ラブライブ!サンシャイン!!アンソロジー『夏――ついに来た』 作:鍵のすけ
でお馴染みのカゲショウさんです!どうぞ!
蛍光灯が仕事をしていない教室。窓から差し込む柔らかな夕日だけが私たちを照らしていた。
ふふっ、二人だけの世界ね、なんて少しおどけてみたけれど、私の目の前にあるのはピクリとも反応してくれない。しょうがない事だけれど、まるで私が痛い子みたいな気がして納得いかないわね。
「その、ちょっと……いいかしら?」
こんな石のようなのには伝える事を伝えた方が手っ取り早いでしょ。早く本題に入りましょ。
二回程深呼吸をして、視線をまっすぐ相手に向ける。私たちが何も言わないからあたりの音だけがこの教室に響いている。
部活動で頑張ってる人の声、風の唄、悪魔のささやき……までは残念ながら聞こえないけれど、少し緊張している私からすれば、どれも心を落ち着かせる自然音だった。
……よし、今なら言える気がする。
「あなた、よかったらヨハネの……。いえ、私の――――っ!?」
不意に誰かがこの教室に近づいてくるような足音が聞こえて、言いたかった言葉を止めてしまう。ふ、ふふふ……。この堕天使の私がたったそれくらいの事で動揺してしまうなんてね……。それに隣の教室の扉が開く音がしたからここには来ないじゃない!!
はぁと肩を落としてため息を吐く。……まぁでも、さっきので余計な緊張もどこかへ行ってしまったわ。今ならきっと言える……っ。
すっと手を伸ばして滑らかな、けれど微かに凹凸を感じるその表面に指を這わせる。
そして、ある一点で指を止めて、耳元で囁くように私は告げた。
「…………好きよ、あなたの事。ふふっ」
瞬間、バンッととても大きな音を立てて私の向かいの窓が開く。びっくりして思わず「ひゃっ?!」って変な声が出てしまったわ……。
誰がやったのかも、開かれた窓の向こうに誰がいるのかも大体予想できるけれど、私は頬が引き攣るのを感じながらそこへ顔を向けた。
「愛がっ、足りないよっっ!!!」
窓の向こうには予想通りというか何というか……。険しい表情をした千歌の首から上があった。正確には鎖骨辺りから上なんだけど、そこはどうでもいいわね。
「ミカンへの愛が足りないよ、善子ちゃん!!」
「えぇー……」
そう言われても……。というより、たとえどんなにミカンが好きでも、ミカンに告白なんてしないでしょ、普通……。
私は掌の上にある少し小さめのミカンを横目に、こうなった経緯を思い返した。
秋もすっかり深まって少しだけ肌寒くなり始めたこの頃。私は夏の時のように夏風邪をひかないかが少しだけ気になっていた。堕天使でも運が悪ければ風邪をひく。それはこのヨハネが身を持って証明したわ。
とは言っても、風だけはひきたくないわね。私は他の人より少しだけ運が悪いから、風から何かが併発するかもしれないし……。中学生の頃、夏風邪からのインフルエンザと肺炎を併発した時は、流石のヨハネも死ぬかと思ったわ。
落ち葉を吹き上げる風がちょっと古い校舎の窓をカタカタと揺らした。
「寒いわ……」
自分の身体を抱きかかえるようにして、中間服の袖の上から腕をさする。そういえば肌寒いと特に暖かくなるわけでもないのにこうするのは何でなのかしら? ヨハネの生命創造の書(せいぶつのきょうかしょ)には載ってなかったわ。……まぁ、どうでもいいけど。
「それにしても皆遅いじゃない。今日の練習どうするつもり?」
部室の中にはヨハネ一人。話し相手になってくれるリトルデーモンもいなくて、正直暇ね。というか同じクラスのはずの花丸とルビィはどこ行ったのよ。
殺風景な部室じゃ、この堕天使である私の暇は中々潰すことはできないわ、まったく……。
腕を伸ばして机に突っ伏してみる。…………机に触れてる頬が冷たいわ。
暫くこんな感じでうだうだと過ごしてみる。こんなだらしない姿、ヨハネのリトルデーモンたちには見せられないわね。
うだうだごろごろ。堕天使の息吹、なんて必殺技っぽい名前のため息。
「…………寂しい」
「ミカンだよッ!!!」
「ひゃえ!!??」
バンッと勢いよく開けられるドア。ただ、あまりにも勢いが付きすぎてドアが二回程開閉してるのだけど……。
そして三回目となると、必然的に勢いは衰え動きを止める。そしてその向こうからミカンの使者が部室に入ってきた。
「やっほー、善子ちゃん」
「千歌……」
人懐っこい笑みを浮かべて千歌が片手を上げる。
何で何事もなかったかのように入ってくるのよ、とツッコみを入れようとしたけれど、ガサッとビニール袋がこすれる音が聞こえて私は黙った。視線を少し下にずらすと、千歌の左手にはパンパンに膨らんだビニール袋が下がっていた。
勿論それをスルーするような堕天使ではないわ。だから私は、それは何なのか千歌に聞いてみる事にした。
「千歌、その袋はいったい何なの?」
「あ、これ? ふふーん、これはとってもいいものだよっ!」
「いいもの?」
そう言われるとなんか期待してしまうわね。さっきまで暇してたわけだからなおさら。
千歌もいつもより笑顔が輝いてるし、心なしかアホ毛も動いてない? これはかなり期待してもいいかもしれないわ!!
「そ、それで、中身は何なのっ?」
「ふっふっふ……。それはねぇ――」
催促するように聞くと、そんな反応を待っていたと言わんばかりに笑う。
何か掌の上でワルツを踊らされているような感じはするけれど、ヨハネは心が広いから何も言わないでおくわ。それより早く早く!!
千歌はもったいぶる様にゆっくりとした動作で袋を漁り、「じゃーん!!」というセルフ効果音と共にそれを掲げた。
掲げられたそれは蛍光灯の光を浴びて淡く光を反射する球体。橙色のボディはわずかな凹凸があって、頂点にはもぎたてなのか、まだ緑色のへたがあった。
………………………これって、あれよね。
「千歌、それって……」
頬が引き攣るのが自分でもわかる。それでも私は確認せざるを得ないわけで、堕天使ボイスを震わせながら私は千歌に聞いた。
「ミカン、だよ!」
…………あぁ、やっぱり私は運が悪いわ。暇で退屈だった所にいいものって言われたから期待していたのに、よりにもよってミカンだなんて……。
そんなヨハネの気持ちを気にする気配もない千歌は、嬉々としてビニールから取り出したミカンをテーブルに置いて山を築いている。
「ミカンはねぇ、風邪の予防になるんだよ。だから皆で食べて風邪ひかないようにしようと思って持って来たんだ~」
そう言っている間にもミカンの山は一つ二つと増えていく。というかどれだけ持って来てるのよ。貴女の腕力どうなってるの!?
