原材料:大倶利伽羅、陸奥守吉行、薬研藤四郎、平野藤四郎
調味料程度の歌仙兼定、小夜左文字 少々
【この話にはあなたの抱いているイメージ・夢・希望・願望を打ち砕く何かが配合されているおそれがあります。】
・オリジナル審神者(審神者目線は無し)
・ゲーム内部で描かれていない部分・設定の捏造
・本来の意味合いが混じる審神者職
・方言は地方出身者の友人を思い出しながら雰囲気で(考証は入っていない)
・大倶利伽羅(刀身)の描写は写真を見ただけの素人の感想
・最初から最後まで出ているけど全編通して無口どころじゃない状態の大倶利伽羅
・神道の知識のほぼ無い作者
・独自解釈にも程がある祝詞解釈
・ひっそり混じる謎の現在の所有者ネタ
・細かいところは歴史(特に幕末)クラスタ大激怒・出展:Wikipedia
・わが本丸に長曾祢虎鉄無し!回想未見!
といった地雷がお有りでしたらブラウザのバックボタン押下を推奨致します。
読んだ後で誹謗コメント、投石兵、弓兵、銃兵といった遠戦で狙う・闇討ち・暗殺は私が破壊されますのでアッー!おやめください!
序
桶狭間に出陣していた部隊が持ち帰った一振りの刀。
部隊長の陸奥守吉行が、女あるじの
「ほう……これは見事じゃ……」
抜いた吉行がそう見惚れるのも無理はない。
反りは緩く幅は広く、一見して太刀のような古風なたたずまいの中に、その幅に相応しい大きな切先が豪壮さを感じさせる。刃紋は中ほどまでは上品に、帽子では荒々しく大きな幅で美しく乱れる。
とりわけ目を惹くのが、三鈷剣に絡みつく見事な倶利伽羅龍の彫り物であった。名のある彫師に刻まれたか、その姿は鱗の下の筋肉すら思い浮かべるほど、生き生きと力強い。
だが、よく見ると龍の頭が消えかかっている。尾も、
なるほど、元は太刀であったのだろうと知れた。それも、大太刀とも言える大きさの。
「大磨上か。素のままで会いたかったな」
まあ仕方もないかと呟いた審神者の指が、そっと柄に触れる。
「大倶利伽羅だ」
ほう、と吉行が女あるじを見る。
「お屋形様、知っちょるんか」
「私の時代に所在が判っていたものの中ではとりわけ有名だからな」
お屋形様と呼ばれた審神者は三十代半ば、二〇一五年からこの本丸に来た。審神者になる前は何をしていた人物なのやら、吉行をはじめ刀剣たちには皆目見当もつかないが、あの政府から貸与されている端末とやらにも強いし、二〇一五年までのことなら訊けばだいたい知っているし、後の時代のことだったりで知らなければどこかへ連絡を取って、一日置けばどういう物事であるか説明してくれる。なぜか刀剣たちが出陣する戦場の地形にまで強いし、吉行はあるじが話してくれる、西洋ばかりか熱帯、見知らぬ中東や南米、
そうかと思えば歌仙兼定と茶碗や文房四宝について話したり、石切丸と神社の造りについて話していたり、この間やってきたばかりの鶯丸とは茶の産地による茶の味の違いの話をしていた。
刀剣についても、初期刀の吉行が教えなくても涼しい顔で手入れができたほどには詳しい。傍で管狐のこんのすけが呆気にとられていたから、審神者になる前から知っていたということか。二〇一五年のおなごは刀の手入れがたしなみの一つということかと感心したが、演練などで他の本丸の刀剣と話をすると、そうでもないようだ。よくわからない。
豪胆と言っていいのか(そのように評する刀剣もいるがたぶん違う、と吉行は思っている、昔のあるじが終生頭が上がらなかったという実の姉、の方がしっくりくる気がするからだ)、冷静という言葉の方がいいのか吉行は今一つ座りのいい言葉を持ち合わせていないが、お屋形様はとにかく感情的にならないのも特徴である。薄く微笑むことはあっても、お屋形様が取り乱した姿など、吉行はただの一度も見たことが無かった。自分がチュートリアル模擬兵にこてんぱんに伸されてしまい、ぼろぼろの姿で帰還したときですら、わずかに眉をひそめて「いきなりひとりでつらい目に遭わせてしまったな、早く手入れ部屋へ」と言っただけだから、いっそ戦国武将のようで清々しいとすら思った。
そんな姿を目にした初鍛刀の平野藤四郎が、主と呼ぶところを思わず「お屋形様」と呼びかけてしまったのを面白がった吉行もそう呼び、いつしかこの本丸ではあるじを「お屋形様」と呼ぶのが当たり前になった。吉行自身は「お屋形様」と主君を呼んでいた時代を知らないが、テレビとかいうあの電気の紙芝居で見た武将の感じはこのお屋形様と似ている。
