否、まだ飲み込まれてはいない。その瀬戸際で踏み止まっている――雷剣で疾風の魔弾を灼き斬りながら。
回避も防御も叶わないと察したあの刹那、大和は攻撃することを選択した。いや、最初からそれ以外の選択肢などなかった。
それに攻撃する対象が
古来、魔術とは物理現象を屈服させしめる秘蹟を言う。なれば、それを成し遂げてこそ魔術師の面目躍如!
断ち割れる大気の激流。引き千切られる空気が、苦悶の咆哮を上げる。それでも余波だけで黒いコートの裾は激しく煽られ、隙あらば下肢を掬い上げて、大和の身体をはるか後方へと誘おうとする。
だが黒衣の人影は微動だにもしない。頑と直立することで風の誘いを拒絶する。
すると、風はまるでそんな彼を攫うのを諦めたかのように一陣のそよ風を送り、コートの裾をふわりとたなびかせるのを最後に、疾風は完全に消え去った。
大きく跳び退りながら、和麻は自らが放った一撃が無力化されたのを見届けた。
それでも和麻の顔に無念の色はない。たとえ防がれたところで、和麻には一向に構わないからだ。
もとより先の攻撃は、相手を仕留めるためのものではない。その狙いは大和の動きを阻むことにあった。
そして、いま和麻は十メートルの間合いを隔てて大和と対峙していた。
この距離ならば、大和のスピードにも余裕をもって対処しつつ、渾身の一撃を放つために必要な力を確保できるだろう。今度はどんな手段を用いようとも、防ぐことができない必勝の一撃を。
瞳に確かな決意を込めて、和麻は黒衣の男を見据える。
すると、なんと大和は剣の柄を逆手に持ち替えて、右腕を大きく後ろへと流し、胸を張って上体を反らす仕草をした。その様はまるでこれから“何か”を投げ放たんとするかのように。
「……ッ」
警戒に身構える和麻。
“何か”などいちいち考えるまでもない。大和が持つ唯一の武装、あの雷光の剣に他あるまい。
大和は自身の得物を何の躊躇もなく投擲した。目映く輝き放ち、迫り来る雷光の剣。
それを和麻は風の結界を展開することで迎え撃つ。が、飛来する稲妻の投擲は、風の結界に直撃した刹那――僅かな遅滞もなく貫き通した。
「ちッ!?」
それを目にした和麻は、理解する。
あの雷光の剣には、結界殺しの概念、『貫通』の意志が付加されているのだと。
そして、刃に込められた現実を書き換える術者の意志と、その媒体となる精霊の総量を推し量れば、あの雷剣はいかなる守りをも破壊する魔弾に違いない。
だが、その程度で怯む可愛げのある心など、生憎と和麻は持ち合わせてはいない。敵が力と重さで仕掛けてくるならば、風術師たる和麻は、技と速さで挑むまでのこと。
刹那のうちに、風の結界を多重展開する和麻。各層ごとの結界の強度は、神凪綾乃であったとしても一層すら削り取ることも叶うまい。和麻渾身の風の守り。
だが――
二層、三層、四層――次々の突破される風の守り。なおも止まらぬ稲妻の一刺し。超々高熱と衝撃波を放射しながら、風術師を射殺さんと貫き奔る。
にも拘らず、和麻の顔にはそのとき、まるで勝利を確信したかのような不敵な笑みが刻まれる。
あの雷光の剣は風の結界を突破するごとに、その威力を確実に削ぎ落とされている。ゆえに、いずれ遠からず失速して消え失せるものと、そう見て取った。
風術師の推測は正しい。雷光の剣は、彼の身に傷ひとつ負わせることなく消滅するだろう。そう、このまま雷使いが何ひとつコトを起こしさえしなければ!
変化する。飛来する雷光の剣が、眩い黄金の光に代わり、やおら
風術師の背筋が戦慄に凍りつく。このとき、和麻は敵の力量を決定的に読み違えていたことを悟った。
初っぱなに大和に対して懐いていた未熟な術者という評価など、とっくに改めている。
面倒くさいが、本気を出す必要がある相手だと。同時に全力で臨めば問題なく制圧できる相手だとも、そう思っていた。
だが、その認識は誤りだった。風巻大和は和麻が死力を尽くしてなお勝てるかどうか解らない、それほどの相手だったのだ。
しかし、いったい誰に予想できようか。目の前に立ちはだかる炎術師が、かの神凪厳馬に比肩しうるほどの術者だったなどとは!
とはいえ現実はそんな事情など一向に斟酌してはくれない。いつだって無常である。
それを証明するかの如く、今まで以上に勢いを駆って疾駆する黒き魔弾。幾層もの風の守りをぶち抜き、和麻へとひた走る。
和麻は
無茶苦茶な規模の術の構築に脳髄が軋む。急激な<気>の消費に身体が干上がりそうだ。
和麻はその一切を無視する。この痛みは、他ならぬ己の油断が招いたこと。ならば、甘んじて引き受ける。
ただし、これ以上の代償だけは、断固として願い下げだ。和麻は自分の非を全面的に認め、運命の裁きを従容と受け入れるほど、出来た人間ではない。
また、何よりいま和麻の胸中を占めている思いは、親子揃って同じ戦法で倒れるわけにはいかぬという一念のみ。
当たり前だ。そんな不様だけは死んでも晒せない!
