鳥の囀りすら聞こえない時間に、道場の周辺は異様な雰囲気に包まれていた。
朝焼けにすら染まらないからなのか、まだ乳白色の夜明けが闇色を溶かそうとしている。
人の営みが始まろうとする頃、大元でもあった道場は既に最高潮を迎えようとしていた。
「龍よ。まだ甘いな」
目視すら困難な大気の塊は、まるで拳銃の弾丸の様に一人の男へと襲い掛かる。
これが実戦であれば確実に致命傷とも言えるダメージを与えるが、その男はまるで何事も無かったかの様に一言だけ告げると、見えているかの様に僅かに首を傾けるだけに終わっていた。
大気が巻き起こす乱流を気にするでもなく視線は動かない。だからなのか、龍と呼ばれた男もまた苛立つ事無く次の動作へと移行していた。
通常であれば誰かしらいるはずの道場には二人以外の人影は無かった。
既にどれ程の時間を費やしているのかを判断する事すら困難になっている。
二人のうち、一人は戦っているような雰囲気を感じさせる事はなく、もう一人の方は普段であれば余裕がある戦いをするが、今に関してはそんな気配は微塵も無かった。
時折漏れる鋭い呼吸音と同時に繰り出す拳は、常に大気を弾き、切り裂いている。
僅かでも当たろう物ならば、その人間は確実に致命傷を受ける程だった。
幾ら凶器になったとしても当たらなければ話にならない。連撃を繰り出すも、全てが最初から見透かされたかの様に的確に裁かれていた。
「何とでも言え!」
二人が対峙する距離は僅かに一メートル程。互いの動き一つ一つが完全に間合いに入っていた。
僅かに呼吸と意識がズレれば確実に手痛い反撃が待っている。距離を取ることを許されていないからなのか、龍と呼ばれた男は自らの意識を内なる深淵へと沈めていた。
『
思考を深海に潜るがごとく深く沈めると同時に、この戦いの五手先を読む。
相手は自分の父親でもあり、自らも所属する組織の棟梁。下手に小細工をしようものならば、確実に己が痛い目に合う可能性が高かった。
拳の連撃の間に目と肩の筋肉だけを動かし、虚構を混ぜる。
本来であれば、このフェイントだけでも殆どの人間を吊り上げる事が可能なはずだった。
しかし、目の前に対峙する男にはそんな物は一切通じなかった。
元から虚構を混ぜるとは言え、隙を作る事に変わりは無い。僅かコンマ数秒の隙間すらも破壊せんと、動きを織り込んだ一撃が男に襲い掛かっていた。
最接近した状態からの鋭い膝蹴り。至近距離での攻撃の中でも威力は上位に入る物。
距離が開いた状態では役に立たないが、これ程まで最接近した状態のそれは致命的だった。
歓喜によって僅かに鈍る感覚。その後で待っていたのは屈辱の一撃だった。
「中々今の攻撃は良かったな」
男は出された膝を左手で受け止めた瞬間、すぐさま自身の右猿臂が額を襲う。鋭い一撃を紙一重で回避したまでは良かったが、結果的にはそれが致命傷となっていた。鋭く切る為に繰り出した猿臂はそのまま拳を握った状態で戻ってくる。
既に回避していた為にそれ以上動く事が出来ない。そのまま戻った裏拳は龍と呼ばれた男の頬に直撃していた。
「まだ甘いな。もう少し三昧に潜る時間を増やした方が良いだろう」
「そうは言うが……」
「身体強化を使わないのであれば、最低限でも後三十分は持たせろ。でなければ身を亡ぼすぞ」
「分かったよ。俺もまだまだだな」
「当然だ。青龍の名を持てば終わりではない。だが、先程のあれは悪くはなかった」
先程までの殺気だった雰囲気は既に霧散していた。裏拳が直撃した事によって頬はまだ熱を持ったままになっている。直撃はしたものの、脱力した状態だったからなのか、そのうちの幾分かの衝撃は逃がしていた。
その為に終わってからも直ぐに動く事が可能だった。
「そうか」
「随分と淡泊だな。もう少し喜んでも良いんだぞ」
「ぬかせ。あの程度で喜べるか」
言葉そのものは褒めている様にも聞こえるが、小太郎の言葉を真に受ける程龍玄は楽観的ではない。
この組手でまともに攻撃が通った事は一度も無く、出来る限りの未来を読んでも僅かに掠った程度の内容だった。