自分より二百年も先の世の人間は皆こうか、と思っていたら、いつぞや審神者の会議とやらでついて行った先にいた審神者や政府の人間はもっと感情的だったので、お屋形様の方が変わっているらしい。むしろ、吉行達刀剣の方がよほど、人間に近いように思える。
だが、吉行はこのあるじが、自分達刀剣の一振り一振りと、いかに真摯に向き合い、理解しようと心を砕いているか、よく知っていた。
黒鮫を着た柄に触れていた審神者の手が、確りと摑むと、柄に巻いた白革にも似た色の手の甲に、更に白く骨が浮き上がった。
器物に宿った魂を振るわせ、見極め、目覚めさせる者。
自分に直接向けられているわけでもないのに、吉行まで心地良くなってくる。
(お屋形様の力は……あれじゃな、山に湧いちょる清水やな。夏は冷とぉて、ほやけど冬も凍らんちゃ)
だが、それだけではない。鮮烈な印象としてはそうなのだが、吉行はもっと奥深くに、自分の知らない筈の懐かしさを感じることがある。
例えるならそれは、縁側でうたた寝をしていたことに気付いた夕暮れ時に、あるじの肩掛けが腹にかかっているのを発見したあの面映ゆさ。
吉行が昼寝をしている間に生活空間の掃除や夕餉の用意まで終わらせていたあるじに「なんで起こしてくれんがじゃ」と、まだ二人だけだった本丸で拗ねれば、あるじは肩掛けを受け取りながら「あなたはまだ、人の身を得て一日目だろう」とあるかなきかの笑みを浮かべた。
「最初から人の身を持って生まれてきた者でさえ、動けば疲労も溜まる。まして、生まれてきたばかりの赤ん坊は、一日のほとんどを寝て過ごす。そのぐらい、慣れないうちは少し歩くのも、食べるのも、体力を使うものさ。それに、あなたは午前中、一人で戦いに赴いて、大怪我をして帰ってきた」
「もう手入れで」
治った、と、吉行は最後まで言わせてもらえなかった。
「刃と見た目はな」
人の身は、治るということにも体力を使う、とあるじは畳みかけた。
「鏡で見るといい。手入れ部屋から出てきた時よりも、ずいぶんすっきりしているよ。出陣や、家の仕事をしていれば、そのうち体力ももっとつくだろう。それまでは、人の身とはこのようなものか、とゆっくり学んでいってほしい」
さあ、夕餉にしよう、食べて養分を摂って寝ればもう一段元気になる、とあるじは手を伸ばし、吉行の癖の強い髪を撫でた。あのときの自分の顔は、声を出して笑うなどしないあるじが堪えかねたように相好を崩してぷっと噴き出したくらいだから、余程珍妙だったのだろう。面映ゆいを通り越して、あるじと自分の二人しかいないというのに、穴があったら入りたいぐらいだった。
思い出すと、足の裏がむず痒くなるような気がして、なんとなくそわそわする。そういえば、龍馬も姉の手紙を読んでいる時など、やたら頭を掻いたり手紙を放り出して畳を転がったりしている時があったなと、ふと思い至る。
お屋形様はまだ、大倶利伽羅の柄を摑んだまま、動かない。
いつもより長くないか、と吉行は訝しんだ。
審神者はモノに宿る魂を「見極め」、振るわせ、力を与える者。
万一、大倶利伽羅ではなく、大倶利伽羅に似せた「何か」だったら。
とても声を掛ける雰囲気ではないが、もし何か悪いことが起こっているならば――
と、唐突に沙庭の空気が緩んだ。
「吉行。今日は無理そうだ」
あっさりした顔で、審神者が振り返る。
「どうした」
「お……おん……わかった」
吉行は尻餅を搗いていた。寄りかかっていた木が急に折れた時のように、急に平衡を失ったのだ。
「大丈夫か」
お屋形様が手を差し伸べてくれるが、たぶんお屋形様が引っ張りあげてくれるより、お屋形様を引っ張りおろしてしまうのが関の山だろうと思ってしまう。ありがたく利き手でない方の手を引っ張ってもらい、利き手は床に着いて反動で起き上がる。
お屋形様の手を握ったとき、吉行はふと違和感に気付いた。
「お屋形様こそ、なんちゃあないがじゃ」
臣下があるじに引っ張り起こしてもらっている場合ではない。
あるじの手が、汗で湿っていた。顔をよく見れば、額から玉のような汗が滝と噴き出している。
「大丈夫だ。少し手こずってるだけだよ」
「わしらは本霊が既に助力を約しちょる、ほれがこがなところで手こずるんはおかしいぜよ」
お屋形様の様子を見たら、吉行の丹田に自然と力がこもった。
とにかく座れと沙庭から連れ出して床几に腰掛けさせ、手拭いを懐から出して渡すと「待っちょれ」と駆けていき、水桶と薬籠を提げた薬研藤四郎を両手にぶら下げて戻ってきた。
「大将、大丈夫か」
俵のように運ばれてきた薬研は、あるじの様子に「ちょっと目を離したすきにえらく消耗してるじゃねえか」と細い眉をしかめた。
