兎莉子がいた。
「あ、春樹さん!」
兎莉子は春樹を見つけるなり、ぱあっと顔を輝かせた。とにかく無事だったという事実が春樹の胸に染み入り、思わず駆け寄って彼女を抱きしめてしまった。
「ひゃぁっ!?」
「兎莉子! 良かった……!」
「あ、あの……」
兎莉子も抱きしめ返してくれたが、いきなり病人を抱きしめるなんて非常識だったかなと思い直し、すぐに手を離した。彼女は顔を真っ赤に染めている。
「あらあら、お熱いわね」
その様子を見ていたスーツの女性が頬に手を当てて言うと、周りで笑い声が生まれた。周りに人がいたことを思い出し、春樹まで赤くなる。
スーツの男女は、皆胸に小さなピンバッジを付けている。青い蘭のモチーフを取り囲む明るい紫。これは執行部の中でも魔術犯罪捜査課の証だ。
「す、すみません。事情聴取中、ですよね……」
春樹が謝ると、彼らはむしろ面会を歓迎し、一旦退出してくれるようだった。どうやら、兎莉子1人で心細い思いをさせている中、必要とはいえ数人の大人で取り囲んであれこれ聞き出したことが引け目だったらしい。
大人たちが出て行くと、春樹はベッド横に置かれていた椅子に腰掛け、改めて兎莉子の顔を見た。呪いを受けてその苦痛に耐え、更に色々と聞き出されたからか、かなり疲れているように見えた。
「兎莉子、大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
それでも春樹が話しかけると、彼女は自然に笑顔になってくれた。それから、行く途中で買ってきたお見舞いを渡した。
「はい、これお土産ね。確か兎莉子、アイスが好きだったよね」
「え? わぁ、これ高かったんじゃないですか?」
「兎莉子のためだもん、高くなんかないよ」
「え、あう、あの、ありがとうございます……!」
少し高級なバニラ味のアイスクリームを、兎莉子はとても喜んでくれたようで、その笑顔を見るのは春樹が想像していた以上に嬉しかった。
幸せそうにアイスを口に運んでいた兎莉子が、そういえば、と春樹の方を向いた。
「あの、今、授業中なんじゃないですか?」
「いや、今は休校になってるんだ。事件の捜査があって」
「え、そんなにですか!?」
「うん。しかも、原因がわからないから迂闊に外出させるわけにもいかないってことで、基本的に外出禁止なんだ」
「そうなんですか……なんか、我ながらスゴい事件に巻き込まれちゃいました」
茶目っ気を出して笑う兎莉子だが、春樹にとっては笑い事ではない。手を伸ばして兎莉子の頭の上に置き、何度も撫でた。
「でも、ホント無事で良かった……もし後遺症とか残っちゃったら、俺……」
「大丈夫ですよ。呪いも完全に取り除けたみたいですし、もうすぐ退院できるって言ってました」
「そっか。良かった」
「はい。文香先生がすぐに対応してくれたから何とかなったそうなので、感謝です」
「そうだな……」
春樹は本条と少し話をしていて、彼女が兎莉子の応急処置をしてくれたことは知っていた。既にお礼を伝えてあるが、より一層頭が上がらなくなってしまうな、と思った。
「……? 春樹さん?」
「ん、どうしたの?」
不意に兎莉子が首を傾げた。そして、春樹の顔を見て、
「春樹さん、疲れていますか?」
と聞いてきた。
「え? どうして?」
「なんだか、心の底から笑えていないような気がして」
「そりゃあ、大事な兎莉子がこんな目に遭わされてるんだから……」
「だ、大事な……っと、そ、そうじゃなくて! こう、なんていうか、何かお悩みなのでは?」
「それは……」
そこまで言いかけて、思わず春樹は口を閉じた。確かに悩みはある。またファントムの仕業なのでは……という悩み。そして、それ以上に彼の中で存在感を発しているのは、無論、琉花のことだ。
しかし、今の彼女にそんなことを伝えても、負担になってしまうだけだ。ただでさえ辛い状況なのに、これ以上重荷を背負わせたくなかった。
改めて兎莉子を見る。ウェーブの掛かった薄い色の髪。筋肉などほとんどついていない細い体躯。澄んだ瞳。可愛らしく優しげな顔つき。全てが組み合わさり、儚げな姫君のような印象を植え付けられる。
