投獄されたルシウス・マルフォイに代わって、息子のドラコ・マルフォイが死喰い人になったのだというハリーの説は、一旦留保とされた。
騎士団員であるセドリックも現場に居合わせたのだとはいえ、店の中での会話は聞いておらず、天井裏から様子を見たという忍者もマルフォイが店主に向かって袖をめくってみせた姿を見ただけで、そこにある『闇の印』をしかと目にしたわけでも無い。そんな状況では、表立って騎士団を動かす事は不可能との見解だった。
三郎のお陰でマルフォイがその店を訪れた理由である『修理品』がキャビネットだということは断定できたが、それがどんな役割をするのかを聞いたわけでもない。この時点で騎士団には、そのような危険物が過去にあったかを調べる事が関の山だった。
「でも……絶対に、絶対にあいつがそうなんだよ!」
ハリーは親友達やその両親、名付け親とその親友にも説いたが疑惑は疑惑のまま、ついに学生達がホグワーツに戻る日となった。ブラックは疑いに意気巻く息子を送り出すのが心配で、ダンブルドアの言いつけを破り、黒い大型犬の姿で九と四分の三番線まで彼らを見送りに行った。
学生達を乗せて走り出したホグワーツ特急の後ろ姿が見えなくなると、モリー・ウィーズリーはそわそわとした様子でみんなに言った。「さあさ、帰りましょうか」
人目に付く場所への外出禁止の言いつけを破ったのは他でもないシリウス・ブラック本人だったが、保護者として彼の安全を確保するのは自分の勤めだと彼女は思っているらしい。犯罪者の汚名を着せられたままのブラックだったが、六男一女を育て上げた母からすれば、ただ大きすぎるだけの子供だ。
彼女の自慢の長男ビル・ウィーズリー、犬の姿のシリウス・ブラックと、セドリック・ディゴリー、上野三郎の四人は、同意をして踵を返す。『愛犬を連れて見送りに来た家族』を装ってマグル式で『隠れ穴』へ帰ることにした。
ホームを出ようとした、その時。
「セド! 待ちなさい!」
思っても見ない方向から呼びかけられたセドリックと、四人が足を止めて振り返る。彼らに早足で歩み寄ってきたのは、エイモス・ディゴリーとその夫人だった。
「父さん、母さん! どうして……」
もう息子の見送りなどしなくていいはずの二人がここにいる事に驚いた彼は、次の瞬間に父に肩を強く掴まれた。
「あの日本人娘と結婚なぞ、許さんぞ!」
エイモスの言にビルはセドリックの後ろで口笛を吹き、その母は開いた口に手を添える。黒い大型犬は面白そうな展開に舌を出して、立派な尻尾を左右に振った。
当のセドリックはうんざりという顔をして、父の手をそっと払う。
「……父さん。その話なら夕べ――」
「終わっとらん!」
エイモスが声高に言った言葉がホームに響き、まだ構内に残っていた人が不思議そうにこちらを見る。犬の姿とはいえシリウスが注目を引くのを良しとしないモリーは、「エイモス、おちついて」と割って入った。
「続きはみんな、うちに帰ってからゆっくり腹を割って話しましょう。セドリックも、省に戻るのが遅くなるだろうけど、それでもいい?」
問われた青年は「すみません……」と答えて頭を抱える。そして額に添えた指の隙間から父の顔を見、「それにしても、父さんも母さんもどうしてここにいるの?」と問うた。「父さん、今朝一緒に家を出たじゃないか」
愛息子の問いかけに、エイモスは堂々と「朝一番に有休を申請した!」と答えた。
「家族の一大事など、仕事の片手間に片付けられる問題では無いからな! 今日はとことん話し合うぞ、セド!」
息子はその場で長い長いため息を吐くと、ウィーズリー母子と犬を先に行かせてから、「ついてきて……」と肩を落として両親の案内を始めた。
*
「ハッぐじゅ!」
依然としてどこか分からない地下牢の中で、オーシャンは一つくしゃみをして肩を抱いた。
ここの所、石壁に囲まれた地下牢の中は冷え込む事が多くなってきた。体感では冬にはまだ早いと思うが、何週間も文字通り日の目を見ていない体の感覚では、信用する事は出来ない。もしかすると、とっくにハロウィーンの時季だったりするのかもしれない。
「……もう。何で私、いつまでもこんな所にいるのかしら?」
ともすれば、もうとっくに新しい学期は始まっているだろうか――そう思いつつ独り言ちると、階段からねっとりした声が返ってきた。
