オリキャラではありません
後において、妖精マブという存在は、余り知られることはない。それはスカサハを含めて
聖なる泉の精霊と、後々そう呼ばれるようになった彼女の、真の名前とはーー
*
打鉄の音が、森の中で大きく反響した。
男の持つ黒い槍が、二度三度と回転しながら、目前の女に襲い掛かる。驚異的な速度、重さーーそして何よりそれを支える、根底の技術。それら全てが完璧に噛み合った、最上の技であった。
しかし、それが幾ら素晴らしい槍さばきであっても、それを受け止める相手が脆弱であれば、意味はない。そもそも、その真の力が発揮される前に打ち倒されてしまうからだ。
故に、その男の優れた技術をこうも明確に確認できるのは、何よりそれを総て抑え込む、女の存在があってこそのものであるのだ。
男、クー・フーリンは駆け抜ける勢いのまま、身の丈以上は余裕で超える漆黒の長槍を、まるで手足の延長であるかのように使い熟していた。
スカサハは、そんなクー・フーリンの暴虐の嵐を総て、
都合十二連撃。
上上下、左右左ーーッ!
風のように流麗で、稲妻のように鋭く、何より速い。常人に、風を避ける術も、稲妻を耐える力も存在しない。ならびスカサハも当然、条理を逸脱した業でもってクー・フーリンを迎え撃つことになる。尋常ならざるクー・フーリンのそれを、スカサハは難なく逸らし躱し受け止めてーー大きく弾き返した!
バランスを崩されーーることもなく、その場でくるりくるりと回転して後方へ突き飛ばされた威力を他方に分散する。そうして槍を力強く握りしめて、数回転分の勢いを乗せたままにスカサハへと叩きつける。
「ーーチィっ」
思わずと出た舌打ちは、クー・フーリンのもの。かつて森の一角を
こともあろうかスカサハは、蛮神が如き力の奔流を、その槍を
その寸前でクー・フーリンは、左手でもう一度槍を回転させる。
無理やり引き戻された槍の後方への力を利用して、二歩三歩と後退するーースカサハの
先程彼方へと飛ばされた槍が、いつの間にか再び手元に喚び出されていたのだ。不思議な術である。が、スカサハという存在を考えれば当然のこと。
彼女は死の国の魔女。その程度の力など、それこそ手品のようなものであろう。
後退するクー・フーリンを追撃するスカサハは、やはり仮の槍ではなく身体全体を俯瞰していた。
クー・フーリンは雨霰と繰り出される槍の穂先を目先すれすれで回避しながら、思い馳せるーー
(クッソ、が! 手ェ抜いてやがるなこの女っ!)
なんということか、攻防が開始して一分半。すでに互いに千近い攻防を繰り広げていながら、彼女のそれが未だ本領ではないと言うのだ、この男は。
「オォっ……らアッ!!」
下から翻るように煌めくスカサハの槍を、クー・フーリンは自身の槍を寸前で滑り込ませて弾くーーしかし防げてはいない。
(相変わらずとんでもねぇっ……普通相手と
そう、スカサハは今日クー・フーリンにこう言ったのであった。
ーーお前の技術は我流が強すぎるきらいがあるな。所々、根本的な身体捌きに無駄が見える。正せ、
その結果がこれである。
此方は自身の一挙一動、スカサハの数手先まで嗅ぎ分けながらの全力であるというのに、この女、それらを総て軽くいなして、気にしているのは足運びやら筋肉の使い方やらと……余りにあんまりな話だ。
さらにスカサハは、クー・フーリンが身体の有用な動かし方から逸脱した時に限って、攻勢を強めてくる。それはつまり、有用な動かし方をしなければ防ぎきれないレベルの攻撃を仕掛けてくるということであるのだ。
(スパルタだの鬼だの言ってたがよぉ。これはいくらなんでもーー!)
