では。
今回は過去編もとい、別オリキャラ視点での過去話です。
過去の話です。
わたしがあの方と出会ったのは、大河のほとりでございました。
暗闇が迫る、夏の夕暮れ時だったのを覚えています。
身の丈ほどもある葦をかき分けた先にいらっしゃった、黒い髪と青い瞳のあの方に、幼いわたしは呆気にとられたものでした。
今まで見た尊き身分の誰とも違う、真っ直ぐな瞳でわたしを見つめてくださったからです。
あのひとは、突然藪から現れたひとりぽっちの穢らしい子どもに驚くこともなく、抱えていた水瓶をその場に放り投げなさって、わたしの側に駆け寄ってくださいました。
それから、鋭い草の縁で切ってしまったわたしの手のひらや、とがった小石を踏んで傷だらけになったわたしの足を撫でさすって洗い、持ち合わせていた薬を塗り込みながら言ってくださいました。
がんばったのね、と。
なんて、愚かな方なのでしょう。
周りをご覧になればよかったのです。
あの方と共に水汲みをしていらした他の御婦人方は、草の間から現れた真っ黒い子どもを化物と勘違いし、悲鳴を上げ逃げておしまいになりました。
その彼女らに押されて前にまろび出て、目に入った黒い
一人だけ、みなさまと逆の方向に駆けてこられた。
人を食べ村を焼き、森を灰にするような、もっと恐ろしい本物の化物を見慣れていらっしゃったあの方は、わたしがただの人間の子どもだとわかった。
でも、わたしは触れるのに躊躇うほど穢く汚れた子どもでした。饐えた臭いだってしていたでしょう。慈悲深いだの分け隔てないだのと世に謳われる貴婦人方でも、夫のための水甕や果物籠を投げ出して一目散になってしまうぐらいには、見たくもない姿だったに違いありません。
なのに、あの方はご自分の白い手が黒くなるのも、青い衣が濁った紫になるのも、ちっとも気になさらなかった。
行くところがわからないなら、しばらくうちにいらっしゃい、とわたしに手まで差し伸べたのです。
ええ、あの方にとってわたしは行くところがない子ではなく、行くところがわからなくなった子だったのです。
いずれ、行くべきところを見つけて離れて行く子どもだったのです。
最初から、きっと最期まで。
■
『旦那様』なるお方が現れたのは、わたしが川べりであの方に拾われてから、十日ほど後だったと記憶しています。
おそれながら、初めてお会いした時は一体全体どこの夕闇の魔物が現れたのかと、驚きました。
黒く濁った御体に、幽鬼のような真っ白い肌、胸の目玉のような赤い石がこわくて、固まってしまったのを覚えております。黄金の鎧のきらめきはございましたが、そんなもの目に入るのは二の次。
わたしを見下ろした、二つの鋭い瞳がこわくって、わたしは動けなくなってしまったのです。
カルナ、とあの方がその幽鬼のひとのお名前を大切そうに口にされて、それでようやく、わたしは動くことができるようになったのでございます。
ではこのひとが、『旦那様』にあたるのか、と。
百王子の惣領というお方にもその時に初めてお会いしましたが、『カルナ様』との違いには驚きました。
惣領様は口を開けてあけっぴろげに笑われるような方で、滅多に笑わないカルナ様と親友だというのが不思議に感じたのです。
惣領様には、今度のはいつまで保つか、と大いに笑われたのも覚えております。
ええ、わたしのような、あの方に拾われてくる子どもは何人かおりました。けれど、ほとんどは数ヶ月で何処か他所へ引き取られるのが常でした。
人間でないかのようなカルナ様が怖かったり、火を操る魔物の娘だと囁かれるあの方を勝手に恐れたり、あの方との忙しい毎日に耐えられなくなったり、カルナ様の鋭い物言いを嫌がったり、守るべき階級や掟を時として踏み越える環境に怒ったりと理由は様々ですが、居着く子どものほうが少のうございました。
彼らがあの方に出会って救われたのは真実でしょうけれど、得てして救いの手というのは当人が最も見たくない形をしているものなのです。
なので、感謝するどころか怯えたり罵ったりする子のほうが多いくらいでした。子どもは、良くも悪くも己の衝動に正直でございますから。
惣領様が笑ったのは、そうして傷つけられてもちっとも懲りないあの方をからかって、笑い飛ばす意味もありました。