「それは、君がナギニに蛇語を使ったからだろう」
久しぶりに顔を見せた返答の主は、いつものように無愛想に足音を響かせて下りてきた。今日は小鼠よりお早いお越しだ。
「あら、スネイプ先生、ご無沙汰ね。すっかり忘れられちゃったかと思ったわ」
「そうしたい所ではあったのだがな」
また可愛くない事を言って、地下に下り立ったスネイプは、すぐ横の壁に腕を組んでもたれかかってこちらを見た。オーシャンは、ゆったりと座り直して質問する。
「どういう事? ここは死喰い人の本拠地なのだし、あの蛇に話しかけるくらい、誰でもするでしょう?」
「我が君を『闇の帝王』とすれば、ナギニはさしずめ『女帝』……。主に気安く話しかける臣下がどこにいると思う。身の程を知れ」
「なんだ、そういうこと。貴方達って、自分たちの事をご大層に『死喰い人』とか言いながら、蛇語も満足に操れないのね」
挑発のつもりで言ったオーシャンだったが、意外にもスネイプは口の端を上げるだけに留めた。その真意は読めないが、肯定と受け取って良いらしい。
「ナギニは君の命令には従わなかったが、一度戸惑う様子を見せた。君をナギニに近づけるのは得策では無いと、我が君はお考えなのだろう」
「そんなに大事なペットなら、大切にトランクにでもしまい込んでおけばいいのよ」
不機嫌に返して、オーシャンは憎々しげに舌を打つ。
それは先日のこと。もうどれくらい時間が経ったかは分からないある日突然、牢を出て階段を上がる様に指示があった。小鼠、もといピーター・ペティグリューに案内された部屋に入ると、埃っぽいテーブルクロスに並んだ怪しげな料理と共に、憎き蛇顔、ヴォルデモートが待っていた。
「歓迎が遅くなって、すまなかったな。ウミ・ウエノよ。さあ、席に着き給え。ささやかながら、宴席を設けさせてもらった」
カーテンが全て閉め切られた陰気くさい部屋で、ヴォルデモートは言った。並んだ料理は普通のものの様だったが、ろくに磨かれていない食器に乗った冷めた料理の数々は、オーシャンの食欲を刺激しなかった。
「あら、私の知っているおもてなしとは、随分違う様ね。ホグワーツではボーバトンの歓迎の際に、彼らの郷土料理を振る舞ったものだけれど」
「せっかくの歓待の席に文句を付けるのは、日本の礼儀なのかね? いいから、座るのだ」
ヴォルデモートが言うと、オーシャンの目の前の椅子がガタンと音を立てて引かれ、彼女の襟首が見えない力に引き寄せられた。着席させられた彼女が抵抗するまでも無く、椅子はグイと元の位置へ戻る。
「さあ、楽しもうではないか」
ヴォルデモートが言った。どういう風の吹き回しなのか、その人離れしたのっぺりとした蛇顔からは、全く読み取れない。
毒を警戒するオーシャンの考えを見透かしたヴォルデモートは、「毒など入っていない。安心すると良い」と言って優雅に食事を始める。それでも尚、迷っていると、見えない腕が今度はオーシャンの頭にかかり、派手な音を立ててテーブルに無理矢理押しつけられた。冷えた肉の脂が顔に貼り付き、胸で何かしらの野菜を押し潰す。
理不尽に対する怒りと嫌悪感がふつふつと沸き上がり、オーシャンは頭を押さえつけられたまま、なんとか藻掻いてテーブルの向こうを見る。憎き蛇顔はこちらを一瞥する事も無く、萎びた野菜のサラダを口に運んでいた。
やめて、と嫌がるのは相手の思うつぼになる気がして癪に障る。オーシャンはそのまま、冷えた肉にかぶりついた。すると、蛇顔の目がようやく上がる。
「ああ、黄色い猿とはよく言ったものだな。杖を操る事が出来ても、ナイフとフォークさえまともに操れないとは、哀れにも程がある」
そう、侮蔑に歪んだ瞳を見せるヴォルデモートが言うと、ふとオーシャンの頭を押さえつけていた『腕』が消えた。彼女は身を起こしながら、かぶりついた肉の塊を左手に持って引きちぎる。咀嚼し、顔についた汚れを乱暴に拭いつつ、陰湿に楽しそうな顔を見せる蛇顔を睨み付けていると、胸に貼り付いた料理の残骸が、ポロポロと膝の上に落ちた。
「歓待という割には、酷い仕打ちね。せっかくのお料理が台無し」
冷えた肉を飲み下して言ったオーシャンは、荒れてしまったテーブルからナイフとフォークを探しだす。手近の皿を取り寄せ、上に乗っていた煮こごりのような食べ物にナイフを入れた。
