けほ、とせき込みながらシギショアラから外れた森の中、アサシンは霊体から実体へと姿を変えた。
同時に、“赤”のセイバーに斬られた肩から血が溢れて足元の草の上に滴り落ちたが、手で傷口を押さえて燃やせば、すぐ傷は塞がった。
手当てを終えて、アサシンは空を見上げる。思い出すのは、一瞬見た時計塔の上の人影。
どくどくと耳慣れない音がして、アサシンは耳を澄ませすぐにそれが自分の心臓の音だと気づいた。
目を閉じて、アサシンは気配を探る。
大気に流れる魔力はアサシンには光の帯のように見える。アサシンには魔力はそういう綺麗なものとして感じ取れるのだ。
そうして自分の視界を広げていって、アサシンは目を見開いた。
町の方角からこちらへと向かってくる、とても明るい光を纏った魔力の塊があった。しかも移動している。迷いなく一直線に、凄まじい速さで町から森へと進んでくる。
―――――ここから離れるべき。
“黒”のサーヴァントとしての自分が叫び、一方で一人の人間としての自分が囁く。
―――――まだ、ここにいたい。
がん、とアサシンの拳が側にあった幹を叩いた。
筋力Dランクとはいえ、サーヴァントが殴った衝撃に木は大きく軋み、眠っていた鳥たちが鳴き声を上げて飛び立つ。
殴った手でそのまま顔を覆う。耳が枝を踏みしめる音を捉え、アサシンはそちらへ顔を向けた。
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――――――どうして?
感情を抑える癖が過ぎて、冷静な表情が板についてしまっている顔が、その日、自分を見た瞬間、毀れた。
次の瞬間、濃い青の目の奥に閃光が閃いたかと思うと、頬に衝撃が走っていた。
――――――どうして、ですか?
激しい感情で目を光らせて、自分を見てくる彼女。
どうやら加減なしで殴られたと気付くのに、時間がかかった。
そこまで怒るのは見たことが無いな、と思わず呟いてしまい、今度は軽く肩をつかれた。
――――――雷神に請われたから、彼に鎧を与えた。
そう言えば、すべてを悟ったように彼女は手で顔を覆った。もう一度自分を見た瞳からは、吹き消したように激情が失せていた。
神に請われ、自分は自らの鎧を捧げた。請われたのなら、応じなければならないと決めていた。
自分にとって、生きる道は単純だった。つまらない男である自分に、かけがえのないものを授けてくれた父の威光を汚さない、自分に報いてくれた者たちを貶めさせない。
だから、それを全うするために、雷神に鎧を与えた。
元々望んで授かったものではないから、惜しくはなかった。
それを失うことで自分が死すべきものとなることも、神が自分から鎧を奪うのは我が子可愛さ故だということも、知っていた。分かっていた。
だからそれは、彼女も理解していると思っていた。
どうしてだか、自分のようなつまらない者の側にいつまでもいてくれる彼女は、この世で一番自分のことを理解してくれていたから。
それがどれだけ甘い考えだったか、今でも自嘲したくなる。
―――――ばか。
いつもの澄んだ声と比べたら、信じられないくらい弱弱しい呟きがして、気付いたら胸に頭が押し付けられていた。
肉体に一体化していた鎧を剥がした自分の体は血だらけで、塞がっていない傷から滴る血が彼女の髪と白い肌の上を流れていた。
汚れるぞ、と言えば上目遣いに本気で睨まれ、同時に全身に湯を浴びたときのような暖かさが広がった。瞬く間に、すべての傷が塞がる。
そのまま数歩後ろに下がった彼女は、力が抜けたように岩の上に座った。満天の星空から降り落ちる星明りが、彼女の髪を闇夜に浮かび上がらせていた。
―――――私、いつも言っていましたね。鎧を、誰かに与えてはいけないと。私の言葉は、一つもあなたに届いていなかったんですか。
それは違う。
ただ、自分の中では請われれば与えられるのは当然の理屈だった。水が上から下に落ちるように、太陽が東から上り西に沈むように、それは当たり前のことだった。
