1、現実は仮想へ
その少女は、年齢の割には聡明であった。
研究者の父を持ち、他の子供達よりも知識に触れる機会の多かった少女は、六歳という年齢の割には沢山の事を知っていた。
けれど、目の前に広がる悪夢に正気でいられるだけの精神は、まだ無かったのだ。
「あ……ああ……」
冷たいフローリングの床に転がる、つい先ほどまで穏やかに笑っていた父母の死体。じわりと少女の足元までにじり寄る、赤黒い血溜まり。そして、怯える少女を冷たい眼で見据える、見知らぬ男。
その手に握られている黒い銃が、音を立てて少女に向けられた。
床が軋む。少しずつ近づく男。立ち上がる事も出来ず、少女は後退る。やがて壁に背が付いて、
「……ぃや……」
目前に迫る死。死ぬ。私は、また……また、あの悪夢を、
目の奥に、炎がちらついた。
「いやあああああああああああああ!!!」
刹那、少女の周囲は炎に包まれた。間近に迫っていた男も、例外なく火にくべられ、突然の苦痛にのたうち回る。
火の勢いは弱まる事なく、辺りを炎の海に変えた。それはまるで、『あの日』の地獄絵図。
彼女は思い出してしまった。前世の自分は火災に遭って死んだ事。そして、この世界が、前世ではただの
その日から、少女…緋乃陽向は、実年齢の割には聡明になった。
ブルースクリーンの空。
紙くずの桜吹雪が舞い散る中。
白い蛍光灯みたいな太陽が照らす、憂鬱な春の日。
今日は、とある高校の入学式である。
とある高校とは何処の高校だ、と問われれば、それは学園都市の某主人公が通うとある高校だ、と答えるしかない。作中で名前が明かされていなかったからこそ、その少年然とした少女……緋乃陽向はこの高校の前に佇んでいるのだから。
前世を思い出してから早十年、仮想世界に嫌気が差していた陽向が、
沸き立つ雑踏、喜色満面な群衆、そして極めつけが、校門の前に掲げられた、『ご入学おめでとうございます』の立て看板。ご丁寧に施された花の装飾の前で、顔も名前もない誰かが記念写真を撮っている。
「……くっだらねー……」
馬鹿みたいな騒ぎを前に、陽向は心の底から吐き捨てた。
全くくだらない。この世界のおかしさに気付かない彼らも、気付いていて笑わなければならない自分も。
「……行くか」
どうしても外面が気になってしまう陽向は、能面のような無表情を切り替え、周囲の人間と変わらぬ微笑みで校内へと足を踏み入れた。
入学式に特筆すべき事はない。あえて言うなら、前世ですこぶる退屈だった校長の話は、画面を通して見る世界では輪をかけてつまらなかった。それだけである。
だが、事がクラス分けになれば話は別だ。
「はーい。今日から皆さんのクラスを担当する、月詠小萌ですー。よろしくお願いしますねー」
教卓の前に立つと首しか見えなくなるというとんでもない教師。陽向は、この文言をどこかで見た事があった。言うまでもない、『原作』である。
そもそも一年七組と聞いた時点で気付くべきだった。だがとある高校に入ってしまったという事実に気を取られ、すっかり忘れていたのだ。
よりによって、主人公と同じクラスになってしまうとは。
陽向がちらりと辺りを伺うと、この世界の主人公である上条当麻だけでなく、土御門元春や青髪ピアスの姿も見えた。金や、まして青の髪なんて日本では目立つ事この上ないのに、何故気付かなかったんだ。陽向は思わずため息を吐いた。
だが、事はこれだけに留まらない。
自己紹介を終え、陽向もなんとか当たり障りない言葉を吐いて、いざ席替え、となった時。
自分のくじが示す席。その隣には、なんとあの上条当麻が座っていた。
陽向は思わず黒板と自分の引いたくじを見返した。二度見どころか三度見、いや四度見はしただろう。更に前から順番に席の数を数える。結果――――この世界は残酷だった。
「あ、お前隣の席か?」
半ば諦念と共に陽向が椅子を引いた時、唐突に隣の席の主人公が声をかけてきた。
一瞬呼吸が止まる。今自分に質問しているのは、自分の最低限保っている現実感さえ壊しかねない人物だと思うと、陽向は一言だって上条当麻と言葉を交わしたくなかった。
けれど、そのまま黙っている訳にもいかず、陽向は心なしか作った笑みを隣の人物に向けた。
「うん、私は緋乃陽向。一年間よろしくね」
さらりと然り気無い自己紹介。なるべく印象に残らないように、普段と一人称さえ変えた。
主人公は特に何も思わなかったのか、至って普通の反応を返してくる。
「おお、緋乃か。俺は上条当麻。一年間よろしくお願いします」
軽く頭を下げるその人物は、どこからどう見ても普通の男子高校生だった。そんな上条当麻が世界を救う主人公だという事実に、この世界の異常性を改めて見た気がして、陽向は気付かれないよう眉をひそめた。
とはいえ、きっとこの主人公たる少年と、自分のような奇妙な経歴を抱えているだけのモブキャラが、日常を超えて関わる事はないのだろうな、と。
「思ってたのになあ……」
時と場所は大きく変わり、もう夏の気配がやってくる頃、陽向は路地裏をひたすら走っていた。
そう、例の主人公と共に。
