都会の特有の喧噪がまるで嘘だと言わんばかりの静寂の中で一つの荒い息遣いの音だけが響いていた。
元々この場所はそんな音だけでなく激しい打撃音も考慮できる程の場所にある為に、日常がどんな物なのかが意図も簡単に想像出来ていた。
そんな内部とは裏腹に、周囲はまるでそんな事すら関係無いとばかりに穏やかな風が吹いているだけだった。本来であれば激しい打撃音が聞こえるはずのそこは、熱気にあふれてるはずが、今はそんな熱気など最初から無い程に重苦しい空気だけが漂っていた。
「おい。デカい顔して、たったそれだけなのか?もう少し奮闘してくれよ」
「テメェは……化け物か……クソッたれが!」
既に戦闘は誰が見ても結果が見えていた。
満身創痍で振るい続ける剣には最初の頃の鋭さが完全に消え失せている。本来であれば十分に取り込めるはずの酸素は欠片程度しか取り込めない。脳にまで酸素が行き渡らないからなのか、視界は少しづつ失われている様だった。
致命的な一撃を食らった事によってなのか、自身の能力の過失した結果がもたらしたからなのか、それとも隔絶した戦闘力の差に圧されているからなのか、対照的な二人を見守る観客は誰も居なかった。
「一つだけ聞きたい。どうして着いて来た?」
「これから戦うのに理由を探すのか?見かけに寄らず随分と面倒な性格だな」
「俺はそこまで狂犬じゃねぇ。ただ純粋に戦いに興じたいだけだ」
サングラスの男、倉敷蔵人は少しだけ龍玄に疑問を持っていた。あの状況下でも変わらない態度は明らかに胆力が備わっている事は容易に想像できる。それと同時に歩く姿勢から確実に何らかの達人クラスである事は確信していた。
通常であれば、それクラスになれば殆どが争いを避ける傾向になる。単純に言えば、弱い者いじめをしたく無いだけなのか、それとも面倒事を背負いたくないと考えるからなのか、少なくともそのどれかに該当する。しかし、今はそんな事すら気にしない事を考えていた。
本来であれば適当な事を言ってその場を回避する。少なくとも蔵人が戦って来た相手の殆どはそれだった。
人道的には間違っていない。しかし、それと実際に戦闘になった場合の状況ではどうなるのかは別物だった。
以前に戦った相手も当初は蔵人に対し相手にしようとしなかった。半ば強引な手を使った事は自覚しているが、その戦いの結果に関しては弱い方が悪いとの結論に達している為に、それ以上の事は考えていない。
そんな自分の経験とは明らかに異なる目の前の男は明らかに自分と同類なのかもしれない。そんな考えから口にしただけだった。
「随分と殊勝な考えだな。負けた時の良い訳を最初に探しておきたいのか?」
「闘う前から随分と余裕だな。だったらこの後でもう一度聞かせろや!」
合図も何も無い状況で蔵人は自身の固有霊装でもある『大蛇丸』を展開すると同時に、一気に斬りつけていた。
この間合いであればこれから固有霊装を展開しても絶対に間に合わない。自分が予想した未来を確信したからなのか、鉈特有の幅広の刃は流言の肩口へと振り下ろされていた。
「何だ?随分と雑で遅い斬撃だな。こんなんで良く闘おうと思ったな。余りにも遅すぎてあくびが出るぞ」
「んだと……」
本来であれば肩口から袈裟懸けに斬り落とされるはずの刃はそのまま床に直撃していた。
それとと同時に強靭な足腰によって刃を踏まれ地面に縫い留められている。本来ならばそのまま振り上げる事で態勢を崩す事が可能だったが、生憎と蔵人が動かそうにもビクともしなかった。
刃は床を叩き割り、半分ほどめり込んでいる。上げる事が不可能だと悟ったからなのか、刃を短くする事でそのまま引き寄せていた。
