海東学園ベンチの空気は、最悪と言っても過言ではないだろう。それ位、酷い有様であった。
頼りにしていたエースの突然かつ陰惨な終わり。
元々派閥が幅を利かせギスギスとした空気ではあったが、そう言った空気諸共暗黒の底に投げ出されたような空気感。
何となく、皆が感じているのだ。
あの瀬倉の有様に、あの瀬倉の結末に―――何処か、因果応報の気配がある事に。
根拠はない。
しかし、それでも―――そう思えずにはいられないシナリオが、そこに横たわっている。
派閥に属していた面々。そこから弾き出されながらも必死に媚びを売っていた面々。そのどれもが、何処か恐怖を刻んだ面持ちで瀬倉の結末を見届けた。
それに―――どうしようもない怒りと苛立ちを感じているのは、中之島だった。
「テメエ等-----なにボサッとしてんだ。次から攻撃が始まるぞ。さっさと準備しやがれ」
そう彼は声をかける。
しかし、反応は薄い。
水の底に声をかけているような感覚だ。音が濁って、届かない。
その不甲斐ない姿に、更に声を荒げんと拳をあげようとして―――その手が、掴まれる。
「-----渋谷?」
そこには、渋谷秀喜の姿があった。
いつもの、何処か能天気でマイペースな姿ではない。見た事も無い程、真剣な目をした姿だった。
ゆっくりと、口を開く。
「------オラは、瀬倉がどういう人間なのか、解らんだよ。怖い人間だったのか、卑怯な人間なのか、-------噂ばかりは聞いていたべ。オラ自身はアイツとそんなに仲良くなかっただよ。だから、どういう人間なのか、今でも判断は出来ないべ。でも、------あのマウンドで、逃げ出さずに勝負したって事だけは、解るべ」
あのイニングでの、瀬倉。
執拗な弱点(かどうかはこちらでも判別できないが)を突かれ、塁を埋めてしまい―――それでも尚、霧栖弥一郎と真っ向勝負を挑んだ瀬倉。
「まだ二点ビハインド。全然勝負できる点差だべ。それくらいオラが取り返してやる。―――だから、試合が終わるまで、必死に前を向こう。そうじゃなくちゃ、瀬倉に申し訳がたたないべ」
その言葉は、何とも意外な台詞だった。
何処までもマイペースだと思っていた男から発せられた言葉の数々は、”前を向け”という実にシンプルなメッセージだ。
でも、その言葉の端々で解る事もあった。
この男は空気が読めない訳ではない。
ただ、公平なだけなのだと。
この男は―――野球を通して見える人物というものを、ちゃんと見ている人間なのだ。
だから、「瀬倉に申し訳が立たない」などという、中之島では口が裂けても言えない事でも、何の恥ずかしげもなく言えるのだ。
「ふ------ははっはははははは」
思わず、中之島に笑みがこぼれてしまった。
「な、中之島?オラ、何か変な事言ったべか?」
「変な事って-----変な事しかいってねぇよこの馬鹿。ははははははは」
つられて、部員も―――小さく、小さく、笑みが浮かび始めた。
ただ、一人を除いて―――。
「-------」
蛇島桐人。
彼はその恐怖の真っ最中にいる人間なのだから―――。
※
幾重にも重なる敗北の記憶。
それは何処までも恐怖を煽っていく。
敗北の瞬間に生まれる、後悔。そして失望。それは常に投手が抱えている恐怖だ。
時に一点で勝敗を決する場面がある。勝負の分水嶺を分けるような瞬間がある。その時打者と相対するピッチャーは、その恐怖を押し殺し敵と相対せねばならない。
恐怖を叩き潰す方法は、いくらでもある。
しかし―――久遠ヒカルは持ち合わせていなかった。
自らの恐怖に駆り立てられ、ピッチングを崩され、更なる恐怖を味わわされる―――その悪循環の果てに、今の自分がいる。
―――コースなんて、関係ない。
何処に決まろうが、緩んだリリースから放たれるボールに価値なんてない。
―――ど真ん中でもいい。抜けてワンバンしたって構わない。それで打たれるならまだ心の内に納得が出来る。全力で投げてその全力を打たれるなら、それは自分の力不足だ。仕方がない。けれど逃げに逃げて、逃げた先で突き落されるような、そんなみっともない負けだけは、したくない。
心の奥底で憎み、怨み、蔑んでいた瀬倉ですら―――最後の最後、霧栖弥一郎から逃げずに、スクリューを放ったのだ。
今の自分は、瀬倉以下だ。
逃げ続けて、逃げ続けて、その果てにここにいる。
自分が打たれるかどうか、という事ばかりで―――相手打者と向かい合う気持ちを、忘れていた。
奇しくも―――それを思い出させてくれたのは、怨敵の瀬倉であった。
何も関係はない。
ここにおいて―――今自分は、全力を尽くすだけだ。
※
初球のスライダーを空振り、ワンストライクが入る。
蛇島は、見る。
相対する男の、姿を。
ノーワインドアップから足を上げ、腰を落とし沈ませボールが放たれる。
球は真ん中低めのコースに、唸りを上げるように向かって行く。
蛇島は、迷う事無くそのボールに手を出した。
しかし―――。
「ストライク!」
球はワンバウンドし、キャッチャーによってせき止められていた。
―――あのコースからも、更に曲がるのか!
