体を起こそうとすると激痛が走るので、寝たきりのままだがだんだんと意識がはっきりして来る。
生きていた。肋骨は折れているが、死んではない。この時代に合わないベッドの上に体を寝かしている状態。
周りを見てみると、棚や机といった必要最低限の物しか置いていない。ここがどこかが分からない。もしかして妹紅さんが助けてくれたのだろうか。にしてもこんな場所知らない。
寝たきりの状態で考える。気絶した俺はその後どうなったのだろうか。妹紅さんは俺を見捨てたのだろうか。風見幽香はどうなったのか。
考え込んでいると、奥の扉からノックが聞こえた。
「入るわよ」
聞き覚えのある声だった。入ってきたのはトレイに水や薬を乗せて持ってきた風見幽香。
急いで起き上がろうとするが、怪我でうまく起き上がれずにベッドから転げ落ちる。ぐえ、と自分の口から声も出た。
風見幽香は溜息をつきながらトレイを机の上に置いて、俺の近くにやってきた。
俺は警戒をしながら風見幽香を見つめる。その視線を物ともせず、体重百キロ以上ある俺を軽々しく抱きかかえる。
ゆっくりと割れ物を扱うように俺をベッドへ降ろす。その扱いが俺の自尊心を傷付けた。
「テメェ、何のつもりだ?」
「看病してるだけじゃない。それ以外に何かやっているように見える?」
「俺をおちょくっているように見える」
「そんなつもりは無いのだけれど。そう見えるならごめんなさいね」
強者の余裕というべきか、負けた相手に気を使う必要も無いのか、風見幽香はぶっきらぼうに答えた。
俺は死闘で命を救われて挙句の果てに看病までされていた。相手に情けを掛けられていることが悔しくて仕方が無かった。
無理やりでも体を起こして、床に足をつける。歩くたびに鈍い痛みが襲ってくるがお構いなしにこの部屋から出ようとする。
流石の風見幽香も意外だったのか、俺に声を掛けてきた。
「ちょっと、どこに行くのよ」
「帰る」
「そんな体で? 死ぬわよ」
「寿命がちょっと延びただけだ。本当ならテメェに殺されてたんだよ」
「私は殺す気も無かったわよ」
俺を下に見た言葉は心を傷つけるのに十分だった。
風見幽香の胸倉を掴み、精一杯の怒声を相手にぶつけた。
「ふざけんなッ! 俺に情けを掛けて何が楽しいんだッ!」
「敗者が勝者に従うのは当然でしょう? 私が勝って貴方は負けた」
「だからってこんな……こんなこと、ふざけやがって……」
力が抜けて、床に座り込む。俺は対等とも思われていなかった。ただの遊び相手、餌。相手とも思われていなかった。
悔しくて涙が出る。もう泣かないと決めていたのに、あれ以上悔しいことは無いと思っていたのに。
鼻をすすりながら、風見幽香の足元で延々と泣き続ける。
風見幽香は何も言う事無く、俺を上から見下ろしていた。今はそれすらも悲しく思えてきた。
*
強くなりたかった。だからこの五年間、死に物狂いで修行をしたつもりだった。
妹紅さんと妖怪を倒したり、自分の持っている技術を磨いたり、修行を怠った事は無かった。
しかし、俺の五年を軽々しく打ち破った女が居た。
風見幽香。
彼女は俺の攻撃をわざと喰らって、余裕を見せた。あの女は俺を、人間を玩具としか思ってはいなかった。
それが何よりも悔しかった。
「何時までムスッとしているのかしら? ご飯を用意したから食べなさい」
「……はっ」
思わずこの馬鹿馬鹿しい状況に反吐が出る。
まるでおままごとのように風見幽香は俺の世話を焼いてくる。俺をただの人形か何かとしか思っていない。
こいつをどうやって殺すか、殺すことが出来なくても逃げ出す方法はあるはずだ。
「ほら、口を開けて。あーん」
「死ね」
こうして幾度と無く俺の口にスプーンを近づける。その行為を受け入れられるほど、俺の心は幼くも無い。大の大人が見た目だけ年下の女にそんなことをやられても恥ずかしいだけである。
何より、その気遣っている感じが酷く気に入らない。俺のプライドをズタズタにするその行為を狙ってやっているのかは分からないが。
気に入らない。とてつもなく気に入らない。