そして九つの山を完成し終えると、千歌はふぅとようやく少し疲れたような表情を浮かべて「さぁ!」と私の前に積んだ山を手で示した。
「善子ちゃんも風邪予防に食べよう!」
「えぇー……」
そんな事だろうとは思っていたわ。というか皆で食べての下りで、もっと言えばミカンを取り出した時点で何となく予想はできていたわね。ふふっ、こういう嫌な予感だけはヨハネは外したことないのよ! 外れて欲しいとは何度も思ってるけどね!!
だけど私が渋るのは予想が当たっていたからではなくって、もっと単純な事からなんだけどね。
「千歌、私ミカンが嫌いなのだけど……」
「…………………………………………………………ぇ?」
突然神々の戦争に巻き込まれて、大切な友人を失ったかのような絶望しきった顔。多分今の千歌の表情はそう表現するのが一番適切ね。……まぁ、その前にどうしてそんな絶望した顔してるのよ、とツッコみを入れるべきなのだろうけど。
「ち、千歌?」
暫く反応を待ってみたけれど、何の反応も返さない千歌に流石に心配になる。
一応ヨハネのせいなのだし、大丈夫かなと思って恐る恐る声を掛ける。
千歌の眼が光輝いたのはその時だった。
「善子ちゃん、人生を棒に振るには早すぎるよ!! だから特訓しようよ!!」
「えぇー…………」
色々ツッコみたい。ミカンくらいで人生棒に振ってるつもりは無いし、だから特訓っていう流れが良く分からないわ。そして、それをいたって真剣な顔で言ってるのにもう一つツッコみを入れたいわね……。
勿論私はそんなことはしなくていいと断ったのだけれど、何故か千歌は首を縦に振ってくれなかった。
「私は絶対に善子ちゃんを見捨てたりなんてしないから!!」
「えぇー……」
――で、今に至るわけだけど……正直今でも何でこうなったのか良く分からないわ。
確かにミカンは風邪の予防に効くってマ……お母さんが言ってたし、千歌の風邪をひかないようにって気遣いは素直に嬉しいのだけど、やっぱり嫌いなものは簡単に好きになれないわ。
それに方法がおかしいのよ。何でミカン嫌いがミカンに愛の告白すれば治ると思ったの? もしその瞬間を誰かに見られてたら、堕天使でも引き籠って二度と顕現しなくなるほどのトラウマを植え付けて余計に嫌いになるわよ。
「うーんやっぱりそう簡単にミカン嫌いが治るなんてことは無かったかぁ……。だったら別の方法をとった方がいいのかなぁ」
「……まだ続けるの?」
「勿論だよ! これを期に善子ちゃんにもミカンが好きになってもらいたいからね!!」
「それは難しいんじゃないかしら……」
嫌いなものは好きになれなかったから嫌いなわけだし、わざわざ努力して好きになる必要性も感じないし……。
私の反応に少しだけ残念そうに千歌がはにかんだ。
「そうなんだろうけどね……。でも、やっぱり善子ちゃんにはミカンの事を好きになってもらいたいんだ」
「どうして?」
窓の外から手を目いっぱい伸ばして、私の手の上に置いていたミカンを掴みとる。
そして、千歌はその手にあるミカンのように明るい笑顔を浮べた。
「善子ちゃんが風邪ひいちゃったら私が心配になるし、寂しいからだよ!」
疑う余地もないほど屈託のない笑顔と言葉。千歌の言葉が私の脳内でリフレインして、何度も何度も響く。
呆然と千歌を見る事しかできない私に気づかないのか、千歌はその後も言葉を続ける。
「ほら、夏に善子ちゃん風邪で一週間くらい休んでたでしょ? その時も心配だったし、よく水をかぶって濡れてるしいつも風邪ひかないか心配なんだよ」
「千歌……」
ふ、ふん。別にすっごく嬉しいわけじゃないわ。最近はそうでもないけど、昔は孤立気味だったからこんな風に心配してくれる友達がいなくて千歌の言葉に感動したとかじゃないから!!
…………ヨハネの言動はイタイって言われるけど、千歌も大概よね。まったく。
「だから私にはもうミカンを食べさせることしかできないと思ったんだよ!!」
まぁ、何で其処に至ったのかは結局分からないままね。
別にミカンを食べなくても風邪の予防はできるし、なんなら風邪ひいた時にお見舞いに来てくれればそれで……。
「善子ちゃん?」
「ひゃ!? な、何でもないわよ! 別に変な事なんて考えてないから!!」
「私何も聞いてないんだけど……」
「ぅぐ……っ」
くっ、これは誘導尋問だったの? 千歌、貴女この堕天使を罠にはめるなんてなかなかの実力者のようね……!
…………でも、まぁ、千歌がこういってくれてるのだし、本当にこれを期にミカン嫌いを克服するのもいいかもしれないわね。それにやっぱり堕天使なのだから弱点は少ない方がいいし、そっちの方がカッコいいわね!!
こうして私は千歌の協力(というより主導)の下、ミカン嫌いを克服することを決意した。
「千歌。そういえば、今日皆はどうしたのよ。部室に来なかったけど……」
「今日は皆用事があるからお休みするって連絡来てたけど?」
「え?」
「え?」
そう言われて携帯を取り出すと、充電切れの為か画面は真っ暗だった。
昨日の決意からアルテミスが上り、アポロが再臨した日の放課後。少し遅れると言っていた花丸とルビィと別れて部室に来た私を待っていたのは、腕組みをした千歌だった。
「さぁ、始めるよ!!」
「えぇー……」
何を始める気? とは聞かなくても千歌がやろうとしている事はすぐに理解できたわ。要は昨日の続きをしようって言うんでしょ? 堕天使はお見通しよ!
