一面に広がるサンゴ礁の海。色とりどりの熱帯魚が遊んでいるのも相まって宝石箱にも形容されるその別世界を、その世界にはいかにも不釣り合いな浅黒いものが悠然と泳いでいった。それはしばらく泳いだのち、あたりをゆったりと見回すと、自分がその世界には邪魔者だと悟ったのか、そのまま浜の方へと引きかえしていった。
エメラルドグリーンに輝く海から砂浜にあがった海水パンツ姿のボンドは、シュノーケルを外すと、先ほどまで自分が泳いでいたサンゴ礁の海を眺めた。ボンドには、この美しい海に数多の化け物がひそんでいることが一瞬信じられなくなった。まあ、この海の住人にとっては、自分のほうが化け物であっただろうが……
沖縄。この悠久の時の流れる島に、ボンドと金剛は来ていた。那覇に降り立った二人は、そこから車で30分ほどの、賑わいを見せるリゾートビーチで、つかの間の休みを楽しんでいたのだ。
ボンドが海を眺めていると、海中から突如まぶしいビキニ姿の金剛が現れ、ボンドに満面の笑みを向けながら無邪気に手を振った。これじゃあ超弩級戦艦じゃなくて、まるで超弩級潜水艦だな。ボンドもそんな金剛を、海の中に引っ張りこみたいような気分になっていた。
当然、ボンドたちはただ水遊びをするためだけにはるばる沖縄までやってきたわけではない。
先日の都内のカーチェイスの後、ボンドは士官の制服に着替え、タイガーや叢雲、そして普段着の金剛と共に、Qからの報告を聞くべく開発部に向かった。タイガーとボンドは、開発部に着くまでの間、今山海運への潜入の結果についてずっと話していた。
「……というと、今山海運本社には、深海側につながるものは何も見つからなかった、というわけだな?」
「ああ。まあこっちも、何が深海側につながるものなのかは、よく分からないけどね」
「金剛は?」
「私も特ににおかしいものは見なかったデース。でも……」
「何だ?」
「私が攫われた時、あいつらは私を艦娘と知って攫ったみたいでした!」
金剛はタイガーの目を見て言った。
「タイガー、このことはやつらが深海側の……」
「何とも言えんな。艦娘の存在は公表されていないが、その存在を知る者は別に少なくない。それに、君らを追ってきた奴らが今山の回し者と言う証拠もないだろう。
もっとしっかりした確証があれば、適当な理由をでっちあげてガサ入れにでも踏み込んでやれるんだが……」
「まあ、Qの発表に期待しましょうか」
開発部に着いた一同を迎えたのは、机の前で書類をまとめたファイルをかかえたQだった。ボンドは、自分のさきほどまでの苦労に見合った、驚くべき事実がQの口から語られるのを、内心期待していた。しかし。
「そこそこに良いことをして、そこそこに悪いことをしている、いたって普通の企業だったよ」
これがQの報告の第一声だった。ボンドはあまりにもあっさりと語られた面白みのない結果に拍子抜けしてしまったが、彼が落胆の表情を見せるのは少々早すぎた。
「ただ一点を除いてはね」
そのQの一言に、ボンドはQにギロリと視線を向けた。Qは机上のコーヒーカップを手に取りそのまま口に運ぶと、こう続けた。
「数日前に中国から日本に来た今山海運の船が、途中に立ち寄った沖縄で、ある代物を大量に降ろしていたんだ。何だと思う?」
そう言いながらタイガーにファイルを渡すQ。ボンドはQの必要以上に勿体ぶった言い方にうんざりしていたが、資料を確認しないわけにもいかないので、タイガーの開いたファイルを覗き見た。
「化学肥料だ。さらにさかのぼって見てみたら、船を変えながら週に数回の頻度で運びこまれていたよ」
ファイルの中の表には、ある船における日ごとの取り扱い品目の一覧が書かれていた。その中に、「化学肥料」と書かれた欄があった。積荷の重量を見ると一回に降ろされる量としては至って普通だったが、これが沖縄に週数回降ろされると考えると、明らかに過剰供給になる量だ。
「さあ、これはどういうことだろう。僕としては、サトウキビ農家を全力で応援してるだけであってほしいけどね」
Qがサラリと言ったジョークの後に、一人だけ何もわかっていないような顔の金剛がつぶやいた。
「……肥料って、お花や野菜とかを育てる、あの肥料ですよね?それがいっぱいあって、何が問題なんですか?」
そんな金剛の疑問に、叢雲はクールに答えた。
「化学肥料に含まれる硝酸アンモニウムは、火薬の原料になるの。だから量によっては、兵器への転用の可能性を考えなければならない代物なのよ。……知らなかったの?」
「そんなこと知らなくても生きていけるデース!」