間違いない。腕の振りが鋭くなっている。フォアボールと被弾を繰り返し、既に四失点を喫している眼前のピッチャーが。
三投目が、放たれる。
球は、アウトコースへ流れていく。
先程空振ったスライダーが、蛇島の頭に掠める。思わず―――スライダーのタイミングに合わせ、バットを振った。
「ストライク!バッターアウト!」
蛇島は―――ものの見事に振り遅れ、三球三振。
―――何なのだ。一体、何が起きているのだ。
不可解が、グラウンドに砂塵のように溢れている。
左肘が壊れた瀬倉。そしてまるで別人かとばかりに進化を果たした久遠。
この場で、一体何が起こっているのか。
その正体を掴む事の出来ぬまま―――いつの間にか、彼からいつもの笑みが消えていた。
※
―――えらい、違いだべ。
先程、一発をお見舞いしてやったピッチャー。しかし一目見ればわかる。今彼は間違いなく立ち直っているのだと。
不思議なものだ。
試合の中途で何もかも壊れてしまうピッチャーもいれば、こうして途中で立ち直れるピッチャーもいる。
―――こういう時、嘆くべきか歓迎すべきか。チームには悪いけど、オラは間違いなく歓迎するべ。
強靭なまでのパワーを誇る、生粋のスラッガー。そう生まれついたからには、まともな勝負というものは次第に減って来る。
そう言うバッターであればあるほど、彼等は勝負に飢えていく。
―――全力と全力のぶつけ合い。いいべ。本当に、これが望んでいた事なんだ。
初球の真っ直ぐを打ちに行く。
刺し込まれ、キャッチャーミットを打球が弾き飛ばす。ファウル。
―――でも。それでも。この場で相手の心を折るのも四番の仕事だべ。
さあ、来い。さっきの瀬倉の意趣返し。
―――決め球の、スライダー。万全のそれを、打ち砕く。
二球目―――スライダーが、放たれる。
途中まで真っ直ぐの軌道を描きながら急速に大きく曲がる、スライダー。
内角を抉っていくそれに―――そら来た、と渋谷は振っていく。
だが―――。
―――まだ、曲がるのか?
膝元に沈んでいくスライダーは、予想した軌道よりも更に大きく沈んでいき―――渋谷は困惑しながらも、無理矢理にバットを、軌道に入れた。
弾け飛ぶような、金属音。
跳ねる打球は―――一二塁間をライナーで飛んで行く。
そして、
「アウト!」
セカンド石杖の決死のダイビングキャッチにより、やむなくアウトに。
湧き上がる帝王側のベンチの声を聞きながら、一つ渋谷は溜息を吐いた。
―――そうだそうだ。帝王にはこの二遊間があったんだった。
当てれば打球の強さでヒットにできていた今までと違う。
予想以上に曲がったあの球に、無理矢理にバットを出した時点で―――自分の負けは、決まっていたのだ。
「-------」
何かを渋谷は言おうとして、けれども何を言うべきか結局忘れ―――何かを思い出したように一つがははと笑い、ベンチへと帰っていった。
次で試合は決着。長かったすねぇ-------。今度はもっとテンポよry