太陽と焔   作:はたけのなすび

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ハーメルン様にて、初投稿です。


短編版
太陽と焔


むかしむかし、大きな戦がありました。

西にあった小さな国が敗れ、大勢の女子供が連れ去られて、南の国で奴隷にされました。

その中の一人に、金髪に青い眼、白い肌の美しい女性がおりました。

彼女は、自分を捕らえた将軍の妻になり、自分と同じ眼の色、肌の色、顔形を持つ子を産みました。

けれど、拐われてきた異国の地で、好きでもない男と添うことで、どうして幸せになどなれましょうか。

女性は、自らの子どもに、故郷に帰りたいと言うことを子守唄の代わりに言い続け、程無く亡くなりました。

遺されたのは周りの人々と違う瞳と肌と顔形を持つ、幼い女の子一人と、その子供の中に呪いのように巣食った、見もしない故郷への想いだけでした。

 

 

 

 

 

#####

 

 

 

 

 

少女はずっと、ここではないどこかに帰りたかった。

物心ついてからは常に、寝ても覚めても、心のどこかに穴が開いていた。郷愁というにふさわしい想いが、いつも彼女の心に巣くっていたのだ。

他のすべての感情は、薄布一枚隔てた向こう側から沸き上がるもので、結果として表情に乏しく、感情が希薄に見える少女として育っていった。

帰りたい、返りたい、還りたい、かえりたい。

わたしのいるべき場所は、いたはずの場所は、ここではないのだから。

彼女は日々生きているだけで、焦燥の焔で心が炙られているようだった。

しかし、それならどこへ帰りたいのか、と聞かれたら、答えられなかった。

だって、彼女にも分からないのだ。ただ胸の奥が焦げ付いているだけ。

胸の中で、そうして燻る焔があったせいだろうか、何故だか、少女は炎を自由に操ることができた。言葉にせずとも、ただ思うだけ見つめるだけで、自由自在にモノを燃やせたのだ。

父と周りの人々は、その焔を見て、少女に神からの加護があるといって喜んだ。

その中で義母だけは、得たいの知れないモノを見る眼で少女を見た。

義母が、他とは違う自分の青色の瞳と白い肌、顔形の違いを疎ましく思っていたのは知っていたから、少女は何も言えなかった。

反対に、父はお前が男であったら何れ名だたる武門に加えてもらえただろうに、と至極残念そうに、少女の頭を撫でながら言った。

少女はそれなりに父を愛していたから、努力します、ごめんなさい父様、と言う他なかった。

 

燻る心を抱え、それでも少女は生きていた。

彼女の家は、裕福ではないが家柄こそ良かったから、年頃になれば、縁談のひとつも舞い込むはずだった。しかし、縁談がやって来るのは、二人いる腹違いの妹たちばかりで、少女にはほとんど来はしなかった。

炎神アグニの娘。

そう少女を呼んでいた世間からすると、彼女は遠巻きにして噂し会うならまだしも、妻にするには物騒に過ぎるというのと、もうひとつ、異国の血の混じった少女の顔形が、異相であるとされたのが理由だった。

もし、悋気を起こした異相の妻に焼き殺されでもしたら、笑い話にもならない。

そういう思いが男たちに二の足を踏ませ、たまに訪れる求婚者といえば、アグニの娘を征服してやろうという気概に満ちた、頼んでもいない支配欲を持ち、目をぎらつかせた狼ばかり。

 

少女はほとほとうんざりし、狼たち全員を焔でもって追い返した。

我が焔を越えられた方に私は身を捧げましょう。そうでない方は、お帰り下さい。

そう言って築いた焔の壁を越えてくる猛者は、現れなかったのだ。

 

彼女の父母は、妹たちの婚礼に忙しく、彼女に背を向けたままだった。

娘の振る舞いを止めようとはしなかった。というより、口すら挟んでこなかったのだ。

それに寂しいという感情しかわかず、少女は一人、家を離れ、焔と戯れて暮らしていた。

 

 

 

 