小太郎の見た目に変化は無い。幾ら何を言おうとも、龍玄からすればそれ程内容的に良かったとは思えなかった。
「精進を続ける事だな」
「当然だ」
「あのさ、終わったならいい加減朝食にしないかい?腹も減ってきたんだけど」
二人の会話を終わらせたのは、北条時宗だった。
官房長官であるにも拘わらず、この道場にSPを付ける事も無く佇んでいる。何も知らない人間からすれば問題かもしれないが、この場に於いてはその限りではなかった。
「そうだな。そろそろ時間も頃合いだ。お前も学校があるんだろ?」
「当たり前だ。今日はまだ平日だ」
道場を取得してからは、事実上の風魔の前線基地に近い扱いをする様になっていた。
本来の所有者でもある綾辻海斗は未だ意識不明のまま。
紆余曲折あった結果として龍玄が使用者として利用していた。
実際に費用をかけただけあって、道場内部の仕様は以前とは比べ物にならなくなっている。
全面改修した事によって人が生活する事が可能になっているだけでなく、ここにも幾つかの銃器も隠されている。
万が一の際にはここが前線基地になり、あらゆる作戦に対する使用が前提となっていた。
「で、学園生活はどうだい?」
「特段何も無いぞ」
「予選会やってるんだろ?その辺りの事を知りたい物だね」
まるで当然だと言わんばかりに龍玄が作った朝食を小太郎だけでなく時宗もまた口にしていた。
詳しい事は分からないからなのか、時宗は純粋に聞いてくる。
何かを期待している時宗には悪いが、龍玄からすれば、予選会と言えどそれ程話題になる様な事は無かった。
「特に無い。そもそもあんな場所で負ける事は考えていないがな」
「そりゃ……風魔の青龍が学生に負けるとは思わないんだけど、あそこにはヴァーミリオン皇女殿下も居るだろ?」
「ああ……そうだな。だが、今のところはそれほど気になる様な事は無いな。幾らA級を名乗っていたとしても実戦経験が乏しいなら才能の持ち腐れだ。余程の事が無ければ今のところは波乱は無いはずだ」
「随分と手厳しいね。仮に事実だとしても、もう少しオブラートに包んだらどうだい?」
「包むも何も、ここでそんな話をする意味が無いだけだ。少なくとも魔力に依存しないのは良いが、肝心の剣技はまだ甘い。で、それと、どう関係があるんだ?」
時宗の質問の意図が分からなかった。態々皇女殿下と言う位であれば、何らかの外交の問題があるのかもしれない。幾ら風魔が情報を知る事が多いとは言え、国内にある情報の全てを網羅している訳ではない。
何を目的としているのかは分からないが、少なくとも何らかの問題が孕んでいる事だけは間違いなかった。
「そうか……ここだけの話にしてほしいんだけど、実は最近になってちょっと厄介な事が発生してね。今はそれ程大きな問題にはならないんだけど、万が一の事があったら頼むよ」
「時宗。それは例の事か?」
小太郎の言葉に時宗もまた少しだけ真剣味のある表情になっていた。
小太郎が指す例の件は、事実上の外交問題に発生する可能性があった。
当然ながらその程度の事ならば小太郎とて知っている。風魔は傭兵である為に、もたらされた情報の裏をある程度は取る必要があった。
虚偽の問題だとしても報酬があれば問題は無いが、国際問題にまでなれば何らかの確認は必須だった。
傭兵は金さえ出せば何でもやる訳では無い。事実、風魔の組織力を使えば小国程度であれば陥落させる事は容易い。要人の殺害に始まり、破壊活動まで平然とこなす。テロリストとしても一流だった。
そうなれば戦争の道具として使われる可能性もある。傭兵としての立場は利用する側からすれば体の良い駒になるのは当然だった。
風魔そのものは人数が多い訳では無い。だからこそ、演習などの特殊事情が絡まなければ、そう簡単に動く事は無かった。
そんな中での唐突なステラの話題。本来、外交問題が発生する事案であればこんな場所で不意に口にする事は早々無い。仮に知っていたとしても知らないふりをするのがこれまでだった。
そんな中での時宗の呟き。この場には三人しかいないが、それを口にした時点でそれ程大きな問題に発展する事は間違い無い証拠だった。