という返しをする前に千歌はゴソゴソとスカートのポケットを漁って、親指の長さ位の幅をした細長い紐を私に差し出してくる。
何かと思ってそれを見ると、“ミカン食べ隊”と真ん中にでかでかと書かれたハチマキだった。しかも可愛くデフォルメされたミカンの絵が両サイドに描かれていた。
「えぇー……」
「これ付けて気合入れてくよ!! Aqoursミカン食べ隊結成の時だよ!!」
「部隊って言っても二人じゃない。そしてネーミングセンスが気になるわ……」
何でアイドルグループなのに“隊”なのよ。もっとそれっぽく、『太陽の果実に挑む淑女』みたいな感じでいいじゃない。ヨハネは堕天使だけど。
渡されたハチマキと千歌を交互に見る。白い布地のハチマキは蛍光灯の光を微量に反射して、千歌は輝く瞳で期待して私を見ている。…………つけるしか、選択肢は無さそうね。
私は一つ大きなため息を吐いて、ハチマキを頭に巻く。流石に“ミカン食べ隊”っていう名前が見えるのは恥ずかしいので前髪で隠す事にする。
「うんうん、よく似合ってるよ。善子ちゃん!」
「ハチマキが似合う堕天使ってなんなのよ……」
そんな堕天使は正直見たくないわね。堕天使といえば清純の象徴である天使が闇に堕ちた存在。小悪魔的なイメージがあるのに、ハチマキつけたら何か天使に戻ろうと頑張ってるイメージがあって嫌だわ。
「それで、何か方法はあるの? この前の様な方法はごめんよ」
「大丈夫、私は何も考えてないから!!」
「ないのに何でそんなに胸を張れるのよ……」
しかも身長の割に大きい胸が少し揺れて……べ、別に羨ましくは無いわ。ええ、本当に羨ましいとも狡いだとも思ってないわよ!!
別に何とも思っていないけれど、少しだけ千歌の胸を睨む。私の視線に気づいてないのか千歌は小首を傾げたけれど、すぐに気にするのをやめた。
「私にはないけど、何とかしてくれそうな人には心当たりがあるからだよ」
「それってダイヤに頼んでスパルタ特訓とかじゃないわよね……?」
「あはは、流石にそれはしないよー」
千歌のその言葉に少しだけほっとする。ダイヤに頼んだら多分延々とミカンを食べる羽目になってたかもしれないし……考えただけでもぞっとするわ。
千歌はにっと少し笑い、少し鳥肌が立った私の腕を掴で強引に私を部室から連れ出した。
「それじゃあ善は急げ。さっそく行くよ!!」
「ちょ、ちょっとどこへ行くっていうのよ!!」
「ついてからのお楽しみだよ!」
「ええー!?」
そんなサプライズ精神いらないわよ! そう叫んでみたけれど、あははと笑う千歌とすれ違う他の生徒たちが驚く声とで私の叫びは無と化した。
そしてあれよそれよの間に、私は千歌たち二年生の教室まで連れてこられていた。
何で教室? と思ったけれど、その疑問は千歌が教室のドアを開けた先に待っていた答えで理解できた。
「梨子ちゃん、手伝って!!」
「ち、千歌ちゃん!? いきなりどうしたの!?」
教室で一人何かを黙々と書いていたリリーが千歌のアポなし訪問に驚いている。というか協力してもらおうとしてるのに何の話も通してなかったのね……。
でも確かに、しっかり者で博識なリリーに知恵を借りるのはいい案かもしれないわね。
「梨子ちゃん、今ちょっといいかな?」
「え、あ、うん。学級日誌ももうちょっとで書き終わるから大丈夫だよ」
「協力して欲しいの!!」
「…………えーっと」
「千歌、ちゃんと主語つけて話しなさい……」
「あれ? 私言葉足りなかった?」
驚くほど足りなかったわよ。私がそう言わずとも、リリーの苦笑いを見て理解し、改めてリリーに頼み込む。
「実は善子ちゃんのミカン嫌いを直したいんだけど、何かいい方法無いか教えて欲しいの」
「あ、だからそのハチマキなんだ」
「ヨハネは恥ずかしくて今すぐ外したいのだけどね……」
「ふふっ。可愛いからいいじゃない」
……そ、そういう問題じゃないのだけど。まぁ、可愛くないよりはましなのだけどね。
というか、堕天使的には笑ってるリリーの方が可愛いとおも……って、わ、私は何を考えていたのよ!!
頭を左右に振ってさっきの考えを吹き飛ばす。まだ少しだけ頬が熱いわ。
「それで梨子ちゃん。ミカン嫌いを直すいい方法ってないかな?」
「私は物知りって訳じゃないからぱっとは思いつかないんだけど……」
うーんと持っていたシャーペンを頬に当てながら考えを巡らすリリー。まぁ、いくらリリーの頭が良いって言っても、すぐには出てこないわよね。
そして考え始めて千歌が二回程大きな欠伸をした頃、ようやくリリーがあ、と呟いて提案してくれた。
「“ハロー効果”を使うのはどうかな?」
「ハロー効果? 少し前にCMでやってたあのあいさつの魔法の事?」
ただ千歌の知らないワードだったみたいで、ものすごく純粋な瞳で首を傾げている。私も名前くらい位しか知らないけれど、少なくともあのCMの事ではないというのだけは確かで、私にも分かる事だった。
リリーも千歌に苦笑を浮かべながら、ハロー効果についての説明を始める。
「えっとね、千歌ちゃん。ハロー効果っていうのはあのCMじゃなくて、物事を評価する時に、その評価がある特徴によって変わっちゃうっていう現象の事なの」
「????」
「えーっと、つまり知らない人にでも真面目で清潔そうな格好をしてたら好感を持っちゃうような心の動きの事だよ」
「成程!!」
ようやくどういう物なのか理解できたみたいで、千歌は大きく数回頷いた。
私もさっとスマホで検索してみたけど、確かにそんな感じの事が書かれていたわ。よくこんな事を知ってるわね、リリーは。
「それで梨子ちゃん。どうすればいいの?」
「ハロー効果は良くも悪くも働くから細心の注意が必要だけど、取り敢えずミカンの良い所をアピールすればいいかな」
「成程!!」
つまりミカンのもの凄く良い所を前面に押し出して、悪い所を隠してしまおうという事ね。確かに好感を持てたら多少の事は気にならなくなると言うし、いい案だとは思うけれど……。
「えっと、リリー多分それって……」
「そうと決まればさっそく実行だね!『ハロー効果で克服大作戦』開始だよっ!!」
「え? あ、ちょ待ちなさ――」
「レッツ、ゴー!!」
私の言葉を聞かず、ここまで連れてこられた時のように腕を引っ張られていく。チラリと見えたリリーの顔には苦笑と多少の呆れが浮かんでいて、まるで私に「頑張ってね」と苦手克服とは別の意味で言っているような気がした。
「図書室!!」
「それは見れば分かるわ……」
特急千歌エクスプレスの次の目的地は浦の星女学院の図書室だった。
もしやミカンについて調べさせるとかじゃないわよね? この学校の図書室は割と大きくて蔵書も充実しているけれど、ミカンの事をピンポイントで記載してる文献を探すのはかなりキツいんじゃないかしら。私が占星術の本や暗部ローズ・ビアスの“悪魔の辞典”を探すのにどれだけ苦労した事か……。
そんな視線を千歌に投げつけると、流石に千歌も私の考えている事を理解したのか私の不安を否定してくれた。
「流石にこの中から本を探そうとは言わないよ。私も疲れるし」
「まぁそうよね。まだ常識的な判断が出来て良かったわ」
