上体が反り返り、足が跳ね上がる。
跳ね上がった爪先が地面に叩きつけられる瞬間、その腕は大きくしなる。鞭の如く返された右腕が、その勢いを緩ませる事無く振られる。
―――打者が投げつけられたボールを判断する際、判断材料にする要素はいくつか存在する。その中で最も着目する点は、腕の振り、リリース、そしてボールの軌道と回転である。
腕の振りが緩いかどうか。
リリースが球種によって上下しているかどうか。
直球とボールの軌道と回転が違っていないかどうか。
こういった諸々の要素を勘案し、バッターはピッチャーのボールに対応する。直球か、変化球か。コンマ一秒を争う駆け引きの中、バッターは常にピッチャーの「直球との動作の差異」を読み取り、対応しなければならない。
しかして、山口に対して―――それは不可能と化す。
腕の振りも、リリースも、軌道も、回転も―――変わらない。変わらぬ腕の振り、変わらぬリリース、変わらぬ軌道。全てが同一の過程を経ながら、直球とフォークボールをあの男は投げ分けていく。
所謂、フォークピッチャーと呼ばれるピッチャーの厄介な点はここにある。直球と変化球の差異が、バッターに全く伝わらないのだ。バッターの手元に来るまで、直球か変化球か解らない。
更に―――あのマサカリ投法の視覚的効果が実に疎ましい。
足が跳ね上がり、その勢いを以て放たれるボールは、凄まじい球威が存在する。足が接地し、球が放たれるまでの時間が、一般のフォームと比べて恐ろしく速いのだ。上体を反り返している分、身体を沈ませる動作が速く、ダイナミックである。そして叩きつけられる様に投げられるそのボールは角度があり、凄まじい球威を孕んでいる。
霧栖弥一郎は、現在その男と対峙している。
フリーバッティングをしていた姿を一目見た山口が、自らバッティングピッチャーを買って出た。―――無論、バッティングピッチャーと言えど、手を抜く男ではない。その脅威をざまざまとルーキーに見せつけていた。
差し込まれる。空振る。
化物じみた落差のあるフォークボールと、ストレートのコンビネーションは、とてもルーキーの手に負えるモノではない。
―――このボールを前にして、大抵のルーキーは心折れる。それが解っているからこそ、段階を踏まない限り、山口は基本的にルーキーと対戦することは無い。
しかして、現在クリーンナップを打つ二人には、特別にそれを行った。
友沢亮。石杖所在。この両者には。
友沢は打てずとも折れぬ不屈の心があった。
石杖は打てなくばとっさにヤマを張れる狡猾さがあった。
―――そして、それから一年が経ち、眼前の男に山口は何を見出したのであろうか?
山口は見る。霧栖弥一郎の眼を。魂を込めた山口のボールを前に、この男の眼は何を写しているのかを。
その眼は、輝いていた。
山口のボールを前に、恐怖よりも、諦念よりも―――純粋な好奇と驚嘆の感情を浮かべていた。
凄いボールだ。故に打ってみたい。
そんな、シンプルな感情だけが、そこに在った。
―――野球小僧め。
ここまで純真な眼をしたルーキーは、久しぶりだ。
―――よろしい。ならば、見せてやろう。
―――山口賢のボールを、その真髄を。
自然と、山口の心にも火が灯っていく。静かな闘志に、蝋燭の様な熱が灯っていく。両者の勝負は静かに、しかして確かな熱を以て続けられていく。
―――そして、十五球目。
「おおう!!」
低めに決まったフォークボールを掬い上げ、霧栖は外野まで飛ばした。
―――ルーキーでこれが出来たのは、はじめての事であった。
そのボールを目で追いながら、山口はゆっくり、目を細めた。
※
「―――明日のオーダーを発表する」
あかつき大付属の部室内で、監督の声が木霊する。
ジッと、部員はその声に耳を傾ける。
一番 矢部(左)
二番 田井中(二)
三番 猪狩進(捕)
四番 パワプロ(三)
五番 横溝(中)
六番 柳(一)
七番 山岸(右)
八番 春山(遊)
九番 鋳車(投)
ざわめきが、起こった。
―――え、何で、と。
パワプロの隣にいた矢部がひそひそと話しかける。