「まだ調査中でね。せめて海外からの問題なら良かったんだけどね。国内に関して言えば面倒な案件になる可能性があるんだよね」
「面倒?いつからお前はそんな殊勝な考えを持つ様になったんだ?政治家ならもう少し感情を隠せ」
小太郎の言葉に時宗は少しだけ自分の顔を触っていた。
政治家であれば冷徹なまでに感情を押し殺す場面が多い。ましてや官房長官にまでなれば、それは最たる物だった。
実際にこの国の政治家は全員が清廉潔白では無い。一般的にはあまり知られていないが、時宗はある意味では今の内閣にとって伝家の宝刀に近い存在となっていた。
これまでに政敵や、敵対する人間を幾人も誅殺しているのは、一部の人間からはある意味有名だった。
実際に内閣を支えているのは総理では無い。
時宗の番記者が総理を超える数になっているのはそんな理由があった。
だからこそ、笑顔を見せる以上は何らかの対抗手段を既に持ち合わせている証拠でもある。
それを察したからこそ小太郎もまた、それ以上の事は何も言わなかった。
「上手く隠したつもりだったんだけどね。小太郎からすればそれ程でも無かったって事みたいだね」
「何を考えているのかは予測出来るが、それをどうするかは俺には関係の無い話だ。確実な情報は我々も収集している。後はお前が決める事だ」
朝食の席とは思えない程に寒々しい会話だった。
実際に時宗の子飼いとして風魔が存在する訳では無い。
歴史を遡れば確かに北条家との付き合いは長いが、実際にはそれ程蜜月な関係では無かった。
当主が無能であれば態々配下になる必要はない。実際に時宗の先代は風魔との付き合いは皆無に等しかった。
窮地の際には多少なりとも手は差し伸べるが、今代の時宗程では無い。
今の関係は純粋に時宗の人間性を小太郎が好ましく思っただけの話だった。
「少なくとも僕の仕事の邪魔にならないなら手は出さないつもりなんだよね。でもね……頭が悪い連中はこちらの事なんて最初から度外視しているから。少しはこっちの苦労を知ってほしい位だよ」
味噌汁を啜りながら時宗は今後の予定を考えていた。
実際に吸い上がってくる情報量は莫大な物となっている。官僚で吸収できる部分は丸投げだが、それでも尚高度な政治判断を求める際には時宗が判断する事も多かった。
官邸では現総理の月影漠牙は単なる神輿の扱いをしている者すら居る。
それは時宗の扱う量と速度が桁違いである事が原因だった。
普段は飄々としているが、頭は常に回転し続けている。その本質を正しく理解しているのは、小太郎を含めた風魔の上位の人間位だった。
「今の所はこちらも大きな依頼は無い。やるなら迅速に出来るぞ」
「有難いね。大局的には大きすぎる力は害悪にしかならないんだし、こちらの都合を無視するなら早々に退場してもらうだけさ」
まるで羽虫を潰すかの様に言う時宗の表情はやはり喜色が浮かんでいた。
実際に世界大戦に勝利してからの問題は根が深く、未だに続いている。
少なくとも魔導騎士の今の待遇がどうなのかを考えれば、この問題はある意味では避けて通れなかった。
しかし、この問題をクリア出来れば今後は何かとやりやすくなるのはある意味では当然の話だった。
ここには三人しか居ないからなのか、時宗もまた思った事をそのまま口にする。
この事実がもたらす結果がどうなるのかは、小太郎だけでなくその場に居た龍玄も大よそながらに予測出来ていた。
「あれ?ここに来るなんて珍しいね」
「偶にはここでも良いかと思いまして」
寮の食堂の中で一番混むのは朝食の時間だった。
夕食とは違い、朝食は始業の時間の兼ね合いもあって限定される。その為に自炊しない生徒でごったがえしていた。
普段であれば刀華も自炊するが、今日に限っては珍しく寝坊したからなのか、朝食の為に来ていた。
何時もと変わらないはずの光景にも拘わらず、食堂の中の雰囲気が僅かに変化している。
普段は見る機会が無いはずのカナタがここに居るからなのか、誰もが食事をしながらも遠巻きに刀華とカナタを眺めていた。