「中々面白い機構だな。蛇腹剣みたいなものか?」
「テメェに言う必要なんざねぇよ」
時間に刹那の攻防で蔵人は漸く目の間の龍玄がそれ程の力量なのかを悟っていた。
蔵人は基本的に口では嘲り笑う事はあっても戦闘時にそれを適用する事は無かった。仮にやった場合、それが致命傷になるだけでなく、自分が手痛い反撃を食らう可能性を考えたからだった。
自身の身体能力でもある『
足で踏みつける行為そのものは可能かもしれないが、その前提はこちらの攻撃が見えている事になる。剣筋を見切り、ギリギリで回避しながら踏みつける。その力強さは自身の肉体にも感じ取れていた。
それと同時に未だ相手は固有霊装を展開していない。それが何を意味するのかは考えるまでも無かった。
龍玄の言葉を無視しながら蔵人は数度斬りつける。肉体の反応速度を凌駕する攻撃は本来であれば脅威でしかなかった。
未だ動く事が無い龍玄に三条の剣閃が疾る。全力では無いが、それでも牽制代わりと七割ほどの力で振るった刃は全てが反応できる箇所では無い部分を狙っていた。
「速さは認めるが、それだけだな」
幻でも斬りつけたかの様に斬撃は龍玄の肉体をすり抜けていく。その瞬間を目にしたからなのか、蔵人は今よりも更に警戒を強めていた。
「お前、まさか……」
「どうした?もう終わりか?」
先程まで構えすらしたなかった龍玄は改めて無手である事を意味する様にゆったりと半身になりながら行動する為に構える。
それと同時に差し出された右手の掌を上に向けると、そのまま四指を揃え手招きしていた。
「さっきから舐めやがって!」
蔵人の攻撃は先程と全く同じ展開になっていた。
荒れ狂うかの様に展開した刃は自身の最大の攻撃を思わせるように八条にまで膨れ上がっていた。ここまでやれば完全に回避は不可能。それは蔵人だけでなく、周囲にいた取り巻きの人間もまた同じだった。
八方向から生き物の様に襲い掛かる刃を回避する手は無い。自分を舐めた代償がこれだと蔵人は考えていた。
まるで固有霊装の名の様に蛇を彷彿とさせる八条の刃は龍玄に襲い掛かる。これで終わるはずだった。
「クソッたれ……が……」
八条の刃は既に龍玄の躯体を捉える事は無かった。その瞬間、蔵人の口からは漏れた酸素と同時に血液が飛沫となって溢れ出る。
それと同時に蔵人の肋骨には先程まであり得ないはずの拳が突き刺さっていた。
蔵人の攻撃した瞬間、龍玄の姿をまともにとらえた人間は誰一人居なかった。気が付けば龍玄は蔵人に最接近していた。
カウンター気味に放たれた拳の衝撃はそのまま内臓にまでダメージを与える。既に右第七、第八肋骨は完全に粉砕されている。
それが何を意味するのかは考えるまでもなかった。衝撃はそのまま肺に達する。心臓に向わなかったのが幸いしたのか、右肺だけが辛うじて破裂した程度だった。
一度萎んだ肺は空気を取り入れる事は出来ない。その結果、呼吸は一気に苦しくなる。事実上の勝負の結果に蔵人は膝をついていた。
「どうする?まだやるか?それとも他の連中をけしかけるか?」
龍玄は周囲を見渡すと同時に、少しだけ殺気をまき散らしていた。
仮にここに刀華やカナタ、一輝が居れば何らかの反応をするかもしれない。しかし、蔵人の取り巻きはそれ程武に通じている訳では無かった。
精々が蔵人の力のおこぼれを貰う程度の存在。そんな人間に対し、濃密な殺気を放った瞬間、誰もが立つ事も出来ずにその場にへたり込んでいた。
「あいつらが適う訳無いだろ。俺は生憎とまだやれる」
固有霊装が未だ展開されているのであれば、少なくとも心は折れていない証拠だった。
