友沢がタイムリー二塁打を放った次の打席、霧栖弥一郎がバッターボックスへ入って行く。
―――瀬倉と同学年のこの男は、幾度か中学時代に対戦経験があった。
その結果―――10打数7安打2本塁打。実に滅多打ちにされていた。
この男の中学時代の公式戦記録を総計すると、通算打率は5割5分を誇っている。その上でさらに恐ろしい事に―――通算の三振数は一桁の枠に収まっている。
完成されたフォーム。球筋を瞬時に捉える天性の嗅覚。怪物じみたスイング。バッターとして必要な要素を敷き詰めた、まさしく“天才”。
勝負をしたい。
この男を打ち取りたい。
そのピッチャーとしての本能が一捻りで押し潰される程に―――瀬倉は、このスラッガーの異常性を身体の底から理解していた。
「------」
瀬倉は、歯噛みしながら―――勝負を避ける選択をした。
―――今は、勝負する時じゃねぇ。
外角に大きく外してフォアボールを与える。
もう随分と慣れているのだろう。表情一つ変えず、霧栖は一塁ベースへ走って行く。
―――クソッタレが。
そう心中で瀬倉は吐き捨てると、六番打者に向き直る。
―――恨みはねえが、テメェは全球スクリューで三球三振だ。覚悟しろ。
※
六番新垣と対峙した瀬倉の姿を、霧栖弥一郎はジッと見る。
―――リリースが「遅れる」という瀬倉のスクリューは、打席から見ることが出来なかった。
中学時代、霧栖弥一郎は瀬倉弓也と三試合ばかり対戦している。その当時の印象を言えば、完全な「変化球投手」であった。スクリューの曲がりとキレが凄まじい反面、直球の球威が無かった。スクリューを見逃し、カウントを整える直球に狙いを絞れば―――少なくとも、霧栖弥一郎にとってそれほど難しい相手ではなかった。左サイドのピッチャーは、右打者にしてみればリリースが丸見えになる。あとはその軌道に合わせ、リリースから直球かスクリューを見分け、直球を弾き返せばいいだけだ。このリリースから瞬時に見分けられる嗅覚を持つ霧栖弥一郎にとって、まさしく左サイドの技巧派ピッチャーは「カモ」でしかなかったのだ。
その印象と、今の瀬倉では、齟齬がある。
―――その齟齬が何処から発生しているのか。それを見なければならない。
振りかぶり、身体を捻じる。
捻じりと共に、腕が身体に巻きついていく。
そして―――捻じった腰を引き戻す動作と共に、左腕からボールを放つ。
スクリューだ。
新垣は全くタイミングが合わず空振る。
二球目も同じ。スクリュー。
何とかタイミングを合わせようと、新垣はステップ幅を変えバットを短く握り、振る。それでもタイミングが合わない。空振る。
―――根本から、タイミングが合ってねぇのか?
バッティングは、タイミングを合わせる事が大前提だ。そのタイミングは、リリースされた瞬間に合わせられる霧栖弥一郎の様な化物は例外として―――大抵は、自分の感覚と、相手のリリースのタイミングをすり合わせていくものだ。そして、「これ以上リリースを遅らせる事は出来ない」という閾値を、バッターは本能で感じ取る。これ以上リリースを遅らせれば、すっぽ抜けになるぞ。地面に叩き付ける事になるぞ。だからこれ以上は遅らせることが出来ないはずだ、と―――そのタイミングに、バッターは本能的に合わせていくものだ。
そのタイミングを、フォームそのものに緩急をつけて崩すピッチャーもいる。リリースを限界まで隠して外すピッチャーもいる。しかし、瀬倉はそういうタイプのピッチャーではない。
ならば―――奴は何を以てタイミングを外しているのか。
三球目。きっともう一球、同じボールを放つのだろう。
よく見ろ。
打席では解らない事が、ここからでは解るかもしれない。
そして三投目。
その挙動を、見る。
足を上げる。
腰を捻る。
巻きつけた腕を、思い切り振りかぶり、放つ。
霧栖弥一郎はタイミングを測っていた。
リリースされる瞬間を見計らって、心の中でパン、と一拍鳴らすイメージで。
―――ああ、確かに“ズレてる”。
そう、確信した。
瀬倉弓也は―――間違いなく、普通ならば大暴投間違いなしの「遅れた」タイミングから、あのスクリューを放っている。
―――どうやって?