「あれ?何時もは確かカナタの同居人が作ってるんじゃなかった?」
「今朝は用事があるらしいので」
「あれ?カナちゃんも確か作れたんじゃ」
刀華の言葉に後から来た泡沫もまた同じ事を考えていた。
幾ら財閥の令嬢とは言え、寮生活をするにあたって最低限の家事は出来た記憶があった。
朝食に限った話ではなく、夕食もまた部屋で取る事が多く、寮生の殆どが意外にもカナタを見る機会は早々無かった。
そんなカナタが食堂に現れたからなのか、何時もよりも少しだけ空気がざわついていた。
「出来ますが、偶には食堂で食事をするのも良いかと思いましたので」
「なるほどね……偶には良いかもしれないね」
カナタの言葉に刀華は何となく察していた。刀華が知る中でカナタが料理をしているのを見た記憶は一度も無い。偏に龍玄の方が明らかに腕前が上である事が最大の要因。
それと同時にそれに慣れれば必然的に自分の力量が明確に出る。恐らくはそれが原因なんだと考えていた。
生徒会の三年が一つの集団となっている為に、自然とその周囲には溝が出来ていた。
実際に忌避感がある訳では無い。学内での序列の上位の人間が集まる為に遠慮していると言った方が正解だった。
「で、実際には調子はどう?」
「そうですね……今の所は問題無いですよ。ですが、私よりも刀華さんの方を気にされてはどうですか?」
折角だからと口を開いたのは泡沫だった。
予選会は既にそれなりに進んでいるからなのか、大よそながらでも出場できる人間の数は自然と絞られていた。
当初はブロックごとに始まった予選会は後半戦に突入した途端、苛烈なサバイバルへと変貌していた。
これまでに全勝の人間が少なからずいたが、既に全勝の人間は殆ど居ない。
少し前にあった刀華と珠雫の戦いもまたその渦中にあった結果だった。
それ以降、白星が先行している人間が一気にふるいにかけられている。その結果として、普段の授業は然程でも無いが、予選会の時間が近づくにつれ緊張感と共に殺伐とした空気が漂う事が増えていた。
本来であれば学園で止めるのが筋かもしれない。しかし、今回の様にしたのは学園の理事長でもまる黒乃だからか、異論は出なかった。
窮地における冷静さの育成と大義名分を掲げられた以上は文句は言えない。
ここで何か飛び出そう物ならば、自然と脱落したと思われるからだった。
成績の上位の人間はそれなりに矜持も持っている。実際に現時点で上位に食い込んでいる人間の殆どはランクがC級以上の人間だった。
そんな中でFランクの一輝やEランクの龍玄に負けた人間は最初こそ何かと言われはしたものの、今となってはそんな事を口にする人間は居なかった。一輝は未だ無敗のまま。龍玄に関しては出場さえすれば、負け無し所か瞬殺で終わらせている。そんな中で実力のある序列上位の人間がどうやって対処するのかは色々な意味で憶測を呼んでいた。
「私?私は今の所は問題ないよ。とは言っても、今後の対戦にもよるけど」
「へ~、そんな事言うなんて珍しいね。で、実際にはどうなの?」
「油断はできない。それだけですよ」
泡沫の言葉を交わしながら刀華はご飯を食べていた。
少なからずこの会話の流れを聞いていた一部の人間は何かをしているからなのか、晴れた表情と憂いた表情を浮かべている。そんな生徒を横目でみながらも泡沫は更に会話を続けていた。
「なるほどね。僕の目から見れば脅威になる人間が居る様にも見えるんだけど」
口調は穏やかだが、その目は真剣だった。実際に泡沫は刀華と同じ部屋だからこそ、その心情を理解している。
以前に生徒会に依頼された件で、泡沫は偶然にも一輝と話をした事があった。
穏やかな口調と性格ではあるが、その剣技は既に破軍の上位陣には引けを取らない程になっている。
昨年までの選抜方法であれば確実に弾かれるが、今年に関しては寧ろ一輝の方が圧倒的だった。
泡沫は剣技に関しては然程詳しい訳では無い。ただ、同じ施設の出身でもある刀華には勝って出場してほしいとの願いだけしかなかった。