よろめきながら立ち上がるも既に呼吸は片肺でしか出来ない。このまま戦闘を続ければ最悪は死を招く必要があった。
しかし、蔵人のプライドなのか、それともこれ程の実力を持った人間と戦う機会に恵まれなかったからなのか、この場で気を失う事を許すつもりは無い。
静まり返った空間に蔵人の荒い息遣いだけがやけに響いていた。
「このままだと死ぬが、それでも良いか?」
「そんな事を…恐れてるなら伐刀者なんぞやらねぇよ」
そこからの戦いは既に戦闘と呼べる物ではなかった。
十全に呼吸をする事が不可能になっている為に、振るう刃は当初の見る影も無かった。
よろめきながら振るう刃は既に龍玄の居る場所にまで届かない。これ以上は蛇足でしかない。
だからなのか蔵人の刃を躱す事もせず、周囲のへたり込んだ取り巻きの方へと意識を向けていた。
「この場からすぐに立ち去れ。でなければ貴様等の命は保証しない」
「た、助けてくれ!俺達は関係無い」
鋭さを失った刃は既に脅威ではない。簡単に刃を往なすと同時に蔵人の踏み込んだ右足を蹴り飛ばす。それを皮切りに取り巻き達ははいつくばりながら、この場所から逃げ出していた。
「朱美。お前は今どこに居るんだ?」
《どこってカナタ嬢と面会しただけよ》
「って事は抜けられないって事か」
《今回は何したの?》
「大した事はしていない。少しだけ治療が必要になっただけだ」
龍玄の足元には完全に意識と飛ばした蔵人が横たわっていた。
右肺が破裂しただけでなく、左大腿骨と右橈骨が折れている。幾ら満身創痍のままに来ても龍玄は手を抜く事は無かった。
そもそも戦いの場に温情は不要でしかない。仮に演技であれば、気を抜いた瞬間この立ち位置は逆転する。
残心とも言える状況から幾分が過ぎた頃、龍玄は朱美に連絡を入れていた。
《取敢えずは、生きてるって事で良いのよね?》
「こんな場所で殺しはしない。IPS再生槽にでもぶち込んでおけば死にはしないだろ」
《了解。頼んでおくわ》
「世話になる」
龍玄の耳朶に響く声の後ろは少しだけ騒がしく聞こえていた。
カナタの名前が出た時点でどこにいるのかは何となく分かる。お互いがそれ以上言うつもりが無いからなのか、龍玄は一言だけ告げると同時に、そのまま通信を切っていた。
「……ここ…は」
「病院だ」
蔵人は目が覚めると同時に見知らぬ天井が目に飛び込んでいた。
気が付けば受けたはずの怪我は既に治癒しているのか、僅かに痛みは残るも、見た目には何も無かった。それと同時に聞こえた声の先に視線を向ける。そこには龍玄が当然とばかりに壁際に立っていた。
「俺は…負けたのか?」
「そうだ。あのままでも良かったが、あそこで死なれても面倒だからな。仕方なくここに連れて来た」
「助けられたって訳か……」
今の立ち位置が全てを物語っていた。
それと同時に蔵人の思考が徐々にクリアになっていく。事実上の一撃によって沈んだからなのか、少なくともここから何か足掻くつもりは無かった。
純然たる戦闘行為で決定した勝者と敗者。今の蔵人にとってはそんな事などどうでも良いと感じていた。
それと同時に、一つだけ確認したい事実がある。戦闘の前に口にした疑問。それが何なのかを確かめたいと思っていた。
「一つだけ聞きたい事がある。お前は戦う前に何を考えていた?」
「聞いてどうする?」
「俺はただ知りたいだけだ」
既に蔵人の中では折り合いはついているのか、初めて会った頃の視線は無くなっていた。
純粋に聞きたいだけなのか、視線が龍玄に向いたまま外れる事は無い。強い意志を感じ取ったからなのか、龍玄もまた溜息と突きながら本当の事を話していた。
「単なるストレス解消だ。それ以外に何も無い」