金剛と叢雲の間でそんなやりとりがなされていた時、ボンドの脳裏には、今山海運本社で見た海上輸送ラインの図がよみがえっていた。その図によれば、アジア諸国から日本に来るへのいずれのルートも、必ず沖縄を経由していた。そしてそれらの船を、深海側が襲わないということは……
そこまでボンドが考えを進めた時、タイガーが声を張り上げた。
「よし、ボンド!次の行先は決まったな!今山海運と深海棲艦をつなげる手がかりが、沖縄にあるに違いない。数日のうちに沖縄に向かってくれ。現地での協力者も、こちらで手配しておこう。詳細は追って知らせるよ」
沖縄か……過酷な戦いになりそうだな。ボンドは、まだ見ぬ南国に期待と不安の念を抱いた。
ボンドと金剛は水着の上にパーカーを羽織った格好で、ビーチからはさほど遠くないヨットハーバーを訪れていた。二人は、この港で沖縄での協力者と合流するようタイガーから指示を受けているのだ。サングラスをかけた金剛は、ボンドに静かに話しかけた。その声には、若干の緊張の色があった。
「ジェームズ、ここでは一体誰が待っているんですか?」
「分からん。公安の関係者かもしれないし、もしかしたら艦娘かもな」
そんなことを言ったボンドの肩に、突然ガツンと衝撃が走った。どうやら誰かがすれ違いざまにぶつかってきたようだ。振り向いたボンドの瞳に入ったのは、黒髪に赤い髪飾りをつけた、ホットパンツ姿の少女だった。
「うわっ、と……気をつけてよね!」
「いや、すまなかった」
少女はサングラスをかけ直すと、そのまま立ち去ろうとした。
「あ、ちょっと君!」
呼び止めたボンドに、少女は再び振り向いた。ボンドが少女を呼び止めたのは、タイガーから協力者が金剛と同じサングラスをかけていると聞いていたからだ。もしかしたら、サングラスをかけているのは仲間であるという合図だけでなく、「この娘は艦娘である」という合図も兼ねている可能性がある。そうボンドは考えたのだった。
「この辺に、大きな港はあるかな?」
「ここも大きな港よ。何しに行くつもり?」
「船でも見ようかと思ってね」
「ここでも、船なら嫌ってほど見れるわよ」
「いや、ヨットには飽きたから、別の船を見たくなったんだ」
そう言ったボンドは、サングラスの向こうの少女の瞳に鋭い眼差しを送る。すると少女はボンドの眼差しに答えるようにサングラスを外し、二人にその凛々しい瞳を見せた。
「分かったわ。案内するからついてきて」
「ありがとう、嬉しいよ」
先を行く少女についていこうとするボンドの腕に、突然金剛がつかみかかった。金剛はどうやらヤキモチを焼いているようだ。だが無理もないだろう。先ほどの協力者との合言葉でのやりとりは、誰が見てもボンドがナンパしているようにしか見えなかったのだから。
ボンドは金剛に合言葉でのやりとりだと説明しその頭を撫でたが、金剛はふくれっつらのままだった。どうやらまだ半信半疑でいるらしい。まったく、タイガーもとんでもない合言葉を考えてくれたものだ。
ボンドたちは少女に連れられ、一隻の中型ヨットのもとに来た。そして少女は首に下げたホイッスルを口に加えると、甲高い音で一定のリズムを奏でた。モールス信号か、とボンドは直感した。すると、ヨットの中からTシャツにジーパン姿で、頭に赤いバンダナを巻いた日本人青年が現れた。その姿は、まるで地元の漁師の息子か、休暇中の大学生にしか見えなかった。青年はにこやかな顔で、ボンドに手を差し出した。
「沖縄本島鎮守府、提督の神崎健斗です。よろしく、ミスター・ボンド。詳細は全部タイガーさんから聞いております。彼女は僕の秘書艦、軽巡洋艦川内です」
「よろしくミスター・カンザキ。彼女は金剛。超弩級潜水艦だ。30分前までは」
二人の提督は互いの秘書艦を紹介すると、ヨットに乗りこんだ。神崎提督は一見20代前半の青年だが、実年齢は30代を越えているという。ボンドは常々日本人男性は年の割に若く見えることが多いと感じていたが、彼の場合はそれが著しかった。たとえ日本人でも、見た目だけで彼の年齢を正確に当てられる者はいないだろう。年に似合わずハキハキした彼の性格も、若く見える理由の一つだと、ボンドは考えた。
神崎提督に連れられるままボンドと金剛は彼のヨット「甚平丸」に乗りこんだ。と同時に、川内が船室の奥からエールビールを持ってきた。彼女はいつ着替えたのか、先ほどまでのホットパンツ姿から、赤装束と長いスカーフに身を包んでいた。その姿はまるで……
「忍者か?」
その言葉に、神崎提督と川内は同時に頷いた。流石はタイガーだ、艦娘でも忍者部隊を作ってしまうとは。ボンドは妙な感心をしながら、川内に注いでもらったビールで神崎提督と乾杯をした。