今の所は無敗の人間は一番その場所に近いが、これまでの対戦と数字を見れば確実に一敗の人間も対象に入ってくる。
決して貶めるつもりは無いが、それでも身内には勝って欲しいと思う純粋な気持ちから確認したいだけだった。
「否定はしません。ですが……ランダムに決まる対戦相手ではどうしようも無いですから」
「それはそうだけどさ……」
これ以上は話の方向性が分かると思ったからなのか、泡沫もまたそれ以上は何も言わないままに食事を続けていた。
ささやかな一幕ではあるが、今後の事を考えると楽観視は出来ないままだった。
残された試合数はそれ程多く無い。ここから先の負けは脱落を意味するからなのか、無敗の刀華だけでなく一敗のカナタもまた同じ事を考えていた。
今の対戦は完全に相手を潰す事を優先している。教育の観点からすれば愚策の様にも思えるが、実際には逆境から這い上がる為にはどうすれば良いのかを判断する為だった。
幾ら自分が有利な立場に居たとしても、その状態がひっくり返されれば対策を考える必要が出てくる。
それだけではなく追われる側の心情も加味した上でのシステムの変更だった。
当初は刀華達も色々と思うと所があったが、一定以上の数字が出た事によって漸く変更した意味を理解していた。
刀華やカナタの様に序列が上位の人間はおぼろげながらに理解するが、それ以外の人間は何も分からない。今回意味を正しく理解すれば、学園が七星の頂きを本気で狙っている事が分かったのはつい最近の事だった。
「泡沫君。それ以上の事は刀華さんに言っても仕方の無い事です。それに、今の時点でも黒鉄君やヴァーミリオンさんが残っている。無警戒なはずがありませんので」
「何だか一人だけ美味しい所を持って行った様にも聞こえるんだけど……」
「それは違います。既に私も一敗まみれています。上位陣の事を考えるのは当然ですから」
泡沫とは違い、カナタは予選会に参加しているからなのか、その言葉には重みがあった。
泡沫は序列こそ上位だが、荒事は得意とはしていない。
今回の予選会に関しても参加ではなく観客としての立場に居る。
伐刀者は全員がプライドが高いとは言わないが、参加していない人間がこれ以上何かを言うのは野暮でしかない。泡沫もまた、そう判断したのか、沈黙していた。
何事に於いても凶事は人知れず忍び込む。
穏やかな空気を破壊するには余りにも唐突だった。
回避しようにも既に手段は失われている。それが意味するのは一つの混乱だった。
「あの………」
1-1のクラス内は重苦しい空気が漂っていた。
担任でもある折木有里は自分で出来る限りこの空気を払拭しようと考えたものの、一向に晴れる雰囲気は無かった。
本来であれば予選会も佳境に入り、同じクラスの黒鉄一輝とステラ・ヴァーミリオンが共に無敗のままで来ている為に盛り上がるのは当然だと思われていた。
しかし、そんな感情すらも最初から無いと言わんばかりに、教室の中はお通夜の様な空気が漂っていた。
「皆さんが色々と思う事は分かります。私もまた同じですから。ですが、その空気を肝心の黒鉄君が良しとするでしょうか?今出来るのは私達が平然としている事です」
「でもよ有里ちゃん………」
一輝と親しくしていた真鍋の言葉が事実上のクラスの総意だった。
それ以上は何も言わないが、その視線は本来居るべきはずの人間の席。
これまでの授業態度から無断欠席すら無いと思わる人物が居ない事に担任でもある有里もまた内心では溜息交じりだった。
「真鍋君。私達がここで何を言っても事態が変わる訳では無いんです。何時もと同じ様にしている事が周りにも良い意味でアピールできると思いますよ」
青白い顔は元々からの色なのか、それとも今回の事態が招いた結果なのか。激しく吐血しないだけマシではあるが、実際にはそれに近い物があった。
事態が急激に動いたのはつい先日。それはどこにでもあるスポーツ新聞の一面記事だった。
「全く……なんて事をしてくれるんだ」
「くーちゃんがそんなに苛立っても仕方ないさ。でも、随分と鮮明に写ってるね~」
理事長室では黒乃は件の新聞を目の前の机に叩きつけるかの様に投げ捨てていた。