「ストレス解消……だと。お前ふざけるな!そんな理由で俺は負けたのかよ」
「事実だ。それにお前が俺に勝とうだなんて未来永劫あり得ん。生かされた事実だけを噛みしめるんだな」
龍玄の言葉に蔵人の視界は真っ赤に染めあがったかの様だった。自身の攻撃を容易くすり抜け、事実上の一撃で粉砕したそれの結末が単なるストレスの解消とは思ってもいなかった。
それと同時に、自分との間には確実に越えられない壁がある事も理解していた。元々蔵人は自身の『神速反射』によって相手の事もある程度は見えている。これまでに見切れなかった者は誰一人居ないと思ったが、龍玄はその先を行っていた。
踏み込んだ瞬間を感じさせず、一瞬にして最低限のやるべき事をこなす。それはある意味では不可視の攻撃だった。
脳が攻撃だと意識出来ない以上、如何に反応が早くても動く事は叶わない。この敗北は当然の結果である事を強引に理解させられていた。
「参考までに聞くが、お前は俺の動きをどこまで見ていた?」
「どこまで?あんなスローモーションでか?」
蔵人の言葉に龍玄は何も考える事無く事実だけを述べていた。
厳密に言えば、蔵人の動きはそれ程遅くは無かった。敢えて言うならば太刀筋が力任せだからなのか、かなり乱れている点だった。
仮にあの速度で鋭い太刀筋であれば龍玄としても多少は楽しめると考えたものの、最初の動きの時点で単純に自分の力を磨く事無く素質だけで戦っている事を理解していた。
元々風魔として見れば蔵人の力量はか辛うじて中の下。それも固有霊装を展開しての評価だった。
霊装の動きは通常の武器とは違い、自身の思い描く動きを見せる。一輝やステラの様に純粋な刀剣を意識すれば、それ以上のはならないが、蔵人の様にややトリッキーな動きは自分の一番分かり易い動きをしているに過ぎない。
そんな生温い斬撃を態々受ける必要性は最初から無かった。
「……俺の『神速反射』は人間の反応出来る速度を超える。仮に見てたとしても反応出来ないはずだ」
「そうか。そこまで過信してるとは随分とおめでたいな。俺が見たのはお前の速度じゃない。剣筋だ」
「剣筋?」
龍玄は態々自分の反応できる速度を公表するつもりは無かった。
確かに初見であの対応は難しいかもしれない。しかし、汚い剣筋は攻撃の予測を簡単にする。龍玄が見たのはその際に反応する筋肉と視線。
自分の配下でも無い人間に教えるつもりは無かった。
「糞餓鬼が棒キレを振り回して喜ぶ程度の攻撃を受けるなんて正気を疑う。お前のそれはただの暴力だ。それも知れたレベルのな」
龍玄は蔵人に敢えて挑発めいた言葉をかけていた。元々誰からも師事していない人間のレベルであれば、間違い無く上位にも行けるはず。
こちらとしてもスカウトするつもりが最初から無い為にストレスの発散だと言っている。言外に雑魚扱いした事に何かを感じたのか、蔵人はそれ以上の事は何も言わなかった。
「それと一つ確認したい。今回の件はお前の仲間がこちらに対し金品を要求した事が発端だ。それに対し、俺はお前に勝った。さて、お前は何を俺に差し出すつもりだ?」
「差し出す……だと?」
龍玄の言葉に蔵人は全身に氷水をかけられた様に冷えていた。先程とは違い、既に雰囲気は違っている。自分達の戦った相手がどれ程危険なのかをここで漸く理解していた。
「二千万。明日の夕方までに用意しろ。出来ないならあの仲間を売り飛ばす。俺としては払おうが払うまいがどちらでも良いがな」
「巫山戯るな!そんな金どうして用意する必要がある。んなもんねぇよ!」
「そうか……ではお前達は分不相応な物をチップにかけた訳だ。だとしたら命を貰っても問題無いな」
