男は、一礼し打席に立つ。
ぐるりとバットを回すルーティンをこなして。
バットが天に突くように立てられている。少しだけ開いた身体を、両膝がしっかりと支えている。
―――さて、どう考えるべきか。
あかつきの四番。その大役を猪狩ではなくこの男に変えた理由。
―――猪狩の負担を考えて打順を変更したのか、それとも、この男のバッティングに大幅な改善がみられた故に変えたのか。
どちらの可能性もありえる。
だからこそ、見極めなばならないと聖は考えた。
一球目。外角から切れ込んでいくような軌道を描くマリンボール。これをパワプロは鋭いスイングでファールゾーンに飛ばす。
二球目。インローのボールゾーンへ流れていく直球。これをさもありなん、と当然の如くパワプロは見逃す。
ワンストライク・ワンボール。
―――見えない。
聖は、微かな違和感をこの男から感じ取っていた。
―――バッティングの乱れが、見えない。
アンダースロー投手と相対する打者は、どうしてもバッティングを崩しながらそれに対応しようとする。理由は単純明快で、アンダースローの特殊軌道に対応する練習を積んでいないからだ。聖は、そのスイングの乱れを敏感に察知し、それを基に配球を組み立てていた。
しかし、この男は崩されている様子が無い。
アンダースローの球筋に、バッティングが乱れていない。今まで相対してきたどの打者よりも。
それは、ある意味で当然の事だった。
この男のバッティングの原点は―――鋳車和観を打つべく作りあげられたのだから。
幾度となく幾度となく繰り返された鋳車との積み重ねの中で、彼はアンダースローとの球の軌道を嫌という程頭に叩き込まれていたのだ。
だから、バッティングが崩れない。
―――ならば。
内角の見せ球を餌に、聖は外角に構えた。
―――踏み込みが浅くなるこの状況下で、アウトローは大怪我になりにくいだろう。直球とマリンボールを外角に集める。
そのリードに、あおいは一つ頷いた。
アウトローへの直球が、投げ込まれる。また、ボールゾーンへギリギリ流れるコースへと。
パワプロは、静かに左足を上げる。
バットのヘッドは、動かない。
動かさないまま、体軸を捻じる。回旋させる。手首を固定したまま、球の軌道にバットを乗せていく。
―――流すな。
―――押し込め!
インパクトの瞬間、その瞬間だけ、全身の筋肉をフル動員させ、その全てを軸足と手首に向かわせる。
外角に、引っ張り込む。
ギィン、というけたたましい音が聖の耳朶を打った。
球は、力強いライナーとなって低めのコースからぐんぐん伸びていく。
その殺人的なライナーは―――フェンスギリギリに叩きつけられる。
ガシャン、と派手な音が鳴り響く。
周囲の黄色い歓声が、一瞬静まり返る。
気付けば―――ツーアウト二・三塁の状況下。
ネクストバッターサークルには、猪狩守の姿。
―――そうか、これが、これが強豪校と呼ばれる所なのか。
全霊をかけたベストな投球すら、打ち砕く猛者がこうしてどかりと中軸を支えている高校。
―――聖は、あおいへ顔を向ける。
その顔は、悔しげでもあるが―――それでも、笑みを浮かべている。
そうだ。
こんな戦いがしたくて、自分達は進んでこの場に立っているのだ。
―――切り替えろ。
まだまだ、勝負は長いのだから。
※
―――女だから、男だから、じゃないんです。
彼女は全霊を込めて、署名活動の際に、言葉を張り上げていた。
―――女でも男に勝てる事を証明したいんじゃない。そんな崇高なお題目を掲げている訳じゃない。ただ、ただ―――僕等は、あの舞台に立っていたいだけなんだ。
言う。言葉を絞り出していく。
―――女も、男も関係ない。野球に、そんなもので分かたれる要素は無い。僕等は、一人の野球人として、一つのチームとして、彼等と戦ってみたい!
言葉は、広く広く浸透していった。
彼女の言葉は、何処か、普遍的な感覚に訴えるモノがあった。
諦めたくない。挑戦してみたい。戦ってみたい。
その思いが、その願いが、人々の普遍的な感覚と共鳴したのだと思う。
諦めを胸にしまい日々を生きている人間にとって、その存在はあまりにも痛々しくて、手を差し伸べたくなる存在だった。
いつしか、全校生徒が署名してくれるようになった。
周囲に点在する球児が、町内会の人間が、教師が、輪を広げるように署名してくれた。
その動きは地方新聞に取り上げられるようになった。
反響が大きく、いつしか地方テレビ局から、大手メディアまでこぞって彼女の姿を映すようになった。
その後、ウェブ署名も含め何十万という署名が掻き集められた。
そうして、彼女達はこの舞台に立った。
いくつもの人々の共感と、人々の想いを、受け入れ、力を借りて、この舞台へと。
自分達に、彼等に何かを返すことは出来ない。
―――それでも。
ひとえに全力で戦い続ける事こそ、彼等に出来る唯一の礼節であるのだと思う。
何処かで途切れるかもしれない道の途上を、ひたすらに上り続ける事こそが。その姿勢を全力で見せ続ける事こそが。
こうして、恋々高校はこの舞台に立った。
あらゆる障害を取っ払い、この場所へと。
―――負ける気はない。
五番の猪狩守を敬遠し、彼女は全球直球勝負を六番の田井中に挑んだ。
アウトローギリギリの直球を二球続け、インハイ高めのボールゾーンで空振り三振を取る。
三球三振を奪ったこの快投に、応援席が沸き立つ。
球速表示に―――自己最速の135が刻まれる。
彼女は両手を握りしめ雄叫びを上げた。
攻守が交代する。
相対するピッチャーが、マウンドに悠然と向かう。
鋳車和観。
昨年、彗星のごとく現れたサブマリンピッチャー。怪物じみたシンカーを軸としたピッチングスタイルで奪三振の山を築く、文句なしの県下最強サブマリンピッチャー。
その姿は、早川あおいの目にも強く焼き付いている。
小柄な肉体を以て大柄な相手に一歩も引かずに相対するその姿が。
決して速いとは言えないその直球で次々と空振りを奪うその姿に。
―――そして、何よりも。打者に対して猛烈なまでの執念を宿すその目に。
彼は、きっと諦めなかったんだ、と彼女は思った。
だから、あんな目が出来る。
だから、あんな投球ができる。
ならば自分はどうなのだろう?
諦めているのか?
―――女の身でありながら、それでも野球がしたくて、アンダースローになったのではないか。膂力で敵わぬ男相手にそれでも引きたくなくて、このスタイルにしたのではないか。
奇しくもそれは鋳車和観と同じ理由だった。諦めたくない、という意思が、スタイルの変更を促した。いわば、あの変則フォームは諦めを超えた先に何かを見出さんとした執念の結晶なのだ。
憧れた。
それ故に―――負けたくなかった。
鋳車和観はピッチング練習を終え、マウンドでセットを終わらせる。
相対する打者に鋭い眼光を放ちながら、打席に立つを待つ。
審判のプレイの宣告を聞くと同時―――彼は身体を沈ませていった。
鋳車和観との勝負が、今始まった。
濱口のチェンジアップが最近の私のお気に入り。何で左打者には投げないんだろ?不思議だなぁ。