このまま己は何も為せずに、いずれ燃え崩れる薪のように生きて死ぬのだろうか、と少女が思うようになった頃のこと。

珍しく家に帰っていた少女の元に、父が縁談を持ち込んだ。

何でも、父が仕える一族の長から持ち込まれたものらしく、断りづらいという。相手はその長が最近迎え入れた武将。

彼は素晴らしい技量を持つのに家柄が低く、少女の家は力はないが家柄はいい。

要するに、相手の家柄を上げるために結婚しろ、ということか、と少女は思った。

親の気持ちを考えてみなさいな、ととうの昔に嫁いだ上の妹に、姉さんもいつまでも遊んでいるものじゃないわ、と縁談を探している末の妹に諭された。

それなら貴女が結婚すれば良いのではないか、と末の妹に言えば、御者の息子風情などごめんだ、と言われる。

末の妹がこの調子だから、こちらにお鉢が回ってきたのだな、と少女は察した。

己の心に正直な妹を少し羨ましく思いながら、少女は気の進まないまま、ひとまず相手に会うことになった。

 

 

 

 

着飾り、優れない顔色のまま相手と会った少女は、彼を見て、珍しく心底驚いた。

生まれたときから身に付けていたという黄金の鎧と、それに反して黒く染まった幽鬼のような細い体躯。胸元に埋め込まれている赤い宝石と、真っ白な髪。

こんな、地上に降りてきた太陽みたいなヒトが、この世に存在しているのか、というのが正直な感想だった。

 

そのまま、少女は彼の妻になった。

少女にも相手にも、断るという意志が乏しかった以上、当然の結果だった。

焔の試練はいいのか、と夫となった彼に聞かれ、太陽の御子たる貴方に火花を投げつけて、意味があるのですか、と少女は返した。

そう、彼女の夫は、太陽神の息子だった。

世間では眉唾物とも言われていたが、焔を操れるからか、少女にはその鎧が紛れもない太陽の恩寵であると言われずとも理解していた。

結局、それは公正ではない、オレも同じように貴女に挑むべきだ、という彼に言われて実行したが、予想通り、黄金の鎧を纏う彼は、涼しい顔で焔の壁を打ち破った。

 

愛しているとも、好いているともお互い言わないまま、少女と彼は結婚した。

ただ一言、お前の焔は美しい、とだけ言われたから、少女はそれを告白ということにして、胸の奥に刻んだ。

 

夫婦と言うからには、母のように仕えなければならないのだろうな、と少女は思っていたのだが、夫となった彼は特に何も言ってこなかった。

ひょっとして嫌われているのかと思ったのだが、どうやら違った。

彼はただ、万事に公平に当たっていた。

道理にあっていると思えば、どれだけ見返りのない願いでも叶えてしまう。己が身を削ることに、躊躇いがなかったのだ。

逆に少女が、彼に何も願わなかったから、彼は彼女に何もしなかった。それだけのことだったのだ。

どうしてそういう生き方をするのか、と理由を聞けば、人より多くのものを戴いた自分は、人より優れた生の証を示すべきだ、そうでなければ、力無き人々が報われない、と返された。

 

それでは、いつか貴方は薪のように人に暖かさを与える代わりに、燃やされ尽くして消えてしまう、そうなるのは私には悲しい、と少女は言った。

 

彼は、そうか、と言っただけだった。

 

彼はまた、多く敵を作った。

何が原因なのだろう、と少女は考え、これもほどなくして理由が分かった。

彼は、観察力に長けていた。一目で相手の嘘、欺瞞、隠していたいことを見抜き、真っ正直に、率直にそれを伝えてしまう。相手のことを思いやるが故に。

いくら根本に相手への気遣いがあろうとも、これでは口を開くだけで敵を作りかねない。誰しも、言われたくない本質は抱えているものなのだから。

おまけに、彼も少女に負けず劣らず表情が乏しかったから、相手はさらに悪感情を高めるのだ。

少女は彼に、貴方の言葉はいつも足りない。美辞麗句で己を偽れとは言わないから、せめてもう少し柔らかな物言いを身に付けてほしい、と頼んだ。

 