先程までの会話とは明らかに違う雰囲気が部屋の中に充満する。明確な死。それは誰もがそう感じる程に重苦しい殺気となっていた。
「だったら殺せ!その方が清々する」
「お前の命など関係無い。俺が取り立てるのはお前の仲間だ。敗者には一円の価値も無い」
路傍の石の様に蔵人を見る龍玄の眼は既に人では無いと錯覚する程だった。現時点で蔵人は龍玄が風魔である事実は知らない。間違い無く知ればどうなるのかは考えるまでも無かった。
「あいつ等は関係無いだろ」
「俺には関係無い。時間はそれ程無いがどうする?」
既に退路が断たれた状況で蔵人は現状を打破すべく頭を回転させる。
只の学生にそんな大金を用意できるはずがない。しかし、ここで何を言おうが自分が原因で死なれるのは面白くは無かった。
元々の付き合いなど最初からない。互いが面白可笑しく過ごすだけの希薄な関係でしかなかった。
しかし、戦って負けた以上は責任が発生する。社会人でも用意できない金額に蔵人は一つの可能性が浮かんでいた。
「だったら、あの時闘った道場はどうだ?あれなら対価に相応しいはずだ」
「お前は真正の馬鹿か?あれはお前の持ち物ではない。少なくとも法律上は他人の持ち物。お前との接点はどこにも無い」
事前に確認した時点で所有者の名前は綾辻海斗となっていた。現代において私闘は禁止されているが、その中でも例外は幾つかあった。
その中の一つが道場主の許可。詳しい権利関係は抜きにしても本来であれば他人の道場で勝手に戦う事は出来ない。
蔵人が出来たのは、偏に所有権は無いが使用権があったが故の結果だった。
それと同時に戦いにはそれなりに対価を払う必要が出てくる。それを見越した上での請求だった。
仮に蔵人の友人を攫ったとしても価値は殆ど存在しない。だとすれば蔵人が口にした方法以外に落とし所は存在しなかった。
「それでもだ。今の俺にはそれ位しかねぇんだよ」
「相手の力量もわきまえない馬鹿の言葉に相応しいな。だとすれば、今後は俺が優先して使用する。お前達は退去するんだな。居座っても良いが、命は大切にするもんだ」
「今さら抵抗する気は無い」
事実上の封殺に近い結果に蔵人としてもそれ以上何も言えなかった。それと同時に気が付いた事もあった。
命を懸けると口にはしても本当に自分の命をチップとして戦った経験はこれまでに殆ど無かった。精々が七星剣武祭で戦った程度。
しかし、今回の戦いはそんな物すら陳腐になる程の衝撃を持っていた。正体は分からないが、事実上の命がけの戦いは本当に自分がただ生かされただけに過ぎない事を自覚している。
生き残れたのは奇跡に等しかった。そんな人間が破軍に居る。生きながらえたのであれば目の前の男を目標にするのも悪くは無い。蔵人は胸中でそんな事を考えていた。
「現場には明日にでも顔を出す。部外者がいた時点で排除する。怪我は殆ど治ってるんだ、点滴が終われば治療は完了する。精々仲間に連絡するんだな」
既に興味を失ったからなのか、龍玄はそれだけの言い残すと部屋から去っていた。先程の圧力は既に無くなっているが、蔵人の全身には病院には似合わない程の大量の汗をかいていた。
あのまま意見が合わなければ自分の命だけではなく他の人間にも影響は出る。事実、蔵人がこれまで世間で問題を起こしても特段の処分が無かったのは、偏に監視されている事実があったからだった。
詳しい事は分からないが、何となく張り付いている事は理解している。そんな人間と比べても龍玄の存在はあまりにも異質だった。
「ふう……」
カナタは自分の課せられたノルマとも言うべき会合が全て終わったからなのか、珍しく車内で溜息を漏らしていた。
