眼前にスカした男がいやがる。
イケメンで、背も高くて、スタイルもよくて、――その癖に野球の才能はいっちょまえに持ち合わせていて。
――おい。ふざけんじゃねぇぞ。
神宮寺は、心の中で怨嗟の声を上げる。
――お呼びじゃねぇんだよ、テメェは。
神宮寺は、打席に入る。
腰を落とし、屈むようなフォームで。
――待ってろよこの野郎。お前なんぞさっさと滅多打ちにして引き摺り降ろして、出させてやるよ。
その眼には、殺意のような執念を宿していた。
――お前じゃねぇ。鋳車を出せ。
※
神宮寺光は、引っ込み思案の子供だった。
親の言う事に逆らう事なんてなかった。自分の欲望を吐き出す事すらなかった。
そんな自分が、嫌いだった。
野球が大好きだった。
けれども、それでも親のいいなりを続けていた。
――反吐が出る。
かつての自分を思うだけで、気分が悪くなる。
親が怖かった。
理由なんて解らなかった。
お勉強しなさい、という声に身体が硬直してしまう。
親に見捨てられる事が、何よりも怖かったのかもしれない。
漫画のキャラに憧れて、幾世代も前の不良のナリをした。中学受験もわざと失敗した。親へのささやかな反抗。されど、その程度でしかなかった。面と向かって真っ向から親と喧嘩した事なんて一度も無かった。
それでも――知ってしまった。
貧乏。
死別。
絶望。
――その全てを背負いながらも、それでも尚野球を続けている執念の男を。
それに比べればなんだ。
親が怖くて野球が出来ない自分は何なのだ。
かたや――人生の底の底で、それでも足掻きながら野球にしがみ付いている男だっているというのに。
中学生になった後、人生ではじめて親と大喧嘩した。
野球がしたい。
その一心で。
そんな実は繊細な男、神宮寺光はそうして野球人生の壁を一つ乗り越えた。
だからこそ、思う。
叶う事なら――壁を超えさせてくれた男と、勝負したいと。
※
――解ってんだよ。どうせ直球だろ。
神宮寺は、心中で一つ鼻を鳴らす。
――そりゃあそうだ。そんな直球持ってたら変化球なんざ使う必要なんざないだろうな。だが俺にはそんなもん通用しねぇ。
神宮寺は、じぃと猪狩の投球フォームを観察する。
――本当にあかつきの連中はフォームで緩急をつけに行くピッチャーが多いな。
ゆらりとしたワインドアップの動作。
ゆっくりとした腰の回旋。
この一連の動作で、対応するバッターにはゆったりとしたリズムが生まれる。
タイミングの取り方も、どうしてもそのリズムに合わせてゆっくりとなる。
そこから、猪狩はフルスピードで足先の接地とリリースを行使する。
徐行していた車が、一気にアクセルを踏み込むような感覚というのだろうか。
想定していた投球のリズムと、ズレが存在する。
ボールをリリースするその前段階で、猪狩は既に緩急を生み出している。
――だが、こと俺はそういうフォーム上のタネの対応は得意なんだよ。
低い重心から、神宮寺はバットを打ちおろす。
神宮寺の眼には、一本の線が見える。
――ボールは、そのボールだけを見るんじゃねぇ。その軌道に線を通して、線の間にバットを出すんだよ。
点と、線。
神宮寺は前足を踏み出し、自らの身体を軽く前へ出す。
――ま、俺はそこから
ニッと笑って、彼はバットを出した。
ギィン、という金属音と共に、ボールはレフト方向へと向かう。
「ち」
神宮寺は、舌打った。
バットの上方部分に擦る様に打ち放った打球は、三塁線を超えファールとなった。
――合わせたつもりだったんだがな。やっぱりフォームのカラクリとは別に、単純なボールの質そのものもちと違うみてぇだな。
フォームによる緩急。それと同時に――恐ろしく綺麗な縦回転軸の真っ直ぐ。
回転軸が縦に真っ直ぐで、その上回転量そのものも大きい。
――成程。こりゃ難敵だ。
神宮寺は、素直にそう認めた。
直球を打つにしても、猪狩守には二つの関門がある。
一つ。緩急をつけたフォームのタイミングを合わせられる事。
二つ。縦回転軸の真っ直ぐにバットを合わせられる事。
一球、ボールを見ただけで神宮寺はここまで看破した。
――大丈夫。次は合わせる。
ゆら、とまた重心を下に落としながら神宮寺はまた構えた。
★
猪狩守は二球目を投じる。
インハイボールゾーンの直球。