吉行が、渡しただけで結局握りしめられただけの手拭いを桶に浸して絞り、額や首筋の汗を拭いてやっている間、薬研が脈を診たり瞼をひっくり返したりと軽く診察をした。
「陸奥守の旦那、湯冷まし作ってきてくれ。大将、さっきまで元気だったのになんでこんなに病人みたいになってるんだ。脈も速いし血も足りてない。今から滋養の薬作るからそれ飲んで、夕餉まで寝てろ」
「もう持ってきたよ。お屋形様、どうしたんだい」
湯気の噴いた鉄瓶と湯呑を持って声をかけてきたのは歌仙兼定だ。薬研を連れて行く吉行を見て、湯冷ましが必要になる事態が起こったかと火にかけておいたらしい。
「お屋形様、言うてもええがか」
この男には珍しく、吉行が鹿爪らしい表情で口を開いた。あるじが頷くのを見て、吉行は溜息をついた。
「顕現が、できんがったじゃ」
破ノ壱
自分の部屋で寝ろ、と三振りが三振りとも口々に言ったにも拘らず、あるじのたっての希望で大広間に急遽、「お屋形様のお休み場所」が設えられた。
そんな大層なものを作らなくて良い、とのあるじの言い分をよそに、座椅子が置かれ座布団が置かれその上にあるじを置き、脇息が置かれ背枕が置かれ、あれよあれよとお休み場所が成長していくのは、脇差と短刀の共同作業の賜物である。
「こら、この座布団は仏壇のだろう。仏様と坊様の座布団をこんな風に使うのは礼を失する」
ごめんなさぁい、でも一番ふかふかだからお屋形様にはこれがいいと思った、と乱藤四郎が肩をすくめ、その気遣いで十分だと頭を撫でる。
「お屋形様、お部屋から掻巻を持ってきました」
秋田藤四郎と今剣に掻巻でぐるぐるにされ、重病人になったみたいだな、とあるじが苦笑する。途中から一緒に掻巻に引っくるまっていた今剣は途中で当初の目的を忘れているに違いない。
「ほやから言うたきに。こがなところにおったら取れる疲れも取れん」
隣に座ってまだ説教をする吉行に、あるじはかぶりを振った。
「いや、ここがいいんだ。それより、大倶利伽羅がそのままになっているだろう。連れてきてくれ」
お屋形様の言葉に、吉行は迷っていた肚を決めた。いずれにせよ、自分が拾ってきた刀が起こした始末である。
「……ほれがやけど、あいつ、ほうた方がええがじゃないかのう」
「刀解はしないよ」
吉行の不安を、お屋形様が一閃した。
「かれは大倶利伽羅だ。自ら
連れてきてくれ、と言うお屋形様に、吉行は屈した。
沙庭にとって返し、そのままになっていた大倶利伽羅を鞘に納め、念のため鯉口を封じて大広間に向かう。正座して渡すと、封じられた鯉口を見て、今日はずいぶんと心配性だな、とお屋形様は微笑んだ。
「雄々しい拵えですね。どなたですか」
刀と一緒にぐるぐる巻きのお屋形様と刀を見張っているつもりの初期刀が並んで座っていると、茶を運んできた平野藤四郎がにこにこ笑って訊いてきた。
「大倶利伽羅だ。拵えもいいが、
「御加減が宜しくないので、今日は顕現をなさらないのですか」
平野の眉が曇る。
「ちょっとかれは繊細な子でね。少しばかり、話をするのに時間がかかるんだ。根は優しい刃だから仲良くなれると思うよ。楽しみに待っていてくれ」
はい、とはきはき答えて、平野は大倶利伽羅に顔を寄せた。
「大倶利伽羅さん、平野藤四郎と申します。お会いできるのを楽しみにしております」
挨拶をすると、吉行と逆の側に、正座した。いつもよりも座る場所が近い。
庭に面した掃出しは開け放した状態で、物干し場には満艦飾の洗濯物を素早く丁寧に取り込む堀川国広と、籠を持って受け取る山姥切国広の姿が見える。
「洗濯物を取り込んでいるあの二人は、同じ刀派の兄弟分だ。今滝行に出てしまっているからいないが、太刀の兄貴もいてね、あなたのように刀身に不動明王の迦楼羅炎をまとっているんだ。さばけ過ぎているから気は合わないかも知れないが、同じ明王を刻む者同士で通じるものがあるかも知れないな」
平野のところは兄弟が多くてね、と更にお屋形様が続けようとすると、ここで初めて会った兄弟がほとんどですけどね、と平野が笑った。
「同じ
ですが、と平野はにこにことあるじを見た。あるじは左の肘を脇息につき、大倶利伽羅を抱えるようにして、時折鞘をやさしく軽く叩いていた。
あやすかのように。
「お屋形様が呼んでくださって、
自ら言葉を紡ぎ、伝えたかったことを直に伝えることができ、どこへでも己の足で歩いてゆける。鋼の体で感じていたときよりももっと、豊かに感じることができる。
「それが僕は、幸せでなりません」