激突する剣と盾。一方は漆黒に塗り固められた一振りの雷光の剣。対するは幾層にも重ねられた烈風の盾。
剣と盾。古代世界から端を発したこの因縁の戦いは、青銅から鉄へ、鉄から鋼へと時代が移り変わるごとにその構造を変化させてきた。
そして、この現代においては、その構造を魔術に変えて熾烈な戦いを繰り広げた。いま、その激しく鎬を削っていた鍔迫り合いも、ついには終局のときを迎えようとしていた。
勝利をその手にしたのは――烈風の盾。和麻だ。さりとて勝利は勝利でも、それはまさに薄氷を踏むかのようなものだった。
なぜならば、雷光の剣は和麻の眉間のわずか数ミリを残すところで、宙に停止していたからだ。
すると、あれほどの暴威を振るった雷光の剣は、まるで自らの敗北を受け入れるようにあっさりと黒い霞となって霧散した。だが、和麻は安堵の吐息をつく間もなく、すぐさま身を後方に翻す。
視界に侵入してくるのは、黄金の光芒。間髪入れず、黄金の剣を再召喚した黒衣の影が躍り込み、斬撃を見舞ってきたのだ。
息をつく間もないとは、まさに今の和麻の状況を言うのだろう。つくづく厄介な相手を敵に回してしまったものである。和麻としては少しくらい
地面に着地した和麻は胸中で毒づきつつ、大和の追い討ちを警戒するも……なぜか来ない。訝しげな眼差しで大和を見据える和麻。
まるで今までの猛攻が嘘であるかのように黒衣の影は、手に持った黄金の剣を消して、沈静を保ったまま、なぜかその場から動こうとしない。
そのとき、和麻は両者が対峙するほぼ真ん中の地点にあるモノを目に入れて顔を顰めた。
「……そういうことかよ、お前の目的は最初から親父だったのか」
和麻の視線の先には、神凪厳馬が横たわっていた。いまだ意識はないのか、ぴくりとも動かない。
和麻がかなり遠くまで移動させたはずなのだが、後退に後退を重ねた挙げ句、こんなところまで戦いの場が移ってしまったらしい。
――いや、そうではあるまい。間違いなくあの雷使いに、ここまで誘い込まれたのだろう。
大和が目的を忘れたかの如く執拗に突っかかってきたのは、和麻の油断を誘うための
まんまとしてやられたわけだ。苦い自嘲を漏らす和麻に、
「まあ、そういうことだ。だが先にお前を仕留められたなら――程度には思っていたのだがな。さすがに父親と同じ轍は踏まなかったか」
大和は揶揄するように語りかけた。「そうかい」と軽く肩を竦めて聞き流す風術師。が、その双眸は油断なく大和を見据えている。
対峙する和麻と大和、その中間に倒れ伏す厳馬。まさに戦闘開始時の再演。両者はまったく同じ立ち位置で再び向かい合っていた。
そんな最中でありながら、大和は改めてどこか呆れた風な眼差しで和麻を見やりながら問いかける。
「ひとつ、いや、ふたつほど後学のために聞いておきたいことがある。あれほどまでの仕打ちを受けたにも拘らず、お前はなぜそうまでして父親を庇う? それとも俺が気付かなかっただけで、実は仲睦まじい親子関係だったのか?」
「俺と厳ちゃんの関係か? どうだったかな、そんなに仲良しこよしってわけじゃなかったのは確かだけどな」
和麻は口の端を歪めながら、茶化すように答えた。
逆に大和は無言。それでもその沈黙こそ何よりも雄弁に語っていた。
即ち――まだすべての質問に答えていないぞ、と言うかのように。それを察した和麻は、苦笑しながらも口を開く。
「ああ、厳ちゃん――親父を庇うワケね。そんなもん決まってるだろう、当然報酬のためさ。親父をお前から護ってやった暁には、神凪さん
風術師は、おどけた風にそう嘯いた。
和麻の言葉に興味を掻き立てられたのか、大和は愉快げに口元を緩める。
「ほう、金か。それは中々興味深い理由だな。ちなみに、神凪家に幾ら要求するつもりだ? つまりそれはお前にとって俺の首は、どの程度の価値があるのかということを意味するんだがな」
「……」
大和の問いに、和麻は言葉に詰まる。
実際のところ、たとえ神凪家と億単位の雇用契約を交わしていたとしても、果たしてこの男と対峙する事と等価であるかどうか。
というか、深く熟考するまでもなく、まったくないと断言できる。
億単位の金銭は確かに魅力的であるものの、和麻ほどの術者ならば、すぐにでも稼げる額でしかない。それも現在の状況ほど危険を冒すこともせずに。
大和はまるでその和麻の心中を見透かしたように冷ややかに笑う。
「ふん、答えられないか。当然、そうなるだろうな。お前が真に利を追い求める者なら、この俺と戦い合うことだけは必ず避けたはずだからな」
傲然たる物言いだった。
だがこの男がその傲慢な宣言を吐くに足る圧倒的な力量を備えていることを、すでに和麻は知っている。
