007/暁の水平線より愛をこめて   作:ゆずた裕里

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其の三

 ボンドはモスグリーンのカーテンを静かにかき分けるように開けると、そのまま両開きの窓を開け放った。それと同時に、ボンドの鼻を秋の風の香りが優しくくすぐる。満月の柔らかい光を一糸まとわぬその身体に浴びて、ボンドはフーッと長い一息をついた。

 

 「ここの提督さんは、あまり君の相手をしてくれないのかい?」

 「ええ、……本当のことを言うと、ここ最近はずっとご無沙汰だったの」

 

 ボンドの後ろのベッドに横たわった陸奥がシーツを胸元まで引き上げ、流し目を送りながら言った。その瞳は月光に照らされているためか、それとも秘めたる女の(さが)のためか、妖しげな光をボンドに投げかけている。

 

 「なるほど、道理で……」

 

 ボンドはしみじみとつぶやいた。

 

 この部屋はここの鎮守府の秘書艦、陸奥の部屋だ。ボンドたちの個室よりもはるかに広いスイートルームには、大型テレビにキッチンなどの最新設備が揃っていた。この部屋での豪華な暮らしぶりが、ボンドには容易に予想できた。陸奥のような女ならば誰もが夢見るような生活だっただろう。

 

 「ジェームズ……こんなことしてたら、あなたの秘書艦の子に怒られちゃうんじゃない?」

 

 そう陸奥に言われたボンドは振り向いて、陸奥の熱い視線に応えながら言った。

 

 「なに、いつものことさ。どうも考えが合わないみたいでね。もう慣れちゃったよ」

 

 そう聞いて、陸奥は思わず笑みをこぼした。

 

 「でもパーティの時、あなたとその子が一緒にいたときの様子……まるで親子みたいだったわ」

 「そう、よく言われるよ。まるで複雑な時期の娘をもった親父みたいだって。私にはどうもピンとこないが」

 「そうね……もしかしたら、実際のところはあなたの方が『坊や』なのかも。ふふっ」

 「えっ?」

 

 考えもしなかったようなことを言われたボンドに、陸奥は悪戯っぽく笑った。

 そんなやり取りの中、ボンドは窓のそばの椅子にかかっている自分のスラックスから煙草を取り出し咥えた。そして、獅子の刻印の入ったジッポライターに火をつけたその時。

 

 「ジェームズ、待って!」

 

 ボンドはその叫ぶような声に、煙草に点火しようとする手を止めた。

 

 「どうした?」

 

 煙草とライターを椅子のそばのテーブルに置いたボンドは、陸奥の隣に座った。陸奥はボンドの方を見ようともせずに俯きながら、静かに言う。

 

 「……ごめんなさい、ジェームズ。でも、もし煙草を吸うなら、次からは私のいないところでしてほしいの」

 

 そう陸奥が言ったその時、ボンドの脳裏に、戦艦陸奥の艦歴がよぎった。

 戦艦陸奥は大戦中の昭和十八年六月八日、瀬戸内海の柱島泊地付近で爆沈を遂げていた。その原因には煙草の火の不始末や放火、弾薬の自然発火、海底に落ちた爆雷の不発弾が炸裂し引火したなど諸説あるが、いずれにせよ三番砲塔周辺の弾薬庫の不審火であったことは間違いなかった。

 もしかしたら、そのことがおぼろげながら記憶の奥底にあり、彼女のトラウマになっているのだろうか。

 

 ボンドが陸奥を慰めるようにその白い肌にそっと触れた。

 

 「私の方こそすまなかった。姿は変わっても……不安なのは変わらないのか?」

 「ええ……でも、もう大丈夫よ、ありがと」

 

 陸奥の声は普段のように明るくなる。だがその様子は、どこかボンドを不安にさせまいとしているようにも見える。

 

 「ジェームズ、あなたって優しいのね」

 「……そうでもないよ」

 

 ここでボンドは、さりげなく問題の核心を突くような質問をぶつけてみることにした。もしかしたら今なら、陸奥の口から有用な情報が聞けるかもしれん。ボンドはちゃっかり楽しみながらも、この時をずっと待っていたのだった。

 