「まるで私が今まで常識的な判断できてなかったみたいな言い方!?」
「えぇー……」
自覚なかったの? あ、でも自覚あれの方がよっぽどよね。寧ろ自覚なくてよかったわ。
ほっと胸を撫で下ろすと、少しだけ不満そうに千歌が頬を膨らませた。けれどもパッとすぐにさっきまでのやる気にあふれた顔になった。
「それで、本を探さないのならどうして図書室に来たのかしら?」
「それはもちろん花丸ちゃんの知識を頼りに来たんだよ!!」
「あ、納得だわ」
図書室に来た時から薄々予感はしてた。花丸たちも来れない理由が生物の課題の調べものって言ってたから図書室にいるはずだし、ほぼ一〇〇%で会えるわね。因みに私はその課題はとっくに終わってるわ。
……まぁその事が少し誇らしく思える反面、終わらせるのをもう少し待って花丸やルビィと一緒にやりたかったと思う自分もいるわ。
「それじゃあさっそく突撃しよう!!」
「ちょ、図書室では静かにしないと――」
「しつれいしまーす……」
「えぇー……」
温度差激しすぎじゃない? つい一秒前までハイテンションだったのに、ほぼ無音でしずしずと入って行ったわ……。大雑把なのか器用なのか分からなくなってくるわね。
テンションの落差に戸惑いつつも、千歌の後に続いて図書室に入る。
らっら扉と壁を一枚隔てているだけのはずの室内は、放課後の喧騒とは隔離されているかのように静かだった。
聞こえてくるのは紙をめくる音、歩いている音、そして本当に小さな話し声だけ。この室内の静寂は、昨日から今日にかけて疲労した私にはとても心地いいものだった。
きょろきょろと千歌が室内を見回して、花丸を探している。多分ルビィと一緒にいるでしょうから、私はルビィを探すとするわ。
探し始めて一分もたたないうちに、本棚の陰にここ半年で見慣れた赤い尻尾を見つけた。
「千歌、ルビィを見つけたわ。多分花丸も一緒よ」
「でかしたよ、善子ちゃん。さっそくついて行こう」
こっそりと赤い尻尾に近づき、完全に姿を現したルビィの背後をつけていく。これ、ルビィが気づいたら凄く驚くでしょうね……。というか、こっそりついて行く必要があるのかしら?
二冊くらいの本を抱いて歩くルビィの後をつけていくと、窓際の読書スペースに出た。そしてそこには、殆ど予想通りにノートに何か書き込んでいる花丸がいるわね。
「あれ、果南ちゃん?」
「ぴゃあ!?」
予想外の人物がいたため、千歌が声を漏らす。そしたら当然だけれど、気づいてなかったルビィがびくっと小さく跳ねて驚く。
「ち、千歌さんに善子、ちゃん? い、いつから後ろにいたの?」
「ルビィが此処に戻るくらいによ。驚かせるつもりは無かったのだけどね……」
「う、ううん。ルビィが勝手にビックリしちゃっただけだから、気にしなくていい、よ」
あははと笑うルビィ。そう言ってもらえるのはいいのだけど、どうして元凶の千歌は我関せずみたいな顔で果南と話してるのよ。確かに珍しい組み合わせで気にはなるけど……。
「ねぇねぇ、何で果南ちゃんが図書室にいるの?」
「まるで私が此処にいちゃいけないみたいな言い方じゃない」
「あ、そういう訳じゃないんだよ? ただ、もう部室に行ってると思ってて」
それには同意見ね。三年生組はいつもこの時間帯には部室にいるから、千歌の疑問はもっともだと思うわ。
果南は「あー」と納得しながら、向かいに座ってる花丸に視線を向けた。
「実は部室に向かってる途中で二人にお願いされちゃってね。課題だって言うし、手伝ってる所なんだ」
「課題って?」
「好きな生物の生態とかのレポートずら。マルとルビィちゃんは海洋生物について書こうと思って話を聞いてた所なんだぁ」
「なるほどねー」
ようやくこのメンバーが此処にいる理由に納得いったようで、関心関心と頷く。だけど、果南が「千歌にもこの勤勉さを見習ってほしいね」と言うと、口元が引き攣った笑いを浮かべた。課題、やってないのね……。
にひひと少し意地の悪い笑いをした後に、果南が逆に私達に問いかけてきた。
「それで、千歌と善子は何で図書室に? というかそのハチマキは何?」
「そ、それ、ルビィも気になって、ました」
「ミカン食べ隊? って、図書室は飲食禁止ずら……」
「あ、そうだった! 此処に来た目的を忘れてたよ!!」
「えぇー……」
自分がやろうって言った事なのに何で忘れてるのよ。そして図書室では静かにしなさい。
二つの呆れた視線と二つの苦笑を一身に受けつつ、いやーと少し照れながら千歌は頬を掻いた。
「果南ちゃんが此処にいたのに驚いてつい忘れちゃった」
「人のせいにしない」
「あぅっ」
デコピンを受けて軽く体を仰け反らせてる。痛くは無いでしょうけど、もっとしっかりしてればいいのに……。
「それで、結局目的ってなにずら?」
「実は花丸ちゃんに協力して欲しくて来たんだよ!」
「協力?」
「そう! 花丸ちゃんの知識を貸して欲しいの!!」
「取り敢えず千歌はまず静かに話しなさい」
果南にそう言われてもう一発デコピンを貰う。今気づいたけど周りの人が結構注目してるわね。しかもスクールアイドルが集まってるからっていう好奇の視線じゃなくて、単純に何を騒いでるのかという居心地の悪い視線。
ルビィもその事に気づいてびくついてるし、少し千歌には落ち着いてもらわないと話もできないわね。
果南は千歌を自分の隣の座らせて完全に千歌が騒がないように監視の体制に入った。私としても、ちゃんと千歌を静止してくれる人がいるというのは話を進めやすいので嬉しいわ。そう思って私も果南の隣に座る。
「千歌ちゃん、マルはなんの知識を千歌さんに教えればいいずら?」
「花丸ちゃんにはミカンの良い所とかを教えて欲しいの。私じゃなくて善子ちゃんにだけど」
「え? で、でも、善子ちゃんは確かミカンが……」
「……まぁ、いつまでも嫌いじゃ堕天使として格好つかないもの」
そう言うと花丸とルビィは目を大きく見開いて驚く。そして二人で顔を見合わせた後ににっこりとその幼い顔に笑みを浮かべて私を見る。
「そういう事なら全力で手伝うよぉ。友達が頑張るのに手を貸さないわけにはいかないずら」
「る、ルビィもマルちゃんみたいにいっぱいは知らないけど、で、できる限りの事はす、するからっ」
「……ありがとう」
協力してくれることは嬉しいけど、ちょっとだけ照れくさくて小声になってしまう。顔を逸らせば穏やかな笑いを浮かべる果南がいるし……。もう! 何よ!! 私がお礼を言うのがそんなにおかしい!? 頬を膨らませてそう視線で果南に訴える。
「ミカンの良い所をアピールかぁ……。何かあるかなぁ?」
花丸がうーんと腕を組んで考え、ルビィもその隣で人差し指を頬に当て考えてくれている。そして、以外にも先に思い付いたのはルビィの方だった。
「あ、あの、ミカンの良い所かは分からないけど、みかんはずっと前からあったって、お姉ちゃんが言ってた、気がする……よ?」
「そうなの?」
「う、うん。確か、神話時代? から……」
「神話!?」
思わず声を上げて立ち上がってしまう。だけどすぐに自分の失態に気づいて体を縮ませながら席に着く。けど神話という単語に胸がときめいて反応するのはしょうがない事よね?