己を拒む子どもらにも、あの手この手で行き先を見つけるようなひとですから、惣領様に笑われてもあの方は怒りはしませんでした。
この子を怖がらせるような大声はやめてください、と惣領様に苦言しただけにございます。
旦那様はと言えば、無言のままその場にあった果物などを剥いてわたしにくれました。顔にはちっとも出ていませんでしたけれど、内心はおろおろとまごついていたと、後であの方に教えていただきました。
旦那様は口を開いて子どもを泣かせたこと数知れずなお人でしたから、もう何か言う前に行動しようと決めてらっしゃったそうです。
同じくその場におられた額に宝石をお持ちの
多分あの司祭様は、あの光景に、彼処にいる人々に、誰よりも情を向けていらっしゃったのではないでしょうか。
だからこそ、あの場にいた皆様が、一人残らず殺されたあと、我を忘れるほど怒ったのではないかと思います。
ねぇ、英雄様。
神の化身であらせられる、この世で最も尊き貴方。
わたし、思うのです。
あなた方は、あの方たちを悪と仰いました。
否定はいたしません。
惣領様はどうしようもない欲深で、司祭様は怒りで血の雨を降らせ、旦那様は英雄を倒すことに拘り、あの方はこの天地のすべてに従わなかった。
皆が皆、それぞれに世の安寧秩序を脅かす因子を持っていらした。
でも、あの方々のすべてが悪なのでしょうか。
あの方たちでなければ、救えない人々もいたのに。
あの方たちさえいれば、幸せな者もいたのに。
世のきれいなもの、うつくしいもの、尊きものはみな、わたしを助けてくださらなかった。
わたしが穢くて、弱くて、何の役にも立たなくて、助けられるべき尊い身分でないから、みんな顔を背けた。
後ろを振り返って、わたしに気がついて、戻って来てまで、わたしを助け起こしてくれたのは、あの方だけでした。
どうすれば子どもを怖がらせずに済むのかと慣れないことを懸命に考えて与えてくれたのは、旦那様だけでした。
自分の一部を切り取り人に差し出すのは、口で言うほど簡単なことではございません。
でも、あのお二人は何度もそうしてくださった。
自分が捨てられたから。
置いていかれたから。
必要とされなかったから。
同じ思いをさせたくないと、わたしの側にいてくれた。
そんなのが見返りになるのかとお思いになるでしょうけれど、実際なっていたのです。あの方たちは特に、難しいことは考えていらっしゃらなかった。
天の国スヴァルガからわたしたちを見下ろして慈悲を垂れるのではなくって、わたしが自分の足で立ち上がって歩けるようになるまで、隣にいてくれた。
立ち上がれるまで、待ってくださった。
ねぇ、英雄様。
なのにどうして、あなたはあの方を、殺めてしまわれたのですか?
■
ええ、わたしはあの方に育てていただきました。
川のほとりから手を引かれて抜け出して、あのお二人が暮らすお屋敷に連れて行ってもらいました。
お二人とも自分のことは自分でおできになるし、人に任せるのが落ち着かないひとですから、召使いや侍女はとても少なかった。
旦那様は仮にも王なのにご自分で自分の馬の鬣を梳るようなひとで、あの方はその伴侶でらっしゃるのに外で薬を作っている時間のほうが多かったのです。
そんな変わり者のお二人のお屋敷には、お二人を好いておられる使用人しかおりませんでした。それ以外の者は続かないのです。
今から思えばそれは、己のこととなると迂闊になるお二人の気質を知り抜いた惣領様の配慮であったのでしょう。
声を出せばすぐに誰かが顔を覗かせるようなお屋敷で、わたしは育てていただきました。
この世の女が学ぶべき作法や教養から、薬や狩りの仕方に至るまで、何でも。
知っていて困ることはひとつもない、とはあの方の口癖でした。
でも、あの方は一体どこからああいった知識を得たのでしょう。
弓や薬は兎も角、作法やもてなしの仕方を教えてくれるような女親は、あの方にはいらっしゃらなかったのに。
もしかしたら周りをご覧になって、必死に一つ一つ得たものかもしれません。それを、道端で会った子どもに惜しみなく与えてしまうのは、呑気なのでしょう。
他人に与えても困らないから、自分より必要としているひとがいるから。
そんな理由で、何でも渡してしまうのです。自分のものを惜しむ心が、薄かった。
あのひとが手放さないでと頼んだのは、旦那様の鎧ぐらいです。
