あの謎多き博士は、言っていた。
俺の左肘は特別製なのだと。肘と肘の間の間接部分が異常に柔らかく、それ故に様々な変異を起こせるのだと。
だが、肘の間が柔らかい事はその間に存在する骨が脆弱である事とイコールだ。
雷轟のピッチャー返しを食らった瞬間、その脆弱な骨が見事に叩き割られた。
―――ダカラ、治療サセテモライマース。
―――貴方ノ左肘ニハ“患部”ガ埋メコマレテマース。コレハ別ノキッカケヲ与エテシマエバ、タチマチ「呪イ」ヘ変ワッテシマイマース。
呪い?
呪いとは何だ?
―――人ノ心ニ付ケ込ム悪魔デース。貴方ノ心ノ脆弱性ヲ源泉トシテ、発現スル呪イデース。
心の脆弱性を源泉として、発現する-----呪い?
―――生物ハ、弱サヲ隠ス習性ガアリマース。心臓モ脳モ、脆弱故ニ様々ナ骨ニ覆ワレテ頑丈ニ守ラレテイマース。ソレト同ジデース。心ガ弱ケレバ、ソレヲ隠スベク、肉体ヲ変異サセテイキマース。
心の弱さが、------肉体を変異させる?
そうなのだろうか?
いや-----そうなのかもしれない。
ボクサーなどの格闘家のトップに至った人間は、幼少の頃に差別や虐めなどを経験した人間が意外と多いのだと言う。自身の弱さを覆い隠す為に、筋肉の鎧を纏い、相手を打ちのめす技術を習得する。これも、また同じだろう。自らの弱さを源泉として、彼等は肉体を変異させたのだ。
ならば、俺の心の弱さとは何なのか?
―――貴方ノ心ノ弱サガ何ナノカ、ワタシニハチットモ理解デキマセーン。ワタシハ、タダノ科学者デース。ケレドモ、貴方ノ左肘ガ、貴方ニトッテドウイウ存在デアルノカ-----ソコニ、ソノひんとガアルト思イマース。
俺の左肘が、どういう存在か。
それはごくごく当たり前の解が存在する。
俺が特別である事を証明してくれる存在だ。
この左肘が生み出す捻りが、回転が、―――スクリューが、俺を特別である事を証明してくれた。
親は金持ちだった。
望めば、何でも手に入った。
それでも―――それでも、俺が、俺の力だけで勝利できる場だって、この世にはあった。
砂塵が舞うグラウンドの上に。俺が生み出す直球に、スクリューに、相手は面白いように空振っていた。
見ろ。
見ろよ。
俺が生み出した、俺の球が、俺だけの力が、あのデカブツ共を切って捨てているんだ。
そうだ。俺の左肘が生み出した俺だけの球が、俺に、俺だけの勝利を運んでくれる。勝利が特別な者だけに与えられるモノなのだとしたら―――勝っている間、俺は特別でいられたんだ。
俺は勝たなくちゃいけないんだ。
俺が特別である為に。俺以外の塵屑共は皆俺より下でなければならないんだ。
だから、いてはならないんだ。
俺以外に―――勝者が、いちゃならないんだ。
ならば―――。
―――素晴ラシイデース。貴方ノ左肘ガミルミルウチニ変貌シテイキマース。
この「呪い」とやらも受け入れてやろう。
心の弱さ?馬鹿を言ってんじゃねぇよ。
俺は勝たなくちゃいけねえんだ。俺は特別でなくちゃいけねぇんだ。俺は、強くなくちゃいけねぇんだ。
だったら、この「呪い」とやらも弱さなんかじゃないはずだ。
その、はずだ。
※
帝王実業部室内。
打順が発表される。
1 有島(左)
2 木島(中)
3 石杖(二)
4 友沢(遊)
5 霧栖(右)
6 新垣(一)
7 宮出(三)
8 久遠(投)
9 福浦(捕)
「有島使うのか」
友沢が、驚いた声をあげる。
石杖は、その声に答える。
「霧栖に隠れてたけど、滅茶苦茶バッティングよかったろ?使って当然だ」
「-----おいおい、外野守備は大丈夫なのか?」
「知るか。ウチは伝統的に左翼は地蔵だったんだ。下手なりに動ける一年がいるだけまだマシだ」
「ぶっつけか。大丈夫か-----」
「まあ、しょうがない。ウチは打ち崩すしか勝つ方法がねーんだ」
そうして、前回試合での海東学園の打線を見る。
1 瀬倉(投)
2 富永(中)
3 蛇島(二)
4 渋谷(右)
5 中之島(遊)
6 柏木(一)
7 馬原(三)
8 相島(捕)
9 葛城(左)
「とにかくクリーンナップがえぐい。こいつらにランナーありで回ってきたら無失点で抑えようなんて色気を出したら終わりだ」
「渋谷秀喜-----予選でとんでもないホームランを打ってたな」
「この打線は三四番が出塁担当で五番の中之島が実質的なポイントゲッターだ。三番は広角に打ち分けてヒットを打って、渋谷が歩いて、中之島がしっかり長打を打つ。多分、試合の中でランナーを置いてこいつ等とかち合う場面が絶対に出てくる。その時は―――今の状態じゃあ、二失点で済めば上等。一失点で感謝。無失点なんてまずありえない位の意識でいかなきゃいけない」
「------久遠」
「いいか。友沢。この試合、早めに優位な試合展開にしとかねえと絶対負けるぞ。接戦で後半までいったら、確実に久遠は崩れる。まず間違いない」
