その瞬間の事はよく覚えている。
巨大な肉体から放たれる強烈な打球が、幾度も自らの背後を通り過ぎていった。
清本和重
滝本太郎
現在、二人して高校通算本塁打ランキングに名を連ねる強打者二人組にアベック本塁打を打たれた事を。
今まで対戦した強打者と一線を画す、あまりにも強大なパワーを持つこの二人組は、猪狩守のプライドを粉々に砕いた。
自分の中で最高と信じて疑わなかったボールが、まるでピンポン玉の如き風情で飛ばされていく様を見てしまった。
「――クソ!」
猪狩守は攻守交代と同時にロッカールームに入り、そのままグラブを叩きつけていた。
苛立たしかった。
何もかもが。
自分を誰より過大評価していた自分の盲目ぶりも、心配そうに見つめるチームメイトも、清元も滝本も。
つまりは――今ある眼前の現実が、苛立たしくて仕方が無かった。
怒りにチカチカする視界の中で――自分の眼前に立つ男がいた。
鋳車和観であった。
荒れた様子でロッカールームに入っていった自分を見かね、ついてきたのだろうか。
その様すら、――猪狩にとって苛々の対象でしかなかった。
「何だ?僕の無様を笑いに来たのか?」
皮肉ですらない、子供じみた言葉が吐き出される。
きっといつもであれば高いプライドがきっと許してはくれないであろう幼稚な言葉を。
そんな言葉を受けても、鋳車はただ猪狩を見つめるばかりだった。
その眼には、猪狩を心配する素振りなど一切ない。
そして、
「――よう自称エース。ここで立ち直らなきゃ本当に仮のエースで終わっちまうぜ」
そんな言葉を、口にしていた。
猪狩は何かを言い返そうとするエネルギーが脳内で一瞬湧き上がり、そのまま沈殿していった。
見事なまでに――鋳車の言葉は猪狩の崩されたプライド蹴飛ばしていたから。
「お前を笑いに来たかって?お前をあと2、3回で交代させなきゃならない。だからリリーフも準備しなくちゃならない。勝手にそんな妄想をしているお前程、ベンチは暇じゃないんだよ」
つつく。
つつく。
鋳車の言葉は――猪狩の山より高く海より深いプライドを見事に突いていた。
「――舐めた態度でマウンドに上がんな」
そう最後に言い残し、鋳車はそのままロッカールームを出る。
向かう先は、ブルペン。
「――君が投げるのか?」
鋳車は四日後に帝王実業との練習試合に登板予定だったはずだ。それ故に今日は出さないと決まっていたはずだ。
「練習試合は、相手との信頼関係で試合が行われている。お前がさっさと降板して一枚落ちのピッチャーを出しちゃ相手に悪い。西京高校だってエースを出してやっているんだ」
鋳車は、突き放したようにそう言い切った。
猪狩は――その瞬間に、自分を取り巻くすべてに恥ずかしく思えた。
何を自分は苛ついていたのだ。
本来投げるべくもない場面で投げなければならない鋳車こそ、その権利があるはずなのに。
「――待ちたまえ」
猪狩は、その姿に、思わず宣言した。
「この試合――僕が全イニングを投げ切る」
※
その後、猪狩は思い知った。
鋳車にとって猪狩は自分の命綱だ。
奨学金。母親の勤務先。その全てが猪狩家の財閥により提供されている。
その命綱に――多弁でない鋳車がわざわざあれだけ辛辣な言葉を投げかけた意味を。
このままでは、自称エースで終わってしまう。
その通りだ。
自信が打ち砕かれ、砕かれたそれらを掻き集め、もう一度作り直す。
その作業が出来なければ――自分はただの口先だけの男となってしまう。
――借りは、返す。
それから猪狩は、一度自分の投球を壊し、再構築する決意をした。
その結果が、これだ。
「――うぉ!」
全球直球を使っての投球を以て――三者連続三球三振。
三番佐久間は高めの直球にバットを掠る事すら叶わず、三振に終わった。
「悪いけど――甲子園は僕等が行く」
猪狩守は、成った。
自らが望む姿に。自らが思うエースに。
鋳車という存在によって。そして自分の決意によって。
生まれ変わった、その直球によって。
――口先だけでない事を証明してあげよう、鋳車。絶対に――『借りを返す』
ふ、と笑い――猪狩守は三振に終わった打者を一瞥する事も無くベンチへと帰っていった。
※
鋳車さーん、と声が響いた。
「----はい?」
「事務室に鋳車さんあての手紙が届いていまーす」
