ーーズチッャァァ!!
盛大な破砕音と共に人体のどこかが砕かれたのを感じた。凶器そのものといっても決して過言ではないソレによって体を貫かれた人間ーー
「あはひひひひ!ねぇねぇおねぇさん!あなたのお腹はおいしいのぉぉ!?」
ーおいしくなんかないに決まってるでしょ!
正直こんな目に遭う原因の8割はあの胡散臭い男のせいだと言えるけど残り2割くらいは間違いなく彼女自身にある。
喰種を取り締まる法律は幾つもあるし《CCG》と呼ばれる対喰種組織があるお陰で一般人がいつも怯えながら生活するなんて事はほぼない。大抵の人は喰種という災害は自分の前には来ない、という何の根拠もない憶測と願望を胸にしている。喰種捜査官という警察とはまた別に権限を持つ彼らが文字どおり《狩っている》からこその安寧なわけだ。
ただ平和ボケとでも言うのか、彼らが狩ってくれている状況が普通であると思うだけならまだしも、それが完全に保たれた不変の状態である事こそが当たり前と思ったら終わりなのだ。なんでもそうだが、特にこの弱肉強食世界で生きていくなら己の身は己で守るべきなのだ。そこから先、自分の力が届かなくなった時にこそ彼らのような力を要求すればいい。
なにも身体を鍛えろとかそんなことを言ってるのではなく、最低限のラインを自分に課して守ればいいだけの話だ。この場合でいくと彼女はこんな薄暗い裏路地を通るべきじゃなかったし、まず夜の12時に不用心に出歩いている時点で襲って下さいと言ってるようなものだ。
実際彼女もそういう点については気をつけていた。彼女の家族にまつわるある事件以降、彼女も彼女の家族も全員あらゆる事に気を配っていた時期がある。その名残で余程でなければ危険な事はしないようにしていた。加えて喰種という存在そのものを嫌悪していた。彼女の持論としては自分が最も嫌うものを最もよく観察するべし、とある。その結果として喰種がヒトを食べるのは大抵夜、もしくは人通りが極端に少なくて死角の多い場所だと判断していた。
まさしくこのような場所こそ奴らにとっては絶好の狩り場であり捕食のしやすい環境というわけである。
用心深い彼女がここに来ていたのは、さっきも少し触れていたが《とある知人》との待ち合わせ中だったからだ。その知人とはこれまた個人的な相談を持ちかけていて、予定では今日この場でその報告を聞くことになっていた。蓋を開けてみると知人はおらず代わりに痩せて苛立っている喰種が1匹いるだけだったし、今現在はもう今日でなく昨日になっているが。
とにもかくにも、この危機的状況から抜け出す方法が思いつかないのではどうにも出来ない。ずっと走っているわけにもいかないし、さっき抉られたお腹がズキズキと痛んでいるし、大体今日はまともに寝れてなかったからか頭がぼんやりしてきてるし。
ーくそっ!ほんとにツイてないわね!
「おねぇぇさんんんん、息あがっちゃったねぇえ?もういいのかなぁ?おいかけっこはおしまいなのぉお?」
「ハァハァハァ‥…‥…‥…いいえ、もう少しだけ続けてあげるわ」
こんなところで諦めるのは私の本意ではない。腹の傷も音から察するに致命傷かと思い込んでいたがそこまでではないらしい。無論抉られている時点でかなりの激痛が身体を襲って然るべきなのだが、脳内麻薬が大量に分泌されてるのせいかあまり痛みを感じない。血も致死量ほど外には出ていない。放っとけば死ぬのは同じだろうけど。
それに一応勝機もある。実は今日会う予定だった《とある知人》が敵対した、もしくは私の意に沿ぐわない行動を起こしたときの為にトラップを用意してあった。ただそれを対象にしていたのが人間である以上、この驚異的な回復力をもつ喰類に果たして有効なのかどうかという点についてはこの際無視だ。そんなこと気にしてたら幾つ命があったって足らない。武器が全くないこの状況に比べたら遥かにマシというものだろう。
