「……人がグリムになる、ね」
「あん?なんだよいきなり」
サン・ウーコンはバーカウンターで隣に腰掛ける青髪の相棒の言葉に尻尾を揺らして言及した。
グラスの中の酒をきざに揺らしながら、ネプチューン・ヴァシリアスはスクロールの画面を見せてくる。
五年前からまことしやかに囁かれているそれは、目撃例も相まって噂以上事実未満の不確かなものとして人々の中に残っている話題だ。
人がグリムに変貌する病、あるいは人に擬態するグリム。本来ならば人々の生活圏に何の脈絡もなく現れることはないグリムだが、隣人が、知人がグリムかもしれない。
その不安は一度聞いたものには到底拭えるものではない。にも関わらず、サンはその記事をつまらなそうにスクロールして流し見た。
「ふぅん、怒りや憎しみ、恐怖といった負の感情が増幅し、グリムになる……ね。なんだこりゃ、ハルクか?」
「やめとけ、サン。訴訟でも起こされたらどうする」
くっく、と笑って肩を竦めたサンは己のグラスに半分ほど残った酒を煽るように飲み干した。
「それにな、あながち笑い話でもないらしい」
ネプチューンのいつになく真面目な声にサンもからかうのをやめて顔を隣の相棒に向けた。手元に戻ったスクロールを操作してネプチューンは別の画面を表示させた。数人の顔写真の下に名前が乗っている。ファウナスも人間も記載されたそれは何かのリストのようでもあった。
「これは?」
「今月に入って、『ルビー・ローズ』と思われる女性に殺された連中だ」
「おい」
途端にサンの声が低くなった。ネプチューンは逆撫でするつもりなどないとばかりに両手を上に掲げて降参のポーズを取る。
「よせよ、サン。煽ってるわけじゃない。それに重要なのはここからなんだよ、いいか」
まるで密談でもするかのように、ネプチューンはぐっと顔を寄せた。その動きにつられたようにサンも身を寄せて内緒話を聞く姿勢を取る。
「一昨日の夜、その例の殺しがあっただろ。その一部を見てた奴がいたんだ」
「なんだって?」
思わず尻尾をピンと立てて声が大きくなりかけた金髪の相棒をネプチューンが慌てて宥めた。
「シーッ、落ち着けよ。路地裏での犯行さ、変な時間でもうろついてる奴なんてごまんといる。……でな、そいつがこんな写真を撮ったそうだ」
スクロールを再び見せられると、画面の中には白いフード付きのマントを纏い、大型の赤い鎌を右手に携えた女性の背中越しに、人のようにも、獣のようにも見える黒い捻くれたモノが写っていた。顔のあたりに二つの赤い目が光っていることが辛うじて分かる。
「なんだ、こりゃあ……」
「こいつが言うには、一瞬前まではちゃんと人間の形だったらしい」
「人間が、一瞬でこんなのになったってのか?」
その姿は確かに、サン達ハンターが狩るべき敵、グリムの姿に酷似している。信じられないのは、人間がグリムへ転じたという事だった。グラスの水滴を拭いながらネプチューンが続ける。
「そう。人がグリムになったのか、グリムが人に化けてたのかは定かじゃないが……まぁ。ニュースでわざわざ男性の死体がって報道されたくらいだ、人が何らかの原因でグリムになったと見るべきだろうな」
何らか、ねぇ。サンはいまいちピンとこない、とばかりにグラスの中でじわじわ溶けていく氷に目を移した。鼻から息を漏らし、背もたれに身体を預けながら口を開く。
「で? それをどうするってんだよ」
「ルビーがこれまで殺して回ってた奴らもこういう連中の可能性があるだろ」
「確証もねぇんだぜ?その写真だけじゃあいつの潔白は証明できないだろ」
懐にスクロールをしまい込み、ネプチューンも顔を上げる。彼にしてはやけに真面目な表情をしているな、とサンは場違いな事を考えながら投げやり気味に言葉を放った。
「なぁサン、興味ないフリはよせよ、聞いた話じゃワイス達がルビーを探し始めたらしい。俺らも彼女たちに協力してやらないか?」
「ん、ぁあ……」
豪気で男気もある。ネプチューンはサンほどの男はそういないと認めているが、そんな彼のこれ以上ない生返事は生まれて初めて聞いた。どうも調子が狂う。腕組みをしながらバツが悪そうに煙草に火をつけたサンを眺めて首をひねる。