彼女は今、非常に疲れているはずだ。いや、むしろ春樹よりもよっぽど疲労しているのは疑う余地もない。それでも彼女は、春樹の悩みに気付き、寄り添おうとしている。
――こんなに儚いのに。
春樹は彼女が、その儚げな印象とは裏腹にタフな精神を持っていることを知っている。美海がファントムに誘拐されかけた時、その事実を聞いて慌てふためいていた春樹に落ち着きを取り戻させたのは、他でもない兎莉子だ。また、美海を探すためにグリフォンを呼んでくれたのも彼女なら、ブルーミングバトルの際、セニアの装備攻略のきっかけをくれたのも彼女だ。戦えなくとも、チーム"スカイブルー・エレメンツ"の立派なメンバーなのだ。
だから、彼女に遠慮して黙っておくのは逆に傷つくと、春樹は思った。
「――うん、そうだね。実は……」
春樹は一息、間を置くと、今彼が抱えている悩みを話し始めた。
…………
事件発生から2日目、兎莉子が退院し、また事件の原因も特定できたということで、ようやく翌日からの授業再開の目処が立った。
そして、その次の日。生徒達が、2日ぶりの再会の喜びと事件への不安、兎莉子が無事であったことへの安堵や、外出禁止により寮や自宅に拘束され続けたことでの精神的な疲れを混ぜ合わせた、不思議な表情で登校する中、各クラスの委員長及び副委員長が、真っ先に職員室に呼び出された。
呼び出したのは、目の下にできた濃い隈をファンデーションでなんとか隠した本条だった。彼女の席を取り囲むように、高等部と中等部の各クラス委員長と副委員長が並んだ。
「まずは、皆さんにこれを渡しておきます」
そう言って彼女が全員に渡したものは、数枚の呪符だった。
「高等部1年生の生嶋兎莉子さんが病院へ運ばれた原因は、呪術でした。これは、その元凶たる呪物を体内から取り除くことのできる札になります」
縦長の半紙に墨汁で描かれているのは、黒の世界のものらしき魔術式だ。それを理解できた高等部1年生のクラス委員長で黒の世界出身のソフィーナ・アルハゼンは、
「これ、効くのかしら? なんだか見たことのない紙にインクだけど……インクはともかく紙は、羊皮紙とか無かったの?」
「それは青の世界の呪術に用いられる紙です。もちろん効きますよ。夜を徹して作りました」
「ならいいけれど……」
初めて目にする素材で出来ている呪符を疑わしげな目で眺め回しているソフィーナ。本条はそれを「観察はあとにしてください」とたしなめ、それから、普段通りの無表情に深刻さを滲ませながら口を開いた。
「その呪符は、できるだけクラスの人には見せないようにしてください。また、今から話すことも、できるだけほかの人には喋らないように。いいですか――」
本条が声を潜めると、じり、と彼女を取り囲む輪が縮まった。
「今回の事件は、青蘭学園内部に犯人が潜んでいる可能性があります」
その言葉を聞いた全員が驚き、「そんなはずない」と言う声もあったが、本条は手を上げてそれを静止した。
「私も、この学園の生徒達の誰かが犯人だとは考えたくありません。ありませんが……事件の証拠はその可能性を示唆しています。この呪符を全員に渡すということも考えましたが、万が一犯人の手に渡れば、術式を解析され、この呪符で解呪できないように呪いの式を改変されてしまうかもしれないので、信頼する委員長と副委員長に授けることにしました」
本条はそこで一旦言葉を区切ると、改めて話し始めた。
「もし、もし呪いを受けた生徒を発見した場合、すぐにこの呪符を、その生徒の身体に当てて力を込めてください。皆さん、できますか? 少し練習してみましょう――」
皆が呪符を1枚取り、力を入れてみると、描かれていた魔法陣のような模様が紫色の光を発した。術が発動した証拠だ。
「大丈夫なようですね。では、その呪符は常に携帯するように。なるべく教室から出ないように呼びかけますが、束縛し続けるわけにもいかないので、移動教室の場合を除き、委員長か副委員長のどちらかは必ず教室に残るようにしてください。特に
全員が頷いた。だが皆の表情は、不安と恐怖に彩られている。遠まわしに、自分たちの行動が生徒の生死を分けると告げられているも同然なので、当たり前のことだろう。中等部3年生の委員長であるエルエルなど、小さく震えてさえいる。その様子を見た本条は、口元に静かな笑みを浮かべた。