―――――雷神が親心を持っていることを嬉しく思う前に、あなたを案じるお父様の心をどうして大切にしなかったのですか。
何故かと言われたら、答えは簡単だった。自分の命はどこまでも父の威光を汚さないため、自分を育んでくれる人々のためにあった。
鎧の譲渡を断るのは、父の威光を汚すことになる。その結果が死であったとしても、それは受け入れるべきものであって、恐れるべきものではなかった。
―――――そう、ですか。
そう告げると、雨に打たれた小さな花のように彼女は俯いたまま呟いた。
言葉の意味を聞き返そうとする前に、彼女は岩から立ち上がっていた。
目の端から水晶のような滴が零れた気もしたが、自分を見た目には、もう元の光が戻っていた。
―――――無くしたものは戻らない。それなら、もう
それが、あまりにいつも通りの言い草で、だから自分は安心した、してしまった。
それは、間違いなく誤りだったと今は思っている。
#####
森のどこかで鳥が飛び立ち、草木が揺れた。
シギショアラから町はずれの森へ入った“赤”のランサーは、その方角へと氷のように鋭い目を向けた。
つい先ほど、シギショアラで“赤”の陣は“黒”のサーヴァント、アサシンと“赤”のセイバーとが戦う気配を察知した。ランサーに介入するつもりはなかったのだが、“黒”のアサシンの姿をランサーは捉えてしまった。
確かめなければならないことができた、とシロウに告げ、ランサーはシギショアラの町へ降りた。
ただ、あまりに間が悪かった。
ランサーの姿を認めた途端に、“黒”のアサシンは動きを凍らせ、“赤”のセイバーに斬られた。それを見て、ランサーは思わず殺気を放ってその戦いを止めた。
そのまま“黒”のアサシンは闇に消え、“赤”のセイバーは追撃せずにマスターと共に去った。
―――――どうする?
ランサーは自分に問いかける。“黒”のアサシンを追うか、戻るか。
つかの間逡巡して、彼は“黒”のアサシンを追うことにした。
気配は分からないが、彼にはアサシンがどちらへ行ったのか何となくだが掴めた。
会ってどうする、とささやき声がする。
疑いようもなく、“黒”は敵。仮借なく戦わなければならない敵だ。戦士として、サーヴァントとして、守るべき道理と果たさねばならない義務がある。
ただ同時に、ランサーには叶えようと、自分で自分に誓った想いがある。
しかし、果たしてどうするのかと決める前に、ランサーは“黒”のアサシンの気配を捉えた。
たわんで揺れた木と飛び立つ鳥の声を道しるべにして跳び、“赤”のランサーは“黒”のアサシンの前に現れた。
「あなたが、“赤”のランサーでしたか―――――カルナ」
月光の下、灰色の暗殺者のサーヴァントは“赤”のランサーの真名を告げた。
青い瞳も色白の顔も、ランサーの記憶の中と何一つ変わっていなかった。
「ああ、そうだ。お前は―――――“黒”のアサシンになっていたのか」
似合わない、と咄嗟にランサーは思った。
アサシン、つまりは暗殺者。彼女は、いつそのクラスに当てはめられる所業をした。
「……一つ聞きたい。お前は、聖杯にかける願いを抱いてここにいるのか?」
言葉の裏を探ろうとするかのように、アサシンが首を傾げた。けれど単に、ランサーからこぼれ落ちただけの問いだと察したのか、アサシンは答えた。
「……私は、助けを求めたマスターに呼ばれました。マスターを守り、その願いを叶えるために
それは、ランサーには予想できていた答えだった。分かっていて尚、ランサーは一瞬目を瞑った。生きていたころと何一つ変わっていないなら、この
「そう、か」
「そうです、――――“赤”の
時が凍り付き、月が雲に隠れてアサシンの顔が翳る。ランサーからは、アサシンの顔が見えなくなった。
そのとき、唐突に羽ばたきが聞こえた。
アサシンとランサーとは同時に上を向いて、そこにいた生き物に驚いた。