「おかしいでやんす。何でパンチ力のあるオイラが五番じゃないんでやんすか」
「ちょっと黙ってろ」
空気の読まない駄眼鏡の言葉をピシャリと断ち切りながら、パワプロはそのオーダーを見ていた。
誰もが、いつものクリーンナップを予想していた。
進、守、パワプロのクリーンナップ。投手を別に出す時も、基本的には守は一塁の守備につく。それほどまでに、猪狩守のバッティングは天才的であるのに。
監督は、ゆっくりと口を開いた。
「―――少し、アイツには自分の投球を見直す時間が必要だと判断した。今回は守抜きでやってもらう」
たかが、一回の炎上。恐らくそれだけで信頼を落とすようなプレイヤーではあるまい。―――以前の西京高校との試合は、それ以上に致命的な欠陥を監督に見せてしまったのだろうか。
「相手ピッチャーは恐らく山口だろう。言うまでも無く難敵だ。一巡目は打てないものと思い、しっかりと球筋とタイミングを観察する事。勝負を仕掛けるのは二巡目からだ。それは恐らく相手も同じだろう。―――進。明日はお前がキーマンとなる。ピッチャーは互角だ。差をつけるならばバッテリーでしかつかないぞ」
「はい」
「パワプロ。今回初めて四番を打たせるが、別に何か変える必要はない。力んでバッティングを崩すなよ。お前はいつも通り、ランナーを返す事だけに集中しろ」
「はい!」
「鋳車。明日はロースコアの投手戦になる。お前が粘らない事には勝てん。頼むぞ」
「解りました」
「それじゃあ、解散だ。後片付けしたら速やかに帰宅しろ。隣県に行くから、明日は早いぞ。さっさと寝てさっさと起きろ。寝坊なんざしてみろ。即座に二軍に叩き落してやるからな」
※
「―――猪狩」
後片付けの後、一人の男が息を切らして河川敷の壁に向かって投げ込みを行っていた。
「ああ、パワプロか。丁度良かった。まだちょっと時間があるだろう?付き合え」
「あ、ああ-----」
事の真相を聞こうか聞くまいか―――悩んだが、今は申し出を受ける事にした。
以前、鋳車と河川敷にて打席勝負をしていたと猪狩に話すと、猪狩も何故かこの場によく来るようになった。曰く、河の音と車の音しか聞こえないから、静かで集中できるらしい。
バッターボックスに立ち、猪狩の球を打っていく。
―――その全てが、高めの直球であった。
パワプロはその全てをバットに当てた。ヒット性のモノもあれば、フライもゴロもあった。その割合はそれぞれ均等程度であった。
「-----空振りは、やはり取れないか」
猪狩は表情を歪ませ、その結果を受け入れた。
「鋳車の直球は、僕より十キロ以上遅い。それでも奴の高めの直球は悉くバットが空振る」
「ああ」
「-----僕が監督に言われた事は、たった一つだ。“プライドを以て相手に対峙するのがエースであって、プライドに拘る馬鹿はただの二流だ”ってね。僕は、直球で相手をねじ伏せる投球にプライドを持っていた。打たれても尚、そのプライドに拘った。三日前、清本に直球を打たれた時、僕はすぐさま配球を変えなければいけなかった。進だってそうしようとした。そうすれば、滝本の二本目は、防げたはずだった。あの時の僕は、相手と対峙する事にプライドを持っていなかった。―――アレは、背信と言われても仕方ない、情けないピッチングだった」
「------」
「だが―――僕はそれでも、直球に拘る。拘り続ける。その為には、今の直球は、一流のバッターには通用しないのだと言う、現実をまずもって受け入れなければならない」
だから、
「僕は、直球を強化する。沈まず、まるで浮かび上がるかのような錯覚すら覚える、直球を。如何なるバッターも、軌道より下を振ってしまうような、直球を」
「そうか----」
「これが完成するまで、エースは預けておく。そう鋳車に伝えておいてくれ」
付き合わせてすまなかった、と猪狩は言うと手早くボールを回収し、ランニングしながら家路へと帰って行った。
夜風が、やけに冷たかった。
WBC、よかったなぁ。個人的に、平野選手がとても好きになりました。緊急招集であそこまでやってくれるとは-------