「……あぁ、わかったぞサン。何だってそんな気乗りしてないのか。ブレイク」
「わー! よせよせ!」
先程まで覇気のなかったサンが一転慌てながら手を大袈裟に振ってネプチューンを遮った。
それを見ながら普段の調子に戻った相棒を楽しそうに笑ってネプチューンが冷やかす。
「おいおい、今更恥ずかしがるなよ! 俺もあのスノーホワイトにそれはもうばっさりとフラれたんだしさ!」
「だからってなあ……!」
がしゃん。
「うん?」
二人の訝しがる声が重なった。カウンターから身を捻って背後を向くと、どうやらグラスが床に落ちたようだ。それそのものは珍しいことではない。だというのに、二人の目つきが一瞬にして変わったのは、椅子を倒して立ち上がる男が、常軌を逸した目つきで向かいに座る女性を睨んでいるからだ。
「どうしてそんなこと言うんだ……俺は、俺はこんなにお前を愛してるのに……」
「そ、そうは言うけどあなた最近おかしいわよ!」
よくある男女の会話、痴話喧嘩というやつだろう。とはいえ女性の怯え方も尋常ではない。見かねたバーテンダーがカウンターから出てそちらに歩み寄る。
「お客さん、悪いんですけど他のお客さんがいるんでね……」
「お前、は、だまってろぉお!!」
びり、と空気が震えるほどに男が吠えた。次の瞬間バーテンダーが投げ飛ばされ、サンとネプチューンの方に突っ込んできた。
「お、おわっ!?」
二人掛かりで受け止めた勢いで椅子が派手に傾いて、二人は揃ってカウンターに後頭部を強かに打ち付けて倒れ込んだ。バーテンダーは今の一撃で気絶したようだ。仕方なくのびた彼を床に寝かせ、男の方に視線を向ける。
「どいつも、こいつも……ムカつくんだ……お前も……殺してやる!!」
男が血を吐くような声で呻くように言葉を紡ぐのを皮切りに、その身体がぐず、と黒ずんで溶け始めた。眼窩は不自然なほど窪み、そこに収まっていたはずの目は真っ赤に染まり口は頬の半ばまで裂け、節くれだった腕は末端が異様に肥大してゆき身長も歪に伸びた。泥のように崩れた黒い身体はやがて夥しい体毛に変じ、身につけていたはずの衣服は無残な襤褸切れになった。
「やっぱりハルクみてぇだ」
「言ってる場合か!!」
店内から悲鳴が上がる。その中で先に突っ込んだのはネプチューンだった。真っ直ぐに駆けながらその手には先程まで座っていた椅子が握られている。
「そらっ!」
後頭部側から力強く殴りつけた椅子に男だったものは小揺るぎもせず、ひしゃげた椅子に一瞥をくれたネプチューンはそれを投げ捨てた。
「どいてろ、ネプ!」
続けて響いた声にネプチューンはそちらを見もせずに横へ飛び退いた。入れ違いにしてサンが距離を一瞬にして間合いを詰める。その手には鎖で繋がれた三つの腕ほどの長さの棒が握られている。所謂三節棍だ。朱塗りに金の装飾を施されたそれを突き出すようにして繰り出す。迅速に連結し一つの棍となった己の武器『クィタン・ダシェン』を腹に叩き込んだ。
それを片手で受け止め、両者に拮抗が生まれたのは僅かな間だった。サンは己の持つ方を捻るようにして握り込むとそれを作動のトリガーとして棍の先端から衝撃波が吹き荒れてグリムとなった男を一息に店外まで弾き飛ばした。
「今だ、皆逃げろ!」
銃身から銃口に至るに連れ細く刀身のようになった幅広のアサルトライフル、『タイダルウェブ』を構え、店内で呆気にとられる客を促したネプチューンも追いかけて店外に出たサンの後に続く。
『がぁあぁ!!』
既に理性の欠片も感じられず、吠え散らすその風体にサンと並び立ったネプチューンは『タイダルウェブ』を可変させた。銃のアッパー、ロアフレームが開き、格納されていたロッドが伸長し、それに伴って後ろに下がったグリップはそのまま石突となり、銃口まで伸びていた刃はオーラの刃を外側に展開した。二股の銛のようにも見えるそれを構え、ネプチューンはグリムに突撃を掛けた。