だからこういう手合いを前にすれば、必ず口より飛び出るはずの皮肉も、いまはひとつだって出てきやしない。
「にも拘らず、お前は俺と戦い合うのを一向に放棄しようとしない。つまるところ、お前の目的は、金などではないということだ。
――護りたいんだろう? 父親を、家族を。なにも恥じ入ることはない、誰もが家族は大切に扱うものだ。たとえそれが
大和の語り口は、どこか和麻に向けて語っているというよりも、まるで自分自身にそう言い聞かせているかのようだった。
和麻は鼻を鳴らして、失笑する。
「ご高説どうも、たいへんタメになったぜ。だが勘違いだ。俺は別に親父が家族だから護ってやっているわけじゃない。大体家族の縁なんてもんはとっくの昔に切れてんだよ。だから、あくまで金の為だ。報酬の額の方は――お前を
和麻は全身から殺意を滾らせるとともに、風の精霊の召喚に入る。
「お前はずいぶんと照れ屋なんだな。神凪を出奔する以前は、かなり擦れていたと聞いていたぞ」
嘲弄の言葉とともに、大和もまた精霊の召喚を始めた。
集うごとに片っ端から『雷』へと変換される炎の精霊。大和を中心にして吹き荒れる稲妻の暴風。閃光と轟音が夜気を震わせて、激しく渦を巻いていく。
その直中で、やおら黄金の雷光が漆黒の色へと染め上げられる。
<神炎>――真に選ばれた者のみが行使できる絶対無敵の力。
ここにきて大和は自身の真の力――<黒炎>をついに出し惜しみなく発揮させる。それも当然か。もはや秘め隠す意味などない。
それを見届けつつ、和麻は冷静に思案を練る。
神炎使いの召喚速度は、はっきり言って……遅い。和麻はそう判断した。無論、あくまで風術師である和麻が視た限りの話である。四大最遅たる炎術師の立場からすれば、充分すぎるほどに速いだろう。
それでも和麻は当然としても、同じ神炎使いたる厳馬と比べても明らかに一段見劣りする。
たとえ同じ神炎使いであったとしても、やはり個々の力量においての優劣は、厳として存在しているのだろう。かつて父が宗主に敗北を喫したように。それと同じく大和もまた厳馬より技量において劣っているのだ。
ともあれ、この事実は和麻にとって何よりの朗報である。
父と正面から対峙したとき、和麻は小細工を弄して何とか勝ちを掴み取ることができた。が、逆に言えば、それは真っ当な手段では、厳馬には勝利がおぼつかないことを意味する。
だが相手が大和であるならば、幸いその限りではなさそうである。これならば小細工抜きで真っ向からでも圧し切れる。
勝利への道筋を見出した和麻は、渾身の一撃を叩き込むべくさらに風を手繰り寄せる。
凄まじい速さで収束していく風の精霊。逆巻く旋風。風の魔神が吼える怒号さながらに唸りを上げて、集っていく大気の渦……
すでに自身の手元には、大和を超える力が蓄えられていることを、和麻は了解していた。それもそのエネルギーの総量たるや、先刻の厳馬を打倒してのけた一撃をも上回っていよう。
今日の夜はひときわ長かった、と和麻はあらためて痛切に思った。
だが、その長い夜もようやく明けるのだ。『明けない夜はない』――そう詠ったのは、果たして誰であったか。和麻の記憶にはないが、間違いなく至言だろう。
後は解き放つだけで、すべてに終止符を打つことができる――和麻が勝利を手にすることによって。
「さっきの一撃でケリをつけられなかったのは、完全に失敗だったな。折角、炎術師が風術師相手にらしくもない凝った作戦を練ったってのによ。しかも、切り札を切った上で。だがそれもこれも全部――」
終わりだ――その宣言とともに解き放たれる暴風の塊。超大型台風が凝縮、圧縮されたかのような超々高圧の気圧の束は、風の魔神の巨腕と化して再度この地に顕現した。
神凪最強の炎術師すら粉砕した巨人の一撃を前にして、大和はまるですべてを諦めるように目を伏せる。
「八神――貴様は二つの誤りを犯している。ひとつは、俺の作戦は依然として進行中だということ。そして最後に、俺の切り札は何も一つだけとは限らないということだ」
決然たる言葉とともに、大和の辺り一帯を猛り狂っていた黒き雷は、なんと唐突にその威容を掻き消してしまう。
それと時を同じくして、雷使いの傍らの空間より巨大なモノが忽然と現れ出でる。
腕だ。それも全長二メートルを優に超えようかというほどの黄金色に目映く輝く巨大な『腕』が――超々高圧の大気の塊を完全に受け止めていた。
「な……んだと……」
愕然と目を剥く和麻。
必勝を期したはずの一撃が防がれる。だが、いまの和麻にはそんなことは意中にない。
