英語ができない魔法使い   作:おべん・チャラー

67 / 98
66話

 これはどういうことだろう。

 いつもであれば、物理的(あるいは精神的)ショックから時間が経てば、言葉の能力は復活している。

 だというのに、次の朝目覚めても、先生や生徒達の話す言語は相変わらず英語に聞こえた。

 ねちっこい話し方をする魔法薬学の授業のスネイプ先生の授業なんて、更に困難な言葉で話している様に聞こえた。今回の授業で作る魔法薬は教科書のページを示されて理解したが、先生が今何を懇切丁寧に説明しているのかが分からない。

 ―困ったわね…。そう思っていると、ようやく開始の合図を出されて、周りの生徒達が一斉に作業に取りかかり始めた。

 オーシャンは、手を進めながら昨晩の事を思い返す。

 

 

 

 ハリーと一緒にアンブリッジの部屋に到着して、言葉が聞き取れていない事に気づいた。

 すぐに、原因に思い当たった。大広間でアンジェリーナを泣かせてしまった事、それしかない。

 確かにあのときは確かに心の臓が早鐘を打ったし、血の気が引いて一瞬パニックになってしまい、こちらに来てくれたフレッドとジョージの言葉を聞き取ることができなかった。

 

 しかし、あれから四階までの距離を歩いているし、脈拍はすでに正常に戻っている。

 いつもであれば五分程度の時間で言葉は通じる様になっているはずなのだ。

 

 ハリーは心配している風な表情を見せた時、アンブリッジがにたり笑いで何かを訊いてきた。

 アンブリッジの言っている言葉は理解できないが、「大丈夫?」と確認してきたのだと思うことにする。どちらにせよ、このままの状態で罰則など受けて大丈夫なのだろうか?

 

 「…先生、私は今、言葉の能力が機能していません。先生のおっしゃっている事の意味が、わかりません」

 

 努めて冷静にオーシャンは言ったが、その言葉を聞いて先生は顔をしかめて首を振った。隣を見ると、ハリーの口がぽかんと開いていた。彼に身振り手振り交えて「通じてる?」と聞いたが、返ってきたのは動揺して早口になった英文だ。

 

 程なくして、オーシャンが今英語を話せないし、聞き取れない状態だということは、二人に伝わった様だった。本人としてはこれでは罰則どころではないので、早々にこの部屋を辞したい所だったが、アンブリッジは事態を理解したところで、にたり笑いを深くするだけだった。

 

 アンブリッジの仕事机の隣に、授業用の机と椅子が二つ設えられていた。アンブリッジに勧められたので、ハリーがオーシャンの為に椅子を引いてくれた。訳の分からぬままに礼を言って、着席した。

 

 アンブリッジが二人に向かって猫なで声で喋り出したが、オーシャンには意味を理解する事が出来ない。目がほとんど点になっているオーシャンに気づいて、アンブリッジがやりづらいとでも言う様に露骨に眉をひそめた。

 

 咳払いを一つすると、アンブリッジは今度はハリーだけに喋りかけた。彼女が杖をついと振ると、二人の机の上に羊皮紙が現れた。

 ハリーが鞄に手をかけようとすると、アンブリッジは甘ったるい声で否定して、自分の羽ペンを差し出した。

 

 ハリーが差し出された羽ペンを構えて紙に向かうと、アンブリッジは再びこちらを向いた。そして、身振りを交えて殊更ゆっくりと、短くこう言った。

 「write,penalty.」

 どうやら罰は『書く作業』である様だが、何を書けばいいのか?見たところ、与えられた羊皮紙の長さはレポート様だ。反省文を書くのだとしたら、夜が明けてしまう。

 

 オーシャンが心配していると、アンブリッジが小さな羊皮紙をオーシャンの机に置いた。「I must not go against.」と書いてある。なおも首を傾げるオーシャンに、アンブリッジが何か言おうとすると、隣でハリーが小さく悲鳴を上げた。

 

 「どうしたの、ハリー?」

 にたにた笑っているアンブリッジと一緒にそちらを向いたが、ハリーはこちらに首を振って書き取り罰に戻っていった。

 アンブリッジがこちらの説明に戻る。どうやら、先ほどの文をこの羊皮紙に何回でも書け、という事らしい。何回書けば解き放たれるのか疑問に思ったが、意思疎通するにはどのように尋ねればいいか、分からなかった。

 

 オーシャンもハリーと同じ羽ペンを与えられた。最初の文字を書くと、ペンを持つ右手の甲に痛みが走った。針で突かれた様な、蟻にでも食われた様な鋭い痛みだ。

 声を上げそうになったところで、ハリーが先ほど悲鳴を上げた理由はこれか、と思い当たった。

 羊皮紙に自分が書いた文字が、その手の甲に切り傷として刻まれていった。

 すぐに傷口は塞がっていくが、こんなやり方は体罰であり、許されるべきではない。

 