それは何故かと逆に聞き返され、少女は困った。

彼は、自分の評価など気に留めない。己が嫌われても蔑まれても、何とも思わないのだ。

自分の心に疚しいことなど一つもないから、疚しいものを抱えて生きざるを得ない凡人の気持ちも、それを指摘されたときに生じる恥辱から来る怒りが、理解できない。

いや、正確に言えば、理解はできても実感できないのだろう。

 

悩んで、少女は次のように答えた。

ヒトには、誰しも隠しておきたいことがある。

女が人前で化粧をするのは自分を飾るためでもあるけれど、相手へ己の欠点を晒させない、礼儀のためでもある。

余分に見えるかもしれない言葉でも、一切を飾らない言葉は、相手の急所を突いて痛みを与えるときもあるのだ。

貴方の真摯な対応は何にも変えがたい宝ではあるけれど、四六時中宝を持ち出して話をしていては気忙しいのだから。

 

その答えに、彼は何を思ったのか、そうか、と言っただけだった。

 

結局、彼の言動はあまり治らなかったが、少女は彼を知れて少し嬉しかった。

無いことに、彼のことを考えている間は郷愁が少しだけ薄れていた。

 

 

 

 

そんな、無欲の化身のような彼にも一つだけ執着していることがあった。

 

それは、さる武術に優れた五兄弟の戦士との戦い。そのうち、三男の戦士とは、是が非でも雌雄を決したい、決さねばならない、と珍しく熱のこもった口調で彼は言っていた。

 

これは浅ましい我欲だろうか、と問われたから、貴方のそれが我欲なら、ヒトは皆欲に囚われて身動きすら覚束なくなっていますよ、と少女は呆れて返した。

武人として好敵手を得られるのは何よりの誉れでしょう、貴方が心に命じられるまま戦うことを、わたしは止めませんから、と付け加えた。

 

彼は、特に何も言わなかった。

頷いて、微笑んだだけだった。

 

 

 

 

 

一度、機会があって、その好敵手という戦士たち五人と、少女も顔を会わせた。

彼の者の妻です、と名乗れば五兄弟の次男に彼をけなす言葉をかけられたので少女は、久方ぶりに感情の赴くまま次男の髭を燃やしてやった。

噂の三男は、目を丸くしてそれを見ていた。

 

それから、事態を知った夫に珍しく怒られた。危ないことをするな、と。

少女は軽率な行いだったと後悔して、それ以上に爽快な気分になった。

郷愁がまた薄れ、心の穴が小さくなったのを感じた。

 

そう言えば、と一通り怒られた後に少女は、思い付いたことを言った。

少女はいつもは、熟慮してから口を利く方だったから思い付きをしゃべることは滅多に無い。だけれど、そのときだけは感じたことが口をついて出てきた。

 

三男の方は、生きづらそうな方ですね、と少女はつい言った。

 

あの男ほど栄光に包まれ非の打ち所のない者はいないのにか、と問う夫は驚いているようだった。

そうでしょうか、と彼女は彼に異論を唱えた。

 

何というかあの方は、周りに英雄としてそうあれかしと望まれ求められ、それに一心に応え続けているように見えました。

あの方が比類無き器を持ち、人としても優れているのは間違いありませんが、あの生き方は疲れるときもあるでしょう。

貴方との勝負の行方に凝るのも、その裏返しかもしれません。

 

所詮は推測で、本当のところは分かりませんが、と少女は肩をすくめて言葉を結んだ。

 

彼は何も言わなかった。

ただ、初めて会う人を見たように、少女をまじまじと見つめただけだった。

 

 

 

 

 

 

それから時が経ち、少女は成長した。

もう少女という年齢でもなかったのだが、何故か見た目がさほど変わらず、幼さを残す少女と、成熟さを持つ女性の境界に立ってふらついていた。

 

焔の力のせいかもしれないな、と夫に言われた。彼女も、多分そうだろうと思っていた。

 