アレは一体何なのか? 和麻によって喚び出されたのが、風の魔神の『腕』であるとするならば、大和が召喚したそれは、果たして一体何の『腕』であるというのか。
しかも、あの『腕』は比喩ではなく、本当に実体化を果たしている。つまりは、現実に確たる存在しているのである。
(存在しているっつても、おそらくは半実体化だ。なら精霊獣か? いや、違うな。アレはそんな生易しいものじゃねえ……)
精霊獣とは、一群の精霊を仮想人格に統御させることで一個の生物に見立て、それを使い魔として使役する、精霊魔術と儀式魔術の融合によって創り出された『魔術武器』の総称である。
大和が召喚した『腕』は、確かに外観のみで測るなら、精霊獣と見積もる方が妥当である。が、和麻はその推測を、即座に否定した。
それはいかに精霊獣が通常の精霊魔術と比して特異な在り方として発現するからと言っても、精霊魔術における基本法則まで逸脱することなどあり得ないからである。
即ち、それは物理学におけるエネルギー保存の法則――変換前のエネルギーの総量と変換後のエネルギーの総量は、決して変化することはない。
それが世界の裏側を司る魔術の領域にまで適用され得るのだ。
つまり、術者は自らが召喚した精霊の規模を超える術を絶対に行使できない。いかに精霊獣としてカタチを変えようとも、それは同じである。
にも拘らず、あの『腕』が保有する精霊の密度は、大和がそれまでに召喚していた炎の精霊の規模のおよそ二倍以上。それは明らかに精霊魔術の基本法則を無視した不条理に過ぎる現象であった。
ゆえに、順当に考えれば、あの『腕』は精霊獣でもなければ、そもそも精霊魔術ですらない。
そう、魔術理論に照らし合わせれば、あの『腕』は存在する道理がないのだ。が、どれほど理論や論理を振りかざそうとも、あの『腕』が消え去るわけではない。
そうであるならば、もはや受け入れる他ないのだろう。あの『腕』は既存の魔術理論を超越しながら現実に在るということを。
そして、その事実を率直に認めることにより、はじめて真実に辿り着ける。
即ち――風巻大和は何らかの超越的存在の力を借り受けて術を行使しているのだと。
そして『彼ら』の力の一端を担うということが、いかに容易に既存の法則をぶち壊すのかを、他ならぬ和麻自身が一番良く理解していた。
そこまで推測を立てれば、和麻はおおよそあの『腕』の正体にも察しがつく。
(とはいえ、奴は俺の『同類』じゃねえ。……そうか、あれが噂に聞く精霊獣――
和麻は戦慄に総毛だった。
もし和麻の推測が正しいとすれば、大和の秘策は和麻の『奥の手』にも劣らぬ代物だ。
事此処に到った以上、もはや一刻の猶予も許されない。和麻もまた今まで秘匿していた切り札を切るしかあるまい。
だが果たして間に合うか。大和のアレに対抗するには、和麻の方も相応の時間が必要だ。
――このとき、風術師の胸中から、これまでの死闘の最中においても、常に守護のために意識の端に留めて置いたはずの父親の姿が、完全に消えていた。
それもそのはず、雷使いが晒した秘策は、かくも強力にすぎた。最強の風術師たる八神和麻をしてなお、平静さを失わせるほどに。
無論、幾多の実戦を経て鍛え抜かれた和麻の精神力ならば、すぐさま動揺など鎮められようが、数秒を要することだけは避けようもなかった。――雷使いにしてみれば、それだけでも事を為すには充分すぎた。
「!?」
和麻がそれに気づいた時には、もう何もかも手遅れだった。
大和は宙に浮く巨大な腕の矛先を、やおら地に伏す厳馬へと向けるや否や、ぐんと一気に伸び拡げた。黄金色に輝きながら、五指を広げて伸長する巨腕。
大和の狙いは明らかだ。厳馬の身体を掴み上げ、捻り潰すつもりなのだろう。いや、あの『腕』は、超々高温の塊だ。常の厳馬ならともかく、意識のない彼では、いかに神炎使いであっても一溜りもあるまい。
和麻は胸中で臍噛んだ。
なんという失策か。既に和麻自身が看破していたではないか。黒衣の襲撃者の真意は、あくまで神凪厳馬の生命を奪い取ることにあるものと。にも拘らず、当の父親から意識を逸らすとは!
正気に立ち戻った和麻は、風を手繰ってもう一度、厳馬の身柄を押さえようと図るが、もはや間に合うはずもなかった。
「親父……ッ!!」
ならば最後の手段とばかりに、風術師は父親の意識を呼び覚まそうと声を張り上げる。
だが所詮そんなことは、虚しい試みに過ぎない。『最強』を冠するに足る力を有した男とは到底思えない、まさに敗残者が上げるに相応しい哀れな哭き声が、夜空に響き渡る。
(やっぱり俺には、誰も助けることが出来ないのか、翠鈴……!?)
だがまさか、その叫びに――
「黙れ、馬鹿息子が」
――応じる声があろうとは!