それは、あれが不死身を与える鎧だからではありません。
あんなもの、あってもなくても、旦那様が強いのを屋敷の者は皆、知っておりましたから。
あれは、太陽の光輝が形を成したもの。
旦那様のお父様、太陽のスーリヤ様が、我が子に死なないようにと願われた想いの形でした。
目に見える親の愛は、あの方にとって慰めだったのですよ。
お母様は亡くお父様はわからず、養い親とも最期まで溝が埋められず、終ぞ親から与えられる愛をご存じなかったから。
けれど、あの鎧もおかしな話ですよね。
だって、時代の英雄は皆、
次の
なのにどうして、太陽は子に不死身の鎧など与えたのでしょう。ひとえに、我が子に死んでほしくなかったのでしょうか。胎を使った者から、懇願されたからでしょうか。
単なる親心であったならと夢想しますけれど、わたしにはわかりません。
神でも、精霊でも、魔物でもなく、その血を一雫も受け継いでいないわたしには。
しかしあの鎧は、他ならぬ旦那様の手で他所に移されてしまったのですけれど。
ええ、あの時ばかりはわたし、思いました。心の底から。
馬鹿につける薬はないと。
羅刹からわたしを庇って、自分の腕が千切れかけた時も涙一つ零さなかったあの方が泣いたのは、あの時だけでした。
どうして己が泣いているのかもわからないような、行き暮れた迷子のような顔でほろほろと涙をこぼされていたのを、覚えています。
哀しみ?
旦那様はこの世で生きることより、戦士としての道を選ぶと悟られたから?
いいえ、それだけではなかったと思います。
哀しみと、諦めと、怒りと、悔しさと。
人に涙を流させる感情が混ざりに混ざった、本人も切り分けられぬ想いが溢れただけでございましょう。
鎧を自ら手放したあの件に関してはわたし、まったく旦那様を許しておりません。
旦那様にも理屈と言い分がございますのでしょうが、知りません聞きません。
旦那様は己が愛する女を、己を愛してくれる女を泣かせたのです。
ですから、許せません。
女の涙の一粒も掬することができない者の、何が英雄か。
されどわたしが許そうが許すまいが、関係はないのでしょうね。
旦那様は許されようと思っていないのだから。これだから、何があろうと前を見て進んで行ける方々は厄介極まりない。
旦那様が心底の負けを認めることなど、あるのでしょうか。
願わくば、どなたかにその偉業を達成していただきたいくらいです。
…………ええ、今のは愚痴でした。
お忘れください。
そんなふうに、わたしはあの方たちの側におりました。
名前と居場所と知識と、遠慮がちではあれど愛を与えられて、とても幸せでした。
あなた方からすれば、正しくない王子の膝下での生活が幸せだったなぞ信じられないかもしれません。
それでも、幸せだったのです。
だから、壊されたくはなかった。
戦が起きるとわかって、屋敷の中が日に日に慌ただしくなっていくのを、わたしは見つめておりました。
ここは危なくなるから、王妃様のところへ行きなさいとあの方に言われても、わたしだけは従いませんでした。
惣領様のお母様、ハスティナープラの王妃様に仕えれば怖い目には遭わないから、そこへ行きなさいと、何度あの方や旦那様に諭されても、わたしだけは首を縦に振りませんでした。
当たり前でございます。
わたしには、自分が怖い目に遭うことより、お二人がわたしの知らないところでいなくなるほうが怖かった。
わたしは、一度死んだような者です。
川べりであの方が手を伸ばさなければ、あの日の夜には獣に食われて水面に浮かぶ屑肉になっていたことでしょう。そうしてやっと、世間から人並みの哀れみを向けられる人間になれていたことでしょう。
どんなに危ないのだと言われても、わたしにはあの方の側よりも安全なところなどないと思い込んでいたのです。
愚かなのは、わかっておりました。
でも、あの時代に生きる者皆、愚かなところはあったと思うのです。
戦を招いた者、焚き付けた者、望んだ者、仕組んだ者、或いは戦いの中でしか生きられぬ者。
そのような皆様ばかりの時代でした。
皆が皆、取り憑かれたように戦に向かって行った。最悪の結末へと、ひた走った。
まるで、決められた芝居の能書きをなぞるように。
あの狂乱の中で、己に人間として生きる道のすべてを与えてくれたあの方の側を離れたくないと望むのは、間違っていましたか?