果南から何か言われるかと思ったけれど、以外にも果南はルビィの話に関心を示していた。
「へぇー、ミカンってそんな昔からあったんだ」
「は、はい。せ、正確にはその時代の記録に出てくる植物の一つが、ミカンかもしれないという事です……」
「マルもそんな感じの本を読んだことある気がするずら。専門書は難しくて良く分からなかったけど……」
花丸はそういって苦笑するけれど、正直それは仕方のない事だと思うわ。いくら花丸が本が好きって言っても、あくまで文学少女であって歴史マニアじゃないんだから。
そんな花丸をしり目に、千歌は果南に自分の疑問をぶつけていた。
「ねぇ果南ちゃん。“神話時代”ってどれくらい昔なの?」
「また答えにくい質問をするね。まぁ、凄く分かりやすく言えば古事記の内容あたりの時代かなぁ」
「こじ…………き?」
「……聖徳太子よりずっと前って事」
「おお! 確かにそれは歴史を感じるね!!」
千歌がまた大きな声を出したので、果南にデコピンを二発ほどもらってた。学習しないのかしら……。
「る、ルビィはこれくらいしか知らないけど、マルちゃんは何か思いついた?」
「そうだなぁ……。芥川龍之介の“蜜柑”の話はできるけど、良い所じゃないから、素直に効能について話すずら」
両手を胸の前でキュッと握って「ずらっ」と意気込む花丸。私的にはさっきの話で、ミカンの見方がだいぶ変わったけれど、ここからもっと変わるかしら?
花丸は小さく息を吸ってゆっくりと話し出した。
「やっぱり一番のセールスポイントはビタミンCの量ずら。一日に必要なビタミンCをミカンは二個食べるだけでとれるらしいよ」
「へー、そんなにあるんだぁ」
「はい。それにカロチン、ビタミンE、ビタミンDもあるし、シネフィリンっていう栄養素とビタミンCが作用して風邪予防にもなるんだぁ」
千歌や親が言ってた「ミカンを食べたら風邪ひかない」という話も、あながち嘘という訳ではなかったわけね……。シネフィリンって聞いても今いちピンとこないけど。
皆が自分の話に興味を持ったのが嬉しかったのか、更に嬉々として言葉を続ける。
「善子ちゃんみたいに風邪をひきやすい子は、ひき初めにミカンを黒焼きにして食べるといいんだよぉ」
「黒……焼き?」
「皮が黒くなるまで焼いたものずら。果汁を絞って生姜の絞り汁と一緒に飲むのがお勧めだよ。これが意外においしんずらぁ……」
「えぇー……」
その味を思い出してるのか花丸がうっとりしてるわ……。話を聞く限りだとあまりおいしそうには思えないんだけど……まぁ、好みは人それぞれよね。
「他にも動脈硬化予防に抗アレルギー作用、発癌抑制作用とかもあるし、多分マルたちに一番関係あるのは疲労回復効果があるって事ずら」
「そ、そんな効果があるの、マルちゃん?」
「うん。少し疲れを感じてる時とかに食べると楽になるらしいずら」
へぇという感心した声を皆が漏らし、花丸は照れくさそうに頬を掻いた。
正直花丸とルビィの話は初めて聞くものばかりで面白かったし、これまでにないくらいミカンに興味を持てたわ。それだけでも大きな進展だと思うわね。
けど。だけど、私は……。
「……どうしたの? 善子。浮かない顔じゃない」
「……そんな顔してる?」
「割と」
隣りの果南が目ざとく私の変化に気付く。他の三人も心配そうな顔で私を見ているのを見る限り、私って結構顔に出やすいタイプなのかしら。
今の私の中には少しの悔しさと、四人に対する申し訳なさが渦巻いている。
「…………皆、ごめんなさい」
きっと私があの時千歌の勢いに負けずにちゃんと伝える事が出来てたら、もっと違う未来があったのかもしれない。そう、課題をする手を止めて私に協力することの無かったのかもしれないのに……。
突然の事に戸惑う四人に向かって、私は遅すぎる真実を話した。
「私、ミカンの味が苦手なの……」
意識を変えてもどうしようもない真実を……。
「まぁ味が苦手ならしょうがないよねぇ」
「……そうね」
「ミカンは味が甘かったり酸っぱかったりするから好みの差は出るよね!」
「……そうね」
向かいの席に座る千歌が、若干俯いてる私を励ますように明るい声で話しかけてくれる。
結果的にリリーの考えた『ハロー効果で克服大作戦』は失敗。味は意識を変えても変わらないのだから、仕方がないと言えば仕方がなかったのだけれど、やっぱり付き合ってくれた三人には申し訳がないと思うわ……。
「ほら、元気出して! そして次の方法を試そうよ!!」
「……そうね」
いつまでも沈んでなんかいられない。三人の時間を無駄にしたと思うのなら尚更よね。
はぁと軽くため息を吐いて鬱屈した気持ちを追い出し、渾身の堕天使スマイルを浮かべて私は千歌に問いかけた。
「何で私たちは家庭科調理室にいるのかしら?」
「作戦第二弾だよっ!!」
「えぇー……」
場所は家庭科調理室。其処のテーブルに私たちはいた。
何でこんな所にいるのかというと、神のお導き……というわけではないわ。堕天使なのに今更神様に従うわけないじゃない。単純にリリーの二つ目の案『オペラント条件付けで克服大作戦』を実行するためだ。
リリー曰く、オペラント条件付けとは飼い犬に芸を仕込むときによく使われるあの方法らしいわね。
そこで千歌が考えたのが、ミカンを一口食べるたびに何か私にとってプラスになる事をして食べられるようにしようというものだった。その時に「ミカンを食べるたびに十字架一個あげればいいの?」と普通に聴いてきたのには驚いたわね。まったく、堕天使は神に反した存在だから十字架はいらないのに……。
このような経緯を経て作戦が始まって此処に来たってわけ。……部室にいた三人を巻き込んで。
「まったく、どうしてわたくしがこのような事を……」
「まぁまぁ、同じメンバーのためですし、いいじゃないですか」
「わかってますわよ。もう……」
少し不機嫌そうな顔をしながらも、ダイヤはボウルの中身をかき混ぜ、曜はカラカラと笑ってミカンの缶詰を開けてミカンとシロップとを分ける作業をしている。
「ん~、ミカンのgood smell! 完成が楽しみね」
そして私の隣に座って何もしないで二人の作業が終わるのを待っている鞠莉。今回はこの三人が千歌によって巻き込まれた哀れな子羊たちね。……事の発端をたどれば私の責任でもあるんだけど。
「ちょっと鞠莉さん? 貴女も作るの手伝ってくださいませんの?」
「あら、これでも私にもちゃんとworkがあるのよ?」
「人手が足りないんです。ちょっとぐらい融通聞きませんこと?」
「ダイヤ、あまりchatしてるとcookに失敗するわよ」
鞠莉が楽しげな笑みを浮かべる反面、ダイヤは不服そうな顔のまま手元のボウルの中身を混ぜる作業に戻った。
