ボンドはこれまで感じたことのない息苦しさの中にあった。
周りではメイドの姿をした少女たちが客の男たちと楽しげに話をしている。それはよいのだが、全てが甘ったるいこの部屋の雰囲気に耐えられず、ボンドは机に肘をついた。
ボンドがタイガー田中から合流地点として指示されたのは、なんと東京は秋葉原の一角にあるメイド喫茶であった。ボンドはそこに向かう途中、カラフルなアニメやゲームの看板が立ち並ぶ、東洋屈指のサブカル街の様子に、まるでおとぎの国にでも迷い込んだような印象を受けた。こうしてメイド喫茶に到着したボンドは、この日本特有のサービス業にも当初は戸惑っていたが、以前日本に来た時にタイガーと一緒に行ったお座敷遊びを思い出すと、そこまでおかしな話でもないかと、妙な一人合点をした。
ボンドは肘をついたまま、卓上の呼び鈴を鳴らす。すると、すぐさまボンドのもとにメイドがかけつける。
「ご注文はどうなさいますか?ご主人様」
猫なで声のメイドの呼びかけにボンドは上機嫌に答える。
「ああ、メロンソーダをひとつ。バニラのアイスクリームを三段、お団子のように積んでほしい。チョコチップも欲しいな。あと、オムライスもひとつ。おなかがペコペコなんだ。それに、トークを60分。楽しい話をしようか」
ボンドの注文に、メイドが恭しく答える。
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ、ご主人様」
かなり詳細な注文をしたボンドであったが、決してメイド喫茶の雰囲気に飲まれたわけでも、開き直ったわけでもない。
ボンドは注文を聞きに来たメイドが、ロンドンで見せられた写真の少女のうちの一人、紫色の髪の少女であったことに気がついたのだ。そのため以前にタイガー田中から聞いていた合言葉を、指示された通りに言った。ただそれだけのことだ。
「お待たせしました、ご主人様!」
その声にボンドが顔を上げると、紫色の髪の少女と、その後ろに、にっこり笑った背広姿の精悍な男の姿があった。
「やあ、ご無沙汰だったな、ご主人様……いや、ボンド中佐殿」
この男こそが、公安調査局のトップ、タイガー田中である。固く握手を交わすボンドとタイガー田中。
「タイガー!久しぶりだな。君までもがメイド服で出てこようものなら、俺はすぐにでもロンドンに帰ってやろうかと考えてたよ」
「うーん、どうやら君はメイド喫茶がお気に召さなかったようだな」
「メイドには若いころ、いろいろと思い出があってね……本物との間に」
「ハハッ、なるほどな。ではボンド、ついてきたまえ」
ボンドは席を立つと、タイガーと少女に続いて、店の奥へと入っていく。三人はその先のエレベーターに乗りこむと、そのまま地下へと降りていった。
「ところでタイガー、今回の要件は?世界中で起きている沈没事件に関係があるとは聞いているが……」
「それにはまず、事件の原因について話さなければならない。地下鉄に乗ったらまた詳しい話をしよう」
エレベーターの扉が開くと、そこには地下鉄のホームが広がっており、線路の上にはタイガー田中専用の地下鉄車両が観音開きのドアを開けて待っていた。三人はエレベーターを降り、そのまま地下鉄に乗りこんだ。
地下鉄の中にはタイガー田中のオフィスがある。窓の外が暗闇でなければ、まるで丸の内にありそうな、ありふれたオフィスの一室のようだ。以前来たときはひと昔前の客車のようにそれなりに豪華な内装だった気がしたのだが、経費削減のあおりを受けたのだろうか。そんなことを考えているうちに、ボンドと少女はタイガーに促され、黒光りする革のソファに隣り合うように座った。するとオフィス全体が揺れ、一同を乗せた地下鉄はゆっくりと動き始めた。
「まずはこれを見てくれ」タイガーは机から大判の封筒を取り出すと中から写真を取り出し、ボンドに見せた。
何だこれは!?写真を見たボンドは驚愕した。写真には、浜辺に打ち上げられた異形の生物の姿が収められていた。
「深海棲艦。海で命を落とした人間の怨念を含んだ魂が実体化した怪物だ」タイガーは語った。
「こいつらが世界各国で船舶を襲っているんだ。通常兵器ではこいつらを倒せない」
ボンドはタイガーを見つめた。タイガーが何を言っているのか理解できなかったのだ。そんなボンドなどお構いなしに、話を続けるタイガー。
「こいつらを倒すためには、同じ魂を以って攻撃しなければならない。そこで私は、先の大戦で戦った軍艦の魂を、少女としてこの現代に転生させ、やつらと戦わせようと考えた。こう見えても、私は心霊学に堪能でな、その知識を活かし、旧海軍の大半の艦をこの現代日本に転生させたんだ」
その時、話を遮るボンド。
「待ってくれタイガー、俺はきみがこんな与太話をするなんて思わなかったよ。今の仕事はやめて、小説でも書いたらどうだ?『死んだらこうなる』みたいなタイトルでね」
「私の話が信じられないようだな、ボンド。いくら私でも、真剣な顔をして冗談は言わんよ」
「……なら見せてもらおうじゃないか、その転生した少女とやらを」
「じゃあ……ボンド。左を向きたまえ」
タイガーはボンドの左に座っている、紫色の髪の少女を指さす。
「ボンド中佐に自己紹介を」
「はい!特型駆逐艦、綾波型の九番艦、漣です!よろしくお願いします、ご主人様!」
あっけにとられてしまったボンドを見て、大笑いするタイガー田中。
「まだ信じないようだな、ボンド君。まあいい、この電車が目的地につけば、嫌でも信じざるを得なくなる」