これが、スカサハの才が為す奇跡の数々である。指導者としての溢れんばかりの才が輝いていた。太陽の神の子であるクー・フーリンでさえ、防ぐのが手一杯の攻撃でありながらーークー・フーリンはその一線を
もちろんそれはクー・フーリンの力でもある。だが、何よりもスカサハの導きがあってのものでもあるのだ。
内心罵倒に近い叫びを上げながらも、クー・フーリンは必死にスカハサの攻撃に抵抗して見せた。
それから結局。
本当に『一日中』クー・フーリンを扱き続けたスカサハは、それでも満足そうにはせずに、倒れ伏す彼を置いて城へと戻っていった。
息も絶え絶えな彼は、微かに差し込む月を全力で睨みながら誓うことになる。
ーーあの女、いつか絶対ぶっ倒してやる。
*
オイフェがスカサハの異常をしっかりと確認したのは、存外に遅まきのことであった。
まず最初に変わったのは、口調。
生来より似通った容姿と相まって、まるで自身の写し絵であるかと錯覚してしまいそうなほどに、それはオイフェのものにそっくりであった。弱気な発言も鳴りを潜め、豪胆で厳か、大人の身体に近づいてきた青春時代、スカサハは酷く歪に変貌した。
次に変化したのは、オイフェに対する態度であった。
今までは見せていたか弱い一面を、オイフェにさえも見せなくなったのだ。
彼女が心の底から甘えられるのは、父でもなければ母でもなく、ただ一人オイフェのみであった。それを心の何処かで誇らしく、甘美なことに思っていたのは確かであり、それによって満たされていた自尊心のようなものの存在も、確かに否定できない。けれど何よりオイフェが胸を打たれたのは、スカサハが自ら槍を持って戦に出ようとした時のことであった。
力はあった。万人の集団であろうとも打ち勝てるような強さもあった。けれどスカサハには、それをもってしても補えないほどに臆病さがあった。そんなスカサハが、戦場に出るだなんて……
スカサハの戦果は目まぐるしいものがあった。一人で小規模とはいえども、洗練された騎馬隊を滅ぼしたのだ。初陣でこれなのだ。スカサハに次は、次はと期待の念が集まるのは当然のことであった。それを彼女も当然であるかのようにその背で持って答える。その、余りにも小さな背中で。
悲しいことだと、オイフェは思った。
けれど、そんなスカサハの姿を、彼女は黙殺していた。彼女にその決心をさせたのはきっと自分であるから。スカサハの想いを否定することなど、オイフェには出来なかった。
気付いて、思い知らされた頃には、もうかつてのスカサハはどこにもいなかった。それを辛く思ってもどうしようもない。むしろ、そんな文字通りスカサハの身に余るような賞賛や賛辞を一身に浴びたスカサハが、影で怯え、涙しているのではないのか……そんなことに恐怖を感じていた。
スカサハは自らの手で自身の退路を絶ったのだ。それも完璧に、一切の隙もなく。もうあの頃の気の弱い、幼い少女のようなスカサハの居場所は、何処にも存在しないのだ。だったら、きっとまた周りを気にして静かに涙を堪えようとしているスカサハは、いったいどこに逃げ込めばいいのだ?
退路は無い。逸れる脇道も、彼女が悉く壊していく。ならば前進あるのみ。
そんなスカサハの姿を側で眺めて数ヶ月、オイフェはなんとなくスカサハの意思に気づき始めた。
あの日の、二人だけの契りを思い出す。
彼女はきっと、オイフェのことを信じていたのだ。愚かしくも、いつか果てるその時には、オイフェが自分のことを救ってくれるのだと、そう確信していたのだ。
オイフェはそんなスカサハに、ただ一言だけこう告げることにした。
「道を違えるな。決して、他者に惑わされてはいけない」
「ーーーーああ、わかった」
スカサハは強くなった訳ではない。ただ弱さをひた隠しにしているだけなのだ。もしいつか、そんなスカサハの芯にある弱味に漬け込むような存在が現れた時、スカサハに抵抗する術は、おそらくないだろう。
ーーだから、その時は私が。
スカサハを守ろう。
彼女は、ただ自身の道のみを行き、その上で死なねばならない。そして、そんな彼女を、私だけが許してあげられるのだから。
オイフェは、そう決心したーーだから。
オイフェは今、この場にいるのだ。
影の国にたどり着くまで、あと三日。
スカサハを惑わす妖精を、塵一つ残すことなく、滅ぼすためにーー
*
「ーーーーなんだと」
『? どうかしたの?』
スカサハは、目を覚ましたと同時に思ったーー私は夢を見ているのか?
朝の未だ紫色に照る空の向こうから不吉な気配を感じた。まさか、そんなことがーー?