 「ここの提督さんは、あまり優しくないのか?」

 「そんなことはないわ。時々機嫌が悪い時もあるけど、いつもちゃんとした理由があるもの。昨日も工廠の作業棟に足を運んだら、提督に怒られてしまったの。お前たちの艤装は僕たちがしっかりと管理する、だから君らが気にする必要はない、って」

 

 それを聞いて、ボンドは心中で首をかしげた。ボンドは提督になったばかりではあるが、タイガーや叢雲から艤装の管理を任されたことなどなかった。特に叢雲などは、艤装は自分の体の一部よ、と言い張って、ボンドには触れさせようともしなかった。それがここの方針、と言ってしまえばおしまいではあるが、それでも艦娘たちにさえ自由に触れさせないのは余りにも奇妙なことだ。

 

 ボンドはふうん、と一息ついて立ち上がると、そのままワイシャツを羽織りはじめた。そんなボンドに、陸奥は名残惜しそうに声をかける。

 

 「ジェームズ……どこか行く気なの?」

 「ああ。そろそろ自分の部屋に戻っておこうかと思って。あまり朝帰りすると、うちの()()がうるさいからね。君も明日は早いんじゃないの?」

 「ええ。朝一にこのあたりの敵を掃討しに行くの。明日の晩もパーティだから、きっと景気づけのためね。……だから今夜は一晩、あなたと一緒に明かそうかと思ってたんだけど」

 「ちゃんと眠っておかないと、綺麗なお肌が荒れちゃうよ。それじゃおやすみ」

 

 笑いながらそう言い残して、ボンドは扉の向こうへと消えていく。閉じていく扉を見て、陸奥はクスリと笑った。

 

 

 

 

 

 

 モニターを見つめる叢雲の眼差しは、普段以上に鋭さと真剣さに満ちていた。しかし、Qの忠告とともにモニターに映し出されたそれは、叢雲の脳内をクエスチョンマークで満たした。

 背景が黒一色の画面に、白い枠で表みたいなものが作られている。HTMLと CSSのみで作られた、近頃ではあまり見かけないシンプルな作りのサイトだ。表には何かの品目のように、英単語と小数点第二位までの数字と、入力できる白地の枠とボタンが、それぞれの段に作られていた。他になにも装飾のない味気なさが人の心を感じさせない無機的なものに思えてきて、叢雲は不気味さを覚えた。

 

 Qは何も言わない。カメラに目線さえ向けない。どうやら自分から説明するのが嫌で、叢雲が気付くのを待っているようだった。

 Qから再び表に目線を戻した叢雲は、表に書かれた英単語が奇妙なものであることに気付いた。叢雲はそれらの英単語を小声で読みあげていく。

 

 「...Mutsu...Nachi...」

 

 叢雲の息が詰まった。

 

 「Q!これってここの鎮守府の艦娘の一覧じゃない!これは機密漏えいよ!すぐタイガーに知らせなきゃ……」

 「叢雲、それも問題だけど、もう一つ大きな問題がある。この表はただの艦娘の一覧なんかじゃない。これは……賭けの配当表なんだ」

 「……なんですって!?」

 

 信じられない、と言わんばかりに目を見開いた叢雲に、Qは淡々と告げる。

 

 「この一か月以内にどの艦娘が任務遂行中に轟沈するかを対象にした賭け、いわゆる死亡予想ゲーム(デッド・プール)、その配当表だ。艦娘の名前の横に書いてある数字は配当の倍率。見てもらえれば分かるけど、戦艦の倍率は駆逐艦の何十倍にもなってる。そして数字の横の枠にそれぞれの艦娘にいくら賭けるかを入力し、表の下のボタンで確定するんだ」

 

 叢雲はQの説明する間、一言も口にすることはなかった。ただその瞳に、静かな悲しみと怒りをたぎらせていたかのように、Qの目には映った。

 

 「叢雲?」

 「……Q、それで、これをどうするつもりなの?」

 「とりあえずは証拠としてサイトのスクリーンショットとデータのコピーを取っておこうと思う。それにこのサイトを開くところまでを動画で保存してあれば証拠は十分。あと、その名刺とコースターがあれば、相手はもう逃げられないはずだ。証拠が出そろったら、あとはタイガーに任せよう」