「大丈夫です。何かあれば、我々教員が絶対に助けます。前触れ無しでも生嶋さんを助けることができました。なので、再犯は決して許しません。必要以上に神経質にならず、まずは皆さん生徒なので、目先の授業に集中するように」
本条の冗談に皆の表情は少し緩んだが、それでも完全には晴れない。
――自分のクラスの誰かが、生徒を傷付けた犯罪者かもしれない。
…………
「春樹くーん、久しぶりー!」
学校へ着くなり、元気な美海の声が飛び込んできた。
「普通に土日挟んだくらいだろ? それに、電話もしたし」
「そうなんだけど、でもでも、いざ寮から出るなーって言われてたら、なんだか寂しくなっちゃって」
正門の前で待ち構えていた美海は、春樹の姿を見つけると急いで駆け寄ってきた。その表情は嬉しそうだが、同時に少し不安そうでもある。彼女はそのまま春樹を引っ張って、グラウンド周辺の木陰まで連れて行った。
なぜだろう、と思っていた春樹に美海が告げたのは、琉花の様子のことだった。
彼女が言うには、琉花の様子は普段通りに見えるが、どうにも本調子ではない、ということだ。
「なんだろう、いつもの琉花ちゃんっぽいんだけど、1人でいるときにすごく悩んでるっぽい表情になるの。『どうしたの?』って聞いても、はぐらかされちゃうの」
「そうか……俺もな、彼女と電話で話して……」
春樹が、電話で聞いた琉花の様子を話していると、
「おや、神城春樹に日向美海。おはようございますです」
「あ、カレン。びっくりしたー」
「おはようございます、カレン先輩」
春樹の後ろから、今登校してきたカレンが声を掛けた。いつも通りの無表情だが、春樹と美海が何やら真剣な表情で話し合っていたらしい様を見て一言、
「那月琉花に関しては、少し様子を見るべきだと思いますです」
一瞬で内容を見抜かれた。
「春樹が聞いた琉花の様子と、美海が見た琉花の様子からして、彼女にはよっぽど隠し抜きたいことがあるようです。それを無闇に暴こうとすれば、当然、反発されることでしょう」
春樹は結局、琉花と電話で話したあと、不安になってカレンに会話の内容を報告していた。それと同時に、どうやらカレンは美海とも連絡を取り合い、琉花の様子を調べていたらしい。アンドロイドだからか、抜け目のない子だな、と思わざるを得なかった。
「琉花ちゃん、何を悩んでるんだろう……」
「目先の練習に不都合がないのであれば、そっとしておくのも手かもしれませんが、そうでないのなら、どうにか聞き出さなくてはならなくなるかもしれません」
「それって、無理やりってこと?」
「そうは言っていないでしょう。人間である以上、常に警戒心を保ち続けることは非常に困難です。どこかで警戒心が緩むのなら、そこを突く手もあります。ですが……」
カレンは一回言葉を区切って、再び口を開いた。
「彼女が仮に警戒心を保ち続けた場合、精神面において看過できない疲労を溜め込みかねません。気を病んでしまう前に適切な処置が必要になるでしょう」
「そんなことになるのか?」
「確定はしていません。ですが、その確率は高そうです。希美とも連絡を取りましたが、自室でも一切警戒を緩めていないようなのです」
カレンは春樹と同じく数少ない中等部からの持ち上がり組だ。中等部は人数が非常に少ないため、学年同士の結びつきが非常に強い。なので、中等部上がりの希美とも仲が良いのだ。
琉花と相部屋の彼女にさえ隠しているということは、カレンの言うとおり、よほど隠しておきたいことなのだろう。
更にカレンは、春樹と美海を悩ませることを告げた。
「希美は、琉花がこのように言っていたということを教えてくれました。『言ったら嫌われる』と」
その言葉を聞いて、2人は思わず黙り込んだ。言ったら嫌われることとは、なんだろう。なぜ、琉花がそんなことを。
「まったく……三島冬吾もセニアと上手くいっていませんし、間を取り持つ私は大変でございます」
そのように茶化すカレンは鉄面皮だが、2人と同じように、実はものすごく頭を悩ませているのかもしれない。