……ええ、あなたは答えをご存じでしたね。
わたしは、間違えました。
旦那様が戦に向かわれて、あの方は戦場から離れた後方で、傷ついた兵士を治していらっしゃいました。
わたしはそのお手伝いをしていました。
こんなことなら、薬草と手当ての知識まで正しく与えるのではなかった、と唯一あの方に愚痴らしい愚痴を言われたのもこの時です。
知っていて悪いことは一つもないと思っていたけれど、知りすぎているゆえに己の生命を危険に晒す者がいるのを考えていなかったと言う、あの方らしい間違いでした。
あの頃には、子どもではなく娘と呼べる年頃になっていたわたしの頬を、昔と変わらずに撫でて、ちっとも歳を取らない少女の風貌で、あの方は笑っておられました。
傷ついた者を癒すなら、ずっと笑っていなさいな、と。
不安を悟られてはならない。
哀しみを分かち合ってはならない。
それは、傷ついた人にとって毒だから、と。
そうして己に言い聞かせて、あの方はどれだけの哀しみや寂しさを己の内側に溜め込まれたのでしょうか。
旦那様は、己に課せられた責務であの方の重荷を取り除けなかった。
あの方は、己の哀しみや痛みを、口に出せなかった。
わたしは愚かで、あの方のお役に立てなかった。
だから、あなたに付け込まれたのです。
ねぇ、英雄様、
貴方様は、神の化身とお聞きしました。
古の尊き御人の、生まれ変わりだともお聞きしました。
それが誠でも、偽りでも、わたしは構いません。どちらでも良いのです。
この世のことしか知らぬわたしには、貴方様の使命や前世など関係ございません。
貴方様がヤーダヴァ族のクリシュナ様として成されたことのみが、わたしにとっての真実です。
貴方様は、わたしを騙した。
騙して、あの方が術で隠していた野営地を暴いた。
それも、旦那様を産んだお母様を、クンティー様の陰に隠れて。
……わたし、間違えたのです。
あの場所に留まり続けて、兵士を治し続けたら、いつかあの方も殺されてしまうのではないか、と。
それが怖くって、だから、もし、旦那様のお母様がいるなら、あの方を助けてくれないかと、思ってしまったのです。
だって、
己が捨てた我が子を、ずっと妻として愛していたあの方に、責任ぐらいは感じていらっしゃるのではと思ってしまったのです。
もし子捨てを悔やんでいるのなら、義理とは言え娘を気にかけるくらいのこと、なさるはずだ、と。
……間違いでした。過ちでした。
旦那様のお母様は、クンティー様は、旦那様のことなど、ちっとも考えていらっしゃらなかった。
己の子どもらを、五人の兄弟を助けてほしいと、自ら捨てた子の妻に頼みに来ただけだったのです。
兄弟で殺し合わないでと仰せでしたけれど、それならば何故、旦那様やあの方にだけお願いするのですか。
どうして、他の五人の兄弟やその奥様方に平等にお頼みしないのですか。
何故、夜陰に紛れた盗人のように、後ろめたいという面差しで現れたのですか。
日の当たる王宮で、この者は私の捨てた息子で、五兄弟の長男にあたるのだから殺し合いに道理がないと、何故公にしてくださらなかったのですか。
それほどまでに、己が何かを手放すのが恐ろしかったのですか!
旦那様やあの方から、愛も、優しさも、ついには生命と記憶も奪ったくせに!