和麻と大和はともに凝然と声の発生源に視線を向けた。
するとそこには、意識のないまま横たわっていたはずの厳馬が、なんと片膝を地面に突きつつ、ゆっくりとではあるが立ち上がろうとしていた。それも蒼く染め上がった炎を全身に纏い、自身を握り潰さんとする巨大な『腕』を押し留めながら。
「神凪厳馬ッ、まさか息子の声を聞き届けて目を覚ましたとでもいうつもりか!?」
その奇跡に心底感心したとばかりに、大和は大仰に驚いてみせるも、すでにその面持ちには驚愕から転じて、理解の色が拡がっていた。
「いや、それこそまさかだな。貴様、既に意識を回復していたな。今の今までそれを隠し通して隙を窺っていたというわけか。……まったく親子揃って抜け目のない奴らだ」
だが厳馬は大和の称賛の声に応えることなく、眉根を寄せながら呟く。
「――風巻大和か。この事件の首謀者が、よもやお前たち風牙衆だったとはな……」
その声色に苦渋の色が含んでいたのは、何もその身に重篤な傷を負っているだけではあるまい。風牙衆がどうして神凪家に対して反逆行為という暴挙に臨んだのか、その真意を察したがゆえだろう。
むしろその厳馬の洞察に大和の方が驚いた。
「ほう、意外だな。よりにもよって神凪最右翼のお前に風牙の想いを汲み取る想像力が備わっていたとはな。それならばなぜ連中をもっと気遣ってやらなかった? 貴様たち神凪が奴らを正当に評価してやっていたなら、ここまでの事には及ばなかっただろうに」
「……お前は……」
大和自身の一族に密接に関わる事柄でありながら、まるで他人事のように語るその口調に、今度は厳馬の方が驚愕の呟きをこぼした。
だが大和は呆れた風な眼差しで厳馬を見やると、
「そこまで驚くようなことか? 知っているはずだろう、所詮俺は『風巻』でもなく、また『神凪』でもない者だということを。だからこそお前たち両家の攻防にも興味はない。
――だが、一身上の都合により神凪厳馬、貴様の命だけは貰って行く」
冷酷な死の宣告とともに、雷使いは巨大な腕に向かって命令を下す――ソレを潰せ、と。
『腕』はまるで返答するかのように黄金色の燐光を強く発するや、手の平に収めてある憐れな獲物に止めをささんと巨大な五指にさらなる力を込める。
「私を舐めるなよ、若造どもがァァッ!」
激烈な意志が厳馬の全身から漲っていく。
伸び拡がる神炎使いの意志は、一体化している己が炎の垣根をも越えて、自身に迫る巨大な腕――超々高温の炎の塊にまで侵攻していく。
それがいったい何を意味するのか。始めに気づいたのは、当然、大和であった。
「貴様、まさか俺の精霊への
次第にカタチを崩していく巨腕。危険を告げる警鐘であるかのように激しく光の明滅を繰り返すと、『腕』は現れたときと同じく不意に黄金の粒子と化して霧散していく。
……それが神炎使いの身体に残された最後の力だったのだろう。全体重を支えていた片膝から、がくりと力が抜け落ちる。また息子に負わされた傷口も開いたのか、厳馬は血飛沫を舞い散らしながらどっと地面へと倒れ伏す。
それを憎々しげな瞳で見詰めながら大和は、
「やってくれたな、<蒼炎>の厳馬! こんな屈辱は久しぶりだ。……もはや意識もないだろうが、とりあえず聞いておけ。返礼として一瞬で殺してやる!」
そう怒りを露わに吐き捨てた。
精霊術師にとって、自らが従えている精霊を、他の術者に奪い取られる事態ほど屈辱的なことはない。この未熟者め、と嘲弄し罵倒されているに等しいのだから。
さらに加えて、術者として位階が高ければ高いほど、この屈辱感は倍増ししていく。ましてや超一流の術者がこれを仕掛けられたのとなれば、それこそ、その心中は彼のみぞ知る、だろう。
大和は炎の精霊を集わせる。刹那の内に黒い雷と化し、怒りに任せ力尽きた厳馬に浴びせかけようとして――
「させるかよ!」
すると、今まで存在を消していた和麻が、怒号を上げて躍りかかってくる。
これまでの戦いにおいて、距離を開くだけしか念頭になかった風術師が、なぜかここにきて間合いを詰めてくる。
その不思議に、だが大和は意に介さない。
ひと度秘策を晒した以上、もはや和麻はさしたる脅威ではない。結局のところ、<蒼炎>を切り裂くにも不意を打たねばならなかったのだ。その程度の
それを知らぬ和麻は、横たわる父親を飛び越えて、一息で間隙を埋めてくる。風術の
すぐさま一足一刀の間合いまで潜り込んでくる和麻。そのとき彼の両の瞳が閉じられているのにも、雷使いはまったく斟酌しなかった。ただ大和は冷めた眼差しで和麻を眺めるだけ。この直ぐ後に驚愕を味あわされるとは想像だにせず。