「まっことのう。馬に自分で乗る前は、あげな尻が痛うなるちゃ、思わんかったがやき」
刀でおったときは気づかんかったと吉行が笑えば、平野も声を上げて笑ったし、お屋形様も微笑んだ。
草いきれの思わぬ暖かさ、芳醇ないのちの素を蓄えた土の香り、いつの間にか手や足を傷つけていた稲の葉の思わぬ鋭利さに驚いた痛み。初めて食べた飯の甘さ。春と夏では空の深さが違うこと。
「まだ秋と冬があるきに、楽しみじゃのう」
「はい、僕は加賀にいたことがございますので、雪それ自体は存じていますが、今剣がたくさん雪が降ったら遊べるというので楽しみにしています。秋は畑の脇の柿の木に、きっと柿が生ります。花が咲いたので、小夜くんが楽しみにしているのです」
「柿の花を見つけたのか。よく見つけたね」
渋柿じゃないと良いがなあ、接ぎ木をしないと甘いのが生らないのではないか、とお屋形様は少し困った顔をするが、その間も大倶利伽羅の身に回された腕はやさしくかれを包んでいる。
「どんな柿が生っても、美味しく食べる方法があるからね。そのまま生を食べてもいいが、乾すとまた別の味わいになるんだ」
柿がもし渋柿であっても、乾すと渋が抜け、日持ちのする甘味となる。冬の間の嬉しい八つ時の菓子にもなるし、
「へたと種を取って、包丁の背で叩くと、餡になる」
歌仙が小豆餡と合わせて、または煉り切りの彩りに、菓子を拵えてくれるかも知れないし、
「ああ、もしかすると小麦粉の菓子にも合うかも知れないな」
平野の目が輝く。
「あの、この間拵えていただいた、くっきーという南蛮の菓子ですか」
煎餅のような形をしておいて、さくりとした軽やかな歯応えとこくのある何とも言えぬ甘みを含んだ菓子は、短刀や鯰尾が特に目を輝かせて取り合いをしていたし、いつもは無表情な骨喰でさえ機動を生かして自分の分を死守し、堀川国広は抜け目なく懐紙に包んで兄弟の元へ持ち帰っていた。
「あれなら、もう少し生地の甘みを抑えて焼いて、柿の餡を塗って食べてもいいかな。いや、毎度クッキーも新鮮味が無いから、かすていらのような皆で切り分けるケーキにしようか。柿の餡を生地に練り込んで」
「かすていらは存じております。かすていらに、柿の餡を混ぜるのですか」
想像もつきません、とすぐにも食べたそうな顔をした平野に、皮算用だから紙に書いて冷蔵庫にでも貼っておこうかとお屋形様が髪を撫でる。
「あなたたちの過ごしてきた場所、それぞれに美味しいものがあるんだ。そうだ、吉行にまだ
「たたき」
釣ったばかりの鰹を半身にして、背と腹で割って、藁の火で表面を炙る。
ちょうど今の季節から鰹の旬だ。本丸の庭は桜も楓も紫陽花も、燃え上がるような緑の季節。
初鰹はさすがに手が出ないが、そろそろ値も下がってきただろうとお屋形様は顎を撫でた。
「土佐の鰹のたたきは、皿に盛ったたたきに刻んだ大葉や茗荷、水に晒した玉葱の薄切り、にんにくなんかをどっさり載せて、上からぽん酢をかけて食べる。龍馬は若い時に脱藩して、殆ど土佐に帰っていないし、確か吉行は龍馬の出先に持って行って贈られたんだろう、吉行はろくに見てないかも知れないな。旨いぞ。辛口の酒が進む」
「なんでほがぁに詳しゅうゆうが! 食べとうなる!」
「自分で言っている間に私も食べたくなったよ。ぽん酢に使うのは阿波のすだちがいいな」
吉行が頭を抱えて唸る。お屋形様が追い打ちをかける。想像するだけで、よだれが溢れる。
「仙台伊達藩だと、芋煮かな。里芋の煮物だよ。仙台の芋煮は確か、味噌仕立てで豚肉や人参、大根、蒟蒻、牛蒡なんかをどっさり入れる。陸奥国はそれぞれの土地にそれぞれ芋煮があって、わたしの時代でも毎年、うちの芋煮が正統だとそれぞれの地域が鞘当てをしていたよ。大きな鍋を用意して、河原で集まって大勢で作って食べるんだそうだ。芋煮の季節になったら、伊達藩の芋煮をここでもやろう」
「ああもう! ほがに微に入り細を穿ち!」
畑では鳴狐がお供の狐とこんのすけの要望もあって丹精した大豆が青々と毎日背伸びをしている。
油揚げを作るための大豆だが、豆が生ったら青いうちに少しいただいて、ずんだ餅を拵えても良いな、とお屋形様は悪い顔をした。その頃には、伊達ゆかりの刀が増えているともっと良い、とも。
あの一角は「油揚げ用」なので、こっそり盗む気なのかも知れないが、この本丸には今既に二十振り近い刀剣がいる。今でも全員に食わすほどの豆を盗ったら明らかにばれるのではないだろうかと吉行は呆れた目を向けた。
