地下鉄の終着駅から、ボンドとタイガー田中、そして漣は階段をのぼる。その先にある扉から外に出ると、目の前には大きな港が広がっていた。その周りには赤レンガ造りの倉庫と、昭和モダンを感じさせるデザインの、白亜の建物がずらりと並んでいる。優美さや華麗さ。現代の東京がなくしてしまった風景がここにあるかのように、ボンドには感じられた。
「ここは……」
「『鎮守府』だよ。日本中に設置されていて、深海棲艦の脅威からこの国を守っている」
その時、どこかから爆発音が聞こえる。
「何だ⁉」
「ああ、みんな砲撃演習しているんだろう。会いに行こう」
タイガーと漣に連れられ、湾内のはずれに来たボンドは目の前の光景に驚いた。ロンドンで見た写真の少女たちが、装備を身にまとい、水上をすべるように進んでいるではないか。
一人は浮き袋につけられた的を引っ張り、それを一人が追いながら、手に持った砲で撃ちぬいている。それを四人のローテーションで交代しながら、練習をしている。
「やっぱり日本は不思議で、奇妙な国だ……」
「分かってくれたかな。彼女たちは娘の姿をした軍艦……我々は『艦娘』と呼んでいる」
「カンムス……」
演習を行う艦娘たちを見つめるボンド。
「まあ、心霊学うんぬんの話は置いといて、こういう娘たちがいることは飲みこめたよ。それで俺は……ここで何をすればいいんだ?」
「近いうちに、イギリスにも艦娘による対深海棲艦部隊を作ることが決まっている。もちろん、まだどこにも公表はしていないがね。そこで君には、将来その指揮官の候補として、ここで艦娘たちの指揮を経験してもらいたい。この鎮守府の提督として」
「ほう、まさかこんな形で提督に昇進するとはな。でも俺はイギリス人だ、かつての敵国人が指揮官になって、彼女たちも複雑な気持ちにならないかね」
「心配するな、開戦後に作られた艦に多少そういう感情がある程度だし、彼女たちには私からもちゃんと説明はしてある」
「それは良かった」
タイガーはポケットから銀色に光るホイッスルを出すと、強く吹いた。ホイッスルの音を聞き、演習をしていた四人の艦娘はすばやく岸へと向かい、階段から陸へと上がる。四人がボンドとタイガーの前に一列に並ぶと、漣もその列に加わる。
「では、君がこれから指揮することになる艦娘たちを紹介しよう。まずは漣。彼女は地下鉄で紹介したな」
ボンドにウインクをする漣。漣に向けてあからさまな作り笑いをするボンド。
「続いて、特型駆逐艦、一番艦の吹雪だ」
「はじめまして司令官!吹雪です!よろしくお願いします!」
ボンドに向けて笑って敬礼をする黒髪の少女、吹雪。ボンドも答礼する。
「こちらこそよろしく」
「暁型駆逐艦四番艦、電だ」
「電です。司令官、よろしくなのです」
ぺこりと頭を下げる電。頭を下げるボンド。
「よろしく」
「次は、白露型駆逐艦、六番艦の五月雨」
「五月雨です!一生懸命がんばります!よろしくおねがいします!」
ボンドに敬礼する五月雨。ボンドも答礼。
「無理はしないように。よろしく」
「そして、君がロンドンで選んだ娘、特型駆逐艦五番艦の叢雲だ。彼女が秘書艦として、君の身のまわりの世話をする」
叢雲はその場に立ったまま、ボンドに向かって何かを要求するように右手を差し出した。ボンドは一瞬その意味が分からなかったが、それを理解すると自ら叢雲に歩み寄り、その手を握った。
「あんたが新しい指揮官ね。まあせいぜい頑張りなさい」
「君の方こそ、せいぜい頑張りたまえ」
「!」
振りほどくようにボンドの手を離す叢雲。
「以上。叢雲以外は自由時間だ。叢雲、艤装を置いて私とボンドについて来なさい」
解散する艦娘たち。ボンド、タイガー、叢雲は司令部の建物へと向かう。
ボンドは叢雲に聞こえないように、英語でタイガーに話しかける。
「タイガー、ここにはあの五人だけで、他にはいないのか?例えば、フッドとか、プリンス・オブ・ウェールズとか」
「他の艦娘は別の鎮守府だ。ここはできたばかりだから、まずはこの五人で戦ってもらう。戦況によっては、他の艦娘も、追ってこちらにも転属させよう」
「どこの業界も人手不足だな」
「あと、君たちの国の艦だが……私が日本人だからなのか、連合国の艦より枢軸国の艦の方が転生させやすいんだ。気長に待っていてくれ」
「俺がイギリスに戻るまでには頼むよ。帰る時に独りだとさみしいからね」
タイガーに案内され提督の執務室に入ると、ボンドは面食らった。部屋の中には机から鞄掛けまで立派な調度品が並び、ボンドを迎え入れた。机の後ろの大きな窓からは港の様子が一望できる。窓を開け放つと、優しい風がボンドの頬をなでた。