胸のくすぶりは、もうずいぶん前から小さくなっていた。

例えば一日の終わり、地平線に沈む夕日を一人で見ているときなどには、思い出したように帰りたい、という気持ちがわくこともあったが、それはごく短い時間だった。

自分が一体、どこへ帰りたいのか少女はそれを考えるのを止めていた。

自分の心の揺れが何処から来るかを突き詰めてしてしまえば、何かが壊れてもう二度ともとに戻らない予感があったから。

それに自分の帰る場所は、もう、この大地にちゃんとあったから。

 

 

しかし、少女の心に平穏が訪れたのと入れ換わるように、世間は騒がしくなっていった。

少女の夫が仕える王と、件の因縁の五兄弟とが、王国の支配を巡っていよいよ争うようになっていたから。

 

その戦いの中で、五兄弟と少女の夫とは何度もぶつかっていた。

特に三男とは会うたび激突していた。というよりもこちら側には三男に抗するだけの英雄が、彼以外にいなかった。

 

貴方に黄金の鎧がある限り、貴方が死なないとは思いますが、気を付けてくださいね、と少女は言った。

誰に請われても、それをヒトに与えてはいけませんからね、と念を押した。

 

分かった、と彼は言った。

 

 

 

 

そのすぐ後に、彼は神に請われて鎧を自らの体から引き剥がした。

血塗れで帰った彼を見て、少女は生まれて始めて魂かけて激昂し、手加減なしで彼をぶん殴ってから、浄化の焔で彼の傷を癒した。

 

お前がそこまで怒るのは初めてだな、と彼はどこか嬉しそうに言い、誰のせいだと思っているのですか、と彼女は、もう一度彼をぶん殴って思いきり泣いた。

 

 

 

 

鎧をなくしても、彼が戦いに参加しないということはあり得ない。

少女は、癒し手であって生粋の戦士ではなかったから、前線からは退けられていた。

分かっていたことだ。

彼の側にいても、少女には何もできない。どころか、彼女自身が弱点にすらなりえる。

彼は無敵の戦士だったから、相手は手段を選ばなくなっていたのだ。

そもそも、鎧を奪ったのも五兄弟のうちの一人の父である、神インドラであった。

神の依怙贔屓にはさすがに少女も憤ったのだが、鎧を奪われた当人の彼が、あまりに泰然としているので、少女の怒りも長続きしなかった。

 

前線に程近い、けれど彼の姿を見ることはできない地で、来る日も来る日も浄化の焔で運ばれてくる兵士たちを癒した。

負傷した者たちから、彼の消息を聞くたびに離れているしかない我が身がもどかしかった。

 

 

 

 

双方長引く戦いに疲れ、そろそろ大決戦が行われるか、というときになった。

一目でただ者ではないとわかる武士が、一人の年配の婦人を伴って、少女の元へ現れた。剣呑な雰囲気を感じ、少女は身構えたまま彼らを出迎えた。

 

婦人は、少女を義理の娘と呼んだ。

訳がわからず首をかしげる少女に、婦人は己の素性と、やってきた理由を明かした。

自分は五兄弟の実の母であり、また、少女の夫の母であること。

つまり五兄弟と彼とは異父兄弟であるから、彼が元の身分を取り戻すように彼を説得してほしいということ。

彼の最愛の妻の貴女なら、その説得ができるはずだ、と婦人は言った。

 

それら全てを聞き、少女は星の瞬く夜空を仰ぎ見た。

それから、口を開いた。

 

 

 

 

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空気が変わった。

パーンドゥ五兄弟の母、クンティーと共に、カルナの説得を試していたパーンドゥ側の武将、クリシュナはそう思った。

 

目の前に一人座るのは、澄んだ青い瞳と病人のような白い肌をした、華奢な女性。

その装束は血と埃にまみれ、身を飾るものと言えば、髪をまとめている赤い宝石のついた黄金の小さな輪だけ、というほどにみすぼらしく薄汚れてこそいたが、瞳は焔のように蒼く煌めき、歴戦の勇者クリシュナをして、全身から気圧されるような熱気を発していた。