平野が淹れてくれた茶は既に飲み干してしまった。沸騰した湯では旨い茶が出ないので、少しばかり冷ましてから急須に入れ、葉を少々蒸すと、鮮やかな緑の、こくのある甘い茶が飲めるのだという。吉行にはそれ以上の差は判らないが、これは三河の茶だとお屋形様は当てた。
誰に言うともなく、お屋形様は庭に視線を投げたままぽつりとつぶやく。
「創った人、使った人、受け継いだ人、思いを託した人、あなたがたを思った人、それらの念が凝って宿ったいのちが、あなたがただと聞いている。だが、元がそうであり、たとえ今の姿があなたがたに与えられた時間のほんの一瞬であれ、今こうして人の姿を取っていることには、意味があるのだと思う。これから、人として得られる全ての感覚があなたがたに必要なんだと思っている」
食べるということは、いのちの原点だ、とお屋形様は言う。
「生まれた土地にはそれぞれ
――わしが龍馬に会うたのも、御縁か。龍馬が死ぬんを見ちょるしかなかったのも、縁か。
吉行はじっと手を見る。
「私があなたがたと、今こうしてここにいるのも、御縁だな。御縁をとりまとめるのは、平野、あなたがいたことのある加賀国
――ふと、吉行の耳の近くで鍔鳴りを覚えた。
自分ではない。自分の本身は体の脇に横たえている。短刀である平野は腰に帯びたままでも正座には支障がないし、両手で茶碗を持っているから本身に触れていない。
――何を、ふるえとるんじゃ、大倶利伽羅。
お屋形様の肩に、なかば掻巻に埋もれるように凭れかかり、本来動くはずのない大倶利伽羅の鍔が、かすかに震えていた。
破ノ弐
明日もかれを顕現するよ、と大倶利伽羅を持って自室に戻りそうになったお屋形様に、なんとか持って寝るのは止めてくれ、と吉行以下、歌仙や薬研、乱や今剣らが頼み込んで、大倶利伽羅は置いて行ってもらった。平野が不寝番を買って出ているが、どちらかといえばお屋形様を見張るのが今夜の任務という顔つきで、掻巻を抱えてついていった。
まったく雅じゃない、と首を振る歌仙に、ちゃんと食べて寝なきゃお肌に悪いよ、と乱が続け、肌うんぬんも命あっての物種だ、大将は自分の体調にもっと気を遣え、と薬研が尤もな言葉で締めくくる。
「それで、どうするんだこいつ。ここに放っておくわけにゃいかんだろう」
薬研が吉行の手の中の大倶利伽羅を視線で指す。吉行はあー、と空いている手で頭を掻いた。
「わしが預かるきに。わしは一人部屋がやき、まあええちや」
「君ね、拾ってきた責任でも感じているんじゃないだろうね。僕達だってこんなことは予想外だろう」
「ほがあなこと言うが、おんしの部屋よりわしの部屋の方が物が少ないが」
歌仙の小言をどう捉えたのか、きょとんと歌仙を見た吉行の一言で、歌仙が怒りと恥ずかしさが綯い交ぜになったような、ものすごく複雑な顔をした。確かに歌仙の部屋は片付いてはいるものの、本刃の趣味が反映された雅で風流な器物が押入れからもはみ出さんばかりになっている。できれば雅や風流を解さない者を通したくないとも思っているが、そういう話をしたいのではなかった。
「お屋形様は今夜、誰がこいつを預かるか判らんちや。朝餉のときに薬研がお屋形様を診て、本復しちょらんかったら皆でよってたかって顕現を止めてもろうて、そん時に大倶利伽羅が見当たらなんだら諦めるのも早いかも知れんきに」
「あのお方がそう簡単に引き下がるもんかね」
まあ、そうしたら朝餉の時には部屋に置いておけよ、と薬研が釘を刺し、吉行は自室に戻って刀掛けに大倶利伽羅を立てた。
ふと思って、自分の本身はそのまま床の間に、大倶利伽羅は刀掛けごと縁側に移動する。
「桜じゃのうてちくと申し訳ないが、花見でもせんか」
押入れから秘蔵の酒徳利と、大ぶりの盃をふたつ。大倶利伽羅の隣にどかりと胡坐をかくと、盃を大倶利伽羅の前に置いて、注いでやる。
「わしは歌仙みたいに花の名前がわからんきに、聞いても答えられんぜよ。許しとうせ」
手酌で自分の盃に注ぎ、一息に飲む。
「土佐の酒じゃ。龍馬が飲んどったのと同じように水みたいじゃが、飲むと喉や胃の腑がかっとなるがじゃ。気分もええ。まっこと、人の身は面白いぜよ」
更に注ぎ、呷る。
「おんし、何か
盃を持った手が、膝に落ちる。吉行は大倶利伽羅をじっと見た。
「おんしの話はわしゃあ知らんがやき、わしの話をちくと聞きとうせ」
吉行は前のあるじの話をした。腰にあって、ずっと供をした。様々なところへ行き、色々な人に会った。物怖じしないあるじだった。命を狙われていることを解っていて、その相手に会いに行ったこともあった。辿り着いた結論は違えど、同じく祖国を憂えた者同士と分かり合えたと喜んでいた。吉行も嬉しいと思った。人は話し合うことで、敵だった者が同志にすらなれるのだと思っていた。だが。