直後――再びアレが展開される。
大和と和麻、狭まった互いの間合いの中間に、今度は巨大な――『掌』が現れる。長身の大和にも及ぼうかというソレは、まるで彼を守る壁であるかのように、迫る風術師の前に立ち塞がる。
だが和麻は一切気にすることなく、さらに大きく一歩踏み込む。同時にそびえ立つ『壁』に突き付けるように繰り出した右手には、蒼く煌めきを帯びた風が集っている。
和麻は真っ向から
蒼い奔流が吹き荒れる。莫大な力を内包した常識外の烈風が、それを受け止める『掌』を軋ませる。
実体化した形態こそ違えども保有するエネルギーにおいては、ついさっき和麻の暴風の一撃を完璧に封殺した『腕』と比較してなお、微塵も引けを取らない。
それがいま、圧されている。ぎしぎしと崩壊の序曲を奏でている。終わりが始まろうとしている。
「馬鹿な、いかに部分召喚とはいえ『彼』を貫くだと!? たかが風にどうやればそんな力が!」
あり得ない現実を否定するように大和が絶叫を上げる。
いま音を立てて崩れ去ろうとしているのは、彼が召喚した「存在」だけではない。大和が術者として培ってきた「常識」そのものが崩壊しようとしていた。
そしてその緊迫の直中、大和ははっきりと見咎めた。蒼穹のごとく鮮やかに、どこまでも澄み渡った風術師の瞳を。
「八神、貴様は……ッ!?」
驚愕の声と同時に、ついに『掌』が崩壊する。瞬時に『掌』の残滓である黄金の粒子を蹴散らして、暴風が大和を木端のように吹き飛ばした。
大和の身体は人身事故さながらに十メートル余りを転がっていき、ようやくそこで止まる。意識が消失したのか大和は微動だにしない。あるいは、既にもう……
「おい、それはいったい何の冗談だ?」
そんな大和を半眼で一瞥し、冷ややかに呟く和麻。
「――別に深い意味はない。ただ単に休んでいただけだ」
そう淡々と呟きながら、大和は颯爽と立ち上がる。その様子はおよそ傷らしい傷を負っているようには見受けられない。完全に無傷だ。
「ふざけんな、くそ野郎……」
だが、その事実を直視しても、和麻に驚きの念はない。
和麻の一撃は、その大半があの忌々しい『掌』に吸収し尽されていたことを、和麻は見抜いていた。故に大和の身に到達した時点で、せいぜいただの強風程度に威力を減衰されていたのだ。
「まあ、確かに少しばかり貴様が油断してくれるのを期待していたのは認めるが」
そう言って肩を竦めると、大和はニヤリと不敵に笑う。だがその眼差しだけは、まるで風術師の蒼き瞳に吸い寄せられるように離れない。
「……だが仕方あるまい。他ならぬ『
『
伝説曰く、そうした者は過去幾人もいたという。
七十二の魔王を支配したソロモン王。ユダヤの民を率い、神と契約したモーゼ。
そして、炎の精霊王より炎雷覇を授かった、神凪の初代宗主。
いま思えば八神和麻が、かの伝説上の存在であったとしても何の不思議もない。なぜならば、あの風術師は神凪家において、伝説と讃えられる神炎使いをも打倒してのけた男である。
ならば、その和麻がその伝説をさらに上回る伝説の存在、即ち――『
そのとき、甲高いサイレンの音が夜空の下を騒ぎ立てる。しかも次第にこちらへと近寄ってくることから、目的地はこの場所に違いない。
おそらくは公園の常駐スタッフが、この騒ぎを聞きとがめて警察に通報でもしたのだろう。
高位の魔術師同士の決闘であるため、その凄まじい激闘とは裏腹に、周囲に対して大規模な破壊行為にまでは及んでいない。とはいえ、流石に剣戟の音ばかりはどうしようもなかった。
「……で、どーするよ。まだ続けるつもりか?」
和麻が問うた。
なべて魔術は秘匿され得るもの――それが条理の法則から外れた魔術師たちにおいても
なお、通じる暗黙の了解であった。
その理に従うのならば、ここで手打ちとする方が自然である。
「そんなことは俺の知った話ではないな。どうしても終わりたいと願うならば、お前の父親をここに置いていけ」
和麻の問いに、大和は冷厳と突き放した。
「やっぱりそうなるか。……だが、どうしてだ? お前ほどの術者がなぜ風牙衆ごときの使い走りなんぞを大人しくやっている。それにそういうお前の方も風巻の一族とは上手くいっていなかったはずだろう?」
大和の答えを半ば予期していた和麻は、諦めたように溜息を吐きつつ、かねてからの疑問を投げかける。
そう、それこそが最大の疑問だ。いったい風牙衆は、どうやってこれほどの術者を意のままに操っているのか?