そうと決まればさっさと移動するに越したことはない。決断してから数秒で足の向きを変えてUターンする。急激な方向転換についてこれずにつんのめった喰種に蹴りを入れてから、近くに落ちてあった鉄パイプで思いきり頭を殴り付ける。
普通の人間が相手であれば過剰防衛でお縄に頂戴されるところだが、喰種が相手ならば話はまるきり違ってくる。例えば喰種が自信の赫子を発現させた場合、その個人のもつあらゆる権利は剥奪される。つまり《人》という扱いを受けられない《動物》になるということだ。他にも喰種特別対策法と総称される法律やその自治体特有の条例などもあり、様々な形で喰種は追い詰められるようになっている。
しかし鉄パイプだけで殺せるとは微塵も思っていなかったが、まさかパイプの方が折れてしまうとは思いもしなかった。喰種の身体は頑丈にできているのでそう簡単にケガを負わない、とは聞いていたもののまさかここまでとは。思わず笑ってしまいそうになるくらい折れるというよりはむしろひしゃげていた。もしかしたらこのパイプは私の少し先の未来かもしれないと思うと泣けてくるが、しかしもう賽はなげられたのだ。やりきるしかない。ただこれでは怒りを買っただけかもしれない、と弱冠後悔し始めていたのだがどうも追いかけてくる気配がない。この機に仕掛けのとこまで突っ走ろう。
ズキズキと痛む腹から思考を剥ぎ取りながら目的のビルまでたどり着いた。もともと路地からそこまで離れていなかったのと、近くで何か大きな事故でも起きたらしく駆けつけた救急車のサイレン音でこちらはより有利になっている。
ツいているのかいないのか全くはっきりしないのだが、もしもツいているのならば例の喰種もさっさと退散してくれないだろうか。
ーーーやっぱりツいてなかったな‥…
喰種はやはり私のいるビルに到着していた。まだビル内部に入り込んでいないせいで仕掛けは使えない。けどこれはこれで丁度いいかもしれない。どうせ喰種のことだから無理にでも押し入ってくるだろう。さっきのパイプで逆上している可能性だってある。冷静であればどれも何てことないトラップばかりだが、上手く嵌まれば敵の自由を奪うことだって不可能じゃない。というか殺す気満々で造った物もあるし。対象は確かに人間だったが私は容赦なんてしてやらない主義なのだ。
しかしそうなると私としてはここで敵を待つしか仕事はなくなる。それはそれで少し残念な気もするけれど、命とスリルを味わう事のどっちが大事かといわれるとやはり命だ。面白くはないがこのセーフゾーンにいれば少なくともそれは保証されているはずーーー
「あははっ!こんなとこにいたんだねェ?」
ーーーでもなかったらしい。窓際にいなかったのと、着いたばかりで座り込んでなかったのは不幸中の幸いだろう。
「パイプで頭なぐられちゃった時はビックリしたよぉ?今までそんな人いなかったもんねェぇ。でもお腹空いちゃったし、そろそろいただいちゃいまァぁあす!!」
ボロボロのコートが腰辺りから持ち上がっている。アレが赫子と呼ばれる喰種特有の補食器官だろう。血を連想させる鮮やかな赤色に対して、この場には不釣り合いなほどに美しさを感じてしまう。廃ビルという環境と私が食べられてしまう可能性がなかったらもっとゆっくりと観賞していたかもしれない。
けれど命の懸かっているこの状況でそんな悠長なことは言っていられない。あの赫子を使ってここまで登ってきたとすると扱いには長けているのだろう。5階程度のビルだがそれでも赫子だけでここを這い上がったならかなりのものではないだろうか。実際にどの程度が喰種にとって当たり前なのかは知らないが、少なくとも目の前のコイツはただの雑魚ではないのかもしれない。喰種という時点で人間からすれば圧倒的な強者であるのが普通だが。