……共に暮らしていないと、我が子を我が子と思えなくなってしまうのかしら、とあの方が呟かれたのを、わたしはまだ覚えています。
神の恩寵で一晩で身ごもり産み落とし、その後すぐ川に流して手放し、三人も子どもを産んで大変な苦労を重ねて五人を育て上げて、だから、最初の子どもを忘れてしまったのかしら、とあの方は戸惑うように仰いました。
あの方も、お母様の愛を知りません。
お父様は、始めからおられません。
親の愛とはそんなものなのかしら、と。
薄れても仕方のないものなのかしら、と。
恋を夢見る少女のように口にされておられました。
あの方には、わからなかったのです。
わからないから、クンティー様のことを、身勝手だと謗ることもおできにならなかった。
母親としての情が効かないならば、義娘の情を用いて、旦那様から戦いを奪おうとされたクンティー様を、ろくに詰りもしなかった。
何故、今更にそのような、カルナから戦いすらも奪うような、酷い事を仰るのですか、とクンティー様に問い掛けただけでした。
尤もそれが一番、クンティー様には利いたでしょう。彼女は、愛が深いだけで恥知らずではなかったから。
嗚呼、けれど、想います。
傷つき倒れた兵士から、その他多くの兵士から、縋られ頼られ、将軍として戦場にいる旦那様、唯一己を認めてくれた惣領様との友情を捨てたくない旦那様。
彼の情に訴えて、戦いを遠ざけるどころか、裏切れと唆してほしいという頼み事をしてきた義母様など、怒りと共に追い出しても良かったのに。
愚かにも陣の扉を開けて、あなたとクンティー様を招き入れてしまったわたしも、殺してくださればよかったのに。
あの方は、何一つなさらなかった。
でも、クンティー様をお守りするという名目で中まで入り込んできた貴方様ことは、警戒していらした。
貴方様が諦めないことも、貴方様には貴方様なりの使命や信念があることも、見抜いておられました。
クンティー様と貴方様がお帰りになった後、あの方は手早く指示を出されました。
もうこの場所は捨てる。
動ける者は動けない者に肩を貸し、早々に立ち去りなさい、と。
移り先はある。でも、私だけは行かないから、残して行きなさい、と。
そんなことはできないと口々に叫ぶ兵士にも、あの方は容赦がなかった。
クリシュナ様が現れる。今度は、羅刹の子を伴ってくる。
誰が彼らに勝てますか。
誰が彼らを押し留めますか、と。
他所の家の女を護って名誉も何もなく死ぬぐらいならば、主君や配下や親や、妻や子のために散りなさい、と。
そうしてすべての方を追い出して、あの方は最後に残ったわたしの前に来られました。
クンティー様をここに連れてきてしまったわたしを、この世で最も愚かなわたしを、あの方は抱きしめて下さった。
あなたには罰を与えます、とあの方は言いました。
クリシュナ様を導いてしまったわたしに、何の咎めも与えないのは道理がないから、と。
わたし、何でも受け入れようと思っていました。
死ねと仰るなら死にました。
消えろと仰せなら二度と生まれ変わらないようにしてから、そうしました。
けれどあの方は、こう言われました。
罰を与えます。
あなたは死んではならない、と。
生き延びて、いつか再会した時に、私が死んだあとこの世界がどうなったかを教えてください、と。
惣領様のお母様の、ガーンダーリー様のところへ行けるように手配したから、そこで生きなさい、と。
……ひどい、と思いました。
だってあの方はもう、御自分が生き延びるつもりがなかった。
これ以上この世にいては、もう旦那様の弱みとして利用し尽くされるだけだから、もうここまででいいと、自分の生命に区切りをつけてしまわれた。
それなのに、わたしには生きろと言うのです。
先を見て、と言うのです。
あの方も、旦那様も、わたしに優しくしてくださった方々がいなくなった世界で、一人で。
そんなのいやです、とわたしは幼い子どもみたいに泣きました。
わたしは、二度も親に捨てられるのですか、と惨い言葉をあの方に浴びせました。
貴方やクンティー様にも怯まなかったあの方は一瞬手を震わせて、わたしを抱きしめてくれました。
もうすっかり、同じ身の丈に育ったわたしを抱きしめて、耳元で囁かれました。
私を親と思ってくれるなら、私を捨てなさい、と。
己が生きるためならば、子は親を捨てていい。手を離していい。
私たちはずっとそう思っていた。子はいつか、弓から放れた矢のように、親の手を離れて飛び去るものだから。
私たちを親と思ってくれるなら、己の因果に子を巻き込むような親にしないで、と。
……ええ、知っております。
わかっております。
あの方のその考えが、あるべき階級から外れても構わずに情を選ぶ心自体が、世の道理から外れていたことも。
神か精霊か、いずれにしろ天の国に属しているどなたかの血を受けているのに、そんな世の道理がちっともわからず、
でもそれは、生きるのを諦めねばならぬほどに悪なのですか?