「……とにかく、練習を欠かすわけにはいかないから、琉花には普段通り練習してもらうしかないな」
春樹はそう呟いた。美海は頷いたものの、不安そうに春樹を見上げていた。
…………
寮で外出禁止が命じられている間も、美海と沙織は空いている部屋を借りて、希美の指導を受けていた。その間に、美海のダンスはかなり上達していた。
随分と久しぶりに感じる学校。クラスの様子は普段通りを装ってはいたが、皆どこか警戒心が強まり、いくつかのグループで固まって行動していた。特に、兎莉子を擁する美海が中心のグループは、何かと神経質になっていた。
クラスの雰囲気は、はっきりいって良いものとは言えなかった。もちろん、生徒の中に犯人がいるかもしれないということを、教員は委員長と副委員長以外の生徒には伝えていない。そのはずなのだが、『毒を盛られた』となれば真っ先に疑うべきは周辺の人間であり、特に過剰反応していた琉花は、言いにくいが――どこか疑われているように美海は感じた。もちろん、美海は琉花のことを疑ってはいないし、本人も努めて普段通りに振舞っていたようだが、その様子はどこか硬さが抜けなかった。
「わっ……とと!」
余計なことを考えていたせいで、バランスを崩す。数日前までは尻もちをついていたところだが、なんとかバランスを取り戻すことができた。
「美海ちゃん、大丈夫?」
「え、えへへ。大丈夫大丈夫」
「こら、美海。なんか余計なこと考えてたでしょ」
「あ……うん。ごめんなさい」
それを見て心配する沙織と、注意を促す希美。
「琉花ちゃんのこと、考えてたの……」
美海が正直に言うと、沙織も希美も口を閉じてしまった。特に希美は琉花と相部屋だ。同じ部屋でなければ、最悪意識しなくても良いのだが、同じ部屋で暮らしている、となれば、意識せずにはいられない。
「……琉花のことは、大丈夫」
希美は、どこか硬い声で言った。彼女もまた、相当なストレスを溜め込んでいる。学業に加え、休日にはアイドルとしての活動がある日も多く、それでいて放課後に美海と沙織の指導にも当たっていて、尚且つ同室の琉花の様子はどこかおかしい。ストレスを溜めるなという方が無理な話だった。
「さ。練習、続けよ」
練習が再開する。美海は本当に上達していて、くるりと回るターンは、ツインテールが軌跡を引いてとても美しい。まだ粗はあるものの、始めた当初と比べれば雲泥の差だ。
昔から何かと物覚えが良い美海は、小学生の頃、希美のダンスを見よう見まねでやってみたら希美よりも上手く出来た、ということが何度かあった。
「ほら、どうよ希美ちゃん! 結構上手くなったでしょ?」
「ん……そうね。上手くなった」
「いいなぁ、美海ちゃん。私ももっと頑張らないと」
沙織は、体力はあるものの身体を使い慣れていないため、ターンをすればバランスを崩したり、回りすぎたり、といって何度も失敗しているが、これが標準なのだ。綺麗に1回転するのは、思った以上に難しく、しかもそれを曲の流れに合わせて行わなければいけないため、相当な練習が必要になる。当然、ただターンだけしていればいいわけではなく、曲に合わせて歌を歌い、所定の位置まで決められたタイミングで移動しなければならない。アイドルのライブというものは、想像以上に大変なものだった。
そうこうしているうちに、練習も終わりになった。慣れている希美以外の2人はヘトヘトだが、これも始めた頃に比べれば良くなった方だ。
沙織は寄るところがあると言って、先に練習ホールを出た。残った2人が片付けをしている間、どうしてもたまらなくなって、美海は希美に声を掛けた。
「あの、希美ちゃん?」
「なに?」
「その、琉花ちゃんのこと」
「……大丈夫」
「で、でも」
「大丈夫だってば!」
希美が急に大声を上げて、美海はびくりと震えた。
「あ……ご、ごめんね。しつこかったかな」
「……私も、大声上げてごめん」
希美の声は、どんどん硬くなっていく。だが、美海は――気付かない。
「そのね、もし希美ちゃんがその……辛いなら、相談に乗るよって」
「相談?」
希美は顔を上げた。普段の優しい笑みではない、疲れ果てた笑顔。希美の中で、何かが壊れてしまったかのように――