「アサシン、戻るよ!」
濃紺の夜空の中で羽ばたいているのは鷲の頭と馬の足、背中に翼持つ獣、ヒポグリフ。その、伝説の中にのみ生きる幻獣に跨がるのは、“黒”のライダーだった。
「ライダー!?」
「事情はあとだよ!早く乗って!」
急降下してきたライダーは、掬い上げるようにアサシンの腕を掴んでヒポグリフの後ろに乗せようとして、勢い余って投げ飛ばす形になった。
「ッ!?」
とはいえアサシンもサーヴァント。振り落とされる訳もない。寸でのところでヒポグリフに掴まり、体勢を建て直した。
「いい?じゃ、行くよ!」
「……ッ!」
口の中で叫びをかみ殺して、アサシンは思わず後ろを振り返ってランサーを見た。色合いの違う碧眼同士がぶつかり、交わる。
「――――行ってください」
「分かった!」
視線を断ち切って、アサシンは前に座るライダーに言い、ライダーはそれを受けてヒポグリフの脇腹を蹴り、嘶いたヒポグリフは翼を広げ、空へ高く舞い上がった。
真の力を発揮しておらずとも、空を駆ける幻獣はあっという間に雲を突き抜ける。ランサーの視界から、幻獣はすぐに小さくなっていった。
「どう?“赤”のランサーは追って来てるかい?」
「……いいえ。彼は、来ないと思います」
ヒポグリフの上で、後ろを伺いながらアサシンが答える。
「なら良かった!ビックリしたよー。キミのマスターのところにいたら、ラインが滅茶苦茶に乱れたっていうじゃん。だから来てみたんだけど……」
何で“赤”のランサーと睨みあってたんだい、とライダーは聞きかけて、“黒”のアサシンの横顔を見て口をつぐんだ。
アサシンは感情が全て抜け落ちたように真っ白な顔をしていた。
「……すみません、ライダー。ちょっと今は……話せません。城についてからヴラド公の前で話します」
「うん、分かったよ。でもキミ、大丈夫なのかい?酷い顔色だぜ?まさか斬られたんじゃ……」
アサシンは首を振った。
確かに斬られはしたが、傷はもうない。
「何でもないんです、ほんとに……何でも」
きょとんと首を傾げるライダーに、アサシンは行ってください、と告げて、遠くなったシギショアラの町明かりとその周りの森を一度だけ見てから、ヒポグリフの肩越しに先に広がる空を見据えた。冴え冴えと白く光る満月が、酷く歪んで見えていた。
「それにしてもライダー、よく私の場所が分かりましたね」
ヒポグリフに横に座ったまま、アサシンはライダーの背中に向かって問いかける。
「んー、キミのマスターのとこにいたらさ、何かキミとのラインがめちゃめちゃに揺れたってレイカが言うから、瀕死にでもなっちゃったのかと思ったんだよ」
どうやら、アサシンの動揺はラインを通じてそっくり玲霞に伝わってしまったらしい。
伝えるつもりはなかったのだが、アサシンと玲霞には精神面に似たところでもあるのか、それともアサシンの動揺が激しすぎたのか、ともかく玲霞には知られたのだろう。
世界で一番会いたかった人に、敵として見えてしまったということが。
アサシンは、自分のこれまでを不幸せだと思ったことはない。ないのだが、今度ばかりはただ辛かった。せっかく会えたのに、そのことを辛いと思ってしまう自分が、やるせなかった。
冷たい月明かりの下、幻の獣の背に揺られている今の自分が傷む心と一緒に、硝子のように粉々に砕け散ってしまえばいいとさえ思う。
それでも、それだけはできないと、心の中で精一杯に叫ぶ自分もいるのだ。自分の護るべき、命の輝きを一つ、アサシンは背負っている。捨て置けるはずがなく、そんな我儘は許されない。アサシンが、自分に許さないのだ。
ライダーはそれから、城へ着くまで何も言わなかった。
その気遣いに感謝しつつ、アサシンは王の部屋へと向かう。
部屋には、ランサーとダーニックに加え、キャスターとそのマスターを除く他のサーヴァントが集結していた。