風見幽香は諦める事無く、俺の口にスプーンをねじ込もうとしている。そのスプーンをひったくって自分で食事をする。
「つれないわね、もう」
「うるせぇな。食事くらい自分でさせろ」
「いいじゃない。私、貴方の事が気に入ったんだもの。こうして世話を焼くのも当然でしょ?」
風見幽香は純粋な瞳をこちらに向けてくる。言葉の通り、それが当然だと思っているから。その瞳は俺を不快にさせるものの一つでもあった。
普通にムカつく。強者の余裕なんだろう。俺を馬鹿にすることで立場を明確にしたいのだろう。
だからなんだ。
俺は絶対に従わない。風見幽香を一生嫌悪する。ついでに妹紅さん、いや藤原妹紅も嫌悪する。
未だに助けに来ないあいつは恐らく俺を見捨てたのだろう。その事実がまたも俺の心を荒ませる。
たったの五年かもしれないが、それなりの関係だと思っていた。それはこちらの一方的な感情に過ぎなかった。
藤原妹紅はいずれ何回でも殺す。しかし、目の前に居る風見幽香は大妖怪の名に恥じない実力者である。俺が百人いたって勝てやしない化け物である。
まずはここから逃げ出そう。そうしたら死に物狂いで修行をしよう。今までは覚悟が足りなかったのだ。過去よりも過激に自分を追い込んででも体を鍛えるとしよう。
「おいしい?」
「不味い」
「その割にはスプーンが進んでるわね。嬉しいわ」
皮肉を言っても通用しない。直接言っても自前のポジティブさでいい様に捉えられる。糠に釘、暖簾に腕押しだった。
もうこいつの顔を見るだけで不快指数が増してくる。綺麗に整った顔も俺にとってはそこらへんの石ころとなんら変わらない。ただし風見幽香の場合に限る。他の女性ならそんなことは無い。
無言で席を立つ。が、風見幽香に肩を押さえつけられ、再度椅子に座る羽目になった。
「何のつもりだ? ぶっ殺すぞ?」
「吼えないでよ、可愛いわね。その前に言わなくちゃいけないことがあるでしょう?」
「…………ちっ。ごちそうさん」
「はい、お粗末さまでした」
この女はこういった礼儀を重んじる。たかだか妖怪の癖して、食材に感謝とか籠めてんのかよ。普通に気持ちが悪く吐き気を催した。
いや、妖怪がそういった行動に出るのを非難しているわけではない。風見幽香が一番しないであろう感謝をしていることに気持ち悪さを抑えられないのだ。
やはりこの女の近くに居るとムカつくので早急に家を出たい。今日の夜辺りで家出でもするか。
「お風呂に入りましょう? 背中、流してあげるわ」
「一人でやってろ、クソアマ」
「反抗期じゃないんだから」
そう呟いた風見幽香は一人で風呂場まで向かった。今がチャンスだと思い、玄関まで向かう。
怪我は治ってないが、我慢できない痛みではない。何より、ここに居ることのほうがよっぽど我慢できない。
靴を履いて、扉を開けて、向日葵畑を抜けた。俺は自由を得る。それだけの為に骨折を気にせず全力で駆け抜けた。
肋骨の辺りがジンジンと傷み始める。確かに地面を転がりたくなるような痛みではある。しかしそのような事を気にしている場合でもなかった。
向日葵畑の先には森が広がっている。その中に入れば俺を縛るものは何も無い。人里を目指してただ走った。
「これなら……行ける!」
独り言がポロッと口から零れる。嬉しさの余り、なのだろう。
「駄目じゃない。逃げ出しちゃ」
否、独り言ではなかった。独り言ではなく、会話になってしまった。他の誰でもない。聞きなれた声の持ち主。
「貴方は私の物なんだから、私の目に届く範囲に居ないと駄目なのよ」
衣服を着用せず、髪の先に水滴を垂らしながら、こちらへ詰め寄ってきた。生まれたままの姿を晒して来る風見幽香だが、俺は恥ずかしさなどではなく恐怖と嫌悪が入り混じった感情を抱く。
まるで見られて当然だと思うように、風見幽香は裸のまま俺の体を抱きしめた。
抵抗できなかった。金縛りみたいに俺は動けなかった。風見幽香の柔らかい胸が布越しに触れる。本来であれば喜んでいたかもしれない。しかしここまで嫌悪していた奴に今更色仕掛けで落ちるわけも無く。
「離せ! 気持ち悪いんだよ!」