「鞠莉さん鞠莉さん。あんまりダイヤさんをからかってたらタルト無になっちゃいますよー」
「あら、それは困るわ。ダイヤ、fightよ。応援してるわ♪」
「本当に調子のいい方ですわね……」
混ぜ終わったボウルを調理台の上に置き、すぐにあらかじめ焼いていたタルト生地に曜が空けた缶詰のミカンを敷き詰めていく。さっきから文句を言いつつもしっかり仕事をしているあたり、流石ダイヤとしか言いようがないわね……。
ダイヤたちが作ってるタルトが出来上がるまでもう少し時間がかかるだろうから、今の内に聞いてい置きたい事を聞いておくとするわ。
「ねぇ、千歌。ミカンを食べるって話だったのに、何でミカン料理を作ってるの?」
此処に連れてこられてからずっと思ってた疑問。別にオペなんとかの方法を使うのなら、普通にミカンだけを食べればいいのだし、いちいちこんな手間のかかる事をする意味が分からないわ。
調理されていくミカンを眺めていた千歌は、突然投げかけられた疑問に「ふぇ?」っと変な声を出したが、すぐににんまりと満面の笑みで答えてくれた。
「どうせなら更に美味しく食べたくない?」
「えぇー……」
想像してたよりはるかに個人的な理由ね……。見なさい、あの鞠莉でさえ苦笑してるじゃない。ダイヤもあの頃と遜色ないくらいの眼で睨んでるし。
「千歌ちゃん、流石にそれは私もどうかと思うなぁ……」
「よ、曜ちゃん!? 流石に冗談だってばぁ!!」
わたわたと手を振って否定する千歌。もし千歌じゃなかったら信じられたけど、日頃の行いのせいで中々信じるのは難しいわね……。
皆が疑惑の視線を向ける中、千歌は自分の落とされかけている評価と立場を引き戻すために早口で弁明する。
「ほ、ほら、ピーマン苦手な子に食べさせるには一手間咥えて味を分からなくさせたりするでしょ? それと同じことができればなーって!!」
「でも、千歌さんのリクエストのミカンタルトはミカンを主体に作ってるのですが?」
「で、でもでも、タルト生地はココア使ってるし……ッ!」
「千歌、ミカンスイーツと合う組み合わせになっただけだよ」
「…………ぅう~!!」
これは千歌の完敗ね。まぁ、多分皆も千歌が最初に行ったことは冗談だって分かっててからかってるんでしょうけど。
そして鞠莉が何か言い返したくて唸ってる千歌を見て、クスッと笑う。
「チカはおバカさんねっ♪」
「うぅ……梨子ちゃーん。みんながいじめるよぉ……」
そして千歌は遂にこの場にいないはずのリリーに泣きつき始めた。勿論いないから慰めてくれる人はいないのだけど……。ま、これは昨日からさっきまでの対価として受け取っておきなさい。
楽しげな笑い声。放課後の喧騒。窓から差し込む柔らかな光とミカンの甘酸っぱい香りが広がるこの時だけは、これから先の事を忘れる事が出来た。
くすくす、うふふ。あははにふふふ。四つの笑い声が部屋中に広がり、後にえへへという笑い声が加わって、タルトが焼き上がるまで私たちは談笑したのだった。
「さ、できましたわ」
だけど無情にも時間とは進むもので、心地よい夢の終わりを告げるオーブンの音が聞こえてダイヤが焼き上がったそれを持ってくる。
ミカン独特の柑橘系の香りは控えめに、ココアと砂糖の甘い匂いが鼻をくすぐる。匂いからミカンっぽさが消えてるからもしかしたら……と思ったけれど、テーブルの上に置かれたタルトと見て私はメデューサの眼を見た時のように固まった。
濃い茶色の生地の真ん中に広がる黄色の海。全部がミカンという訳ではないのでしょうけど、九割がたミカンで構成されていた。
「ち、千歌? 千歌はさっきからこれを食べたそうにしてたわよね? 先に食べていいわよ。寧ろ好きなだけ食べていいわ」
「本当!?」
「駄目に決まってるでしょう!?」
ダイヤに凄い剣幕で怒られてしまったわ……。確かに今回ダイヤはほぼ強制的に私のせいで巻き込まれたし、その人のために作った料理をそう言われると怒りたくなるのは理解できるわ。きっと私だってそうしただろうし。でも……。
「さ、流石に容赦なさすぎじゃないかしら……」
一房食べるのもやっとなのに、こんなミカンの塊みたいなタルトを食べろだなんて中々どうして恐ろしい事を……。
ダイヤは軽く睨むように私を見て、我が子をしかるような口調で話す。
「いいですか、善子さん。貴女がミカンが苦手だというのは聞きましたし、それを克服するために今こうして努力している事も知りました。ですが、些か覚悟が足りないのではなくて?」
「か、覚悟?」
「そうです。見なさい、此処にいる人は貴女の力になりたいと思ってる方々です。勿論わたくしもそうですし、ルビィ、花丸さん、果南さんに梨子さんもそうでしょう?」
ですが、と言葉を一度区切って声のトーンを下げた。
「善子さん、わたくしの眼には、まだ千歌さんに連れられて仕方なくやっているという“甘え”があるように見えますが……わたくしの思い違いですか?」
「そ、それは……」
言葉が詰まって何も言い返せない。という事は、自分が気づいていないだけどその通りだったという事ね……。言われてみれば、頭の中では千歌に付き合ってるだけっていう考えがあった気がするわ。
「これだけの苦手な物を食べるのは辛いでしょうし、わたくしだってすぐに治るとは思ってません。でも善子さん、これくらい食べる覚悟もないのなら、今すぐ辞めて練習した方が有意義だとは思いません?」
「そう……ね……」
「だ、ダイヤさん。ちょっと言いすぎじゃ……」
「千歌さん、甘いだけじゃ何も成長しないのです。それは貴女は分かっているのでは?」
「ぅ……」
庇ってくれた千歌もダイヤに切り捨てられる。正論にぐうの音も出ないとは正にこの事ね……。ある意味いい経験になったわ。
改めてタルトを見る。ココア色の生地に囲まれたミカンの海は、ミカンが嫌いな私にとっては荒れ狂う大海に見えなくもない。
きっと食べれば生地の甘さの中に、ミカンの甘酸っぱさが口に広がるのでしょうね。あぁ、考えるだけでも身震いがしてくるわ。
……けど。だけど、ね。
「…………曜、フォークをとってくれる?」
「……善子ちゃん、本気?」
「ええ、本気よ。ダイヤに発破掛けられたようで格好はつかないけれど、言われっぱなしというのは堕天使的にマイナスだもの」
誰かにあそこまで言われると、流石に向きにもなりたくなるわ。なんと言っても私は堕天使なのだからプライドは高く持たなきゃね。それに“ヨハネ”は努力の人なのだから。
曜からフォークを受け取り、鞠莉が切り分けてくれたタルトが私の目の前に置かれた。
「……っ」
いざ食べようとしても手が動かない。伸ばしたフォークがミカンの上で時を止められた。
いい加減にしなさいよ、ヨハネ。たかがミカンごとき、食べて見せなさいよ……ッ!!