まかり間違っても、一族の忠誠心などではあるまい。昔も今も、そんな骨董品染みた殊勝な心掛けを自らに科している男には到底見えない。それに恨みつらみで厳馬の首を付け狙っているようにも感じ取れない。
ならば、今この男は本当に何のために戦っているのだろうか。
「――黙れ。それは貴様には関係のないことだ」
どうやらこれは気に障る質問だったらしい。大和は双眸に憤怒の火を灯して、和麻を睨みつける。
「そーかい、後学のためにも聞いておきたかったんだが、まあいいさ。俺もそこまで興味があったわけじゃないからな」
軽口を交えながら、和麻は淡々と語る。
が、その内容は嘘だ。大和が戦う動機について興味は尽きないものの、この様子ではまともに答えてはくれないだろう。
その直後、和麻の知覚が周囲の炎の精霊が活性化していく気配を捉えた。それもかつてない程の膨大な規模で。
「もう手を引けとは言わない。お前の正体が判明する前は、なぜそこまでしてあの父親を護るのか不思議で仕方がなかったが、今となってはそれも納得だ。まさか神と契約を交わした正真正銘の『聖人』の類だったとはな。貴様ほどの孝行息子を得られて神凪厳馬もさぞや誇らしいだろう」
そう言って、大和は口元を歪めて嗤う。
「おい、そんなことより本当にいいのか? このまま俺たちがやり合えば、一般人が大量に押し寄せてくるぜ」
大和の皮肉をさらりと無視して、和麻はあくまで冷静に現実を引き合いに出す。
和麻とて裏の世界における暗黙の了解を唯々諾々と守り続けてきたわけではない。過去には衆人環視の中でありながら、建築物を倒壊させたことも多々ある。
その折は、最低限の良識の働きと幸運にも恵まれて被害は最小限に留められ、大参事にまでは至ったことはない。
そんな和麻がらしくもなく大和の行動に翻意を促すのは、昔ほどやんちゃをする必要がなくなったこともあるが、これほどの強敵と諸人の目に触れる中で、派手に戦った経験などないからだ。
さらに加えて、大和が一般人に配慮する意思が欠けていることも考慮に入れるなら、その被害たるや、その面での意識が乏しい和麻であっても背筋に最大級の悪寒が奔る。
「だから言ったはずだ。そんなこと俺の知った話じゃないとな。そんなに周囲が気になるなら、貴様が護ってやればいいだろう。父親と同様にな!」
大和は冷酷な宣告を下すや否や、さらに精霊を集束させる。
「生憎と慈善事業は苦手でな。ここに来る奴らの面倒までみきれねえよ」
素直な意見を述べつつ、和麻も風の精霊をかき集める。
「そうか、ならば連中の運命はこれで決まったな。ソイツらは現代に蘇えった何処かの聖人様が守護の任を放棄した所為で死ぬ羽目になる」
大和の言葉に、和麻は鼻を鳴らして一蹴する。
風の精霊王との契約に、他者へ
だが、敵なら老若男女一切合切容赦しないと、豪語する和麻とて、裏の世界と何の関係もない善男善女に大量の犠牲者が出かねないとなると、さしもの彼といえど、なけなしの良心ぐらいは痛む。あくまで多少だが。
とはいえ、『
もし仮に今ここで和麻が慈愛と博愛の精神に目覚めたところで、この場に集まる人間全員の生命をカバーしつつ、大和と戦うことなど土台無理な話である。そもそもあの雷使い相手では、そんな余計な力を割いている余裕は許されない。
大和の翻意は期待できない、守護に割く力もない。そうなると、もう方法は一つしか残されていない。
即ち、一分一秒でも早く風巻大和を倒す――これしか他に手段はない。
神凪の始祖にも匹敵しかねない伝説級の炎術師とガチで潰し合うのは、和麻の主義に反するが、もはやそんな贅沢を言っていられる状況ではなかった。
不承不承、和麻は全身全霊で戦う決意を固めた――その直後、ふと和麻は己の制御化にない風の流れを感じた。
『扉』を開け放ったいまの和麻は、超々広域に渡り、大気を統べている。にも拘わらず、いかなる理由によるものか、あの風の精霊は和麻の支配下に収まろうとしない。
おそらくは風の精霊自身の意思によるものだろう。精霊は未分化ながら意思を備えた存在だ。だからこそ、希にお気に入りの術者相手にこういった「好意」を利かせることがあった。
それにどうやらあの風の精霊は、和麻ではなく、大和の方に用向きがあるらしい。となれば、風の精霊に託した術の正体も察しがつく。
まず間違いなく、呼霊法に類する術だろう。
呼霊法とは、風に言葉を乗せて、遠隔地にいる人物に術者の意思を伝達する風術である。
(風牙衆が大和に連絡を寄越してきたのか?)
