まだまだ本調子とはいかないまでも、少しずつ夏の気配を取り戻しつつある五月の中旬。雲一つない空の下、帝王高校のグラウンドには涼やかな強風が舞い込んでいた。
ベースを挟み、青と黒のユニフォームを着込んだ球児達が審判の合図を以て互いに一礼。その後互いが互いのベンチに戻り、帝王高校の面々が守備位置につく。
「あ!でやんす!」
矢部はセカンドベース上でボールを回している白髪の男を見咎め、そんな声をあげた。
「パワプロ君!あの男には気を付けるでやんす」
「そりゃあ、気を付けているよ。帝王の三番バッターだろ。何を当たり前の事を言っているんだ」
「違うでやんす!そういう事を言っているんじゃなくて、あの男は悪魔でやんす!鬼でやんす」
「---進君、矢部君どうしちゃったの?」
「どうやら、矢部先輩は石杖さんと同じチームに所属していたみたいですね」
「チャンスで凡退するごとに、あの男はオイラをパシらせていたでやんす!この怨みは、絶対に忘れないでやんす!」
「---そうやっても、得点圏の悪さは改善できなかったのか----」
澄まし顔でボールを回すあの男も、この眼鏡外野手の得点圏での脆弱性には苛々させられていたのだろう。そうしたい気持ちはよく解る。痛い程。
―――俊足で、パンチ力もあり、広い守備範囲と強肩を持つものの、得点圏での脆弱性とエラー癖がいつまでたっても治らない。それが矢部というプレイヤーであった。
得点圏に弱い為そのパンチ力は上手く生かせず、ピンチの場面で強肩を生かそうにも致命的なエラーを演出する。持っている能力をことごとく台無しにしている男である。
恐らくは、この男は生来の目立ちたがりであるのだろう。
得点圏でのバッティングにおいて、打点を挙げて目立ちたい心魂がバッティングを逸らせ引っ掛けゴロにしてしまう悪癖を何度も何度も見てきた。能力が高い故に外すことも出来ず、常にこの男には監督の罵声が響いていた。
騒ぎ立てる矢部を尻目に、マウンドに目をやる
そこには、現在投球練習を黙々と行っている山口賢がいた。
ミットから聞こえてくる音が、重く、鈍い。
上体を大きく逸らしたフォームから繰り出される直球とフォーク。ベンチから見ても凄まじい迫力だ。
---ちょっと、ワクワクしてきた。
パワプロは自然と、口を綻ばせた。
―――今日の試合も、楽しいモノになりそうだ。
帝王高校対あかつき大付属高校の練習試合が、今始まろうとしていた。
※
一番バッターの矢部がコールされると同時に、ふんすと息巻きバッターズサークルから眼鏡を光らせる。
帝王高校のグラウンドは、やはり見物人は少なく、非常に静かであった。コールの声が、やけに響く。
矢部が、バッターボックスに入った。
山口はそれを見ると、すぐさま投球に入った。
大きく上体を逸らし、大きく振りかぶる。
ダイナミックなフォームから投げ込まれた直球は、唸りを上げて内角のミットへと収まっていく。
ストライク!
審判の声に一つ頷きながら、見逃した矢部は再度バッターボックスへ。
二投目が放たれる。
ここで、矢部が始動する。
踏み込みと共に、内角低めの球を捉える。
ギン、という金属バット特有の打撃音と共に、ボールは三遊間へと流れていく。捉えた当たりは強いゴロとなり抜け―――なかった。
深いゴロは、友沢のダイビングによってグラブに収められた。
―――マジでやんすか!