あるじは吉行の目の前で斬られた。これがあるから大丈夫だと、懐に忍ばせたスミス&ウエッソン三十三口径を取り出すよりも早く。刀であった吉行は、何もできなかった。血と脳漿が流れ出る、ついさっきまであるじだったものを、見ているしかできなかった。唯一、半端に握られたピストルに、おんしは何をしちゅう、と怒鳴ったけれど、まだ話すこともままならぬ赤子のような拳銃に芽生えたばかりの魂は、ただおろおろと泣いていた。
二人して、あるじの仇を獲ることもままならず。
「ピストルはそのまま、わしの懐におる」
使われることなく歳だけを経たピストルの魂は、吉行が手入れをしてやると犬か猫のように喜ぶ。対等に話こそできないが、大事な相棒である。
「わしも若くてのう。まだ成ってほがに時も経ってのうて、あん時は腹が立って悲しゅうて、つい怒鳴ってしもうた」
懐からピストルが転がり出た。よく見ると、細い手足が生えており、吉行の袴にしがみついた。すまんかったの、と言いながら吉行はピストルを撫でる。ピストルは甘えるように本体をこすり付ける。
「今は、こがぁに謝れる。わしは何に腹立てて、悲しゅうなったんか、解るようになりゆう。命がある限り、なんぼでもやり直せるぜよ」
破ノ参
翌朝、手拭いを持って吉行が井戸に行くと、先に顔を洗ったらしい薬研が「旦那、おはよう」と手拭いを首にひっかけた姿で片手を上げた。おはようさん、と吉行も欠伸をしながら返す。
「なんだ旦那、寝不足か」
「ゆうべ大倶利伽羅と酒を飲んだがやき、ちくと残っとるかのう」
と返事をすると、薬研が目を剝いた。
「勝手に顕現したのか」
「ほがなことないが。大倶利伽羅を肴に飲んだんじゃ」
なんだ、と薬研が急速に興味を失う。
「大将、顕現するつもりかね」
「お屋形様のことやき、やらんわけなかろう」
吉行は水を汲みながら返事をする。まずは一度、頭から水を被る。よし、今日も井戸水は冷たい。目が覚める。
「まあそうだろうな。しばらく顕現を止めて、できればこんのすけにこういう例が今までなかったか訊いてほしいところだがなぁ」
大将のことだからなぁ、と薬研が溜息をつく。
「俺っちにできるのは、大将の手入れぐらいだからなぁ」
ばしゃばしゃと豪快に水を使った吉行が、犬のように頭を振った。持ち前の索敵能力で準備万端の薬研が自分の手拭いを素早く広げ、降りかかった水滴を防ぐ。
「ほがぁゆうたら、わしなんてなぁんもできんが」
手拭いを頭から被ってわしわしと拭く吉行と並んで、薬研も歩き出す。
「旦那、俺たちみたいに断髪したら楽じゃないのか」
「前にやったんじゃが、手入れ部屋に入ったら元に戻ってしもうた」
「試してたのか、さすが旦那」
くくく、と薬研が肩を震わせた。
「のう、わしゃ思うんじゃき、朝からこがぁ井戸で鉢合わせして、顔洗ぉて、笑ろぉて、わしらは幸せじゃのう。刀のままやったらできんかった」
広間に入ると、既に短刀たちが朝餉の用意に走り回っていた。
「陸奥守、きみももう少し早く支度してきてくれないか。せっかく早くから用意しているというのに」
「わかった、わかったきに毎日言わんでもええちゃ」
歌仙の小言を背中で聞きながら、厨から炊き立ての飯を移した櫃を運ぶ。飯は一升炊きのガスの炊飯釜で炊いているが、お屋形様は必ず木の櫃に移し替えさせる。程良く水分が抜けて、べたべたとせずにより旨い飯になる。竈に拘っていた歌仙も、竈の飯とガス釜の飯を食べ比べた末に、今では飯炊きの見張りが必要ないと受け入れている。違いが判らなかったのが余程衝撃だったようで、食べ比べをした後しばらく青い顔をしていたが。
「おはよう、吉行」
お屋形様が平野と、ちょうど広間に到着したところだった。残念なことに、顔色はいつも通りに戻っている。芯が丈夫な人だ。
薬研を見ると、彼も「ちっ」と忌々しそうな表情を浮かべたところだった。目が合って、慌てて表情を取り繕う。
「おはよう、大将。約束だ、飯の後で診察だ、ちっとでも駄目だったら今日は顕現させないからな」
「おはよう薬研。昨日は平野のおかげで実によく寝たからね。望むところだ、いくらでも診るがいい」
「お屋形様、薬研も。なんだい朝からまったく雅じゃない」
味噌汁の鍋を運んできた歌仙が呆れた目で注意した。
結果として、薬研の敗北だった。脈も正常、血圧も程良く、貧血のひの字も感じられないお屋形様を前にして、薬研は両膝を屈せざるを得なかった。