「いいじゃない。私と貴方の仲じゃない。湯冷めする前に早く家へ帰りましょう」
テメェとの仲は最悪なはずなんだが。少なくとも俺はお前をいずれ殺す。
「照れているの? 本当に可愛いわ。何故あの妖怪退治屋よりも先に貴方を見つけなかったのかしら。それが後悔でしかないわ」
「ふっざけんな! 俺は清々してるよ! 五年前、お前に見つからなくてよかったってね!」
「それもそうね。何故ならそれ以上に素晴らしい出会い方で貴方と出会ったのだから」
「死ね! さっさと死ね! そもそも、何で裸なんだよ! 気持ち悪いモン見せんな!」
「仕方が無いじゃない。私が風呂に入っている途中に逃げ出すんだもの。急いで追いかけたのよ?」
さも当然のように、呆けた表情で俺に語りかけてくる。
何故こいつが俺にこんな執着してくるのかが分からない。特に何もしていないはずだし、これだけボロクソに言っても気にも留めない。なんなら喜んでいるまである。
これが、普通の女性なら俺も嬉しかったかもしれない。しかし相手はあの『花妖怪』。俺のプライドを傷つけ、楽しんだクソアマである。
確かに戦う前は弱肉強食だと言っていた。しかし、こいつは強者の立場に居ながら、食べる権利を放棄して弱者を肉体的にではなく精神的に嬲り続けている。
それが気に食わない。風見幽香を嫌悪する一番の理由だ。
「さあ、早く戻りましょう? 戻って一緒にお風呂へ入りましょう?」
「嫌だね」
「そう、断るの。なら無理やりでも従わせるしかないのかしら。私、調教は苦手なのよね」
「やってみろ。その瞬間テメェを殺す」
「なら今やりなさいよ。出来ないことは口にするものではないわ」
その言葉が引き金となり、手を軽く曲げて空気が漏れないように水を掬うようなお椀形を作る。その手で風見幽香の右耳を思いっきり叩く。
イヤーカップ。手の空気圧で相手の鼓膜を破り、三半規管にダメージを与える技。
普通の人間には効果的面だが妖怪に効くかと言われると自信はない。しかし、風見幽香は人の形をしている。それが幸いとなった。
人間と同じ構造をしている体なら幾ら妖怪でもダメージはあるだろうし、何より多少は怯むだろう。
案の定、風見幽香の拘束している腕は緩くなった。しかも、足がおぼつかないのかその場をふらふらとしている。
隙を見て拘束を外し、相手の顎に全力を込めた左フック。これで脳も揺れる。さらに追いかけることは難しいだろう。
そして、全力でその場を去る。枝で切り傷を作っても、転んでも直ぐに起き上がってその場から一心不乱に去る。
油断はしない。息が苦しくなっても、体のどこかが痛くなっても、心臓が張り裂けても、走る。
先程もその油断で捕まったのだ。なら今回はしない。死ぬまで走る。死んでも走る。
「ハァッ……ハァッ――」
息苦しい。もう動けない。肺が口から飛び出そう。それでも、走るしかない。
風見幽香がムカつくからもう一分は走れ。
いずれあいつには俺が制裁を加えなくてはならないから後、三十秒だけでも走る。
あんな奴と出会ってしまった自分が許せないから十五秒だけ頑張れ。
俺が止まったら地球に巨大隕石が降り注ぐから後十秒は走れ。
彼女が欲しいからもう五秒は走れ。
毒ガスが散布されるから、俺以外の人間はもう居ないから、俺の細胞が世界を救うから。
適当な理由をつけてでもあの場から離れ続ける。大元の感情は唯一つ、恐怖のみであった。
「――や、やったの、か……?」
長かった。村が見えた。
明かりは少ないものの、人は少しばかり歩いているように見える。気が緩む。――駄目だ。
絶対に気を緩めない。自分の安全が保障されるまで、絶対に慢心してはいけない。そう、絶対にだ。
そこからの行動は早かった。
村の入り口で門番に事情を話して、中に入れてもらった。木を隠すなら森、ということである。
この村の周りは陰陽師が数十人掛かりで結界を張っているらしく、今までも様々な妖怪から守ってきたという。
今度こそ、安心した。陰陽師の一人は風見幽香でさえ通さない。そう豪語したのだ。
その言葉を聞いてから緊張の糸が切れて、そのまま気絶した。
こいついつも気絶してんな。