並のグリムであれば一突きで絶命する必殺の刺突はしかし、僅かに身を躱したグリムの脇腹を掠めた。同時に強烈な鉄拳がネプチューンの顔面を殴打した。サンの元まで吹き飛ばされ、青髪の美丈夫は頭を振って起き上がる。
「こりゃあ手厳しい」
「一杯食わされたな、ネプ」
オーラの防御がなければ今頃見るも無残に歪んでいたであろう鼻先を擦るネプチューンを笑いながらサンが今度はグリムの動きを伺うようにじりじりと距離を詰めた。
『殺し、てやる』
「おいおい、喋るグリムなんて見たこと無いぜ。……ま、元を見ちまっただけになんとも言えねぇけど」
目に焼き付いた変貌の瞬間。であるならばやはりルビーは殺人を無差別に繰り返しているわけではなくグリムを狩っていたのだろう。思考が脳裏によぎった刹那、その僅かな集中力の切れ目を目敏く見咎めたグリムが混紡のような腕を振り下ろす。
まともに喰らえばオーラの防御があるとはいえ暫く脳震盪で戦えないだろうそれは、しかしサンの脳天を捉えることなく、グリムは脚を掬われるように態勢を崩した。
「ぉおらぁっ!」
その隙を付くように『クィタン・ダシェン』をかち上げるように下から脇腹に叩き込み、そのまま胴を引っ掛けて振り向きざまに地面に叩きつけた。そこに立ち上がったネプチューンが『タイダルウェブ』振り下ろし、胴を貫く。苦悶の絶叫を上げたグリムは滅茶苦茶に腕を振り回し、その鋭利な爪を避けるべく二人は飛び退って構え直した。
「くそ……こいつ、倒したら元に戻るのか?」
「さぁ……」
攻めあぐねる二人を余所にグリムはお構いなしとばかりに飛び込んできた。手負いの獣が暴れるが如く、横薙に振るう爪を受け止めお返しとばかりに蹴り返し、サンは身を翻して背後に跳んだ。がら空きの正面にネプチューンが雷撃をまとった弾丸を浴びせる。
『ぐぅ、うう……い、いてえ……』
苦しむような呻き声の中に苦悶の声が混ざる。それがサン達の攻撃の鋭さを鈍らせ、追撃の手を緩めさせた。
『なんだ、お前ら……なんでこんなことしやがる……ぅ、ぐ、……』
サンの額に冷や汗が流れる。この程度のグリムとの戦闘、汗の一つもかかずに倒してみせる自身はある。相棒がいる分なおさらだ。
にも関わらず、こいつを倒せばグリムと化した人は死んでしまうのではという確信にも似た思いが闘志を揺さぶっている。ルビーは、これを相手にしていたのかと武器を握る手に力がこもる。
「サン! ボケッとするな!」
気付けば目の前に大きな爪が迫っていた。咄嗟にオーラをまとった右腕で庇うも、その勢いで態勢を崩される。続けざま、喉笛を食い破ろうと大きな口を開けた中に覗く牙が迫る。
「うぉ……!」
組み付かれればいかにオーラがあるとはいえジリ貧だ。いずれオーラは全損し、サンの喉笛は力任せに噛み千切られる。やるしかない。サンは腹を決めた。ここで死ぬわけにはいかない。
「野郎!」
センブランスが発動し、光り輝く己の分身が庇うように眼前に出現した。受け止める形でグリムともつれ込んだ分身が組み敷かれる隙にサンは身を躱して態勢を整える。その目に最早迷いはなかった。
「やるぞ、ネプ」
「そうこなくちゃな」
足並みを揃え、まずは牽制をネプチューンが仕掛ける。ライフルモードに変形させた『タイダルウェブ』から電撃を撃ち出し、サンの分身もろとも電撃に巻き込む。
まともに食らったことでサンの分身は消滅し、グリムはもんどり打って地面に倒れた。その身体は電により不規則な痙攣を繰り返して悶えている。
そこにサンが飛び込んだ。跳躍し、空中で回転を加え己の棍を投げ付ける。投擲された槍のように鋭くグリムの胸元へ飛び込んだ『クィタン・ダシェン』はそのまま黒い身体を突き破り、真っ直ぐに刺さる。
落下しながらサンが再びグリップを握り、バイクのアクセルをふかすように捻ると内側に放たれたオーラの衝撃波によって、膨れたグリムは次の瞬間、爆散して塵と化した。
グリムに変じた男は、残らない。恐らくグリムとなった時から、最早人には戻れなくなってしまっていたのだろう。サンとネプチューンは軽妙な普段の掛け合いも忘れ、ただ沈黙とともに風が浚い痕跡のなくなっていくグリムの名残を見送っていた。