「なぜだ……確かにお屋形様はとても
「平野のくれたヤツメウナギ肝油のおかげかな」
どおぴんぐという奴か! 狡いぞ! と吠える薬研に、飲んだのはここでくるまってた時だ、とお屋形様は事も無げに言い放つ。
「一番は歌仙が皆を考えて作ってくれる三度の食事のおかげだな。昨日は私のところだけ一品増やしてあったのを見落としただろう、薬研」
鶏の肝臓を生姜と一緒に醤油で炊いたものが付けてあったらしい。滋養食である。薬研はぐぎぎ、と歌仙を見た。歌仙は「お屋形様に元気でいてほしいのか、いてほしくないのか、きみはどっちなんだ」と口を尖らせる。
そんな二人を放っておいて、お屋形様は吉行に向き直った。
「さて、大倶利伽羅を連れてきてくれ。顕現をするぞ」
目許がにやり、という音がしそうなほど細められた。
お見通し過ぎて吉行の背筋が震え上がった。
急
沙庭は、心配と称して顕現を見張りに来た野次刀で溢れ返った。皆、解っているので邪魔にはならないよう、口を噤み固唾を飲んで見守っている。短刀たちは注連縄にも触れないよう、ぴったりと壁に貼りついている。注連縄を支える榊の柱と壁の角との間のやや広い空間は、大きめの刀がひしめいている。
「やれやれ、こうも注目されるとやり難いな」
大して気にも留めていない口調で、いつものように丁寧に手を洗い口を濯いだお屋形様は吉行の差し出す刀の柄に手を掛けた。
「ありがとう、吉行」
唐突にやわらかい笑みを投げられ、吉行は目をしばたたかせる。
「お、おん」
鯉口の封を解いておいたことか。
すらりと鞘走る音がして、お屋形様は意外にも楽々と片手で刀を抜き放った。もう片方の手に懐紙を持ち、両手で捧げ持つように鎬に添える。
腰を落とし、静々と進む。白絹の上に大倶利伽羅を横たえ、音を立てずに一歩、二歩、三歩、四歩、下がる。
姿勢を正す。鼻から深く息を吸い込み、口から吐く。深く、一礼。深く、もう一礼。
ぱん、と大きく柏手をひとつ、続いて、もうひとつ。
柄を握り、懐紙越しに峰に手を添え、もう一度目の前に掲げる。
「
朗々とした声が沙庭をふるわせる。
お屋形様が、祝詞を上げるのは珍しい。
これは、と石切丸が声もなくつぶやく。
お屋形様の素足が、力強く、沙庭を踏み固める。禹歩。
しゃん、と玉を連ねた
とくさのおおはらえ、石切丸の口がそう動いた。
蒼ひ生
しゃん、
ああ、これは御統のように連ねた鈴の音だ。
萌えるいのちを呼び起こす鈴の音。
種はふるえ、根を張り芽を伸び上がらせる。
其の
木より生じし火で以て、土を鋼と変じさせ、清き水にて刃と成す。
水すなわち内なる火を冷やし、成した刃は肉を土に還し、土は木を生じさせる。
「刀剣とは――いのちそのものであったか」
瓊の立てる音は、我らの父が、我らを鍛える澄んだ鋼の音。
鎚を振るえば、振るわれただけ我らは
たとえ心傷つき心閉ざしても、その魂を揺り動かせばいずれ扉開く。
我々の魂が生を振るわせていれば、やがて呼応しよう。
天岩戸から太陽を連れ出した神々のように、それぞれのやりかたでふるわそう。
鏡には鏡の、剣には剣の、玉には玉の、比礼には比礼のやりかたがあるように、我らには我らの、各々のふるわせ方がある。
更に
甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
一二三四五六七八九十瓊音
たとえばあるじを救えなんだことか、
たとえば朋輩と離れたことか、
おんしの魂を止めたもんが何かは知らぬが、
今度は己の手がある、足もある、目も、舌も、耳もある、
できんかったことも、新たなあるじと朋輩にやりゃあええ。
お屋形様に掲げられた鍔がかたかたと震える。
鍔鳴りだけではない。柄巻が見る間に緩み、解け、目貫が、笄が外れ、拵えが解けてゆく。
ついに刀身だけとなった刀には、三鈷剣に巻き付く見事な倶利伽羅明王。
その身の内からほの白い光を、全身を震わせながら振り撒いている。
光は輝きを弥増し、その奥に薄紅を湛えていた。
花がその蕾を綻ばせ、いのちを解き放つその寸前の、どうにもならぬ溢れんばかりの生気にも似て。
沸々と生気を湧き上がらせながら、ふるえる刀身がお屋形様の手を離れて浮かぶ。
ぱん。
柏手と、薄紅の光が爆発したのは、同時だった。
見事な倶利伽羅龍を刀身に抱くその刀がまばゆい光に包まれるや否や、 澄んだ鈴の音をさせて弾ける。
光は薄紅色の花弁となってきらきらと舞い降り、沙庭の砂に溶けた。