それを察知し、矢部は全力疾走からのヘッドスライディングを敢行する事に決めた。あそこまで深い当たりであるならば、内野安打ならば狙えるだろう、と。
―――友沢はボールを掴むと同時に、座り込んだ体勢のまま、上体だけで送球を行う。
その送球はまるで伸び上がる様に一塁手の胸元にまで到達する。
アウト、と一塁塁審の手が振り下ろされる。
友沢亮。両打ちのスラッガーであると同時に、強肩好守の遊撃手。元本格派ピッチャーであったが、肩の故障に伴いコンバート。現在はその強肩を遺憾なく発揮し、怪物遊撃手として帝王の四番を務めている。
その守備を眼前にし、あかつきのベンチは息を飲んだ。
二番バッターの俊足の田井中はボテボテの内野安打性のゴロを打った。しかして、またもや友沢の強肩の餌食となる。前に走り寄りベアハンドで打球を掴むと、体勢を大きく一塁側に崩しながらも腰の回転とハンドリングだけで送球を行い、これまたアウトとした。
とんでもない守備を二つ同時に見せつけた友沢は、一切の表情を変えず再度守備位置に戻っていった。―――あんなの、ファインプレーにも入らないと言わんばかりに。
三番、猪狩進がコールされる。バッターボックスへ向かう進の表情は、険しく歪んでいた。
データとして友沢の守備の凄まじさは知っていたが、いざ眼前で見せられるとどうしてもその姿が頭にチラつく。
こうなってしまうと、ショート方向へと打つ事に躊躇いが生じてしまう。
ボックスに立った瞬間、山口の鋭い眼光は進を見ていた。
そして、
一球目、二球目―――共にアウトローの直球を投げ込んだ。
―――見抜かれている。
左打者への外角低めのボールは、打てば自然とショート方向へと流れる。友沢の守備を見せつけ、その忌避感を利用したのだろう。外角のボールは絶対に打つまい、との確信の下、山口は外角へと二球を投げ込んだのだ。
三球目が、放たれる。
―――む。
コントロールミスであろうか、多少外角寄りだが、幾分甘いコースにボールが投げ込まれた。
―――見逃さない。
その軌道に気を急かされ、進はバットを振るった。
しかし、
「あ―――」
バットは、空回った。
バットの軌道からまるで消えるように、球は視界から落ちていった。打ち機のコースに投げ込まれた、完璧なフォークであった。
帝王側のベンチが大きく沸き立った。
二連続の好守に、三球三振。まさしく理想的な立ち上がりであった。帝王としても、盛り上がらざるを得ない展開だろう。
―――くそ。
考えうる限り最悪の打席を演出してしまった進は、歯噛みする。あれで、相手を初回から勢いづかせてしまった。
険しい表情のまま守備へと向かおうとする進の頭に、―――軽いグラブの衝撃がかかる。
「落ち着け―――ここで勢いを鎮火させれば関係ない」
鋳車であった。先程の拙攻を責める風でもなく、いつもの仏頂面で進に声をかけた。
「このイニング、三者凡退で行くぞ。一人でもランナー出せば、連中が勢いづいてしまう。リードを頼む」
そう言いながら、鋳車はマウンドへと走って行った。
その言葉に、一瞬で進は頭が冷えた。
そうだ、キャッチャーはイニングの表裏で、頭を切り替えなければならなかった。ピッチャーを打つ。バッターを抑える。二つの頭を交互に使わなければならないのだ。切り替えねばならない。
鋳車の投球練習に入る。
相手ベンチから食い入るように見られながらも、鋳車は問題なく投球をしていく。球の走りも、制球も上々。そうそう打たれる球ではない。
三者凡退で終わったならば、こちらも三者凡退をお見舞いすればいい。
成程。単純な理屈だ。それで、帝王の勢いも削ぐことが出来る。
それを出来るだけの能力を、あの男は持っている。
―――それを、引っ張って行けばいい。
一番バッターの名がコールされた瞬間、鋳車はセットポジションに入る。
あかつきが誇る右の技巧派エース、鋳車和観の、一投目が放たれようとしていた―――。
横浜初カード勝ち越し記念。パットン、神。ずっと横浜にいておくれ。