其の一
潮の香に鼻をくすぐられ、ジェームズ・ボンドは目を覚ました。
一介のスパイごときが持てるはずのない立派なオフィスの中で、ボンドは椅子に腰かけていた。目の前の机の上には、煙草の吸い殻でいっぱいの灰皿、飲みかけのウォッカ、革のブリーフケース、そして開かれたノートパソコンがあった。ノートパソコンには、ユニバーサル貿易から来た報告書提出の催促メールの通知アイコンが躍っていた。
ボンドは立ち上がって窓の外に顔を出し、大きく息を吸い込むと、再び椅子に座りノートパソコンのキーを叩き始めた。しかししばらくすると、まるでおもちゃに飽きた子どものようにパソコンを閉じてしまった。
「まともに報告したら、Mやマネーペニーに笑いものにされるだろうな」
そうつぶやいたボンドは、着ている英国海軍士官の礼服から煙草をとりだし、咥えて火をつけた。
さかのぼること数日前、ボンドは指令を受け、ロンドンはテムズ川のほとり、「ユニバーサル貿易」と呼ばれる建物の、あるオフィスの一室にいた。この建物こそが、英国秘密情報部、いわゆる「MI6」と呼ばれる機関の本部である。数か月もの間暇を持て余していたボンドは、ようやく退屈から解放されることに心躍っていた。
「おはよう、マネーペニー」
久々にボンドの姿を見たマネーペニーは、Mにボンドが来たことを伝えると、ボンドに満面の笑みを向ける。
「おはよう、ジェームズ。Mが、今回の任務はあなたにピッタリだって言っていたわ」
「そう?だったら今回も、長い旅になりそうかな」
「あまり旅先で遊ばないでよ、ジェームズ」
そう言ってマネーペニーはボンドに流し目を送る。その視線を受けながら、ボンドは部屋の奥にある、Mのオフィスへと入っていった。
「ああ、007。久しぶりだな。まあ座りたまえ」
ボンドが部屋に入ると、Mが椅子に座るよう促す。
「007、休暇はどうだったかな?」
「あともう少し連絡が遅ければ、手首でも切ろうかと思ってました」
ボンドは足を組みながら答える。
「ハハハ、それじゃあ早速、任務に移ろう」
Mはそう言うと、咥えていたパイプを置いた。
「007、近頃北海で、原因不明の船舶沈没事故が多発しておることは知っておるな?」
「マスコミが、第一次大戦のUボート以来の被害だって騒ぎたてているアレですか」
「左様。実は同様の事故は世界中で起きているのだが、その被害が極端に少ない海域がある。日本近海だ」
「ほう」
「そして先日、沈没事件に関連して、日本の公安調査局から我が国に優秀な人間を選んで派遣してほしいとの連絡があった」
「公安……というとタイガー田中から?」
「うむ」
タイガー田中とは、日本の諜報機関、公安調査局の局長であり、以前ボンドが日本で任務をおこなって以来の仲間である。タイガーとは暗号名であり、噂によると本名はトラオともトラジロウともいわれているが、その真相を知る者は親族や親しい友人など、限られたごく一部の人間のみである。また、局長というお堅い身分でありながら、催眠術や心霊捜査など、どこか胡散臭い分野にも興味を持っている人物であった。
ボンドはタイガーのことを、堅物そうな見た目でありながら接待の得意な、何かとサービス精神の旺盛な男だったと記憶していた。
「そしてその人員を選ぶに当たり、公安調査局は三つの条件を提示してきた。一つ目は、日本語に非常に堪能なこと」
ボンドは、ケンブリッジ大学時代には日本語を学んでおり、さらに幾たびもの日本での任務によって、声だけならば日本人と名乗っても問題のないレベルで日本語を話すことが可能だった。
「二つ目は、英国海軍の軍人であること。そして三つ目は、女性の扱いに長けていることだ」
「なるほど、私にはピッタリですな。特に三番目が一番しっくりくる。それで、私は日本で何を?」
「それがわからんのだ。日本から具体的な内容が伝わっておらん。追って連絡をするとは言っているようだが」
「……それは妙ですね」
「だから007、君には日本に滞在する間、沈没事件の真相と、日本近海での事件が少ない理由について調査をしてもらいたい。これは、イギリス政府からの命令だ。任務の詳細や、日本からの連絡については、マネーペニーから書類を受け取るように」
「了解しました」
そう言って席を立つボンド。
「ああ、007、ちょっと待て」
Mが慌てて静止する。
「最後に、タイガー田中から直接、君に聞きたいことがあると連絡があった」
Mはそう言うと、机の引き出しから五枚の写真を取り出し、ボンドに渡した。
「この五人の中から一人選ぶように、とのことだ」
ボンドが受け取ったのは、五人の少女の胸から上の写真だった。
「どういう意味かは……私にもわからん」
Mは言った。ボンドは椅子に座り、写真を一枚一枚じっくりと見ていった。
一枚目に収められているのは、黒髪の少女。五人の中では一番日本人らしい外見であった。活発そうで、テニスかバレーボールあたりのスポーツをしているかのような印象を、ボンドは受けた。
二枚目は、銀色の髪を長くのばした少女。気の強さをそのまま表したような瞳にボンドはゾクリときたが、タイガーが選ばせている目的がわからない以上、一旦保留とした。
三枚目は、紫色の髪の少女。明るい雰囲気の少女で、ぱっちりとした瞳がボンドの印象に残った。
四枚目は、ブラウンの髪のショートヘアの少女。この中では一番見た目が幼い。タイガーはこの娘たちに何をさせるつもりなのかと、改めてボンドは考えた。
五枚目は、青色の長い髪をした少女。この少女に、ボンドは優しげな印象を持った。きっとこの娘の入れたコーヒーは美味いだろう。
ボンドは写真をしばらく眺めた後、Mに写真を返した。一番上に置かれていたのは、銀色の髪の少女の写真であった。
「ほう……なぜ彼女を選んだ?」Mはボンドに聞いた。
「いや、ただ私の……そんなことはどうだっていいでしょう」
ボンドはきまり悪そうに言い返すと、立ち上がった。
「日本に着いても、下手なことはしないようにな、007。健闘を祈る」
そのMの言葉にボンドはにっこり微笑み、部屋を後にした。しかし、ボンドは先ほどの写真の少女たちにどこか普通ではないものを感じ取っていた。