何時になく真剣そうな表情のスカサハに、マブは問いかけた。
「ーー戦だ」
『なんですって?』
スカサハは急いで身支度を開始して、ものの数秒でそれを完了した。扉を飛び出すようにして、廊下を早歩きで進む。道行く使用人達に戦士らを集めるように頼み、自身は、いまやスカサハの一番弟子とも言えるほどの、あの男の所へーーと。
「師匠」
「クー・フーリン。話は聞いたな」
「応とも」
スカサハ同様に、彼女の下に一番に向かっていたらしい彼と、自然に横並びになって歩く。慌ただしげにあちこちを行ったり来たりする人の群れの間を縫いながら二人は進む。
「敵はどこのどいつだ? 前触れ一つもなかった訳では、ないんだろ?」 「…………敵将は、おそらくオイフェという女だ」
一瞬強張ったスカサハの表情を、クー・フーリンは見逃さなかった。自身の感情を常に隠そうとするスカサハの考えを的確に見抜くために、クー・フーリンがこの師の元にいる間に培ってきた技術である。
後の世でコールド・リーディングとも呼ばれるようになるそれは、実際クー・フーリンには大いに役に立つものであったーーなぜなら。
スカサハがクー・フーリンに隠そうとすることは、いつも重要なことか、もしくは危険なこと。この二つであるからだ。
「オイフェ?」
「一応、私の妹だ。血の繋がりは定かではないが」
「妹、ねぇ。なんでそんな奴がここに攻めてくる?」
「分からない。が、理由もなくこのようなことをする女ではないのは確かだ」
まだ、交渉の余地も、あるかもな。
スカサハがそう言うのを聞いたクー・フーリンであったが、この時、クー・フーリンが驚いたのは、スカサハから感じられる、オイフェへの無上の信頼に対してであった。
これは一筋縄ではいかない問題なのだろう。
臆病さを隠し持つこの女は、それでいて自身の芯や決意を曲げたりは決してしない。ならば、スカサハのオイフェへの信頼もそうそうに揺らぐものではなく、それは戦にあたって余りにも愚かしい感情だ。
だから、クー・フーリンはこう言った。
「じゃあ、その女は俺が相手する」
「なに?」
「アンタは戦の指揮官として必要な存在だろう? だったら、この国で上から数えたほうが早い俺がそいつと闘う」
「……オイフェは、お前よりも強いぞ」
「なにを今更、俺はいつもテメェより強い
そう、彼はスカサハの一番弟子、クー・フーリン。故に、彼女の強さの証明を買って出るのは常に自分でなければならないのだ。それは、固い信念。決意の表れ。スカサハを見つめて、逸らさない紅い瞳は、真っ直ぐに前だけを見据えていた。
だから、折れたのはスカサハの方であった。
「………………分かった」
「あんがとよ、師匠」
「子が発つ時の親の気持ちも、なんとなくわかったよ」
「あん?」
スカサハは疑問符を讃えるクー・フーリンの目の前に手を出した。そこにあったのは一振りの長槍。紅い槍であった。
「ーーこれは?」
「我が魔槍を、お前に託そう」
「本気か? いや、正気か?」
「失礼なことを。だが、その位の気持ちで行け。オイフェは、強い」
クー・フーリンは一度躊躇ったように手を空中でふらふらと揺らしてから、ゆっくりその槍を手に取った。
手に馴染む。まるで遥か昔から共にあったかのように。
「当然のことだ。それはお前のためだけに創り出されたものなのだから」
呪詛を刻もう。
その身に、我が槍を持つ資格を。
クー・フーリンは、歓喜していた。そして、勝たねばならぬと誓いを立てる。
ーーだからだろうか。
途方もない高揚感故に、クー・フーリンはその時、スカサハの顔を見ていなかった。
そう。
まるで、親に見捨てられた孤児のように歪められた女の顔を。クー・フーリンは、気づくことができなかったのだ。
ーーこれが、二つ目の失敗。
彼ら彼女らの物語において、クー・フーリンは最後の最後で大きな過ちを犯してしまった。
恐怖という名の種は、いつか芽吹き疑念へと変わりーーそれは最期に怨讐へと堕ちていく。
ーー結局ここまで、妖精の思い通り……
*
意気揚々と立ち去っていったクー・フーリンの背を、最後まで眺めていたスカサハをーーその女は見つめていた。
これで、良い……!
ここまでは完全に計画通り。
後はあの女を滅ぼし、クー・フーリンとスカサハの関係に走った小さな亀裂を、自分が広げてしまえば、それで全てが完了する。
そうすれば彼女はーー
スカサハは己の物に……
遠いどこかの地で、女が妖しく笑い声をあげた。
遂に、
オイフェとクー・フーリンは殺し合う。
スカサハは既に、苛立たしげに頭を掻き毟った後、クー・フーリンとは逆の方向へ向かって、歩き始めていたーー