そう考えて間違いあるまい。が、和麻にとって問題は、果たしてそれが現状にどう影響を及ぼすのかという一点にあった。
和麻ならば、大和に向かって投げ掛けられた術を解呪することは簡単だった。だがそれを、彼はあえてやらなかった。
とくに深い考えがあったわけではない。呼霊法に記された大和への伝達内容が何であるにしろ、これ以上状況が悪化することだけはないだろう、という実に消極的な思考の結果である。
それに内容次第では、あるいは切羽詰まった現在の状況に、一縷の希望が差し込んで来ないとも限らないではないか。その万が一の可能性に和麻は、賭けてみたくなったのだ。
果たして一陣のそよ風が大和の耳元まで到達した途端、雷使いは大きく目を見開き、身じろぎもせず、まるで凍りついたかのように動きを止めた。
主の動きに呼応して大津波の如く大和の下へと押し寄せていた炎の精霊も、ぴたりとその流入を止めていた。
それは、まぎれもなくこの戦いであの雷使いが晒した初めての隙だった。
和麻はそれを――突かなかった。
もちろん、いきなり騎士道精神に目覚めたわけではない。たった一度の隙を突いた程度で倒せるような可愛げのある相手なら、そもそも和麻がここまで追い詰められるはずもないからだ。
大和のあらたな動向を見定めるまで、とにかく和麻は静観を決め込む腹だった。
だがそれでも、和麻は呼霊法に対して、「
つまり、変転する状況を少しでも把握しておくために、呼霊法の内容を窺い知ろうと試みたのである。それは当然、成功した。
そしていま和麻の耳には、大和とまったく同じ「声」が運び込まれていた。
『――大和、お願いだから、わたしのために無茶なことはしないで頂戴ね。そして、どうか今も無事でありますように』
女の声だ。優しさと穏やかさを湛えた静謐で美しい声色。
送り込まれたメッセージはとても短かった。それでもその言葉と声色は、大和の身を真摯に案じていることを窺わせるには、充分すぎた。
大和がかくも必死になって戦う理由を和麻は、ようやく理解した。――『彼女』のためなのだ。
そして、この声の主人が今どういう境遇に陥っているのかも、おおよそ悟った。
古今東西、こういう輩は掃いて捨てるほどいるものだ。和麻も過去幾人もその眼で見てきた。その折には、うち何人かは己の手で始末した事とてある。
和麻同様、メッセージを聞き終えた大和の眼差しから、すでに殺意の黒い影は取り払われていた。
「……ふん、八神。せいぜい感謝するんだな。今日の所はこれで終わりにしてやる」
苛立ち混じりにまるでチンピラのようにそう言い放つと、大和は踵を返して足早に立ち去っていく。
その黒衣の背中が視界から消えるまで、和麻は身構えたまま黙して見送った。
気配が完全に遠退いたのを確認すると和麻は、初めて警戒を解き、ほっと安堵の吐息をついた。
まったく今夜はなんと騒々しい日であったことか! 日頃の行いは善い方だと自認する和麻からすれば、踏んだり蹴ったりな一日であった。
だがそれも今度という今度は、どうやら本当に終わりのようだ。後は滞在しているホテルのベッドの中で甘い眠りを貪るだけだと、このとき和麻は心から信じきっていた。
× ×
「くそ……」
大和は盛大に悪態を漏らす。風牙衆より言い渡された「仕事」は完全に失敗した。
なにも神凪厳馬暗殺が容易なことであるなどと考えていたわけではない。だがそれでも、自分にならそれが可能だと確信していたのは事実である。
それに失敗したとはいえ、今もその確信まで揺らいでいるわけではない。あんなイレギュラーさえ介入してこなければ、今頃は万事滞りなく仕事を果たし終えて帰路へと着いていたことだろう。
……いや、そんな仮定の話はどうでもいい。いま重要なのは、これで「彼女」の身に危険が及ぶ可能性がますます高まったということである。
やはりさっきあの場から退いたのは、致命的な誤りであったのではなかったか? 今からでも遅くない。引き返して仕事を続行するべきか?
たしかに八神和麻はかつて大和が遭遇した中でも極めつけの強敵である。――が、それでもなお自分が死力を尽くせば決して打倒できない相手ではない。
そう、多大なリスクこそ伴うものの、やってやれないことはないだろう。そして、その後に標的たる神凪厳馬を仕留める……
つい彼女の声を聞いたことで戦意が萎えるあまりに矛を納めてしまったのは、やはり早計だったかもしれない。
だが神凪厳馬のみならず、その息子やあの戦いの場に集ってくる一般人に至るまで皆殺しにするなどという所業を、きっと彼女は決して許しはするまい。
たとえそれを行わねばならない理由が、当の彼女の命を救い出すためだったとしても。いや、それならばなおのこと厭うに違いない。大和が姉と慕う人は、そういう女性だった。
そう理性では理解しているものの、感情は簡単には納得してくれない。
神凪厳馬を殺せ――その前に立ち塞がるというならば、息子もそれ以外の連中も、どいつもこいつも皆殺しにしてしまえと、心が猛る。
だが大和とて本当は解っているのだ。こうして風牙衆の命令に従い続けたところで、彼女が無事に戻ってくる保証など、どこにもありはしないのだと。
それでも、大和にはこうする他に術がない。ひとたび風使いに隠れ潜まれてしまえば最後、雷使いである大和には、彼らを探し出す手段がない。
いま大和に必要なのは、戦闘能力ではなく、探査能力の方なのである。ただし、それこそ雷使いにもっとも欠けている力に他ならない。
そのときコートの懐に仕舞い込んでいた携帯電話が振動するのを、彼は感じ取った。大和は発信者を目で確認することなく、ポケットから無造作に取り出し耳に当てた。
どうせ風牙衆の誰かに決まっている。胸糞悪いことは手っ取り早く終わらせるに限る。「仕事は失敗した」と短く告げるつもりだったのだが、
「……お前は……」
そこで予想もしていなかった人物の声を聞いて、大和は驚きのあまり息を呑んだ。
しばし会話を続けた後に、大和は再び携帯電話を懐に入れるとコートの裾を翻して夜の闇の中へと溶けるように消えていった。