神宮寺はそれを見逃し、カウントは平行となる。
三投目。
「--------」
進のサインは、外角のスライダー。
真っ直ぐにしっかりと合わせてきており、高低のゾーンを見極めているバッター。
ここで外角の揺さぶりをかけたい弟の意図は、正しく守は認識していた。
見逃そうとも、空振ろうとも、外角に変化球の残像を残し見逃しを誘いやすくする上でスライダーは有効だろう。今、眼前のバッターを打ち取る事に注視するならばベストな選択であろうことも。
だが、猪狩守は首を横に振った。
――真っ直ぐで攻める。
それをしっかりと、進に目で伝えた。
三投目は、アウトハイへの真っ直ぐだった。
これも神宮寺は見逃す。
際どい場所であったが、審判はボールを宣告する。
ワンストライク、ツーボール。
四投目。
今度はインへと放たれた直球。
――やっぱりそう来たか。
神宮寺は、このコースを待っていた。
左ピッチャーからのインコース。
それは神宮寺が得意とするコースであった。
神宮寺は足を上げ、接地する。
接地は、先程よりも若干一塁側に寄せた方向に。
その結果――インサイドへバットを出すスペースを生み出し、そのまま引っ張った。
身体を若干前へ差し出しながら、――まるで身体ごとボールへぶつかる様な特異な動きで。
擦る様な金属音と共に、打球は三塁線上に鋭いライナーとなり落ち、ヒットとなった。
ライトからの送球の間に神宮寺は二塁を陥れ、――この試合初のヒットとなった。
※
その後――。
六番、七番を連続で三振を奪い、パワフル高校は結局無得点のまま終わった。
「――今の攻防で解った。この勝負の肝はあの如何にも頭の悪そうなヤンキーの前にランナーを出さない事だ。アイツだけは、僕の真っ直ぐに対応できていた」
猪狩守はイニング終了後、そう進に告げていた。
「そうですね。-----それと同時に、真っ直ぐ一本に絞っても一発の可能性が薄い事も解りました」
先程の打席を進は思い浮かべる。
打席での神宮寺の打撃は、軽く衝撃であった。
彼は打席内を自由に動き回っている。
足を上げ、接地する場所が、四球それぞれの対応ごとに違っていた。
それに――インパクトの直前、彼は身体を前へスウェーしバッティングを行っていた。
普通の技術ではない。
バッティングは、ほんの数インチのズレが存在するだけで打球が変わる。だから皆、バッティングフォームを固め、出来るだけ最小限の身体の動きでバットを出せるように血の滲むような努力でバッティングフォームを固めるのだ。
しかし、彼はそうではない。
一球一球。それぞれのコースや球種に合わせ、一定の動作を付加する事によって自由自在にバッティングを変えている。
足先の接地場所の変更によって打撃のスペースを作る。自らの身体ごとバットを出す事で――恐らくは、自らのバッティングに相手の球を合わせに行っているのだろう。そういう、常識外の技術によって、神宮寺のバッティングは成り立っている。
それ故に――身体を自由に動かす分、バッティングそのものは綺麗なレベルスイングを堅持している。そもそものパワー自体もそれほどない為、ホームラン自体は守の球威であればそうそう生まれないであろう。
「二回り目から変化球を解禁する。何を投げさせるかはお前に任せる。駒坂からの上位打線は基本線は三振を取りに行くぞ」
守は淡々と、弟に指示を出す。
「解りました」
そして、それに素直に進は頷きを返す。
「恐らく、ロースコアの投手戦になるだろう。館西が思ったよりもいいピッチャーだったからな。――九回を投げるにあたっては、変化球をあまり相手に見せたくない。基本線は直球での勝負でいく」
「はい。――ねぇ、兄さん」
進は、微笑む。
「何だ」
「――楽しそうですね」
その言葉に、少しだけ守は虚をつかれたように表情を固めると――
「ふん」
そう言って、仏頂面を作った。
「下らない事を言っていないで――パワプロの打席を見るぞ」
四番パワプロが、打席に入る。
その眼は――ゆらゆらと揺れる炎のように、静かに、燃え盛っていた。
「お前の成長も、見せてもらおう」
そう――守は呟いた。
上茶谷、負けちゃったか。まあ仕方なし。ここまで上手くいってたんだから失敗するのなんて当たり前。それにしても筒香大丈夫かな-----。