 ハリーの方を見たが、彼は何も言わずに作業を続けていた。時折、文字を書いているその手が痛みに引きつっている。オーシャンがアンブリッジに非難の視線を向けるのを察知して、彼は彼女に呼びかけた。

 「ocean.」

 ハリーは小さく首を横に振る。その目が物語っていた。「僕は負けない」

 

 オーシャンのペンが進んでいないのに気づいたアンブリッジが、いやらしい声色で何か問いかけてきた。無視してペンを進めると、彼女のがま口が満足げににんまりした。

 アンブリッジはおろかハリーとも簡単に意思疎通ができないこの状況では不用意に動けない。オーシャンは、この地獄の時間が早く終わる様に願った。自分の言葉が他者を傷つけ、隣の席では守るべき後輩が傷つけられたこの日が早く終われば。

 

 

 何時間ほど同じ文言を書き続けただろうか。書き続けている内に、オーシャンは自分が「私は逆らってはいけない」と書かされている事に気がついた。言葉は呪いのように手の甲へ染みついていく。そこに切り傷は無かったが、赤いミミズ腫れが文字を形成していた。

 ふいに隣でアンブリッジがハリーの手をとり、その手の甲を見て、軽く舌打ちした。続けてオーシャンにも同じように、同じ反応を返す。

 

 「今日は終わり。明日また同じ時間に、ここへ」そんな様な意味の英語をアンブリッジが言い、ハリーと一緒に部屋を出た。談話室まで帰る道中、二人とも一言も話さなかった。

 ハリーが『太った婦人』に告げた合い言葉は、やはり英語だった。

 

 

 いつもより時間がかかっているが、朝を迎えれば英語の能力は戻っているはずだと眠りについたオーシャンだったが、結局ダメだった。重苦しい気分でベッドから起き上がったオーシャンは一人で黙々と身支度をして、朝食に降りていった。同室のアンジェリーナはすでに寝室にはいなかった。

 

 朝食の席ではこの事実を真っ先にマクゴナガル先生に告げた。言っている事を理解して貰うのに、さほど時間はかからなかった。何しろ、オーシャンは日本語しか喋っていないし、先生からすると話が全くかみ合ってないのである。

 すぐにこの事実は先生達に知れ渡り、ついでに学校中にも知れ渡った。フリットウィック先生は驚いて椅子から転げ落ちたし、スネイプ先生は面倒くさそうに顔を歪ませた。にんまりと顔色を崩さないのは、アンブリッジだけだった。

 

 

 

 「ueno.」

 イライラとした声に呼びかけられて、ハッとする。背後に気づくと背後にスネイプ先生が立っていた。自分の手元は、材料を刻んでいる途中でこれ見よがしに止まっていて、先生の目が軽蔑にも似たまなざしに染まっていた。

 

 先生には何も言われずに済んだが、(先生は何か言いかけたが、口を開くのを辞めて踵を返した。意味が通じないのでは言っても無駄だと思い直したらしい)そのクラスの成績は惨憺たるものとして終わった。鍋の底が見えるくらいに澄んだ色をする予定だった薬は、オーシャンがかき混ぜる度に形容しがたい色に変わっていった。

 おまけに粘度や臭気も恐るべきものだったので、完成した薬はスネイプ先生の目にとまるやいなや、その杖の一振りで跡形も無く消し去られた。

 

 

 次のクラスは魔法生物飼育学だった。森の端に向かいながら、オーシャンはため息を吐く。後ろから赤毛の双子が現れて、気遣わしげな空元気を見せたが、その心は晴れなかった。数メートル先をアリシアと歩いているアンジェリーナの後ろ姿を見て、またため息を吐いた。

 

 何にしろ、アリシアやケイティが彼女のそばにいてくれて助かった。見かけには、アンジェリーナは仲の良い友人達といつも通りに過ごしているように見える。少し堅く見えるが、笑顔も見られない訳では無い。ただ彼女の隣に、自分がいないというだけの話だ。

 

 「Ah…ocean?」

 フレッドが恐る恐る、といった形でオーシャンに声をかけた。

 「!」それを彼女は無言で、彼の口を塞ぐ、という行動で遮る。アンジェリーナの耳に、少しでも自分の名前を入れたくないのだ。

 

 

 朝食の時、英語が利けなくなった事をマクゴナガル先生に報告した直後、いつものグリフィンドールのテーブルに仲間達の姿を見つけた。

 そこには先に寝室を出ていたアンジェリーナの姿もあった。オーシャンは昨日の事を謝りたいとそちらに足を向けたが、同時に今までに感じたことの無い恐怖も感じていた。

 それはアンジェリーナと距離が近づくにつれて大きくなり、オーシャンを支配する。

 ―謝った所で、もしも全てが遅かったら?もしも、決定的な拒絶をされてしまったら?