つまり。つまりだ。―――ちゃんとコースに決まる球を、普通より「遅れた」タイミングで放っている訳だ。瀬倉は。
そんな芸当は、リリースの瞬間に物理的に腕が長くなってでもいなければありえない訳で。
大暴投間違いなしのタイミングで、コースに決める為には―――リリースの瞬間、腕が伸びたりでもして修正されなければあり得ない。
―――いやあ、まさかね。
どこぞの海賊王でもあるまいに。奴の腕全体がゴム製にでもならない限り、そんな事はあり得ない。
けれども―――そうでもしなければ、あの異常性をどう説明すればいいのか。
三球三振を喫し、悔し気にベンチへと戻る新垣を追いながら、そんな思索に霧栖弥一郎は耽る。
「―――ん?」
そういえば、と霧栖弥一郎は思った。
―――こんなクソ暑い中、何でアイツはアンダーの上に長袖なんか来やがっているのか、と。
※
攻守交替の間―――霧栖弥一郎は一連の疑問を石杖に伝えた。
石杖は、その一連の報告を受けて―――一つ思い出した。
「アイツ、得意気に以前インタビューを受けていたな。その時にも突っ込まれてたぜ。―――何で長袖着てんのか、って。腕全体の使い方変えたからって誤魔化してたけどな」
「そうっすか」
「なあ、キリス。―――ちと、馬鹿話だとでも思って聞いてくれ」
「うす」
「腕が“伸び上がって来る”感覚を覚える、って印象を受けたって他校の奴が言っていたんだよ。瀬倉の、投球」
「----それが、どうしたんすか?」
「これさ―――もしかしたら、もしかしたらだけどよ。比喩じゃなく、本当に“伸びて”るとしたら、どうよ?」
「へ?」
「いや、馬鹿な事言ってるのは百も承知だ。まあ、その上で聞いてくれよ」
「-------」
「奴が長袖で隠したがっている“腕の動き”。上腕は半袖で隠せるんだから、隠したいのは肘から下だ。前腕部位はただのリリース装置だから別に隠さなきゃいけない所は無い。となるとさ―――隠したいのは、“肘”という事にならねぇ?」
「なる------かもしれねぇっすね」
「-----次の下位打線での投球。もちっとそこら辺を観察してみようかね。ま、それはそれとしてだ。―――奴のスクリューの正体が判明するまでに、試合が壊れなきゃいいけどな。このゲームは、久遠にやっちまったわけだし」
「ま、そっちは大丈夫っしょ」
「何でだよ」
「アイツだって、情けねえけど男だぜ?アリカ先輩。―――この状況で何も感じねえなら、もうアイツは男じゃない」
「精神論だねぇ」
「そりゃあ、メンタルに関する事ですし」
「-----ま、信じますかね。オラオラ、こんじょー入れてくぞー」
「うぃーす」
力の無い声で、そんな事を言うと、両者共に守備位置へ走って行く。
―――二回の表が、開始される。
そして、
「あーあ」
二塁守備で棒立ちしながら、そんな実に情けない声が石杖所在の喉奥から漏れた。
渋谷秀喜への初球の外角から入って行く軌道のスライダーを―――無理矢理引っ張り込んで、ポール際に叩きこんでいた。
ホームランの宣告と共に、ゆったりとホームベースまでを走って行く。
その様子を一つ息を吐いて眺めながら、石杖は息を吐く。
―――まあ、一発は別に構いやしないが。
ここで余計な事を考え始めるのが、久遠ヒカルという投手だ。
さあて、どうなるかね―――。そんな事を、思った。
1-1。
試合は一発で、振りだしに戻った。
三上。
三上。