「……琉花と話した?」
「え? うん」
「ただ話すだけじゃないよ? あの子、最近私が言わなきゃ部屋でぼーっとしてるばっかり。起こして、着替えさせて、ご飯食べに行かせて、学校行かせて、帰ってきたらお風呂入らせて、寝かせて……それ、やってみる?」
「え……」
美海の知らない事実を叩きつけられ、困惑した。希美の声は静かながら、どんどん熱を帯びていく。
「まあやらないよね。別にいいよ。誰もやりたがるわけないじゃん。いいの。……ところでさ」
希美は美海に詰め寄った。熱い吐息が顔に掛かる。話し声は、囁くように小さくなった。
「美海、随分上手くなったよね、ダンス」
「え? そ、そうかな?」
「うん。すっごく上手くなった。……私よりも、上手いんじゃない?」
「そ、そんなことないよ」
「でもね、沙織はそこまで上手くないわ。でね、そっちが当たり前なの。普通は、上手くないのが当たり前なの」
「…………希美ちゃん?」
困惑する美海。希美は精一杯の笑顔になって、
「あんたのそういうところ、昔から大嫌いだった」
「え…………」
美海は言葉を失う。希美は、止まらない。
「私がどんなに辛い思いしてここまで来たか分かる? あんた達にやらせてるのなんて、初歩中の初歩よ。でもあんたは、どんどん上手くなっていくの。私が必死で努力してるのに、あんたは見よう見まねで上手くなっちゃう。理不尽じゃん? 私はね、小学生の頃からずっとそう思ってた」
希美の口から紡がれる、妬みの言葉は、美海の心を刺し貫いた。どうしてこんなこと言われなきゃいけないんだろう。
頭の中で、理不尽だ、という思いがじわじわと脳全体を熱くしていく中、その片隅で、逆に急速に冷え固まっていく箇所があった。
「あんたが私より綺麗にターンするたびに、いつもあんたを殴りつけたくなったわ。ズルいって。あんたが私より綺麗に歌うたびに、いつもあんたの喉を掻っ切ってやりたくなった。でもしなかった。私が死ぬ気で努力すれば、あんたがたどり着けない場所まで来れるって、そう思った。でも、結果はどう? あんたは今でも私より綺麗に回って見せたわ」
「のぞ、み、ちゃん……」
今や希美の手は美海の肩に掛かり、痛いほど握り締めてきている。
「あんたのそういうところが、昔から大っ嫌いだった!」
肩で息をしながら、希美が言い切った。そして、美海の肩から手を放して――
…………
あの子の家に行くのが楽しみだった。だから、楽しくあるために私のするべきことは、できるだけあの子をあの子の両親から引き離しておくことだった。
「ママー、みてみて! これ、私が描いたの!」
「あら、可愛いわね~。よしよし~」
「お前は将来、アイドルよりも画家になるかなー」
そうやって頭を撫でてもらうことが、どれだけ尊いことなのか、知らないの?
そうやって頭を撫でてもらったことのない子が、こんなに近くにいるってこと、知らないの?
でも私は、何も言わなかったよ。
死ぬほど悔しかったけど、ずっと羨ましかったけど。
私は、何も言わなかった。
だって私、バカだから。
…………
その腕を、美海が掴んだ。
「……?」
希美が怪訝な表情で振り返る。
希美の言葉が――美海の中にある思いを切り裂いていた。押さえ込んでいた――彼女ですら忘れかけていた、思いを。
「そういうことなら、私だって同じこと思ってたよ」
「え?」
驚愕に目を見開いた希美に、美海は、
「私も、希美ちゃんが大嫌いだったよ」
静かな声音。それが逆に恐ろしく感じる。はっきり言って、希美は反撃を受けるとは思っていなかった。だからこそ、あそこまで強く言えたのだ。
「小学生の頃、よく希美ちゃんのお家に遊びに行ったよね。私ね、希美ちゃんの家に遊びに行くの、楽しみだった。だって、あなたのお母さんはいつも私に笑顔で「いらっしゃい、美海ちゃん」って言ってくれるから。休日に遊びに行ったら、お父さんも同じこと、言ってくれたよね。すごく嬉しかった」
――行ってきます。
「私、希美ちゃんが羨ましかった。いつも笑顔でお家で待っててくれるお母さんがいて。休日には一緒にいてくれるお父さんがいて。ずっと羨ましかったよ。それでね、そんな幸せを当たり前だと思ってる希美ちゃんのこと、ズルいって思ってた」