コイツが余裕なのもそれを自覚しているからに違いない。ニタニタしやがって実にムカつく話だが仕方ない。
最上階の仕掛けはこんなところでは使えない。もう少し移動しないと自分も巻き込まれる。ジリジリと後退りしながらもなんとかして時間を稼ぐことを考える。初めてコイツと会ったときも随分腹を空かせていたようだし、あの赫子というのも結構なエネルギーを使うはず。今コイツは宣言した通りさっさと食べてしまいたいはずなのだ。それをしないのは私が《少し面白い》人間に認定されているからだろう。それがあのパイプのお蔭なら後悔する必要はなかったと言えそうだ。
しかしそれに喜んでいるような状況ではない。うねうねと蠢いて余裕を楽しんでいるヤツの赫子は人間くらい簡単に殺せそうだ。元もより人間を補食するのが目的の器官なんだからそれも当たり前な話だけど。あんなのに攻撃されたら躱せそうもない。腹の痛みも冷静さを取り戻しすぎたせいかまたもやズキズキと疼き始めた。急いで治療しないと上手く逃れられてもこっちの身が保たない。
ついに仕掛けを発動させるスイッチまであと10歩程度といったところで一度止まる。ここからは一気にやってしまった方がいい。アイツはどうもまだ殺す気はないらしい。雰囲気から察するにすぐにでも、と思っていたのだが意外と我慢強いのだろうか。中々手を出してこないし、見たところこっちの抵抗をちょっとしたスパイスとしているのかもしれない。だからこそ私が時間稼ぎするまでもなくヤツは待っていたのだろう。
「えへへへ、やっと終わりだねぇ?あはははっ!やっと食べられるよぉぉお!僕ちゃんよぐがまんしたよぉねぇえ!どうやっでぇ食べべてやろっかなあぁ?うふふふ、あせっちゃダメダメだよね、まずば足からにしよっかなぁ?やっぱりそうだよね!うん、そうしよっっとぉお!」
ーーこのイカれ喰種め!
聞いていて吐き気がしてくるが一つだけ分かったことがある。この喰種はもう私を逃がす気はないということだ。これだけ錯乱していても変わらず赫子は美しさを保っている。やっぱり不釣り合いだな。
そんな現実逃避な思考をしている間にもヤツはどんどん距離を詰めていた。殺され方は分からないけど少なくとも良い死に方ではなさそうだ。せめて一矢報いるためにも仕掛けを動かしてやりたいが身体が動いてくれない。あともう一歩もあれば届くというのに。
心は動けと急かすのに体が、脳が、自分を司る何かが恐怖に怯えて命令すら下さない。俗にいう金縛りというものだが、その瞬間に限ってはただ金縛りと表現出来るものではなかった。筋肉が弛緩して足腰が立たなくなる。指先に力が入らなくなってダラリと倒れ込んでしまう。それでも心だけは折らない。絶対に折らせたりなんかしない。こんなクズに折られるような心なんかじゃないはずだと無理やり奮い立たせる。本当は今すぐにでも諦めてしまいたいけどそれは一番やってはいけない。それはそのまま“死”に直結しているのだから。誰かから受け継いだ命を粗末にすることこそ真のクズではないか。
大事な、とても大事なことを思い出した私はようやく動けるようになった。全身を巡る血管は一気に沸騰でもしたように燃え上がり、その熱は私が動けるだけの十分すぎるエネルギーになった。恐怖で強張った筋肉は再び動きだし、凍結していた脳みそは解凍され生きるための手段を模索し始めていた。身体中に回った熱が足腰を自然に動かし、さっきまで続いていた腹の痛みはまた引き始めていた。
ーーーこれなら間に合う
しかし、そんな私の甘い考えは一瞬のうちに砕かれた。
「ああぁアァアアアアアアアあ!!!!」
消えていた無くなっていた失っていた断たれていた切りとられていた貫ぬかれていた盗られていた奪われていた食べられていた
ーーーー喰われれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれ?