元々予定されていたと同時に予測できる内容ではあったが、やはり海千山千の相手は精神がガリガリと削られる思いがそこにあった。
設立の経緯はともかく、現時点では一企業の代表であるカナタが出るのは既定路線。本当の事を言えばそんなストレスの塊の様な場所に飛び込むのはそれ相応の気持ちが必要だった。
何気ない会話一つに気を置けない。その結果が溜息となっていた。
そんな中で朱美と会えたのは色々な意味で僥倖だった。基本的に朱美はどの場所に居てもその存在を自由に出来るからなのか、カナタが厳しい時には手を差し伸べ、そうで無ければ存在感がまるで無いかの様に振舞ってい居た。
こんな場所で同年代の人間と会うのであれば、それは違う意味を持っている。現時点で貴徳原財団としてはカナタを外部に差し出すつもりが無い為に、そんな存在も見当たらなかった。
「今日はお疲れでしたね」
「事前に分かっていたとは言え、それでも厳しいのは確かですから」
「ですが、まだ社長はお若い。世間ではままごと程度に思われているのかもしれませんね」
「私が飾りなのは否定しません。本当の事を言えば、あの会社は異端ですから」
「異端……ですか」
「ええ」
運転手からかけられた声にカナタは現実に戻ったかの様に錯覚していた。
運転手は本来であればカナタの補佐役として行動するはずの人間ではあったが、今回の様なケースでは何かと角が立ちやすいからと最小限度で行動していた。
補佐役兼運転手だからなのか、カナタもまた自分の考えている物を態と口にする。それは一つの信頼の証でもあった。
「事実上の期間限定みたいな部分があるから、今はただ物珍しさで近寄る人間が多いだけね。尤も、いつまで続くのは分からないけど」
「……それは幾らなんでも無いかと思いますよ」
「そうかしら?」
その言葉にカナタは少しだけ疑問を持っていた。
周囲から見ても、この会社は貴徳原財団の末席にある事は理解しているが、それはあくまでも風魔に支払いをする為に設立した物であって、その目的が完遂した時点で解散する物だと考えていた。
しかし、反対の言葉を聞いたからなのか、それがどんな意味を持つのかが分からない。
まずはその真意を聞きたいと考えたからなのか、カナタはミラー越しに運転手に向けて視線を送っていた。
「会社単位だけで見ればそれ程ではあるませんが、財団全体で見た場合、その収益は如実に出ている様です」
「この会社が何か影響でも?」
「そうです。一番の理由は会場に居た風魔の存在でしょう。事実、財団に枝なす企業の殆どは経費が削減できていますので」
その言葉にカナタも辛うじて他の企業の内情を思い出していた。
それぞれにメリットとデメリットの両方があるが、一番の問題はやはり競合企業からの妨害や工作が出なかった事だった。
感情と事実は時としてどちらかを選択するケースが出てくる。今回の一件はそれが噴出したに過ぎなかった。
風魔の手が入ってる企業に何らかの妨害をすれば、その対価は余りにも膨大すぎていた。
自分のプライドと企業はどちらに天秤が傾くのは言うまでもない。その結果として他の企業からの産業スパイに代表されるそれは全て余剰資金として残す結果となっていた。
「事実、総帥は喜んでいましたので」
「そうだったんですか……」
身も蓋も無い言葉にカナタは先程よりも気疲れが数段上がった様に感じていた。
全体を見ればこのまま目的を果たして撤退する可能性は完全に消えていた。
となれば、自動的にこれからの未来が見えてくる。だからなのか、この気苦労をどうすれば良いのだろうか。
そんな取り止めの無い事を考えながら、後ろに流れる景色をボンヤリと眺めていた。