――ただいま。
「希美ちゃんがお母さんやお父さんに甘えてるのを見るたびに、頭が燃えそうなほど悔しくなったよ。そういう風に甘えられる相手がいない子がこの世にいるって、こんなに近くにいるって、知らないのかなって。見せつけられてるみたいで、悔しかったよ」
誰も「いってらっしゃい」って言ってくれなかった。
誰も「お帰りなさい」って言ってくれなかった。
「希美ちゃん、プログレスでアイドル目指してるってことを青蘭学園の人に知ってもらえたから、中学からこっちに来れたんだよね? それでお父さんとお母さんも、こっちに来て一緒に住んでくれたんだよね? 私はね、お父さんとお母さんに「青蘭学園からスカウトされた」って言ったら「好きにしろ」って言われたよ。学費が免除されるってことを伝えたら、それは嬉しそうだったな……」
――もう
美海は皮肉めいた笑みを浮かべた。
「だから私は、そんな希美ちゃんが、大嫌いだったよ」
理性なんて働かず、言いたいことを言った。
美海は「ごめんね」と呟いて、希美の横を通り過ぎてバッグを拾い、外に出た。歩調はゆっくりだったが、どんどん早くなっていく。しまいには走りになり、同時に涙も溢れてきた。
もう空は暗く、雲に覆われて星の1つも見えない。
走りながら、後悔した。なんであんなこと言っちゃったんだろう。黙ってれば良かったのに。
思えば、なんて理不尽だろう。努力している人が、なんの努力もしていない人に負けて、妬ましいのなんか当然だ。希美の押し込めてきた怒りが遂に美海に向かったのだって理解できる。
なのに、自分はどうだ。ただ優しい両親がいた、それだけで妬ましかったなんて。生まれなど変えられるわけでもないのに……言われた方はたまったものではないだろう。
「うっ……うう……」
どうしよう。
自分はなんて身勝手な怒りを抱いていたのだろう、という美海の後悔は、考えれば考えるほど、走れば走るほど強くなった。
希美に謝らなければ。しかし、希美は自分に対してはっきりとした怒りを持っていた。それも、正当な怒りを。自分と持つ理不尽な怒りとは違う。理不尽な怒りで攻めてきた相手が謝ったところで、許してくれないだろう。
いつの間にか寮に着いていた。部屋に入る。まだ沙織は帰ってきていない。電気も点けずにベッドルームに駆け込むと、バッグを放り出し、ベッドに飛び込んだ。毛布をぎゅっと抱きしめ、そして、
「うぅ……うわあぁぁぁぁぁん……」
毛布に顔を押し付けて、泣いた。誰にも見られないように――
…………
「どうした、やけに気合入ってるけど」
「…………」
希美はひたすらにサンドバッグを殴りつけ、蹴り飛ばしている。
中等部3年生の後半辺りから通うようになったボクシングジム。ここで希美は雄馬から戦い方を教わっていた。皆にはアイドルとしてのトレーニングをしている、と偽っている。この事実を知っているのは、彼と自分だけだ。
ジムに入ってきたばかりの雄馬が、異様に力の篭ったパンチやキックを繰り出している彼女を見て、怪訝に思ったらしい。希美は返事をしない。ただ目の前のサンドバックを叩きのめしている。
「希美?」
「…………」
「おい、どうした」
ガツン、という音を立てながら、希美はようやく両手でサンドバッグを止めた。
「なんかあったのか? あ、いや、琉花のことは大変だって分かってるけど」
希美は雄馬の方を向いた。心配そうな表情だが、通常の人とはどこか「違う」心配だ。不安げな顔ではなく、むしろ眉をしかめて訝しんでいるかのようだ。だが、これが彼の心配だと希美は知っていた。
「……ねえ、雄馬くん」
「ん?」
「私さ、どうしても許せない小学生時代の友達がいるって言ったこと、あったよね?」
「ああ、そうだな」
「あれね、美海なの」
「…………そうだったのか」
その時点で雄馬は、大体の内容を察したようだった。希美は、自分がその友人に対してコンプレックスを抱いていることを既に打ち明けていた。
「……喧嘩したな?」
「…………」
希美は、自分がなんて矮小な奴だったのだろうと、美海を責めたことを、2つの理由で後悔していた。