私の腰から左下部分、つまり左足がいつの間にか消えていた。本来ならとれているはずのバランスが崩れてしまう。やっと見えた希望はそれによって潰えたのだ。もはや痛みを拒否しているのか痛覚が上手く働いていない。その代わりとでもいうのかこれから死ぬという恐怖感はより強くなっていく。
目の前にいる私の足を貪って愉悦に浸る張本人は余裕の表情。しかしこれが本来のあるべき形だ。残念ながら普通の人間が喰種に勝てる要素などほぼ無いのだから。それでも挑んだ私は愚者なのだろうか。その答えもまた残念なことに一生分からなくなるのだ。
驚いたことに邂逅から30分も満たない逃走劇に終止符を打つべく、喰種は自身のもつ鮮やかな赫子を操って楽しませてくれた人間に一撃を加えようとしていた。
先程のような目にも止まらぬ速さではなく、相手の恐怖心を存分に引きずり出すためにわざと視覚に入るようにしながら距離を詰めさせる。この人間は中々面白かったので“わざと生かせる”ことも考えはした。考えはしたが、結局のところ空腹感には勝てなかった。それになぜかこの人間はすごく芳ばしくて美味しい味がする。そんな味には滅多に出会えない。最近の《エサ》は筋張っていたりブヨブヨだったり、最悪な時にはほとんど肉がついていないなんてこともあった。ここでこれだけの獲物を見逃す手はやはりない。ただここまで楽しめたのも事実。そこで苦渋の決断ではあるものの一息で殺してあげることにしたのだ。
そうして喰種が止めを指そうとしたその時のことだった。
「グぷぇっっ?」
喰種はおかしなことに腹を貫かれていたのだ。丁度私の足と同じような形で、貫かれて出来た大きな穴を通った《鋭利ななにか》がそこから横に振れたせいで切断されていた。上半身と下半身こそ繋がってはいるがそれは見方にもよるだろう。斜め上に向けて出来た生々しい傷痕からは夥しい量の血と臓物が流れ落ちている。普段ならどんな臓器かぐらい分かるのだろうがこの状況ではそれは不可能というものだ。
いくらの喰種もそれだけの血を流すのは致命傷だったらしい。ほんのついさっきまで私を追い詰め、そして殺そうとしていた災いの一つは呆気なく死んだ。
けれどまだ終わっていない。むしろ新たな災害がやってきたのだ。それもさっきより大きなものが。
倒れた喰種の後ろにひっそりと佇んでいたのは新たな喰種だった。さっきのやつと違う点はマスクで顔を覆っていることだろう。鴉を模しているのか長い嘴と真っ黒なコートがやけに目に入ってくる。
一目でそれが喰種と断定出来たのは、やはりそいつも赫子を出していたからだ。しかし先程の赫子とは圧倒的に違う。鮮やかさもそうだが離れていても分かる質量、重厚感。加えてその大きさが桁違いだった。まさしく天と地ほどの差がある。飢えていたとはいえ治癒力の高い喰種を一瞬にして殺したのだから当たり前といえば当たり前のことなのかもしれない。
もう声も出ない。あまりの出来事に頭がついていっていない。ただ一つ分かるのはもう私は死ぬってことだ。これまでに何回もそう考えて生き延びたけれど、それもここまでだろう。出血しすぎたのだ。こればかりは運や策ではどうにもならない。
ただ私は諦めの悪い人間らしい。ここまできてあともう少しに辿り着いている仕掛けを動かすべきだと告げてくる。理性が何かを考えるよりも先に本能が勝手に動いていた。さっきまででもうあとほんの少しのところまで来ていたのだ。今の距離はさっきよりも格段に近い。
手を伸ばせばもう届くその瞬間、新たな喰種が注意して聞いていなければとても判読不能な声量で呟いた。注意していたわけでもないのにぼんやりと聞こえてきた言葉は、残念ながら正常な状態ではない私には異国の言葉にすら聞こえたのだが。
「‥…‥…‥…うやく‥…‥…‥…」
日本語として聞き取れたのはその3文字だけだった。でも何にしたって関係ない。“うやく”が何を意味しているのかを考えるのは生き残ってからゆっくりと時間をとろう。
話しかけてきたのか、それともただの独り言なのかは知らないがもし前者ならきっちり返事をするべきだろう。私はなけなしの体力を振り絞って短く、けれど喉が嗄れるくらいに叫んだ。
「死ね、くそ喰種がぁぁっ!」
それと同時に柱に備え付けられたスイッチを押し込む。電球のそれを装ったスイッチはカチッという音を確かに鳴らせた。
数秒後、地震のような揺れがビル全体を襲い始め老朽化していたビルが崩壊していく。下がビルの重さに耐えられなくなり斜めになっていく。自分の体が流されていくのが分かるが、しかしそれに抵抗するだけの力も意味もない。ここは5階でその分地面に衝突したときの破壊力も高くなる。本来なら私は下のスイッチを使って崩壊前に逃げ出すつもりだったのだが、喰種相手ならば仕方ない結果だろう。私が助かる見込みはないが、しかしそれは目の前にいた喰種にも同じことが言えるはずなのだ。きっとこれなら及第点だ。
私の意識はそこでとぎーーーーーー