 

 恐怖に支配され、オーシャンはアンジェリーナの背後を何事も無かったかの様に通り過ぎた。そして下級生達が固まっているすぐそばの席で、一人食事を取り始める。オーシャンのその様子を、仲間達みんなが気づいていた。

 

 

 

 

 魔法生物のクラスが終わった後の昼食も、同じようなものだった。周囲で飛び交う英会話を聞き流しながら、オーシャンはもくもくとパンを咀嚼していた。

 双子のウィーズリーに一緒に食事を取らないかと誘われたが(多分)、丁重にお断りした。しばらくはオーシャンより、傷ついているであろうアンジェリーナのそばにいてやってほしい。

 

 それにしても、ここまで長いこと言葉が不便になる事が久しぶりで、そういえば留学してきた当初もこんな気持ちだったな、と再確認した。

 尤も、あの頃はアンジェリーナや双子達が率先して、言葉が不自由なオーシャンによくしてくれた。今となっては、恩を仇で返す様な真似をしている。そんな自分が情けない。

  

 大きなため息を吐いたときに背後から声をかけられた。誰かと思って振り向くと、そこにセドリックが立っている。

 「あら、ディゴリー―」

 何の用?と、つい日本語で尋ねそうになって慌てて口をつぐんだ。セドリックはオーシャンのそんな様子を見て、少し、眉尻を下げた。

 彼は少し考えた末に、ドアを示して「OK?」と訊いた。どうやら、少し話したい、ということらしい。

 

 

 広間から少しの食べ物を持ち出した彼らは、校庭にある木の根元に座り込んだ。そこから遠目に、青い空を映している湖が見える。

 少しの間、二人は互いに話さず景色を眺めて食事をした。セドリックがどういうわけでオーシャンを誘ったのかが気になるが、彼女にはそれをどう言葉にして表せばいいのかがわからない。

 

 何の動きも無いままサンドイッチを食べ終えた。セドリックはまだ何も言わない。言ったところで伝わらないからと躊躇しているのだろうか。ではなぜ、こんな所に誘ったのだろう。

 考えても答えは出なく、オーシャンは脚を投げ出して後ろに両手をついた。そよ、と優しい風が吹いて彼女の髪を撫でる。良い天気だった。

 

 気がつくと鬱々とした気分が消えていた。慣れた学び舎だが、急に出来た言葉の隔たりが、オーシャンの気分を陰鬱にしていた様だ。もしかしたらセドリックは、これを目的に外に連れ出してくれたのか?―そう思ったとき、彼が出し抜けに、懐からきれいに折りたたんである羊皮紙を取り出し、差し出した。読め、という事か?

 

 オーシャンが手紙を開けると、そこにはたどたどしい日本語で「いつもたすけます」とだけ書かれていた。どこで学んだのかは分からないが、彼が初めて書いたひらがなは温かく、一生懸命で、ペンのひっかかりが至る所にあった。

 不器用なその字を撫でつけながると、セドリックのその気持ちが伝わってくる様だった。―いつでも力になる、と。

 

 少し、目頭が熱くなった。

 「ありがとう、ディゴリ―。thank you.」

 オーシャンが微笑むと、ディゴリ―の顔が赤く染まった。

 

 

 

 

 

 

 その夜も、その次の夜もハリーと共に罰則に臨んだ。相変わらず二人の発する言葉を理解する事はできなかったし、こちらの言葉も通じなかったが、校庭でセドリック過ごしたわずかな時間をきっかけに、オーシャンの中で何かが吹っ切れた様だった。

 

 

 最初の夜と同じく、アンブリッジは二人に席を勧めて書き取り罰をさせた。その文言も前回と同じで、用意されていたペンも全く同じだった。

 羊皮紙に「私は逆らってはいけない」と書き続けていると、手の甲が鈍く痛み出した。冷静に観察した所どうやらこのペンはインクではなく、所有者の血液を吸い取って文字を書く代物らしいのだが、ペンの魔法で自分の手の甲に書かれた筆跡が、手の甲の皮膚を引き裂いていた。

 

 チラリとハリーを覗うと、彼の右手も悲惨なことになっている様だった。更に書き続けると、傷口を直接痛みが襲う。

 罰則が終わった後、オーシャンは癒やしの術をかけようか身振り手振りでハリーに申し出たが、やんわりと断られた。返答する彼の目が「これは僕とあの女の戦いだ」と言っている様な気がした。代わりに痛みが軽くなるまじないをかけさせてもらう。

 

 朝になってハーマイオニーがハリーの右手に気づき、ロンも交えて三人で何事か言い合っていた。二人ともハリーの身を案じている様だが、あの女にひれ伏してたまるかというハリーの意思は揺らがない。

 オーシャンの方にも双子がすっ飛んできて、右手を捕まれてそこに刻みつけられた文字について問いただされた。何を言っているかは理解できないが、酷い悪態を吐いている事だけは分かる。

 言葉が通じない状態では上手く説明も出来ないし、言ったところでどうとなるものでも無かったので、オーシャンはハリーに倣って、双子に向かって人差し指を唇に当てて見せた。

 その出来事をアンジェリーナが見ていた事に、オーシャンは気づかなかった。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。