それもそう。野にひっそりと咲く小さな花のような外見とは裏腹に、彼女も女だてらにパーンドゥを苦しめているのだ。

そもそも、パーンドゥとカウラヴァの最終決戦の地、クルクシェートラに程近い地に留まり、負傷兵たちを治療し続けている女が、ただ者であるわけがない。

おまけに、カルナにかけられていた呪いのうち、いくつかは彼女がその浄化の焔を持って、打ち消しているのだ。

なるほど、彼女は紛れもなくカウラヴァ最強の戦士、『施しの英雄』カルナの妻だった。

 

―――――貴方たちのお話はよくわかりました。我が夫、カルナは本来はパーンドゥの長兄であり、今こそ本来の場所に立ち返り、肉親からの愛と名誉を得るべきだ、と仰るのですね。

 

ええ、とクンティーは返答し、炎神の娘はいっそ優しげとさえ言える笑みを浮かべた。

 

―――――それは、無理な話でしょう。この戦の終わりに、一体何を血迷われたのですか。

 

焔を瞳の奥に燻らせたままの炎神の娘の言葉に、何故ですか、というクンティーの声がひび割れた。

 

―――――何故も何も、カルナがそのような話を受けるわけがありません。これまでずっと、目をかけてくれたドゥリヨーダナ様を裏切り、すがってくる味方を切り捨て、一度も手を差し伸べて来なかったパーンドゥに与しろと?

 

貴女には、この地の声が聞こえないのですか、と炎神の娘は両手を広げ、後ろに広がる野営地を示した。

まだ生きている者の呻きと、死に行くものたちの声なき声で溢れる、夜の大地を。

 

―――――お聞きください。今、ああして呻いている者のうち、一体何人が、明日の太陽を拝めるかも分からないのです。

カウラヴァの者たちのうち、どれだけがカルナにすがっているのか、分かりますか?

彼らをすべて見捨てろと、己だけが栄光の中に戻れと、そんな酷なことを貴女は息子に頼むのですか?これまで省みることすらなかったというのに?

いえ、これ以上私の口から貴女に言うのは控えます。それはカルナが言うでしょうから。

 

―――――お帰り下さい、クンティー様。

私は、カルナを説得などしようとも思いません。

けれど、貴女は私を一度だけでも義理の娘と呼んでくれました。故に、今宵のことを私は誰にも漏らしません。

お帰り下さい、クンティー様。クリシュナ様に守られ、貴女が望んで得た幸せの中に、一人きりで戻るのです。

 

そう言った、炎神の娘から熱気がふっと消え、彼女は背を向けて振り返りもせず、立ち並ぶ天幕の海の中へと消えていった。

彼女の姿が完全に見えなくなってから、クンティーはクリシュナを促して帰った。

二人は、ここに来る前、すでにカルナの説得を試みて失敗していた。

カルナに、アルジュナ以外のパーンドゥ兄弟は殺さない、という誓いを立てさせたのだから、失敗とも言い切れないが、ともかくカルナをカウラヴァ陣営から引き離すことは、できなかったのだ。

頼みの綱だった炎神の娘も、あの調子である。

小さく萎んだように見えるクンティーを守りつつ、パーンドゥの陣へと戻るクリシュナはもう別な手を考えていた。

 

カルナを、カウラヴァの陣営で戦わせない。

そうするためには何が必要か、どんな手を使うのか、答えはもう出ていた。

幸い、本分が癒し手である炎神の娘は、ひとかどの武術は心得ているがそれはあくまでひとかどであって、最強には程遠い。

 

 

訪問から二日後の夜、クリシュナはパーンドゥ側の武将、ガトートカチャと十数人の兵を伴い、野営地を再び訪れた。

 

が、そこにいたのは、数多の篝火を背にして立つ炎神の娘、ただ一人だった。

 

 

 

 

#####

 

 

 

 

―――――ああ、やはりこの結末ですか。

 