心が傷んでいようが、任務は任務なのだからやるべきことはこなさないといけない。ただでさえランサーは、彼言うところの『異形の怪物』の血を引くアサシンを嫌悪しているのだから、これ以上不信の種を育てるわけにはいかなかった。
一段高い王座に腰かけたランサーは、槍のような視線をアサシンに向けた。
「戻ったようだな、アサシン。シギショアラで立ち回ったようだが、何があったか包み隠さず話せ」
「……はい」
シギショアラの異変を、アサシンは語った。といっても、ダーニックたちもある程度までは使い魔を通して見ていただろう。
誰かの手によって壊されていた協会の魔術師たちと、その事実に困惑していた“赤”のセイバーとそのマスターの有様を聞き、ランサーとダーニックは共に意外そうに眉を上げた。
「分かった。――――では続いてだ、アサシン。先ほど、お前は“赤”のランサーと森で戦わずに会っていたな?」
使い魔を通してどこからか見ていたのか、とアサシンは思ったが、ライダーを見ると視線をさ迷わせていた。どうやら、彼がうっかり口を滑らせてしまったのだろう。
「答えよ、アサシン。お前とあのランサーの間には繋がりがあるのか?真実を答えよ、虚偽は許さん」
ランサーの言葉の鋭さは、裁定を下す者のようだった。
少しでも信用ならないと感じたら、恐らくランサーの宝具がアサシンへと牙を剝くだろう。
「はい。“赤”のランサーの真名はカルナ。彼は―――――」
目を瞑ってから、アサシンは答えた。
「私の、夫です」
簡潔な答えを聞いて、アーチャーとセイバーは目を見開き、ライダーはえ、と凍り付き、バーサーカーは唸った。
「夫、だと?お前はあの『施しの英雄』の妻だというのか?」
ダーニックが指をアサシンに突き付けながら言う。ランサーは目を細めて無言だった。
「はい。叙事詩には記されていないでしょうが、私は確かにその英雄の妻です」
「馬鹿な……」
あり得ない、と呟くダーニックを手で制し、串刺し公ヴラドは冷然とアサシンを見下ろした。
「……嘘ではないようだな。アサシン、では問を変えよう。――――お前は、その夫と戦えるというのか?」
セイバーの隣に立つライダーは、気遣うようにアサシンを見る。青い瞳は、石をはめ込んだように凍っていた。
「―――――戦います。尤も……私では彼に対抗できませんが」
「それはどうでもよい。聞きたいのは一つだけだ。アサシン、お前は、我らを裏切らないと誓うか?」
裏切りか、とアサシンは訳もなく苦笑したくなった。
人生で一番裏切りたくない相手は、今は敵なのだ。今更何を聞くのだ、この領王は、とアサシンは暗い瞳で過去の王を見る。
しかしライダーには、その瞳が今にも砕け散りそうな脆い氷のように見えた。
ランサーはしばらく暗殺者を見た後、よい、と言い捨てて霊体となって去った。ダーニックはアサシンをにらんだ後、ランサーの後を追ってどこへか消える。
どうやらランサーはアサシンの言葉を信じたらしい。ランサーが気にかけるのはアサシンが裏切らないかどうかということだけ。
彼女の裡に悲哀があろうがなかろうが、ランサーはそれを気にかけない。
ライダーにはとてもそうは考えられなかったけれど。
アーチャーやセイバーも複雑そうに王座の前に立つアサシンを見ていた。
セイバーは“赤”のランサーとすでに戦い、互いの武を認め合い、再戦の約束も交わしている。
アーチャーは判断をつきかねているのか、思案顔だった。バーサーカーは虚ろにアサシンを見ているだけだ。
「……では、失礼します」
そして、沈黙に耐えかねるようにアサシンも消えた。
ややこしいことになってきた、とライダーは頭をかいて、何となく窓を見上げる。
日はまだ、昇っていなかった。
いつか言ったように、この主人公、メンタルはダイヤモンドです。
要するに、強いときは強くても、割れるときは割れます。
それからこの話、実は一度データが消えるという事故を経て書き直したものです。
なので、次話は申し訳ありませんが明日は投稿できません。