記事の内容はどこにでもある三文記事。よくある熱愛のネタだった。
本来であれば男女の仲がどうなった程度の内容ではあったが、問題なのはその内容だった。
留学生でもあるステラと一輝が一緒になっている写真。それだけなら未だしも、問題なのはその場所だった。
二人が歩いている先にあるのはホテル街。二人の様子は写真を見れば関係性を疑う事は無いが、片や一国の皇女。
一輝に関しても、国内では有数の家でもある黒鉄家。誰がどう見ても特大の醜聞だった。
肝心の記事もまたステラの事には一切触れず、ただ只管一輝の人間性だけが悪辣に載せられていた。これが学園でも一年であれば一輝の人間性だけでなく、ステラとの関係も何となく察しているからなのか、記事の内容を信用する人間は居なかった。
しかし、人間性を良く知らない側からすればそれはある意味では一つの事実。
幾ら違うと訴えた所でそれを否定出来るだけの材料は持ち合わせていなかった。
当然ながら破軍学園に在学している事実は、ステラが来た当初にニュースとなって知られている。黒乃まで直接話しが来る事は無いが、事務職の人間はその記事に関する電話対応に追われていた。
「こんな時まで茶化すな。お前じゃあるまいし」
「それ、ちょっと酷くない?私ならもっと上手くやるよ」
「そんな事を言いたいんじゃない」
「わーってるって」
黒乃の言葉に寧音もた茶化す事によって場を和ませようとしたものの、結果は失敗に終わっていた。
実際にこの記事が出たのはつい先日。何時もであれば胡散臭いと思われるスポーツ新聞の見出しにはこれでもかと記載されていた。
事実無根な事は黒乃だけでなく寧音も理解している。少なくともこの大事な予選会の最中にそんな事をする人間ではない事が間違い無いのは折紙付きだった。
寮生とは言え、生活を完全に把握する事は不可能に近い。
これが一輝ではなく他の生徒であれば黒乃も調査をするが、一輝に関しては自身の置かれている立場を考えるとそんな愚かな事をするはずがないと考えていた。
仮にこの写真が捏造だったとしても、既に一般にも流通している。
幾ら何を言おうが、世間の目に晒された時点で黒乃が何とかする事は不可能だった。
「でもさ、ちょっとあいつらの行動も早すぎたんじゃない?」
「ああ。あの糞狸なら簡単にやるかもな」
「でも、普通はここまではしないんじゃない?」
「そんな事は知らん。だが、あの態度を見れば疑うのではなく、間違い無く実行の側だな。あんな醜悪な顔を直視しなければならないのは業腹だがな」
当時の事を思い出したのか、黒乃は苦々しい表情を浮かべると同時に、あまりにも早すぎる動きに裏があると考えていた。
本来ならば、記事が出てから少なくと一両日はかかるはずの動きが、まるで予見したかの様に世間に出た瞬間、倫理委員会が動いている。
幾ら黒乃が抗弁しようにも、手続きとそれを説き伏せるには時間も材料も無さ過ぎた。
突然の事態に学園が騒がしくなったが、結果的には一輝が大人しくしたがった事によって何とか鎮静化を図っていた。
改めて思い出すだけではらわたが煮えくりかえる。悪態をつきたいが、今はそんな事をした所で事態が好転するとは思えなかった。
「イッキ………」
休み時間になってもステラの周りに人が集まる事は無かった。
渦中の人物であると同時に、実際に何を言えば良いのかが分からないのが本当の部分だった。
醜聞によって世間がどんな目で見るのかは考えるまでも無い。
問題なのは、その記事の根拠となった写真だった。
鮮明に写ってはいるものの、そんな場所に足を運んだ事は一度も無い。捏造であるのは間違いないが、ステラは当事者。
幾ら何を言おうともそれをそのまま信じるはずがなかった。
実際に現時点でステラにも自国の大使館から連絡が入っている。
事実無根である事は大使館の人間も信じたが、それがそのまま世間が納得する要因ではない事に違いは無かった。
時間だけが悪戯に過ぎ去っていく。今のステラの心情を無視するかの様に生徒手帳は小さなアラームが鳴っていた。