「-----辛辣だな」
「どっかの元三冠王の監督も言ってたじゃねえか。―――心の中に恐怖を飼ってるピッチャーなんざ、本来は使い物にならないんだよ。けど、そんな使い物にならねぇピッチャー使うしかねぇんだよ。だったら、早めに勝負を決めるしかない」
「-------出来るのか?相手は瀬倉だぞ」
「出来るかどうかじゃなくて、そうしなければ負けるだけだ」
ギリリ、と友沢は奥歯を噛む。
―――久遠ヒカル。
奴が持っている球は、山口賢にも負けないはずだ。最速148キロの直球。そして、打者の外角を鋭く切り裂くスライダー。纏まった制球だって持っている。―――間違いなく、才能あふれるピッチャーのはずなのだ。
なのに―――過去の経緯から、精神的な脆さを抱えてしまった。
ランナーを抱えた瞬間、球が浮き始める。変化球が曲がらなくなる。ストライクが入らなくなる。まさしく悪循環だ。奴は打たれた後の未来を悲観し、自分の球をいずれ放れなくなってくる。山口との違いは、そこだ。山口はランナーを恐れぬ不動の心を持っているが、久遠はランナーに心を完全に殺されてしまう。
「------なあ、石杖」
「なんだ?」
「俺はな―――ここが、分水嶺なんだと思っているんだ」
「何の?」
「俺にとっての、そして久遠にとっての―――そして、お前にとっての」
「何で俺なんだよ」
「―――今は、割り切れる瞬間じゃないからだ。勝つ負けるじゃない。勝たなきゃいけないんだ。勝たなければ、俺達は何処までもみっともない負け犬も負け犬だ。過去の決着もつけることが出来ない。山口さんの花道も用意してやれない。ここで勝たなければ、俺達はただのゴミクズだ。だから、お前はきっと試合で割り切れない場面が出てくる」
「-------」
「-----キリスに、見せてやれよ。お前の“本気”を。なあ、支倉の至宝」
どん、と。右拳で胸をつかれる。
心臓に直接叩きつけられたかのような衝撃を感じた。友沢は満足気に一つ頷くと、そのままグラウンドへ走り去っていく。
「何だってんだ------」
一つ溜息を吐いて、その背中を見送る。
「------ガラじゃねえんだよ」
そうぼそりと一つ、呟いた。
※
久遠は、ひたすらに―――投球動作を反復させていた。
意識するな。
意識するな。
ランナーが帰る恐怖を。バッターへの恐怖を。
自分の弱点は痛いほど解っている。
―――今まで克服できなかった事が、今すぐに克服できるなんて甘い考えは持っていない。
でも、やらなければいけないんだ。
友沢さんの投手人生を狂わせ、山口さんのプライドを愚弄したあの連中に滅多打ちにされて、夏を終えたら―――もうきっと自分は立ち直れない。
練習が終わり、グラウンドが閉まると、今度は河原で。
血走ったような、または今にも泣きそうな目で―――彼はひたすらに、練習に明け暮れていた。
その時だ。
声が聞こえた。
「何をやっているんだい?」
「あ―――山口さん」
そこにいたのは、山口賢だった。
「山口さんこそ、何を?」
「君と同じだよ―――なあ、ちょっと休憩しないか?」
そんな提案を受け、二人は河原の土手に腰掛けた。
風が、二人の間を駆け抜けていく。
沈殿する泥の様な倦怠感に包まれていた久遠の身体の中に吸い込まれていくような、心地のいい風だった。
山口は何も言わない。何か、久遠の言葉を待っているかのようだった。
ポツリポツリと、久遠は言葉を放っていく。
自分の過去。心の弱さ。そして、自身のピッチング。余すことなく、その全てを。
山口はジッとその言葉を聞いていた。
「なあ、久遠」
「-----何ですか、山口さん」
彼はようやく口を開いた。随分と、穏やかな口調だ。
「私から言えることは、一つだけ」
「------」
「逃げるな」
「逃げるな、ですか」
「そう。逃げだ。恐怖から逃げるな。心の弱さから逃げるな。久遠。君は友沢が肩を壊されてから、ずっとずっと逃げ続けている。こればかりは誰の所為でもない。久遠、君自身の所為だ」
「------はい」
「久遠。明日は、勝つか、負けるかじゃない。久遠が、かつて逃げ出したものを前にして、逃げずに立ち向かえるかどうかだ。全力で、立ち向かえ。ここで逃げ出せば―――一生、逃げ続けの野球人生になる」
「-------」
「頑張れ、久遠―――ここを乗り越えれば、君はずっとずっと成長できる。過去と、決着をつけるんだ」
ざあ、と河原が風に凪いでいく。
―――しん、と心の奥底が静まり返った気がした。
そうだ。
逃げちゃ、駄目なんだ。
逃げ続けてきた人生だけど―――ここを逃げずに立ち向かえば、きっと取り戻せるはずだ。
そう思った瞬間に、心の奥底に燃える様な熱を感じた。
随分と、久しい感覚だった。
ダイジョーブもういや。予測変換がカタカナだらけでカオスになる。クソッタレめ。