「……はむっ。~~~~~~~~っ」
「「おぉ!!」」
意を決して一口サイズに切って口まで運ぶという動作を一秒以内に済ませる。私がタルトを口に入れた瞬間に曜と千歌の歓声が聞こえて来たけれど、すぐに広がるミカンの味で掻き消えてしまった。
「……ぅ」
ミカン独特の歯ごたえ。ミカンの甘酸っぱさ。香るミカンの風味……。うん、格好よく啖呵切ったけれどきついものがあるわ……。
それでも食べたものを粗末にしないというママの言葉を何度も何度も頭で反芻させて飲み込む。
「た、食べた……わ……」
ふわっと柔らかいものが私を包み込んだ。
「Nice fight!! 善子、よく食べたわ!!」
「え? ちょ、ま、ふむっ!?」
隣に座っていた鞠莉の熱いハグ。そしてハグのついでに頭を凄く撫でられ、鞠莉の大きな胸に顔が埋まって息が苦しくなってくる。
暫く混乱して何もできなかったけれど、流石に肺の酸素量が足りないと感じてもがき鞠莉から離れる。
「ちょ、ちょっと鞠莉! いきなり何なの!?」
「私のworkはミカンを食べたヨシコを褒める事。だから全力で褒めたのよ」
「えぇー……」
そういえば自分には仕事があるって言って手伝いを断ってたわね……。十字架の代わりの強化子は鞠莉だったのね。びっくりしたわ。
「でも、さっきのは褒められて嬉しいより先に、善子ちゃんが窒息そうだったけどね」
「アラ、failedした?」
「多分」
曜は苦笑を浮かべながら鞠莉にそう告げた。まぁ、確かに嬉しいよりも先に苦しいが来たのは否めないわね……。
曜の忠告を受けて、鞠莉は「そうねぇ」と呟いた後に、とても綺麗な微笑みを浮かべ、また私の頭を撫でた。
「よく頑張ったわね。ヨシコ」
頭を撫でる鞠莉の顔は優しく慈しみが感じられて、頭を撫でるその手は昔ママが頭を撫でてくれたそれとそっくりで……。なんか、嬉しい。
「さ、ヨシコ。その調子でもう一口食べましょう!!」
「え、ええ……」
鞠莉に急かされるように私は二口目を口にした。やっぱり口に広がるあの味に私は顔をしかめるけれど、撫でられている頭から伝わる優しさが心地いい。
…………なんかこんな心地よさがあるなら、ミカンも食べられなくもないかもね。
食べると褒めて撫でられる、というのを何回か繰り返す。相変わらずミカンの味は慣れないままだけれど、食べ始め頃よりはスムーズに食べられるようになった。
そしてそんなやり取りを数十回程繰り返した時に、さっきから黙って見ていたダイヤがぽつりと言葉を漏らした。
「……これ、そもそも最初から失敗してるんじゃないのかしら?」
その言葉はこの場の全員を凍りつかせるのには十分だった。
これまでのが失敗? 嘘よね? 冗談よね? そんな意味を込めて視線をダイヤに送る。
「ダイヤさん、最初から失敗してるってどういう事なんですか?」
千歌が問いかけると、少しだけ言い辛そうな表情でダイヤは告げた。
「そもそもこのオペラント条件付けっていうのは強化子が無かったら弱化、もしくは消去という作用が起こるんです」
「じゃ、弱化?」
「消去?」
「そこからですのね……」
ふぅとため息を吐いて首を傾げてる千歌と曜に説明を始める。
「弱化というのは怒られたらその行動をあまりしなくなることで、消去とはそもそもプラスの行為が伴わずその行動自体しなくなる事です」
「へぇー。…………って、ん? それの原理で行くと、善子ちゃんがミカンを食べるようになるためには……」
「ずっと鞠莉さんが隣で褒め続けないといけないという訳ですわ」
成程。確かにそれは作戦としてはかなり失敗ね。これからもずっと鞠莉と一緒にいるわけじゃないのだから、この場合消去が働くという事ね。
全員が顔を見合わせて、何も言えずに顔を俯けた。
「ま、まだまだ諦めるのは早いよ! 他にも方法がないのか探して試そうよ!!」
千歌が暗くなりそうになった雰囲気を明るさで吹き飛ばそうと前向きに励ます。
勿論私達もこれくらいで諦めるつもりは無いので頷く。一週間くらいで何とかなる、そう信じて……。
「夕日が赤いわね……」
珍しく鮮血のように赤い夕陽を見ながら、私は部室で黄昏ていた。
視界の隅に立っている千歌はらしくもない悲しげな瞳で私を見ている。何か声を掛けようとして口を動かすのは分かるけれど、千歌の声が私の耳には聞こえてこない。
「全部、失敗したのよね……」
「……うん」
ようやく聞こえてきた千歌の声は、その瞳と同じで暗く沈んだ声だった。
あれから一週間、私たちは毎日苦手を克服するために奮闘した。だけどそれは無理難題だったり、逆効果になったり。そして私の不運が発動してミカンが腐ってたり、食べてる途中に舌を噛んでその傷口にしみて痛い思いをしたり……散々だったわ。
結局この一週間の成果といえば、私のミカンに対する認識が苦手なオレンジ色の果実から、とても身体によく優秀な苦手な果実に変わっただけ。大した成果とは言えない。
結局あの日から特に意識的に少し変わって、我慢すれば食べられるレベルになっただけで克服したという気にはなれなかった。
「もう、諦めたほうがいいのかしらね……」
自然と口から零れ落ちたその言葉は諦めだった。たった一週間、だけど一週間も全力でやって進歩がないというのなら当然だと思うわ。
そこまで深いわけではない絶望感。克服を始める私を天使と例えるのならば、堕天した天使の気持ちが分かるような気がするわ……。
ふふふ、ふふふと自分でも不気味に感じる笑いを浮かべる。ミカンなんて食べられなくても、一生困る事なんてないもの。風邪だって別の方法で予防すればいいだけなのだから、ミカンなんて……。
「善子ちゃん、それ本当に言ってるの?」