長テーブルの対岸に座ったヴォルデモートは、ワイングラスを傾けた。中では血のような深紅の飲み物が揺れている。
「そうかね。俺様の『お願い』に応えない日本人様には、悪くないもてなしだと思ったんだが」
『お願い』とは、日本の秘術がどうたらとかいう話の事だろう。醜悪に上がる彼の口の端に、オーシャンは澄まして返した。
「そうね。『お願い』の仕方は文化によって違うもの。貴方達の『お願い』が、私に理解できなくても、仕方の無い事だわ」
グラスの水で唇を湿らせていると、ズルズルと何かが這う音が耳に届いた。グラスを置くと、テーブルの縁に大きな蛇の顔が現れる。ヴォルデモートが、軽い口調で言った。「ああ。ナギニも君に挨拶をしたいそうだ」
ナギニと呼ばれた大蛇はテーブルに並ぶ料理を引き換えにして、長い体のほとんどをそこに引き上げた。ズルズルと近づいてくるその顔がオーシャンにはまるで、ごちそうを前にして舌なめずりをしている様に見えた。
鎌首を彼女の顔と同じ高さに持ち上げた蛇は、舌先をちろちろと出しながらじりじりとゆっくりその距離を詰めている。まるで『ほら、恐怖しなさい』とからかわれている様な状況で、彼女は蛇の黄色い瞳を冷ややかに見下ろして口を開いた。
「触るな、下郎」
発せられたその命令を聞いて、蛇は途端に舌を収めて鎌首を引き、戸惑う様子を見せる。テーブルの向こうでそのやりとりを目にしたヴォルデモートの眉間が、嫌悪に歪んだ。
「ナギニ」
静かな声で呼ばれた蛇は、主人を振り向きその足下に引き返す。愛蛇を迎えた主人は、オーシャンを睨み付けながら「ワームテール!」と呼ばわった。ほどなくして、今までどこにいたのだろうか、おどおどした様子のピーター・ペティグリューがすっ飛んできた。
「はっ、はい、お呼びで……我が――」
「客人はお部屋へお帰りだ。ご案内を」
結局何の気まぐれなのかも、何の目的があったのかも分からぬまま、蛇顔はオーシャンを再び地下牢に幽閉した。一連の出来事を思い出すと、あまりの傍若無人っぷりに腹が立ってくる。思わず、その苛立ちを今目の前にいる手頃な人間にぶつける。
「ったく、なんなのよ、あのきかん坊は! アンタ達のお山の大将はどういう神経してんの!?」
「何があったかは知らんが、その場所が気にくわないのであれば、さっさと我が君の願いを叶える事だな」
スネイプは口の端を上げて、ニヤリと笑う。オーシャンは苛立ちに声を荒げた。
「だから、秘術なんて無いって言ってるでしょう!? 耳の穴詰まってんじゃ無いの!?」
「おやおや、いつもの鼻につくすまし顔はどうした? 今日は随分と、精彩を欠いているな」
その憎らしい言葉に、思わず舌を鳴らしたが、スネイプは聞かなかったフリをした。「――それにしても、よくもまぁ、大人しくまたこの牢の中に帰ってきたものだ。貴様の事だから、てっきりホグワーツで使った『悪戯』をするかと思ったのだがな」
「はぁ? 一体何の……」
質問をしかけて、はたと気付いた。ホグワーツで、オーシャンがスネイプに見抜かれた唯一の悪戯――『隠れ蓑術』。
「他の者ならともかく、愚鈍なペティグリューごときであれば、あの『悪戯』で十分騙し通せただろうに」
――『隠れ蓑術』を使っての脱走を提案している? 何故突然……いや、そんな事よりも――
「待って。貴方……私の『忍術』を、誰にも明かしてないの……?」
魔法省でのいざこざで、一部の死喰い人はオーシャンの身体能力を目の当たりにしている。それでも、彼らの前で『隠れ蓑術』を使う機会は無かった。杖や忍具が奪われた今となっては、隠しおおせている唯一の一手だと言っても良い。
しかしそれも、スネイプが敵方にいる事で、そちらに伝わっているものだと思い込んでいた。彼がそれを、敵方に明かさない理由は? もしかして、逃がしてくれる気はあるのか?
「……貴方は、『死喰い人』なの……?」
眉根を寄せるオーシャンに、スネイプはいつもの眼差しを見せる。見えない。この男の、本性が――本心が。
彼は何の気もなしに、懐中時計を取り出してチラリと目を落とし、またすぐに懐へ戻す。そしていつものように、マントを翻して背中を見せた。
「……例によって、四つ目の質問だな。我が輩はそろそろお暇しよう」
「ちょっと……!」
オーシャンが止める間もなく不機嫌な靴音は遠ざかって、上階の扉を通ってガチャリと閉まった。