 「……今すぐやって頂戴」

 

 叢雲はただ一言、静かに言った。それを最後に、部屋はわずかなパソコンの機動音以外に何も聞こえなくなった。

 

 

 

 

 一方のボンドは、鎮守府の中を夜の散歩でもしているかのように歩いていた。無論、叢雲の待つ部屋に戻るわけではなく、その足は工廠の方角へと向けられていた。

 ボンドはできるだけ街灯や明かりのともる建物のまわりを避けながら、陰から陰へと歩いて行った。こんなことになるなら、白いワイシャツ姿じゃない方が良かったかな、とボンドは思ったが、下手に黒一色の服でいるよりも見つかった時にごまかしが効く、と考えることにした。作業棟に良さ気な服があったら着替えようか。

 

 ボンドは作業棟に着くと、そのまま裏手に回った。そのまま見上げて屋根のあたりに目をやると、ビルの三階ほどの高さにあるすりガラスの窓には明かりが煌々と灯っている。ボンドは潜入するため扉をいくつか調べたが、いずれも鍵がかかっていたりそばに姿を隠せる場所がないなどで潜入するには向かなかった。

 

 ボンドはポケットからキャップ付きの黒いボールペンを取り出した。だがボンドがボールペンのキャップを外したところにあったものはペン先ではなかった。そのままボンドがボールペンの軸をひねると、傘のように四本の鉤爪がバッと開く。勿論これは、Qの作ったおもちゃである。

 ボンドはさらにベルトのバックルからワイヤーを引き出すと、鉤爪部分の根元のクリップにひっかけた。そして変わり果てた姿となったペンをサイレンサーのようにワルサーPPKの銃口に取り付けると、明かりの灯る作業棟の窓に向け、撃ちこんだ。そのまま鍵爪を窓枠にかけると、ボンドはワイヤーの巻き取られる力に引かれるままに、作業棟の壁を歩くように登っていった。

 

 作業棟の中は様々な機材が並び、大き目の町工場のようであった。これらの機材はすべて、艤装の手入れや装備の開発に用いるものだ。ボンドはそれらの陰に隠れながら、あたりを伺った。この作業棟の室内は水銀灯で明るく照らされてはいるが、ここの主役というべき作業員の姿がいない。もしかして退出時に電気を切り忘れただけか?そうボンドが思ったその時。

 

 「ああ、もうすぐ締め切りだ」

 

 扉を開く音とともに聞こえた声に、ボンドは艤装の収納された棚の陰に隠れた。あの声は、堂本の声だ。

 

 「そっちの準備は?ふん、よし。あとはこっちで任せとけ」

 

 ボンドは陰から声のする方を覗きこむ。扉から入ってこちらに歩いてくるのは、堂本と作業服の男が四名、ほかにワイシャツ姿の男が三名。携帯電話で話をしている堂本以外は、皆黙ったままだ。ボンドは息をひそめて、一団の動きに神経をとがらせていた。

 

 「……ちょっと待て、かけ直す」

 

 その堂本の言葉にボンドは一瞬息を飲んだ。しかし堂本は、再び携帯をいじると、ふたたびどこかに連絡を始めた。その間、一同は作業棟の片隅に向かい、何かを待つようにじっと固まった。

 

 「……何だ。……なに?馬鹿野郎!それを何とかするのがお前の仕事だろうが!こっちは今から最終テストなんだ、俺に連絡なんかする暇があったら……」

 

 パーティ中の様子では考えられないほどの罵声をあげる堂本。はたしてこんな堂本の姿を、陸奥は知っていたのだろうか。そんなことをボンドが考えるうちに、作業服の男がそばにある機械をいじると、堂本たちの立っている床は地中へと降りていく。大き目の機材などを運ぶときに使うような、作業用の大型エレベーターだった。

 

 ボンドはぽっかり四角い穴のあいた床へと近づいていった。穴から下を覗くと、どうやらかなり深いところまで続いているらしい。深さはこの建物と同じくらいの高さだろうか。ボンドはそばの手すりに先ほどの鉤爪をワイヤーで留めるようにかけると、そのまま地下へと再び壁を歩くようにしてゆっくり進んでいった。

 