いつの間にか目の前に立っていた千歌は私にそう問いかけてきた。
本気で言ってるのかは分からない。だけど、思わず口から零れた言葉なのだから本震である可能性は高いわね。
何も答えない私のそれを肯定とみなした千歌は、ガッと肩を掴んで絞り出すような声で言った。
「諦めちゃうの? 克服したいって、食べられるようになりたいと思ったその気持ちも!!」
「千歌……」
私だってできる事なら諦める事なんてしたくない。けど、一週間みっちり頑張って何もなしじゃ諦めたくなるじゃない……ッ。
「善子ちゃん、善子ちゃんが今凄く悔しいのは分かるよ。あれだけ頑張ったのに結果がついてこないのは誰だって悲しいし、悔しいもん」
「……じゃあどうしろっていうの? 何もできなかった私に、どうしろっていうのよッ」
思わず口から苦言が出てきてしまう。それでも、千歌はいつくしむような笑顔でこういうのだった。
「簡単だよ。涙拭いて、深呼吸して、また頑張ればいいんだよ。今度は途中で投げ出さないようにして……」
「また、頑張れば……」
暫くその言葉を口の中で反芻し、自分はどうしたいのかを問いかる。
自分はどうしたい? 可能性が薄いとしてももっと頑張りたいの? また不運な事に見舞われるかもしれないのに?
考えて考えて考える。そして、ようやく私は飲み込みにくいその言葉を飲み込み頷いた。
「……分かったわ。もう一度だけ、頑張ってみるとするわ」
「善子ちゃん……っ!!」
たった一週間で目に見える結果が出なかったからと言って、ここで諦めたら多分私はこれからも中途半端にしか頑張れなくなるでしょうね。だったら、もう少しここで踏ん張ってみるのが最善ね。
「それじゃあ、もう一回気合入れ直して頑張ろー!!」
「おー!!」
こうしてミカン食べ隊の活動は延長が決定し、私たちは再び試行錯誤を繰り替えしながら一ヶ月を過ごした。
「それで、善子ちゃんはミカンを食べられるようになったずら?」
冬が本格的に始まる一歩手前の寒さが私の火照った体を冷ましてくれる今日、私は風邪をひいて寝込んでいた。
午後になって大分楽になった頃に花丸とルビィがお見舞いに来てくれて、今は二人はベッドの横に座って気にかけてくれている。
「それ、けほけほ、今の私の状況を見れば分かるんじゃないかしら……」
「あ、あはは……。そ、そうだよね」
ルビィが苦笑しながら額のタオルを変えてくれる。ひんやりしてて気持ちいいわ……。
結果から言えば私はミカンを食べられるようにはなった。というよりも、飲めるようになったというのが正しいのかもしれないわね。
あの後の一ヶ月で私と千歌はいろんな方法を試したわ。そして最終的に、ミカンジュースなら何とか飲めるようになったというわけ。もっとも、飲めるジュースも限られているのだけど。
「はぁ、ジュースでもミカンの栄養がちゃんと摂取出来たらよかったのに……」
「ジュースだからしかたないずら。他の添加物とかも入ってるし、しょうがないよ」
苦笑する花丸とルビィ。まぁ、確かにその通りよね。ミカンそのものを食べるよりかは栄養分の接種は難しいわね。今日身を持って知ったわ。
ふぅと息を吐く。
色々あったけど、一応克服した……という事でいいのかしら? とても微妙な所だけれど、きっとミカンを口にする事すらできなかった頃よりは成長してるでしょうね。そう思えば、この一か月の努力もやってよかったと思うわ。
「……ふふっ」
「よ、善子ちゃん? どうかしたの……?」
「別に、何でもないわ。けほっ」
ただ、ちょっとした達成感を感じてただけよ。こんな達成感は中々味わえないんだから、しっかり味わっておかないとっ。
体はだるい筈なのにこみ上げてくる笑みを抑えきれないでいると、花丸が「そうだ」と手をパンと叩いて鞄を漁りだす。気のせいかしら。ちょっと悪寒が……。
「善子ちゃん、ジュースが飲めるようになったんだよね?」
「え、えぇ、まぁ……」
「それじゃあ、風邪ひき善子ちゃんにはこれをプレゼントずら」
花丸の鞄から現れたのは青色のタンブラー。見る限りは何の変哲もないものだけど、取り出した瞬間ルビィが小さく悲鳴を上げたのが気になるわ。
私はそのタンブラーからにじみ出る禍々しい雰囲気に頬を引きつらせながら、恐る恐る花丸に尋ねる。
「は、花丸。それの中身って何なの……?」
「これ? これは風邪の時によく聞く――」
タンブラーのふたをが解放されたその時、その独特のにおいですべてを悟った。
「ミカンの黒焼き汁と生姜汁ミックスジュースずらっ」
飛び切りの笑顔の花丸と、その隣でその液体から自分の身を守るように縮こまって怯えるルビィ。それだけで私はその液体を飲んだ自分の末路を悟る事が出来た。
あぁ、堕天使は死んだら何処へ行けるのかしら。天国? 地獄?
やっぱりミカンは苦手だわ。改めてそう思った一ヶ月と一週間でした。
どうも、カゲショウです。
今回は鍵のすけさんの第二回のサンシャイン企画小説という事で、前回も参加しましたが今回も参加させていただきました。しかもトップバッターという事で思いのほかプレッシャーもかかりました。けれど、自分の中では良い作品が出来たと思っております。
今回は善子が千歌たちと一緒にミカン嫌いを克服するという話です。はい。作者自身が語る所はあまりないですね。語るには長すぎるので……。
今回もこの様な企画に参加させてくださり、また、こちらの不手際で大幅に原稿締切を遅れたことに大きな感謝と謝罪を申し上げて締めさせていただきます。鍵のすけさん、本当にありがとうございました! アニメ、ラブライブ!サンシャイン!!も皆様と一緒に盛り上げていきましょう!