前世の因果の贖いや来世での幸福のために生きろと言うなら、この世を生きる意味はどこにあるのですか。
一つ前やその次を善いものにするため、今を蔑ろにせよと?
……そういうことでは、ないのでしょうね。それは極端で、目先しか見えない愚か者の考えです。
でも、あの夜の、あの戦いにおける貴方様の行為は、たとえ貴方様の次の世や前の世に繋がるものだとしても、許したくありません。
それだけを、伝えたかったのです。
……ええ、わかっております、クリシュナ様。
あの方は、貴方様に殺された。
貴方様の手にかかったのではなくとも、貴方様に利用される前に自ら生命を絶ったなら、殺めたも同じです。
羅刹の子を巻き込んだのは、あの方の意地でしょう。雷霆神から与えられた槍を無駄撃ちされぬように。
あの方は最期まで、旦那様の事を考えてらした。
わたしでは、あの方が生きる理由にはなれなかったのです。
あの方を笑顔にできるのも、涙を流させるのも、傷つけられるのも、旦那様ただお一人だけでした。
ねぇ、でも、でも、でもでもでも!
あの方が亡くなられたあとに、あの方のお名前や記憶を虫に食わせるように消してしまわれたのは、余りにも非道ではありませんか?
わたしはこうして今は貴方様に語っていられますけれど、もうあの方のお名前がわかりません。
お声やお顔が、ぽろぽろと崩れていくのです。遠ざかって行くのです。
どうしてですか。何故ですか。
あんなに大切だったのに。
あんなに一緒だったのに。
天の月や星や青空のように、そこにいてくださるだけで良かったのに。
何も持たないわたしから、あの方との記憶まで奪うのですか。
嗚呼、嗚呼、アァぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ────────!
呪わしい!
恨めしい!
災いあれ!
あの方を損なったすべての者に、二度と安息など与えられませぬように!
わたしも、貴方も、一人残らず!
……そんな呪いを吐いても無駄なのでしょうね。
あの方は貴方様のことも、
前世の縁か、或いは元々そういうふうに生まれたからか、どちらにしても、戦いの中心にいて成すべきを成さねばならない貴方様、クリシュナ様。
もし貴方様が真実ヴィシュヌ神の化身で、しかもその自覚をお持ちならば、親友も、妻も、一族も、誰も彼も、舞台の上の役者のように操らなければならなかったのではないでしょうか。
それは確かに、途轍もない苦しみです。
誰がどのような最期を迎えるかまで知りながら、誰もその流れから掬えない、救ってはならないという使命、あの方や旦那様では耐えられないでしょう。あの方たちは、ひどく情に脆いので。
……クリシュナ様、もしかしてあの憐れみは、貴方様にとって怒りになりましたか?
この世から放逐すべき涜神の女に見透かされるのは、英雄にとって屈辱でしたか?
……そう、ですか。
それが、貴方様の答えですか。
…………旦那様、カルナ様。
わたしが唯一心の底からお仕えしたあの方の、伴侶であるあなた様。
ここからは、わたしはあなたに向かって申し上げます。
クルクシェートラの只中で、戦いの中で落命されたあなた様は、お父様の元へ向かわれたと聞きました。
今は日輪として、この世のすべてを見守っているのだと皆様が教えてくださいました。
でしたらわたしの声も、聞こえているのではありませんか?
地上にあるわたしの姿も、見えているのではありませんか?