 ワイヤーが伸びるのに時間がかかるため、地下へ進むスピードは歩く速さとそう大して変わりはなかった。ワイヤーを命綱にしてバンジージャンプのように飛びこみ、一気に地下まで降りることができればいいのだが、この装備でそれをやるは耐久に少し難がある。もう少し改良してほしいものだと、ボンドは考えた。

 

 ボンドが穴の丁度半分あたりまで降りたその時、突如周りが赤い光に包まれた。壁に埋め込まれた赤いパトランプが光りはじめたのだ。あたりを見回していたボンドが再び地下に目を向けると、先ほどまで目指していた地の底のエレベーターが、数人の男を乗せてこちらへと迫ってくるではないか!ボンドは踵をかえすと、ワイヤーを巻き取りながら地上へと向かっていった。

 

 ワイヤーは伸びるのに時間がかかるならば、巻き取るのにも時間がかかる。ボンドは後ろを振り向かずに一心不乱に地上に進み続けたが、後ろからは大きな話し声とともに地の底が迫ってくる。ボンドは赤いパトランプの毒々しい点滅の中、少しでも早く登るために、袖で手のひらを守りながらワイヤーを手繰り寄せていった。その姿はまるで蜘蛛の糸を手繰り地獄から這い上がらんとするカンダタのようであった。

 

 天井からつり下げられた水銀灯の明かりが、ボンドにもはっきり見えるようになってきた。一度部屋に戻って、叢雲と一緒にこの島を脱出しよう。そうしたらタイガーに報告して、この島を調査させる。あとはタイガーに全部任せればいいだろう。

 そうボンドが考えたその時、ボンドの足首を、肩を、首を、髪の毛を、無数の腕が掴んだ。そして一気にすべての腕に力が加えられると、ボンドを支えていたワイヤーの手ごたえがなくなった。ワイヤーは素早い蛇のようにボンドのベルトのバックルへシュルシュルと納まっていった。

 

 きっと、地獄に引きずりおろされるというのはこんな感覚なのだろうな。ボンドは最後にそう思うと、目の前が真っ暗になった。

 

 

 

 パソコンの画面には、忌々しい一覧表のダウンロードの進捗状況が映し出されている。現在の時点で30%。叢雲は口元を手で押さえ、なにか思案しているように画面をじっと見つめていた。Qに悟られまいとしてはいるが、まだショックが抜けていないのだろう。

 Qもそんな叢雲の様子を時折見ながらも、あくまで何でもないようにコーヒーをすすっている。一見冷たいようではあるが、それがQなりの気遣いでもあった。

 

 そんな状況が変わったのは、ダウンロードが54%を過ぎた頃だった。

 

 突如画面いっぱいに、エラー音とともに「ERROR!」の文字が映し出される。

 

 「一体どうしたの?」叢雲の声は明らかに動揺していた。

 「ちょっと問題が起きただけだ。気にしないで大丈夫」

 

 そうQは言って、キーボードを叩き始めた。何でもないように対処していくQの姿に、叢雲は少し安心した。しかし、次第にQの言葉に悪態が多くなり、余裕が見られなくなっていく。そんなQを見ていた叢雲は耐えかねたように呼びかける。

 

 「ねえ、大丈夫なの!?」

 

 次に叢雲の聞いたQの声は、これまでに聞いたことのないほど真剣なものだった。

 

 「……もしかしたら相手が動き出したかもしれない。そっちの動きがばれないように、今位置情報をかく乱しているところだ。最善は尽くしてはいるけれど、最悪の状況も考えて行動してほしい」

 

 普段あまり汗をかかないQの額に、みるみる汗がにじみ始めた。このような攻撃に対するカウンター用のプログラムが次々と開かれていく。さらにQはキーボードを叩く。Qは自分の持てる技のすべてを尽くして、叢雲を守ろうとしていた。Qのデスクのサブモニターが、みるみるコードで埋め尽くされていく。今まで一覧表が映し出されていたモニターが白一色になる。そして、サブモニターのコード入力が止まったその時。

 

 Qはノートパソコンの中から叫んだ。

 

 「逃げろ叢雲!そこはもう……」

 

 そして勢いよく開いた扉の音とともに、飛来した無数の機銃弾が部屋の中のありとあらゆるものを貫いた。


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