事の発端は単純である。ただ、陽向が買い物をしようと出掛けた帰り、この道の方が近道かな?と裏道を通っていた最中、突然出会した主人公が、とにかく来い!と陽向の腕を引っ張って走り出したのだ。
どうやら不良に追われていたらしく、何故か関係ないはずの陽向まで一緒に追われる事になってしまった。陽向は近道しようなんて思った自分を殴りたくなった。
陽向は別に体力がない訳ではないので不良に捕まりはしないが、この不幸男と並走していると厄介事が何倍にも膨れ上がりそうなので、早急にこの場を離れたかった。かといって一人で逃走すれば、主人公にマイナスイメージを持たれるかもしれない。それが遠因となって主人公と敵対する事は陽向の本意ではなかった。
逃げるのを止めて喧嘩をしたとして、陽向は不良の十人や二十人、相手をしても負ける事はまずないのだが、如何せん手加減が苦手であった。不良に大怪我など負わせた日には、お人好し主人公との対立は避けられないだろう。
つまり、八方塞がり。この不幸主人公と共に、背後の不良が諦めるまで走り続けるしかないのだ。
「上条!……何か、逃げ切る算段とか、ないの!?」
陽向は苛立ち紛れに叫ぶ。そこそこだった休日を台無しにされた上、打開策がほとんどないのだ。苛立ちもするだろう。陽向は昔から巻き込まれ体質ではあったが、いくらなんでもこれはない。
だが、そんな陽向の様子も知らず、主人公は言った。
「っんなの、あるわけ、ねーだろっ!!」
ふざけんな。陽向は思わず叫びたくなった。勝手に巻き込んでおいてどうにもできないとか、これだから主人公様は。
苛立ちが頂点に達し、我慢ならなくなって、陽向は今の今まで出し渋っていた能力を使用した。
ポケットから取り出したライター。そのフリントホイールを強く回した。赤い火花が散る。
刹那、男達の目の前で、橙の炎が燃え上がった。
この学園都市には超能力というものが存在し、妙な経歴と個性を持っているだけの一般学生陽向も、超能力とやらを所有している。レベル1という低レベルも低レベル、0じゃないだけいいというレベルではあるが。
本来はレベル3か4くらいはあるのだが、その能力と陽向の相性が、本来の実力を発揮できなくしていた。
その能力とは――――
よりによって、前世の死因を司る能力であった。
当然恐怖から能力のコントロールはまともにできず、火を起こす事さえ不可能という体たらく。結果
しかし、そんな能力でも、使いようはあった。
人は本能的に火に恐怖を抱く。陽向ほどではないにせよ、触れる事は流石に躊躇うだろう。
そんな炎が突然眼前に広がった不良達は、当然怯み、混乱していた。
その隙をついて全力で逃走すれば……
「ハァ……ハァ……撒いた、か……?」
「みたい……だね」
無事に逃げ切った安堵からか、主人公は灰色の路面の上に腰を下ろした。陽向も膝に手を付き、浅い呼吸を整えている。
「なんか、悪ぃな。巻き込んじまって……」
ようやく余裕の出てきた上条当麻が問いかける。陽向は彼をジト目で一瞥した後、大きく息を吐いて体を起こした。
「……まあ、いいよ。こういうの慣れてるし」
ふと、上条は、彼女の手が僅かに震えている事に気付いた。
それは陽向が、能力を使った事でトラウマを刺激されたというだけでなく、主人公と関わってしまったという恐怖に近い感情も含まれていたのだが、そんな事彼は知る由もない。
その理由を聞こうとするも、陽向は上条に背を向けて足を踏み出してしまっていて。
「じゃあ、俺はこれで。」
そんな別れの言葉と共に、去って行こうとする。
「待っ……」
思わず上条は、立ち上がってその腕を掴もうとした。
瞬間、上条の不幸体質と、陽向の巻き込まれ体質が、謎の化学反応を起こした。
「うおああっ!!?」
「え、うわっ!?」
原因不明のラノベ的引力が働き、上条の足は立ち上がった瞬間に縺れた。そして彼は、油断しきっていた陽向の背中にタックルをかまし――――
陽向がゆっくりと目を開くと、目の前に迫る主人公の顔が見え、手首を地面に押し付けるように掴む手を感じ……要は、押し倒されていた。
どうしてこうなった。陽向は思わず能面のような無表情になった。
だが、とんでも不幸男の引き起こす厄介事は、これだけに留まらない。
「あ……アンタ……」
誰もいないはずの路地裏に、声が響いた。凛とした少女の声。それは陽向にも、上条にも聞き覚えがあるどころじゃない声で。
二人が恐る恐る顔を上げれば、そこには、学園都市のレベル5、超電磁砲こと御坂美琴が、激しい電撃を纏い立っていた。
「な……にやってんだ、ゴルァーーー!!!」
そして、雷が落ちる。
襲いかかる白い電光。その猛威を、二人で示し合わせたように、横に転がって避ける。その勢いのまま飛び上がるように立ち、二人は再び全力疾走へと戻っていった。
「ふ……」
不幸の連続に、二人は思わず例の台詞を叫んだ。
「「不幸だーっ!!」」
ブルースクリーンの空。
絵の具の緑が生い茂る中。
白い蛍光灯みたいな太陽が照らす、不幸な夏の日。
もしかしたら、自分は傍観者ではいられないのかもしれない。そんな恐ろしい予感に、陽向はひたすら背を向けて走ったのだった。