あの夜、あの方が生命を落とされたあの夜に起きたのは、これがすべてでございます。
あの方は自らヤマの国へ旅立たれた。いいえ、そこよりも深い暗闇に自ら落ちて行かれた。
探してください。
見つけてください。
其処が、日輪の威光が届かぬ暗黒であっても、関係ございませぬ。
あなた様の為に涙を流された伴侶お一人救えないようならば、英雄などやめておしまいになってください。
もう何も覚えていられないわたしでは、探しにも行けないから。見つけられないから。
どうか、どうか、お願いいたします。
あの方を、見つけてくださいませ。
かつてわたしの手を引いて、明るいところへ連れ出してくれたあの方を、暗闇に取り残さないで。
お願いいたします。
太陽神スーリヤ様の御子、施しの英雄たるカルナ様。
どうか、どうか、お願い申し上げまする。
■
………………そんな夢を見て、目が覚めた。
さわさわと、肌を冬の風が撫でる昼下がりに。
目を開ける、覚醒する。
いつかの己が受け取った祈りを、反芻する。
決して忘れぬように。
決して取り零さないように。
「ランサー?」
そうしていると、軽い靴音が近づいてきて、目の前に少女が現れる。
今の己、サーヴァント・ランサーの主であるまだ幼さの残る少女だ。
少女の手には、毛布があった。
小鳥のように、少女が首を傾げる。
「ランサー、夢を見ていたんですか?」
「夢ではない」
夢ではない。
あれは、記憶だ。
こうしてサーヴァントになった己か、父なる神と一体化した己かの区別はないが、あれは、カルナ、という存在そのものに向けられた言葉だ。
それゆえに、すべての
ただの人間の言葉が、太陽にまで届いたのだ。驚嘆に値した。
そうして願われた少女は、不思議そうに目を瞬いていた。
「そうですか。あなたも夢を見るなら、どんな夢か聞きたかったのですが」
「何故だ。死者の夢に囚われるというならオレは口を閉ざすが」
「極端です。サーヴァントである前に、今のランサーは同じ屋根の下で寝てる人間じゃありませんか」
明日はバゼット姐さんを迎えに行くけれど、今は二人しかこの家にいないんだから、気にかけられたくないなら、外で寝ないでください、とやや怒ったように少女は膝の上に毛布を置いて、隣に座ってきた。自分の分の毛布も確保して自分の膝にかけているあたり、手際が良い。
拳二つ分ほどの距離を開けて、庭を見つめる。この距離が、『今』の自分たちには適切なのだろう。
「マスター」
「はい」
「おまえは、家族が好きか?」
母親と姉、それに父との想い出が、この家には溢れている。
庭や、門や、柱の傷ひとつにいたるまで、いたるところに、家族の気配がある。
かつて望むべくもなかった縁に恵まれた少女は、言葉の意味を考えるように首を傾げた。
傾げて、本当に裏も表もない言葉通りの問いだと悟ったのだろう。青い眼を細めて、頷いた。
「好き、です。大事です。だから、ちゃんとお帰りなさいって言わないと。私は、母さんと姉さんに、いってらっしゃいって言ったから」
「そうだな。…………そうだ」
無事を祈る言葉を贈ったならば、無事に帰りを待つ。
そうしてやりたかった。そうしなければならなかった。
かつては、できなかったことだから。
たとえもう、誰も覚えていない過去だとしても。
今度こそは、と思うのだ。
「ランサー?」
「ん?」
「寂しい夢でも見たんですか?」
「寂しくはない。オレは、寂しいと思ったことなどないよ」
その資格は、ないと思ったから。
寂しいと思う暇に、探したかった。見つけたかった。
そうして探して、幾星霜が過ぎた先で巡り合った、決してカルナという名を呼ばない少女は、あの頃と同じ瞳で小さく微笑む。
「結局、夢を見たの、否定してないじゃないですか。……太陽の英雄でも、眠るんですね」
太陽なら、ずーっと起きているのかと思ってました、などと。
他愛ないことを言って、少女は微笑む。
聖杯戦争などという諍いが終わったあとも、
ずっとそうして、陽だまりで笑っていてほしい、と心から願った。
【わたし】
『奥様』大好きバーサーカー系侍女。ほぼ養女。この後、何かを忘れたまま平穏に生きた。
彼女の
FGO世界線で仮に聖杯を手に入れて弾みで記憶が戻った場合、主人公と再会するためだけにやけっぱちインド特異点を開幕する。
奥様は大好きだけれど、奥様を泣かせる旦那様は微妙かつ、あらゆるクリシュナ属を憎んでいるタイプ。
特異点の出来次第では、クルクシェートラの怨念上乗せバーサーカーが爆誕。
次回からは元の話に戻ります。
今後の伏線はあったりなかったり。