その中心に立つのは、浅黒い肌の若い男、倶利伽羅炎の色をわずかに髪に宿し、左腕に昇龍が巻き付いている。
「……大倶利伽羅だ」
お屋形様の前にのっそりと立つその男は、ぶっきらぼうに名乗った。
「別に話すことはない。馴れ合うつもりもないからな」
「ここで『馴れ合い』を求めるような者はいないよ」
お屋形様の口許がふっと微笑みの形になる。
「あなたにはあなたのやりかたがあるだろう。こうしろと強制はしないよ。だが、これだけは心に留めてほしい。どんな相手であっても、尊重し、敬いの念を持とうと努めること」
毒気を抜かれた顔の大倶利伽羅に、お屋形様は一言一言、噛み締めるように言い聞かせた。
「解ったかな」
「……ああ」
よし、とお屋形様が頷く。
「ようこそ、我が本丸へ。大倶利伽羅廣光、このいくさ、あなたの力が必要だ。協力してくれるな」
「……わかった」
はあ、と誰かが大きく息をついた。
「俺、息するの忘れてましたよ、お屋形様」
鯰尾だった。
途端に張りつめていた空気ががらがらと崩れ、刀剣たちからくすくすと忍び笑いが漏れる。大倶利伽羅はち、と舌打ちするとそっぽを向いた。
「屋敷は広い。誰かに案内させよう。歩けそうか」
お屋形様がそっと手の甲で大倶利伽羅の手の甲を叩くのを、「構うな」と払いのけようとして、よろめいた。
「あ」
吉行が駆け寄るより早く、小さな青い影がするりと支える。
「……あなたはまだ、人の体の塩梅に慣れていないから。遠慮なく、僕で支えて」
お小夜、となぜか悲鳴のような声を上げたのは歌仙だ。
「僕には冷たいのに、どうしてそいつに優しくするんだ」
「……歌仙は人の身に十分慣れているし、ここを案内する必要もないでしょう」
お小夜、とめそめそし出した歌仙に小夜左文字は困った目を向けたが、周りの短刀がわらわらと慰め出したのを見届けると、「行きましょう」と大倶利伽羅に声を掛けた。
「……あいつについてやればいい。俺は一人でいい」
「……僕よりおしゃべりな刀の案内で良ければ。それに」
淋しそうなあなたを、僕も少しは知っているから。
大倶利伽羅を見ず、前を向いたままの小夜の横顔を、彼はちらりと見た。
「……おまえのことは、俺も知っている、気がする」
「顔見知り、ぐらいですね」
ぽつ、ぽつ、と小雨のような二人の会話を、吉行は一人悦に入って聞いていた。
人型を取っても難しそうな奴じゃが、小夜が橋になってくれるんじゃないだろうか。
唐突に、大倶利伽羅が振り返り、吉行を睨んだ。いや、単に目つきが剣呑なだけかも知れん。
「……おまえか」
「なにがじゃ」
「……酒。どこで売っている」
吉行はきょとんとして、一瞬の後、「だはははは!」と大笑いした。
「おん! 万屋じゃあ! またお取り寄せしてもらうきに!」
「……ふん」
大倶利伽羅は鼻を鳴らした。そのまま、小夜左文字を伴って出てゆく。
あいつはどうやら言葉が圧倒的に足らないが、目に余る部分は、同じく言葉が足りなかった小夜が指導をしてくれるだろう。
「さあ、お屋形様、ご無理なさらないとの僕との約束でした」
平野の有無を言わせぬ口調が、吉行を我に返らせた。
「こんな本式の顕現をなさるなんて、仰っていませんでした。もう一度、肝油を飲んで、お昼まではお休みいただきますからね」
実に可愛らしい笑顔を浮かべた平野が懐から茶色の瓶を出す。あの黄色いラベルは吉行も見覚えがある。八つも目を持つ鰻の絵が描いてある肝油の瓶だ。お屋形様は平野の死角に回り込もうとしているのか、少しずつ吉行の方にずれてきているが、そもそも短刀の機動力は人が追い付けるものではないし、お屋形様は昨日と同じく汗が噴き出している。今なら白皙の美少年である薬研と顔色がいい勝負だ。
「肝油さぁ……それ生臭いから……昨日は飲んだんだから勘弁してくれないか平野……」
「おっと、大将。俺の薬湯の方がいいか?」
肝油の瓶を構えてじりじりと迫る平野から、先程の大倶利伽羅といい勝負の千鳥足で逃げようとするお屋形様の行く手に、蓋のついた筒茶碗を持った薬研が立ち塞がる。
「薬研の薬湯は肝油とは別の臭さが……なんていうかかび臭いのと舌が痺れるというか」
うぶ、と吐きそうなぐらい蒼白なお屋形様を、吉行は後ろから捕えた。
「心配してもらえちゅううちが幸せなんじゃ、お屋形様はもっとおんしを大事にしとおせ」
ひょいと抱き上げると、お屋形様は迫る短刀二人を交互に見比べ、諸手を上げると真顔で吉行に頷いた。
「わかった。休もう。休むから、先に足を洗いたい。それから、居た堪れないから運搬はおんぶにしてくれ」