「気に入らないものがあれば言ってくれ。すぐに換えさせよう。あと、君の荷物はすべて、君がとっていたホテルから隣の書斎に移しておいた。では、私は自分の仕事に向かうよ」
部屋にはボンドと叢雲の二人だけ。ボンドは叢雲を気にも留めず、ボトル棚の扉を開ける。中にはウォッカやシャンパンの瓶が並んでいる。全てボンドのお気に入りだ。
ボンドは嬉々として、グラスにウォッカを注ぎ、一口目を味わった。
「うーん、流石タイガーだ。日本じゃちゃんとしたロシア製は手に入れづらいのに」
上機嫌なボンドに、ぶっきらぼうに話しかける叢雲。
「……ねえ」
「どうした?君も飲むか?」
「いつまでその格好でいるつもりなのよ」
ボンドはサヴィル・ロウの老舗で誂えたスーツに、ジョン・ロブの特注の革靴という出で立ちであった。だが、そんなこと叢雲は知ったことではない。
「早く制服に着替えなさい!少しは司令官としての自覚を持ったらどうなのよ!」
「ものの価値を知らないとこれだから……」
ボンドはそうつぶやくと、机にウォッカのグラスと瓶を置き、隣接する書斎への扉に消えていった。叢雲はそんなボンドの後姿を見送りながら、一筋縄ではいかないこの英国人に、少なからず興味を持ち始めていた。
あの男のことが気になる。秘書艦としての仕事を抜きにしても―――
そう思った叢雲は、羽のついたほこり取りを手に、何気なくボンドの机へと近づくと、引出しをゆっくり開け、中を覗き見た。来たばかりのため当然か、一冊の本のほかに、引き出しの中は何も入っていなかった。入っていた本のタイトルは、
「On Her Majesty's Knight ―女王陛下の騎士―」
その時。
「秘書艦といえど、むやみな詮索はよくないな」
その声に、叢雲は引き出しを閉じる。
書斎から出たボンドは、肩章付の紺のジャケットにスラックス、王冠の紋章を掲げた軍帽にレザーのブリーフケースと、まさに英国海軍士官といった出で立ちであった。懐に入った右手には用心の為、ホルスターに納められたワルサーPPK自動拳銃が、いつでも抜き撃ちできるように握られていた。だが、叢雲は図らずも、気品と緊張感、そして危険な魅力を同時に漂わせたボンドの姿に、ぼうっと見とれてしまっていた。
「何か気になることがあるなら言いたまえ」
「あっ、いや、なっ何でもないわよ!」
そう言って叢雲は机から離れる。叢雲が引くと同時に、ブリーフケースを机に置き、椅子に座るボンド。ボンドに圧倒されタジタジの叢雲は、きまり悪そうにほこり取りの羽をいじっている。
「まあ、お互いのことはゆっくり知りあっていこうか。そこそこ長い付き合いになりそうだしね」
ボンドはそう言ってブリーフケースからノートパソコンを取り出し、机の上に広げると、思い出したようにウォッカの瓶とグラスを寄せた。どうにかしてボンドを己が手中に収めたい叢雲は、今度こそはと、机にゆっくりと近づいてその上に座り足を組み、流し目でボンドを見下ろした。
「ねえあんた、あたしのことどのくらい知ってんの?」
「君のことか?いや全く」
「ま、英国人だから、知らないのも当然ね。私は……」
「大阪で1928年9月27日に進水し、翌1929年の5月10日に就役。開戦前は満州国皇帝の来日に同行し、開戦後はバタヴィア沖やミッドウェイの戦いに参加。ガダルカナルの戦いでは輸送揚陸や飛行場砲撃で何度も活躍した。そして1942年10月の12日にサボ島沖の戦いで雷撃を受け、最期を迎えた。それくらいしか知らないよ」
ボンドの言葉に閉口する叢雲。
「追加情報があれば教えてほしいな。特に今の君のね。好きな色は何?好きなフルーツは?寝るときはいつも何を着て寝るの?」
「……ふん!」
他愛もないボンドのからかいに、自分の優位性をことごとく奪い取られたと感じた叢雲は完全にいじけてしまい、そのまま顔を真っ赤にして部屋を出ていってしまった。
部屋の中で独りきりになり、ボンドは今更ながら自分の大人げなさに嫌気がさした。からかうにしても、もう少しマシなやり方があっただろうに。ボンドは帽子を脱いで鞄掛けのてっぺんにフリスビーのように投げてかけると、そのままウォッカを一気にあおった。そして、ロンドンへの報告書を作成するために、気の進まないままノートパソコンのキーを単調に打ち始めた。
《JAMES BOND WILL RETURN...》
《登場人物出典》
・タイガー田中……『007は二度死ぬ』(原作第11作、映画版第5作)に登場。
映画版でのキャストは丹波哲郎。ちなみに『クレヨンしんちゃん 温泉わくわく大決戦』での、温泉の精(演:丹波哲郎)の「ボンドと一緒に風呂に入った」のセリフの元ネタでもある。