そう呟いて、物々しく武装した男たちを出迎えたのは、一人の女性だった。

二日前まで野営地だったはずの場所は、見事に何もなくなっていた。

 

何をした、というクリシュナ。

炎神の娘はゆらりと俯いていた顔を上げた。

 

―――――貴方が、私を捕らえに来ることは分かっていましたから、ここにいた私以外の者は皆、遠い地に逃がしました。

 

それならどうして貴様は逃げなかった、と聞くのは、クリシュナの連れてきたガトートカチャ。

 

―――――私が逃げて、それで貴殿方が諦めますか?諦めないでしょう。ならば、迎え撃つ以外に選択肢がありましょうか。

 

そこで炎神の娘は、クリシュナたちの後ろに控える兵を見て、うっそりと笑った。

 

―――――女一人を捕らえるのに、ずいぶんとまあ、手間をかけるものですね。それほど、カルナが怖いのですか?

 

そう、とも違う、ともクリシュナは言わなかった。

ただ、無言でガトートカチャに合図して、炎神の娘の周りを取り囲む。

兵の一人が、手荒に彼女の髪を掴もうと手を伸ばし、そして次の瞬間、吹き飛ばされたように地面に転がった。

炎神の娘は、焔を身に纏っていた。

赤でも青でもない、白い炎が夜の闇を切り裂き、娘を中心に丸い炎の輪が広がる。

一瞬で、クリシュナたちは炎の篭の中に閉じ込められていた。

 

その焔が、彼女の命を削って生み出されているのを看破したクリシュナは叫んだ。

貴様、死ぬつもりか、と。

 

―――――ええ、そうです。

 

と炎神の娘は笑う。

戦場に相応しくない、恋する少女のような声で。

 

―――――私、愚か者ですから、あの人が何をしてほしいか、分からないのです。

だから、あの人のために貴殿方を止めると決めました。あの人の足手まといにならないために、自分を殺すことに決めました。

 

正気か、と目をむくクリシュナとガトートカチャに、炎神の娘は謳うように応える。

 

―――――クリシュナ様、貴方は、そこのガトートカチャ様を煽り、カルナにインドラ様の槍を撃たせようとしていましたでしょう?

アルジュナ様を勝たせるためにそこまでおやりになる貴方がいなければ、カルナも本懐を遂げられるかもしれないじゃありませんか。

 

クリシュナは、ここで己の間違いを悟った。捕らえる、などというのでは生温い。この女は、この場で殺さなければ止まらない。

槍を手に、クリシュナは炎神の娘を指し貫かんと走る。

その様を見て、白き炎を纏い凄絶に笑う炎神の娘は、囁くように言う。

 

―――――逃がさない。

―――――貴殿方は、ここで、私と共に死になさい。

 

クリシュナの槍が、炎神の娘の心臓を抉るのと、白き炎が爆発し、辺り一面を吹き飛ばしたのはほぼ同時だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

そして気がつくと、少女、炎神の娘、と呼ばれていた『彼女』は、何もない空間にいた。

乳白色の霧の中に入ってしまったようで、辺りはろくに見えない。

前、後、上、下、右、左、と辺りを見てから、少女は自分が一人きりだと認識する。

 

もしかしてここが地獄なのでしょうか、と少女は呟いた。

 

―――――違う。

 

と、空間に、重々しい声が轟く。

それから、感情の読み取れない声は、少女を糾弾した。

 

―――――炎神の加護を得ていながら、お前はその力を欲望のままに振るった。

神の化身を焼き殺そうとし、彼処で死ぬべきでなかった羅刹の子を焼き殺した。

変えてはならぬ法に背き、運命を覆そうとしたお前は、罰を受けねばならない。

 

なるほど貴方は神々のお一人ですか、と少女は嘆息した。

彼女が燃やし尽くそうとした、パーンドゥ側の武将クリシュナは、ヴィシュヌの化身、アヴァターラである。

彼は、神の敷いた法通りの結末をもたらすためにパーンドゥ側にいた。

彼を殺そうとしたこと、つまり運命に抗おうとしたことは、神々の法に照らしあわすと、罰を与えねばならぬほど、いけなかったようだ。

八つ当たりではないのか、とは少女は思ったが、口にはしない。どのみち神の前で思考を偽り隠すことなど無理なのだ。

 