1つは、美海をアイドル活動に誘ったのは自分だということ。今なら、彼女は追いつけないだろうと思ったし、もし、もし仮に追いつかれたとしても、平静でいられると思っていた。
だが、結果はこれだ。ストレスが溜まっていたとは言え、自分から誘っておいて理不尽な怒りを美海にぶつけた、なんて最低な奴なのだろうと。
そしてもう1つが、美海も自分を妬んでいたということだ。希美は、「自分だけが」負の感情を抱き、その元に努力している――ある種の使命感に駆られていた。しかも悪いことに、自分自身がそれを
しかし、美海もまた希美に対して嫉妬の念を抱き続けていたことで、「自分だけが」という優位性は瓦解し、2人は対等な立場になった。もう一方的に責めることはできない。
才能の差などは努力で十分に埋まるものだ。現に、美海のダンスはまだ粗が多い。小学生時代など、ターンを数回やった程度だ。通して踊り抜き、歌い抜くことなどできるはずがない。なのに希美は、そんな才能の欠片に嫉妬を抱いていたのだ。
対して、美海が妬んでいたのは暖かい家庭だった。生まれは変えられない。冷たい両親の元に生まれてしまったのは不幸だが、だからといって美海に何ができる? だから、妬んで当然なのだ。羨ましいと思うのは当たり前だ。彼女の言うとおり、それを当たり前だと思っている希美に怒りを抱いて、何がおかしいだろう?
美海がずっと抱いていたむき出しの生々しい感情を直にぶつけられて、希美は何も言い返せなかった。美海の言っていることは全く妥当なことで、むしろ希美は自分を恥じることになった。なぜ自分は、ちょっとした才能の欠片に必死になっていたのだろう。
自分はなんて無神経だったのだろう。美海は彼女自身の家に希美を呼んだことがなかった。その理由を考えたことが、なぜ1度としてなかったのだろう。
ちょっとダンスが上手い、そんな才能の欠片如きが、暖かい家庭の代替になり得るか?
そんなはずある訳ないではないか。
美海の怒りの理由を聞いたとき、希美は自分の立っていた足場ががらがらと崩れ、一気に地の底へ落ちていくかのような心地を覚えた。自分の嫉妬が如何に矮小なものであり、彼女の嫉妬が如何に高尚であったかを思い知らされた。
怖かった。
いつも笑顔で、悩みなんて何もない。美海はそういう子だと思っていた。
だけど、その裏にあんな暗い感情を隠していたなんて。
美海が淡々と自分の気持ちを吐露している最中に希美が何も言えなかったのは……今ならはっきりとわかる。怖かったからだ。
「雄馬くん……」
希美は雄馬の胸に飛び込んだ。彼は少し驚いたようだったが、すぐに手を回して背中を撫で始めた。
「美海も、私のこと嫌いだったって。お父さんとお母さんに、愛されてたから、嫌いだったって」
普通なら、その理由を聞いて「理不尽だ」と思うだろう。しかし、雄馬は昨年度、美海のスカウトに行っていた。その際、彼女の家庭の様子をその目でしっかりと見ている。あんな家庭で育ったのなら、暖かい小鳥遊家を妬む理由も、十分に理解できた。
「すごく真剣に、私のこと恨んでた……! もう許して、もらえないよ……」
涙を堪えきれず泣き出した希美の背をさすりながら、雄馬は彼女になんと声を掛けたらいいのか、分からなかった。
…………
学生時代に、女の子同士の喧嘩を仲裁したことが何度もある雄馬だったが、生徒同士の諍いとなると、下手に手を出すべきではないと、彼は理解していた。
なぜなら、美海も希美も
――そういえば、紗夜と朝子が喧嘩した時はどうしたっけな……?
紗夜と朝子が高等部1年生だった頃、物凄い大喧嘩をしたことがあったが、その時はメディオディアが喧嘩を仲裁していた。今回、その立場にあるのは沙織だ。
メディオディアは、雄馬が何も言わなくても双方の間を取り持っていた。
沙織はどうだろう。彼女は、とてもではないがメディオディアほど神経が図太いとは思えない。それは、彼女が生まれた時からそばにいた雄馬だからこそ、はっきりと分かった。
沙織を後押しするのは、正しいのだろうか?
「どうしようかな……」
嗚咽を上げる希美を抱きしめながら、雄馬もまた迷っていた。