猪狩コンツェルン傘下のリサイクル工場内。休憩を取っていた鋳車母の下に、事務員の女性――嵐山美鈴が手紙を持ってきていた。
「ありがとうございます。帰った後に、確認しますね」
「鋳車さん今日早番でしょ?もう上がってくれてもいいですよ」
「いえいえ。そんなの申し訳ないですよ」
以前、一日の大半を空き缶集めに奔走していた時期を思えば、法定休日があるだけとんと楽になった。その上に有給まで使うとなると、どうしても尻込みしてしまう。
「そんな事言わないで下さい。ただでさえ鋳車さん働き者なんですから。――ほらもう、有給も振休も溜まりまくっているんですから、ちゃちゃっと休む時は休む」
ほらほら帰った帰った、と嵐山は鋳車の背中をぐいぐいと押していく。
「長期の休みだって別にとったって構わないんですから。有給使わないとこっちだって怒られるんですから―。――それじゃあ、また明日ね鋳車さん」
嵐山は切符のいい笑みを浮かべながら、鋳車母を工場外に追い出した。
とはいえやる事も無く、近場の業務用スーパーで買い物だけ済ませ、さっさと寮に戻る。
ここ一年。随分と生活に余裕が出て来た。
彼女は、この前ようやく携帯を購入した。
仕事に必要だから、という理由もあるのだが――目的は、今夏のあかつき大付属の地区予選の結果を見る事だ。
自分の息子が元気に投げているのだろうか。怪我でもしていないのだろうか。息子とは定期的に連絡を取り合っているものの、こと自分の事となると和観は信用が置けない。弱音を吐く事を絶対にしない性格をしている。
サブマリン対決で一躍メディアに取り上げられ、一部で批判の的とされている事もあった。その時ですら「別に何ともない」とそっけなく返したのみであった。
そして――7月の間だけ、ネットTV契約をしようと思っている。
息子の投げている姿を、携帯越しでもいい。見てみたかったのだ。
――あ、そう言えば。
手紙を受け取っていた。
その事に気付くと同時、彼女は差出人を確認する。
「-----猪狩守---君?」
鋳車母は、困惑と同時にその差出人を見た。
知っている。和観と共にチームを引っ張るエースで、そして和観があかつきに入る為に骨を折ってくれたという少年だったはずだ。
丁寧にレターナイフで便箋を開き、手紙を取り出す。
”鋳車和観のご母堂様。
突然のお手紙失礼いたします。
貴女様のご子息の返礼の品として、同封のものをお受け取り下さい。”
それだけが書かれた手紙を見ると、便箋を再度見る。
そこには、
「――ホテルのチケットに、-----甲子園特別指定席券?」
そのチケットの間にも、また一つ手紙が挟み込まれていた。
――我々あかつき大付属は必ずや甲子園に参ります。どうぞ、ご子息の雄姿を見る為にもお使いください。
「-------」
――ねえ。カズミ。
思う事は、一つだけ。
本当に、たった一つだけだった。
――本当に、良かったね。素敵な友達が出来て。
※
あんなものを送ってしまったのだ。
最早猪狩守に、退路は無かった。
どんな状況であれど――勝つ以外の未来はあってはならない。
――鋳車。お前がいなければ僕はここまで来れなかった。
だから。
だから。
――この場で僕が甲子園のチケットを手に入れる。それこそが――色々な意味において、お前への借りを返す事になると思うから。
※
――ホンマ、とんでもない投手やなぁ。
全球直球。
三者連続三球三振。
――一度でもいいからやってみたいわ、あんなピッチング。
マウンドに立つ館西は呆れながらマウンドに立つ。
一番に立つは――またしても、猪狩守。
――一番最初にマウンドに登って、で一番最初に打席に立つ。無茶苦茶カッコいいやん。
選ばれた天才。
それ故の行動。
本当に――現実から浮き出たあり得ざる存在だ。
――まあ、俺は俺のピッチングをするだけや。
まあ、見てくれや。
そら投手単品で見たら、アンタとは格が違うやろなぁ。
けれども、
「俺は――この9人全員で、アンタ等を叩き潰してやるわ」
左打席で殺気十分といった具合に構える猪狩守に――館西はニッと笑った。
第一投が、投げられようとしていた。
パワプロでペナントやっていたら、能見さんが0勝15敗とかいう悪夢の成績になっていた。どうしてそうなった。