というか、あれだけやってクリシュナ様は生き延びられたのですか、と少女はさっきとは別の意味で嘆息した。

ガトートカチャは道連れにできたようだが、それにしても理不尽に思える話である。あれは、己の命を捧げた焔だったのに。

はぁ、と己の失策、力不足だけを嘆く少女に、神とおぼしきナニものかは、重々しく裁定を下す。

 

―――――我らは、お前から名を奪おう。

お前が生きた時代は、英雄たちの物語として人々の間で記録される。だが、そこにお前の名はない。お前の夫以外、お前の名を覚えていた、ありとあらゆるモノから、お前の名を消そう。

人類史有る限り、お前は永劫、誰かに呼ばれることのない、名も無きモノとして、ヒトの世から離れた場所に、存在し続けるがいい。

 

記録と名を奪う、ということはつまり、少女はこれまで生きていたすべて、死んでからのすべてをかき消されたことになる。

彼女の死と生は、何の意味もないものとされ、彼女に墓があったとしても、そこに涙を注ぐものはいない。

声は黙し、少女の反応を待った。

泣くか、怒るか、嘆くのか、いずれにしろ、彼女に下されたのは重い罰だった、呪いだった。

 

―――――そうですか。

 

しかし、少女の答えは簡潔だった。激しい感情は少女の中に無い。彼女はただ、凪いでいた。

 

―――――分かりました。貴殿方の裁定に従います。私の記憶は、これまでに死した、数多の名も無き人と同じく消されましょう。

そんな当たり前の結末を、罰と呼ぶのですね、貴殿方は。

 

どころか、少女はせせら笑った。

白い空間が怒りを覚えたように震えるが、少女は何も感じないように肩をすくめただけだった。

 

―――――何をお怒りですか、神々よ。

ヒトの歴史に呑まれて消えた、数え上げるだけでも気の遠くなる人々の中に、私は沈められるだけなのでしょう。

ただ一人、忘れてほしくない方に覚えていただけるのなら、私は幸せ者です。

それのどこを、恐れ戦けと申されますか。

神々よ、私には私の名がどうなるかなど、どうでもいい。

私の生きて為したこと、それが消え去らないのなら、それを為した者の名が、別人に置き換えられても、我が名が貶められても、構わない。

私は名誉を求め、誇りに命をかけられる武将ではないから。誉れが汚れることを、躊躇いなどしないから。

 

―――――尤も、自らの目に留まった英雄にだけ気を配り、自らの敷いた法を守らせることに腐心し続ける貴殿方には、分かるはずもないでしょうが。

 

今度こそ、空間に怒りが満ちる。

怒りは重圧となり、少女を押し潰した。

押し潰されたまま、少女は端から順に体の感覚が消えていくのを感じていた。

 

―――――癇癪ですか、大人げない。

 

こんな激情家の、沸点の低い存在にいいように踊らされたのかと考えれば、怒るより悲しくなって少女は目を閉じる。

これから自分が、どこへ飛ばされるかは分からないが、もう二度とカルナには会えないのは確からしかった。

 

―――――嗚呼、それは悲しいが仕方ない。受け入れよう。

―――――けれど、あの別れが永遠になると知っていたら、最後の挨拶のときに、もう少し気の利いたことを言ったのに。

―――――人生とは、儘ならないものですね。

 

それを最後の言葉として、この空間から彼女は消えた。

名を奪われ、記録を根刮ぎにされ、炎神の娘の一生は、こうして終わった。

 

 

 

 

 

 

 

 




初めまして、はたけのなすび、と申します。

長らく読み専でしたが、思いきってやってみました。

そしてやってみてわかりました。書くのは難しいです。

連載をするかは未定です。連載した場合、この壊れ主人公がどう動くやら……。
ちなみに、出せなかっただけで、主人公の名前はあります。


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